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1: 名無しめじ 2008/08/29(金) 20:34:50 ID:/tFttwQy
そうです。直茂野スレなのです。









253: 人間七七四年 2010/12/01(水) 19:44:30 ID:Y/Haic7a
沖田畷で直茂が裏切りとかよく見るけど、どういう状況だったん?
なんで裏切ったのにその後藩の中心人物として動いているのさ?

254: 人間七七四年 2010/12/07(火) 05:26:26 ID:Pr0BqS6o
鍋島が外交を通じて豊臣政権に取り入り
秀吉も鍋島を利用して肥前での朝鮮出兵を円滑に進めたいこともあり
中央政権との交渉に鍋島が無くては立ち行かない空気を作ることで
龍造寺諸家もやむなく味方になったところで龍造寺本家から政権を纂奪したからだろ。

258: 人間七七四年 2010/12/20(月) 18:41:21 ID:40DhEGHj
直茂の初陣は隆信の村中城復帰戦
勝茂の初陣は巨済島沖の海戦

どちらもなかなか派手な戦での初陣

259: 人間七七四年 2010/12/21(火) 12:07:31 ID:F9Q6gm98
村中城奪還後の蓮池城攻めが初陣だよね。16歳

255: 人間七七四年 2010/12/13(月) 13:59:56 ID:mS4/uVpK
Wikipediaの鍋島直茂の項目も大概妄想だらけだよね
なんで島津の軍が村中城を包囲してんだよw
現在は削除されています


256: 人間七七四年 2010/12/19(日) 21:58:20 ID:UjEM+TdB
隆信の首持って10人ばかりで包囲したので、鍋島は城内で震えてたらしい。

257: 人間七七四年 2010/12/20(月) 01:16:25 ID:n2y5dJB0
ワロタ

260: 人間七七四年 2010/12/21(火) 18:08:16 ID:84e0eNLE
3000の兵で城を包囲は当時の戦の規模なら割と普通にあると思うけど?
村中城なんて武装化した屋敷の程度だったろうし

261: 人間七七四年 2010/12/21(火) 18:14:14 ID:qPm52E8N
隆信が死んで潰走していく龍造寺軍に追撃もかけられない3000の兵が
どうやって島原から佐賀まで行くのか
方法があるならお聞かせ願いたいんだけど

262: 人間七七四年 2010/12/21(火) 18:23:02 ID:84e0eNLE
>>261
なぜ行けないと思うのかが解らないのだが?本気で数人程度で首持参して城明け渡せと交渉すると考えるほうが無理がある

264: 人間七七四年 2010/12/21(火) 18:54:52 ID:qPm52E8N
>>262
城を明け渡せってエピソードなのあれ?
首の受け渡しの話だと思ってたんだけど

首の受け渡しだけなら島原から80キロ近く離れてる佐賀まで行く必要は全くないし
手勢を引き連れての行軍なら龍造寺の本拠地ド真ん中まで3000が素通り出来るものなのか?

265: 人間七七四年 2010/12/21(火) 19:47:49 ID:84e0eNLE
>>264
おいおい、、、二つは別の話だと思ってたわけ?
沖田畷の戦いで龍造寺傘下の肥前豪族は軒並み討ち取られてる。村中城までは守る将無き空き家同然

267: 人間七七四年 2010/12/21(火) 20:27:02 ID:qPm52E8N
>>265
討死したのは主に隆信の馬廻り衆、とても肥前の豪族軒並みとは言える規模じゃない
江上・後藤の軍勢は大した損害も無く佐賀に帰還していて、しかも後藤の根拠地は島原‐佐賀の中間にある
それと沖田畷合戦の後、諫早の西郷が逆襲するという風聞がたち島津と有馬は島原の防備を固めたとフロイスの書状や上井覚兼日記にある

ついでにフロイスの日本史だと隆信の首はしばらく島原の城に留め置かれた後、薩摩に送られた事になってる

280: 人間七七四年 2011/01/12(水) 12:57:43 ID:2FLOBa5G
>>267
隆信の首は薩摩の何処に弔われてるの?まさかそのまま捨てた訳でもないだろう

282: 人間七七四年 2011/01/24(月) 17:20:45 ID:mQrB1axj
>>280
鍋島閑叟が肥後の首塚から高伝寺に改葬したって事になってるけど
隆信の首に関しては胡散臭い話が多すぎてどれが真実なのかわからんね

263: 人間七七四年 2010/12/21(火) 18:30:20 ID:PEdhLYSD
まあそもそも信生の島津への内通が原因で隆信が討ち死にしてるし
隆信の首を持ってきたところで取引が成立しないのは島津軍だってわかってるはずだし
その佐賀までやってきて包囲エピソードは成立しないわな。

271: 人間七七四年 2011/01/06(木) 05:58:02 ID:fFsuftco
まぁ鍋島氏による捏造は否定できないだろ。

272: 人間七七四年 2011/01/07(金) 00:45:39 ID:TZN99Kuc
鍋島領内に大きな領地と権威を持つ龍造寺一族とその龍造寺に臣従していた家臣団がそのまま残っている中で

鍋島氏が仮に悪い逸話を捏造しようとしても真実を知ってる人間とその身内が居る限りは無理だと思うんだがね

274: 人間七七四年 2011/01/07(金) 04:16:03 ID:7lb3G4qn
そんな鍋島VS龍造寺一族みたいなバチバチ関係だったん?

275: 人間七七四年 2011/01/07(金) 06:47:35 ID:ORVJCoEc
>>274

そうでもない。
鍋島は竜造寺一族のメシを保障して、プライドにも配慮してガス抜きをしていたから。

276: 人間七七四年 2011/01/07(金) 18:05:13 ID:bHwyq0oH
政家の子孫が騙されて家督を奪われたって言ってんだから鍋島が簒奪したのは明白じゃん。

277: 人間七七四年 2011/01/07(金) 18:21:20 ID:YWhENaib
>>276

その時、竜造寺一族の大半は鍋島を支持した
(少なくても反旗をひるがえすことはなかった)。

278: 人間七七四年 2011/01/08(土) 00:28:12 ID:ShODHPCp
龍造寺一門の中でも鍋島直茂に批判的なのって本当にごく一部(っていうか1人?)だもんねー

たとえ本心では直茂に不満があったとしても、それを言えなくさせたのは
背景(豊臣政権や徳川幕府)でもあろうし、龍造寺家家臣としての実績でもあろうし
何より家臣団全体の信頼じゃなかったかと思う。
家臣団の中に不満があれば龍造寺回帰の動きがあってもおかしくないからね。

肥前の熊さんは一代の英雄であったとは思うけど
人心掌握という点ではちょっと問題ある人ではあるよな

290: 人間七七四年 2011/04/14(木) 09:03:45.96 ID:kb+Y+FZM
ぶちゃっけ聞きたいんだけど直茂どの程度の能力持ちだと思う?
出世できたのは竜造寺の血縁だったからだし主な功績は 今山 お家維持 主家乗っ取りだけど、主家乗っ取りに関しては元々家老だったわけだし実質上の当主が討死してるわけでそこまで難しい話とは言い難い。今山は確かに凄いけど大友にとっては所詮局地戦に過ぎないわけで後は御家維持をどう評価するかだよなあ。

291: 人間七七四年 2011/04/14(木) 18:05:30.38 ID:RCOjBz2b
まぁ関ヶ原で西軍に参加しながら本領安堵した手腕は高く評価されるんじゃないの

292: 人間七七四年 2011/04/14(木) 22:17:56.26 ID:lc8ITYiY
総合的に言えば、バランスの取れたいい武将、っていうイメージだが特に何の能力に秀でてたかといえば、やはり知略と人望ではなかろうか

知略は戦での功績でも分かるし、やはり>>291の言うところの評価は大きい
人望は、体裁は主家乗っ取りであるのに、竜家一族含め家臣一同が割れることなく従ったところに認められる

おそらく隆信の後半時代からすでに家臣の信頼は直茂にあったんではないかな

293: 人間七七四年 2011/04/14(木) 23:06:03.88 ID:LMmveRlZ
云万人も動員して本拠地を一年近く完全包囲しておいて大量に犠牲者を出し撤退
所詮局地戦って負け惜しみ以外の何ものでもないだろ
厳密に局地戦ではない戦争なんて国家総力戦以外無いんだから

294: 人間七七四年 2011/04/14(木) 23:59:56.26 ID:LMmveRlZ
まあ佐賀一帯に対して行われた『大局的』な包囲戦に対して
今山で行われた戦闘を指して『局地戦』と呼ぶのなら分からないでもない

今山の戦いという言い方自体が当時一部将でしかない直茂視点のものだから

309: 人間七七四年 2011/07/27(水) 16:06:18.80 ID:ZDIy9UB/
柳川の件でそんなに人心離れたのかね
蒲池 鑑盛(かまち あきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。筑後国南部の戦国大名。蒲池氏16代・後蒲池7代当主。

戦の場以外では、大友氏の敵方であるはずの龍造寺家兼やその曾孫である隆信が家臣団の反乱に遭って追われたときは、これを匿って手厚く保護し、その復帰にも協力した。


蒲池 鎮漣(かまち しげなみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。蒲池氏17代・後蒲池8代当主。

鎮漣は龍造寺隆信に幕下の礼をとり、その筑後国進攻に全面的に協力する。しかし、やがて隆信と対立するようになった。隆信は天正9年(1581年)に2万の兵で柳川城を包囲するが、「柳川三年」という戯れ歌があるほどに難攻不落で知られた柳川城はなかなか落ちなかった。しかし長期の籠城で城兵も疲弊し、城内の兵糧も尽きたので、鎮漣は伯父の田尻鑑種の仲介により隆信と和睦し、鎮漣に隆信の娘(玉鶴姫)が嫁すことを約した。

蒲池氏が島津の傘下に入ることを恐れた隆信は、家臣の鍋島直茂や、隆信に与していた田尻鑑種などと共に鎮漣の謀殺を画策する。柳川に使者を送り、龍造寺と蒲池の和解のしるしにと鎮漣を猿楽の宴席に誘った。鎮漣は頑なに断り続けるが、隆信の使者は執拗かつ丁重に鎮漣の母や重臣を説得してまわり、ついに断りきれなくなった鎮漣は兄・鎮久を初め選りすぐりの屈強な家臣200名を連れて柳川を出発する。

筑後川を渡って肥前に入った鎮漣は佐賀城で隆信の嫡男・政家の歓待を受けるが、その翌日、与賀神社の近くで龍造寺の部隊に襲撃される。蒲池氏200の精兵は奮闘するも、多勢に無勢で鎮漣は自害、鎮久を初め鎮漣の郎党は全員討死した。鎮漣の死を見届けた隆信は、時を置かずに柳川の鎮漣一族の抹殺を命じ、鍋島直茂の督戦の下、田尻鑑種が柳川に兵を進め柳川の戦いが行われた。

これには諸将も驚き、隆信の腹心からも疑問を持たれた。龍造寺四天王の一人百武賢兼は出陣を促す妻に対して「こたびの鎮漣ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と答えて涙を流し、最後まで出陣しなかった。龍造寺氏にとって、蒲池鎮漣が島津氏の支配下に入ることは絶対に許せないことではあったが、鎮漣の一族まで根絶やしにしたことは、隆信に対する筑後の有力国人の強い反発、離反を招いた。


311: 人間七七四年 2011/07/27(水) 17:49:50.96 ID:bUQL5AmJ
どうも柳川蒲池攻めで竜造寺の過失を問うのは結果論な印象がある
恩がある蒲池を討ったから罰が当たったんだという話で終わらせちゃ駄目な問題だろう

312: 人間七七四年 2011/07/27(水) 19:10:52.10 ID:1F4uHtCH
龍造寺から実権を盗んだ鍋島が自らの正当性を出すために人心が隆信から離れたストーリーを作って纂奪を人心の話に転化しただけだろ

313: 人間七七四年 2011/07/27(水) 22:58:04.32 ID:tMFIkQc2
なんかどうしてもこの話題になると鍋島=悪の簒奪者って仕立て上げたい人がいるんだけど前後の状況を研究すれば研究するほど龍造寺隆信という人物の人間性から当然の帰結っていう結論しか出ないんだよね 

簒奪でも下克上でも委譲でもなんでもいいけど結果的に肥前にとっては最高の選択だったのは間違いないわけで。そしてそれをほとんどの「龍造寺一族」もまた納得していたとしか思えないわけで。

ついでにいえば「龍造寺こそ正統な肥前の支配者」だと最後まで思っていた龍造寺旧臣は
たぶん鍋島直茂本人だったわけで・・・

315: 人間七七四年 2011/07/28(木) 01:08:19.75 ID:4JUOH6vW
鍋島が外交を通じて豊臣政権に取り入り秀吉も鍋島を利用して肥前での朝鮮出兵を円滑に進めたいこともあり中央政権との交渉に鍋島が無くては立ち行かない空気を作ることで龍造寺諸家もやむなく味方になったところで龍造寺本家から政権を纂奪したからだろ。
吉川広家や直江兼続や佐竹義久や北信愛や深水長智や伊集院忠棟らと違って隆信を罠にはめては敗死させ、柳川攻略を推奨した鍋島の罪を隆信の汚名に押し付けたことで主家が衰えたのを良いことに簒奪したのが鍋島直茂

高房成人後藩政を高房に戻す旨の請文を直茂はガン無視した。
5歳で家督を相続した龍造寺高房の死に様が凄くて、江戸屋敷で妻を殺し、自分も毒を飲んで自害しようとしたがなかなか死ねず、毒の回りを早くするため馬に乗って町中を走り回って死んで鍋島への遺恨を表した。高房の死後わずか1ヶ月後には、肥前に隠居していた父政家も変死。そして高房の息子の伯庵は龍造寺の正統な後継者だと主張したため佐賀藩は軟禁する。幕府も鍋島氏の藩政が安定化しつつあったため、この問題に関しては真剣に取り合うことがなかった。
化け猫伝説も鍋島を暗に非難する目的から作られた。

316: 人間七七四年 2011/07/28(木) 02:14:34.77 ID:6p7mgDrS
庶子が僧籍にあったことを拡大解釈で軟禁扱い
伯庵が誰に相談もせず還俗して幕府に訴訟をを起こした事は無視
訴訟自体も水ヶ江家当主の証言で伯庵に理無しと早々に証明された話
化け猫騒動の原作である瀬川如皐の花野嵯峨猫魑稿は1853年の創作

317: 人間七七四年 2011/07/28(木) 02:21:29.03 ID:MVc4Osek
まぁ当時の真実なんて誰にも分からんわな

しかしじゃあ龍造寺隆信がもし生き残ってその後もお館として君臨しつづけたらどうなったかって想像してみると龍造寺家は完全に消え、江戸期の肥前に大領主は存在しなかったかもな

直茂が隆信を罠に嵌めて云々というのはまさに好き嫌いのみ(笑)で見解が分かれる部分なので議論するつもりもないが、当時の武将たちは少なくとも長年の主家・龍造寺よりもそれに取って代わった鍋島を支持した

龍造寺の求心力はその程度だったってことであり晩年の隆信が著しく人望を失っていたのは間違いないと見る

343: 人間七七四年 2011/08/03(水) 07:15:57.92 ID:HtdyLjm6
朝鮮での活躍があまり語られないのは残念。

352: 人間七七四年 2011/08/05(金) 22:03:12.94 ID:/INgtSMt
鍋島の文禄慶長の功ってどのくらいなん?

353: 人間七七四年 2011/08/06(土) 09:02:58.89 ID:lQMkngS/
>>352
他の武将が体壊すなか、一人だけピンピンしてた。
何気ない所にチート臭がする。

354: 人間七七四年 2011/08/06(土) 10:04:54.73 ID:45H5zWtp
太って帰ってきたのは鍋島ぐらいだろな

355: 人間七七四年 2011/08/06(土) 10:17:17.73 ID:vTAPfPVN
参平連れて来たり、朝鮮で何やってたんだろう

356: 人間七七四年 2011/08/06(土) 11:53:02.85 ID:T69Mg2Y3
加藤・鍋島隊と小西・宗隊の配置が逆だったら遼東まで侵攻出来ていたと思う
王子二人も小西達の方が上手く交渉に使えそうだし

362: 人間七七四年 2011/11/22(火) 23:08:47.74 ID:Pzc7s+M7
忠茂が下総に領地貰ったのは千葉氏との縁も関係してんのかな
鍋島 忠茂(なべしま ただしげ)は、肥前鹿島藩の初代藩主。兄は佐賀藩の初代藩主である鍋島勝茂。生母については、寛政重修諸家譜では石井常延の娘・陽泰院としているが、他の系図では井手口小左衛門の妹としている。


363: 人間七七四年 2011/11/23(水) 11:06:44.44 ID:e5n9I8UV
>>362

従五位下ももらっているな。

364: 人間七七四年 2011/11/23(水) 16:30:06.79 ID:n2XJrxuT
朝鮮の役後、小川家の名籍と遺領を継いで小川直房と名乗ってたね。

365: 人間七七四年 2011/11/24(木) 06:28:06.41 ID:KjwSdEou
俺の田舎に忠茂公の墓があるな
中学のころになぜ九州の大名がこんなところにと思ったもんだ
墓前でなんどもサッカーしたことあるわ
いま思えばとんでもないわな

366: 人間七七四年 2011/11/25(金) 14:41:29.51 ID:jQ9/KZrv
http://chibahatu.jugem.jp/?eid=894
ここか、茨城の鹿島と混同する人も居そうだ

368: 人間七七四年 2011/11/26(土) 23:57:58.86 ID:u6CDVjch
鹿島藩の創設時の家臣は馬乗侍37人、平、歩行侍が60人、足軽140人で合計237人。
(忠茂公御代之馬乗歴々、平侍并歩行次第不同記より)
侍の1/3以上は元々龍造寺の家臣でまた下総国から来た者もいるとある。

371: 人間七七四年 2012/01/11(水) 18:05:43.75 ID:BvIjePsB
鹿島鍋島家は岩国の吉川家と同じ扱いで
正確には大名扱いの陪臣なんだよね。

409: 人間七七四年 2013/12/05(木) 22:55:35.25 ID:I2Egs/nd
鍋島家には藩政期後も日足紋を使って欲しかったと思う
当時は日足紋使っちゃ駄目的な雰囲気があったんだろうか

411: 人間七七四年 2013/12/06(金) 20:52:13.38 ID:o9NfzBkp
佐賀本藩の定紋は杏葉紋ではなく日足紋を使ってもよかったんじゃないのかという個人的な感想

413: 人間七七四年 2013/12/08(日) 01:13:17.00 ID:QTqrUeE4
杏葉が多用される様になったのは紋章の故事由来がはっきりしているからじゃないの
説明するのに大友家から永久に借りている話をするだけでいいから簡単

剣菱の由来も葉隠なんかには載ってるけど眉唾物なのは否めないし
日足は龍造寺の先祖が昔から使っていた事以外は漠然としか説明できない

404: 人間七七四年 2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN ID:YdD8dOaC
元服直後の唐入りから始まって関ヶ原や島原といった大戦を経験し
日本初となるサイフォン水路の敷設や磁器工房の建設を行った勝茂公は完璧な経歴の持ち主です
鍋島 勝茂(なべしま かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。肥前国佐賀藩初代藩主。天正8年(1580年)10月28日、龍造寺隆信の重臣であった鍋島直茂の長男として、石井生札の屋敷で生まれる。


419: 人間七七四年 2014/01/06(月) 22:04:10.80 ID:ZJuPi2mn
こんなifも読んでみたいな
もっと勝茂が早く生まれてたら…とか
男子が全く生まれてこなくて茂里が本当に鍋島家を継承したら…とか
関ヶ原の後に鍋島家が取り潰しになったら…とか

420: 人間七七四年 2014/01/31(金) 02:37:15.14 ID:kwxiHm+s
佐賀藩の初代藩主って勝茂だったのか
ずっと直茂だと思っていたよ

433: 人間七七四年 2016/11/17(木) 15:09:17.36 ID:JnA3lT66
長いこと干拓事業で増大したと言われてきた佐賀藩の実高だけど勝茂がやった二度の三部上地に係る基準変更等で把握した分が70万石に達したというのが実態により近いんじゃなかろうか

それで龍造寺四家のプレゼンスを低下させたい勝茂と、実高相応の負担をさせたい幕府の思惑が一致して出来たのが三支藩で本藩35.7万と三支藩5.2万、7.3万、2万の表高合計が大体50万石になるのも主に長崎警護を分掌してる福岡藩との兼ね合いから



引用元: ・【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】




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