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1: 中華@名無史さん 02/06/09 02:03
西漢を混乱に陥れた”王莽”
”光武帝・劉秀”を始め、その配下の二十四将の活躍
更始帝を頂点とする”緑林軍”
時代の一陣を駆け抜けた”赤眉軍”
”王郎”・”公孫述”等の群雄達

この時代も色々有った。
興味の有る方達、どうぞ語って下さい。


関連記事『西漢』 → 『新』 → 『東漢』(光武帝)
    【2】『西漢』 → 『新』 → 『東漢』(光武帝)









790: 世界@名無史さん 2006/09/06(水) 21:02:00 0
郭聖通って、わがままに育てられた所為で自己中で意地っ張りで何でも恩を着せて他人の目を気にするくせに他人の心理に無頓着で、何かうまくいくと自分の手柄 みたいな顔して失敗すると他人に責任にして、説教すると逆ギレし自分の非を認めずあげく人の短所ばかり見つけるのがうまくてトラブルが起きると関係ないのにヒステリー起こす、若くて美人だったころは許されてもババアになった今ではぶん殴りたくなる
俺のオカンみたいな女だったんではとこのごろ思う。

郭 聖通

郭 聖通(かく せいつう)は、後漢の初代皇帝光武帝(劉秀)の皇后。真定国の名族の生まれである。父の郭昌は、巨大な田宅財産を異母弟に譲り、国人から義とされた。

更始2年(24年)春、劉秀は河北の王郎討伐の途中に真定に立ち寄り、この時、郭聖通を娶った。建武14年(38年)に郭況が城門校尉に昇進した頃から、郭聖通は光武帝からの寵愛が衰えたため、しばしば恨みを抱くようになる。そのため建武17年(41年)、郭聖通は皇后から廃され、陰麗華に取って代わられた。この時、光武帝が三公に詔を下して言うには、「郭皇后は恨みを抱き、教令に違背しており、また、その他の子(異腹の子)を教え諭し、従わせることができなかった(「不能撫循它子、訓長異室」)。それは、宮中にあたかも鷹や隼(「鷹鸇」)が在るかのようであった」とのことである。


797: 世界@名無史さん 2006/09/17(日) 11:37:09 0
郭皇后を廃したのには政治的な理由はなく、夫婦喧嘩後の別居みたいな感じがする。
もっとも陰麗華とその一族が劉秀と郭聖通の間を裂くよう謀った可能性はあるけど。

820: 世界@名無史さん 2006/11/26(日) 13:38:42 0
郭聖通は皇后を廃されても、そこそこ優遇されていた様に思う。
単純に陰麗華の方が一緒にいて、良かっただけの様な気がする。

821: 世界@名無史さん 2006/11/26(日) 19:04:26 0
建国の君が廃后の前例作っちゃいかんよな。

798: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 06:34:07 0
劉秀って初陣で牛に乗ってたらしいけど、牛って馬より乗りにくいんじゃないの?。
鐙がない時代にどうやって牛に乗って戦えたのか不思議。

799: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 10:07:29 0
戦うときは牛から降りるだろさすがに。

801: 世界@名無史さん 2006/10/09(月) 18:25:01 0
光武帝は歴代支那皇帝で俺が唯一尊敬する皇帝。
粛清もせず、戦友を大事にし、皇帝になっても態度を変える事もなかった。
おまけに滅茶苦茶戦争が強いのに戦争嫌い。

まあ、その甘さ故に後漢は連合政権から完全に脱する事が出来なかったのだが、それでも劉邦や朱元璋よりは偉大な皇帝だと思う。

802: 世界@名無史さん 2006/10/09(月) 21:55:47 0
劉邦と劉秀の比較は、劉邦には悪いが比較にならないよ。
朱元璋や李世民との比較なら、やりだしたら喧々囂々のやりとりになって、それはそれで面白いだろうけど、このスレが潰れてしまう~。

805: 世界@名無史さん 2006/10/11(水) 21:49:42 0
劉氏復興の世論を軽視してはいかんわな。
時代の違う人を、個人として云々というのは、それぞれにおける政治的状況などが違うのだから、比較するのは不毛。

806: 世界@名無史さん 2006/10/15(日) 12:10:48 0
同時代の群雄と比較したら、あるいは公孫述と王郎など劉秀の敵の比較とか。

公孫 述

公孫 述(こうそん じゅつ)は、新末後漢初の群雄の一人。

赤眉の乱の混乱の中、更始帝が立つと漢中から四川にかけて、宗成と王岑が漢軍の将を称して挙兵した。当初、公孫述は成都に招くも、掠奪を行う賊兵と知ると、公孫述はこれを討たんものと県内の豪傑を募って、自分は輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧の印綬を預けられたと称し、宗成らを討って、この地に割拠する。

更始2年(24年)秋、長安の更始帝(劉玄)は巴蜀の地を平定せんと李宝・張忠ら軍を派遣するも、公孫述は弟公孫恢を遣って綿竹で撃退した。建武元年(25年)には蜀王を号し、国号を「成家」とした(王朝名は成都を首都としたことによる)。


807: 世界@名無史さん 2006/10/15(日) 13:49:29 0
公孫述といい蜀って引きこもり体質の国が多いよな。
積極的に外征をした国って劉邦の漢と、三国の蜀漢と、五代十国の後蜀くらいじゃないか?

808: 世界@名無史さん 2006/10/15(日) 19:37:53 0
劉邦は南鄭であって四川(蜀)ではないよね。
また後蜀孟氏は北に打って出たのはないと思う。 秦・鳳を手に入れたのは、あくまでそこの統治者が投降してきたから。
やはり基本的にヒッキーなんだよね、蜀って。

809: 世界@名無史さん 2006/10/15(日) 21:06:57 0
公孫述の目的は藩王になることじゃなかったのかな?。
漢の臣だけど中央から独立した勢力となりあわよくば漢に取って代わる。
豊臣政権下の家康みたいに天下人も憚る実力者となるつもりだったのかも。

810: 世界@名無史さん 2006/10/16(月) 20:50:34 0
公孫述はあれでも天下を取るつもりだったんだよ。
何せ、劉秀・劉盆子が更始三年(西暦25年)の六月に皇帝を号しているが、公孫述は、同じ年の四月に天子と自称しているんだから。

811: 世界@名無史さん 2006/10/16(月) 23:14:08 0
だけど攻め込んで勝つ自信がないから、自分の勢力を残したまま漢の支配下に入って最終的に乗っ取る計画だったんではと思うわけ。
蜀の地の利をいかせば漢軍と互角以上に戦えるし、最終的に皇帝やめて漢に服属しても蜀を支配下におく自分をどうすることも出来ないし、後はチャンスがあればよし、なくてもいずれ自分の子孫に託すとか計算していたんじゃ。もっとも負けちゃったんで全部御破算になったけど。

813: 世界@名無史さん 2006/10/18(水) 22:04:31 0
太平記に光武帝の言葉として「大敵を見ては侮り小敵を見ては恐れよ」というのがあるけど、これ出典は資冶通鑑?。

814: 世界@名無史さん 2006/10/29(日) 00:31:37 0
森村誠一の太平記しか読んだことないが、文帝とセットで光武帝の話が載ってたな。
五醍醐天皇に献上された千里の馬は吉か凶かって話で、文帝は献上された馬を
「行幸で三十里、戦争でも五十里しか進まないのにそんな速い馬に乗ったら家臣をおいてひとりで行くことになる。」
と言って輸送費だけ払って返してしまった。光武帝は千里の馬と宝剣をもらったけど家臣にやってしまったというお話。
君主にとって千里の馬が必要なのは一人で逃げるときだから不吉だってこと。

842: 世界@名無史さん 2007/07/15(日) 20:07:05 0
この時期、なにげにひっそり仏教が伝来してたりするわけで。
デビューはあんまり華々しくなかったのかね。

843: 世界@名無史さん 2007/08/11(土) 16:36:04 0
西域の人間の宗教として扱われたんだろう。
日本にもイスラム教徒がたくさん住んでいる町があるけど、大多数の日本人はイスラム教に関心持たないだろ。
外来の宗教は権力者が信者となって布教につとめるか、既成の宗教を超える魅力と流行するきっかけがないと広まらないさ。

857: 世界@名無史さん 2008/03/19(水) 21:30:18 0
PHP文庫の「班超」を読んだんだけど、光武帝って生前から光武帝と名乗っていたの?
そんな記述があったんで、ちょっと気になって…。

858: 世界@名無史さん 2008/03/23(日) 16:31:04 0
皇帝は生きている間は、皇帝のみ、死後にその業績・行為によって名がおくられる。
日本の天皇も生きている間は、天皇と呼ばれる。せいぜい今の天皇って意味で今上天皇とか言うけど。死んで初めて、明治天皇・大正天皇・昭和天皇となった。中国の皇帝も同じこと。

859: 世界@名無史さん 2008/03/23(日) 21:46:48 0
生きている間は今上
死んでからおくりなが決まるまでは大行
おくりなが決まってからはそのおくりなで呼ぶ

861: 世界@名無史さん 2008/05/03(土) 21:24:04 0
鄧奉の異常な強さについて
鄧 奉(とう ほう、? - 27年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。荊州で活動した新末後漢初の群雄の1人。建武1年(25年)、光武帝(劉秀)が即位すると、鄧奉も叔父鄧晨と同様にその臣下となり、破虜将軍に任命された。しかし翌建武2年(26年)、大司馬呉漢が、宛の董訢ら荊州の群雄を討伐に向かったが、呉漢軍はその際に各所で略奪行為を行い、鄧奉の故郷新野も被害にあった。激怒した鄧奉は、呉漢の軍を撃破し、漢に叛くことになる。


865: 世界@名無史さん 2008/06/02(月) 01:59:20 0
>>861
討伐する側にイマイチ戦意が湧かなかったからじゃないかい。
反乱起こすに至った理由が呉漢の軍の略奪行為だからな。

862: 世界@名無史さん 2008/05/10(土) 23:05:25 0
婁敬(劉敬)って、優れたグランドデザイナーだと言ったら過大評価?
「統一された天下」が常識として定着していない時代背景を踏まえての関中奠都の進言とか、Wikiでは詳細が書かれていない強本弱末の術の提案・実現とか、漢王朝の支配が長く続く基本を作ったと思うんだけど…
某小説家のような、「叔孫通こそ漢の名臣」で婁敬はスルーというのが当然の見解なのかな…

863: 世界@名無史さん 2008/05/11(日) 00:16:54 0
>>862
当然の見解じゃあないと思うよ
誰だか知らんが、叔孫通も重要人物だが、劉敬はそれと同様かそれ以上の重要人物

864: 世界@名無史さん 2008/05/11(日) 12:30:39 0
劉敬の伝は短いが、やったことは

・洛陽ではなく関中を都に定めさせる
・匈奴との戦いが危険であることの指摘
・強本弱末の考えによる有力者の強制移住

の、鋭い分析に基づいた献策だしな
「余人をもって替え難い」功績を建てたという点では、叔孫通より上だろうな

877: 世界@名無史さん 2009/01/05(月) 23:30:01 0
やる夫スレで史書の話が出てるのを見て漢書の班彪・班固・班昭を思い出した。班彪は陰麗華とほぼ同世代、班固は次世代で班昭は光武帝死去時はまだロリだったんじゃよな。

班昭をイメージ検索すると…これは中国において萌えキャラ扱いされてるのだろうか。

878: 世界@名無史さん 2009/01/05(月) 23:34:41 0
光武帝に興味出てきたんで彼についての本を読みたいと思うのですが、全訳後漢書はおすすめでしょうか?自分なりに調べた結果、光武帝に関する日本語の本はほとんどないようなのでもう後漢書を読むしかないかな、と…。

879: 世界@名無史さん 2009/01/06(火) 14:46:21 O
>>878
お薦めも何も正史から入るのが一番間違いないし、基本だろう。

880: 世界@名無史さん 2009/01/06(火) 23:54:38 0
>>879
初めて読む本としてどうなのかな、と思いまして。
実は他にもっといい訳の本があったりするなら紹介していただけないでしょうか。

881: 世界@名無史さん 2009/01/07(水) 00:04:41 0
>>880
光武帝に関する良質の資料、図書は日本ではほとんど無くてね。
最初から後漢書を読むのが良いと思う。
どうしても後漢書を最初に読むのが嫌なら、このスレを一通り読んだ後、WIKIで紹介された人物を片っ端から調べていくと幸せになれる。

光武帝の時代の人物に関するWIKIはなぜか異様に充実してて、群雄の配下武将まで詳細な記述がしてあって、かなり参考になると思うよ。後漢書では記述があちこちの伝記に分散して書いてあって、どういう奴なのか良く分からない人物でも、WIKI読めば楽に把握できます。

902: 世界@名無史さん 2009/05/29(金) 16:39:03 O
柴田錬三郎『英雄三国志』の一巻p.330(「業火」の一)に、
「更始・赤眉の二族が反逆して、焼きはらって以来」
という記述があるんだけど、
更始帝って逆賊なの?
岩波版原典の当該部分はどっちとも取れる書きようだった。
吉川三国志では更の字も出てこない。
この時代のこと全く知らないので解説頼んます。

903: 世界@名無史さん 2009/05/29(金) 20:20:40 0
王莽の新にとっては逆賊だったといえる
でも、傍流の傍流とはいえ前漢の皇室の流れの劉氏だから逆賊というのは違うような…
政治的駆け引きの結果とはいえ、一時はあの光武帝も更始「帝」に従ってたわけだし

904: 世界@名無史さん 2009/05/29(金) 21:43:43 0
鼎立してた相手を賊扱いするのは勝者の特権

905: 世界@名無史さん 2009/05/30(土) 09:19:29 O
更始帝は光武帝が王に封じてたから逆賊扱いはちょっと微妙なような。

907: 902 2009/05/30(土) 11:13:22 O

後漢の重臣が更始帝を逆賊呼ばわりはおかしいってことでFAですな。

演義の
「さきには王モウの逆謀のため、更始帝と赤眉の賊のわざわいによって、長安は焼かれて、」
のところを誤読したんだろうな

919: 世界@名無史さん 2009/09/15(火) 15:23:56 0
気になったことなんですが、伏湛伝の建武五年の河南尹と司隷校尉の争論って、河南尹は多分王梁でしょうけど、司隷校尉は誰か判る方居られますかね。何か王梁弾劾の件にも一枚噛んでそうで面白そうなのですが。
伏 湛

伏 湛(ふく たん、? - 37年)は、中国の前漢時代から後漢時代初期にかけての政治家。伏湛は、緊急事態であろうとも文徳が必要であり、礼楽が政治の教化における最重要問題であると考えていた。そこで建武5年(29年)、郷飲酒礼(郷大夫が郷村の人を集めて、賢者を尊び老人を養う儀式を行う酒宴)を慣行(ないしは制度)とするよう奏上し、施行されている。この年の冬に、光武帝が斉の張歩を親征し、伏湛は洛陽を留守した。ところがその間に、高廟で挙行する蒸祭をめぐって、司隷侯と河南尹が廟内で口論したが、伏湛は光武帝帰還後もこれを報告しなかったために、罪に問われて罷免された。

920: 煽り君 ◆ZCHj4hzGyA 2009/09/15(火) 22:40:17 0
>>919
建武五年に河南太守は欧陽歙。『後漢書』列伝七儒林伝第六十九上の欧陽歙伝に「建武五年、事に坐して官を免じられる」とある。
同じく王梁伝に「(前略)五年、山陽太守を拝す。(中略)数月して徴されて入り、欧陽歙に代わりて河南尹となる」とある。
司隷校尉の名は不明。

931: 世界@名無史さん 2010/04/17(土) 23:34:21 0
今から考えると、劉邦ら漢首脳陣って現代日本でいう童話の連中だよな?
陳平は葬儀屋だし、樊會は肉屋だし、夏侯嬰は御者だし、碌な連中じゃないよな・・・。

933: 世界@名無史さん 2010/04/20(火) 13:14:10 0
>>931
劉邦って豚殺しの親方じゃないの?
ますます童話じみて来た。

934: 世界@名無史さん 2010/04/20(火) 14:02:49 0
>>933
劉邦は亭長という末端の小役人。

934: 世界@名無史さん 2010/04/20(火) 14:02:49 0
>>931
陳平は無職。葬儀屋は周勃

935: 世界@名無史さん 2010/04/20(火) 22:28:22 0
古代中国社会が能力主義にシフトしていく流れはたぶん戦国あたりから始まってて秦漢交代が中国史上最初でたぶん最大のピークだと思うしそういう社会の仕組みとか身分制度が揺らいでる時代は何かお話がかった事が多いんでないかい
鶏鳴狗盗なんてそれ自体童話っぽいけど腕次第で成り上がれる時代になりつつあったことを象徴してる事件と言えそうだし商人の呂不韋が秦の宰相になったのもその流れに入ってるかもしれない

田中角栄が高等小学校卒で首相になったとか今じゃまずあり得ないのと似たようなもんかな

936: 世界@名無史さん 2010/04/20(火) 23:26:58 0
>>935
強引に光武帝の時代の話題に戻すけど、雲台二十八将にも家柄もコネも無く、腕だけでのし上がった奴多いよね。

937: 世界@名無史さん 2010/04/21(水) 01:18:55 0
話の流れ上>>935では後漢の話を省いてたけど、むしろ両漢交代の頃になると功臣も群雄もインテリ・豪族・高官っていう社会の上層の連中が多くてそれは漢初よりも社会階層が固まってきてたことの現れだと思うんだよね
もちろんこういうエリート層に属する連中でも無条件に勝ち残れた訳じゃなくて競争を生き残ったんだから能力主義の時代には変わりないんだけどね

938: 世界@名無史さん 2010/04/21(水) 08:43:14 0
どっちかっていうと、雲台二十八将は特別じゃないかな。
彼らがそうやって特別視されるようになったのも、彼らが光武帝についた時期の大司馬劉秀の勢力が、南陽の革命勢力から出た、それもメインストリームじゃない、比較的勝ち目の薄い方だったから。
帰属勢力を選ぶことの出来る立場である中央の高官クラスの子弟が希少なのも当然だし、元が地方の属官出身の人が多いのは当然っちゃ当然。
一番メジャーではあるけど、光武帝の時代の家臣一般とはちょっと言い難い。 
940: 世界@名無史さん 2010/04/21(水) 20:59:59 0
>>938
光武帝の出身母体である更始軍は反新勢力の主流中の主流なんだけどな。
でも、その中心メンバーはほとんど南陽豪族か盗賊で、中央の高官クラスの子弟はほとんどいない。
光武帝の勢力はさらにその傍流。だから、最初は地方の下級官吏か無官の人間しか付いてこなかった。まあ、河北で太守クラスの高級官吏の子弟や大豪族も付いてくるけど、光武帝陣営ではそんなに身分の高い人間は少数派だね。ほとんどが小豪族か地方の官吏か盗賊。
光武帝陣営に元の身分の高い人間が少ないのは、母体の更始帝陣営にも大して身分の高い人間が多くなかったからだと思うよ。

941: 煽り君 ◆ZCHj4hzGyA 2010/04/23(金) 22:11:07 0
最近まで書き込こまれていないけど、この新末後漢初期で面白いなと思ったのは太守たちなんです。名太守として、名が上がりそうなのは(当たり前すぎて面白くないが)

寇恂、河内、潁川、汝南を歴任
耿純、前後十数年、東郡太守
鄧晨、常山、(九江)、中山、汝南を歴任
王覇、二十余年、上谷太守
陳俊、泰山太守として十年
李忠、行信都、丹陽、予章を歴任
銚期、魏郡太守を四年
祭肜(祭遵の従兄弟)、遼東太守を二十八年

他にも、大司徒に上った伏湛や侯覇という名太守がいるが、個人的に凄いなと思って、知られていないのが惜しいと思うのが

942: 煽り君 ◆ZCHj4hzGyA 2010/04/23(金) 22:12:52 0
郭伋
哀帝の時に、漁陽都尉。王莽の時に上谷太守、并州牧。ついで更始帝の時に左馮翊。光武帝の時に雍州牧、尚書令、中山太守。彭寵の後の漁陽太守。冦賊が出た後の潁川太守。再び并州牧。大司空にという声があったけれど、辺境を離れさせる訳にはいかないと鎮守に置かれた名太守・州牧。誰の下にいても才を発揮した能吏。

943: 煽り君 ◆ZCHj4hzGyA 2010/04/23(金) 22:14:09 0
杜詩
王莽・更始帝の頃も役人をしていて、光武帝の時に侍御史となり、洛陽の治安を守る役について、横暴な偏将軍を殴り殺して、光武帝から節の代わりに戟を貰ったという武闘派。河東郡で逆賊を討伐し、河南の県令、沛郡都尉、汝南都尉として治安に才を見せて、南陽郡太守となる。凄いのは農設備や工具を発明して農民にありがたがられるという希有な存在で、何の功も立てていませんと謙虚で、伏湛を始めとして能ある人は推薦したという立派な人物。

944: 煽り君 ◆ZCHj4hzGyA 2010/04/23(金) 22:17:14 0
丁邯
范曄の『後漢書』の列伝に上がっていなくて、志、つまり司馬彪の『続漢書』で補われた部分に名がある。なぜか列伝に名が挙げられてない。この人、何が凄いって、バカ正直。孝廉で郎中になるけれど、病と称して辞退する。光武帝が本当に病なのかそれとも恥じたのかと書で訊いたら、恥じてですと答える。そこで光武帝は、衛兵に杖で笞打たせてやると怒るのだけど、その前に仔細を訊ねると、自分にはその能が無いので、(吏を良く殺す皇帝に)殺されてしまいますと答えて、何とか咎めを受けずに済む。
 
後で、漢中太守になるのだけれど(実は光武帝が漢中郡を何時掌握したかは不明)、妻の弟が公孫述の将軍になってしまって、その妻を牢獄にやって、冠を脱いで徒で出頭(自首)する。まあ、光武帝ですので、咎めることは無かったけど。そこまでやるかという人です。異、つまり凡庸な人では無いと認められています。

946: 煽り君 ◆ZCHj4hzGyA 2010/04/24(土) 08:12:19 0
樊曄
光武帝がまだ微賤の頃、新野で捕まったことがある。その時、市の役人であるのに、一笥餌を差し入れたのが樊曄である。即位した光武帝、忘れずに召して、待御史と為し、更に河東郡都尉と為し、天子の食事乗與服物を賜う。光武帝、劉秀は戯れて曰く「一笥餌にて都尉を得たり。如何」と訊けば、樊曄、頓首して謝せり。
樊曄は揚州牧に遷り、ただ法に引っ掛って軹の長に左遷されたが、光武帝は馬成の後の天水太守とした。
酷吏伝にある人で、刑罰が厳しく、獄に入ったら生きて出られないと言われている。そのお陰で天水はすこぶる治まった。

947: 煽り君 ◆ZCHj4hzGyA 2010/04/24(土) 08:13:41 0
張堪
南陽の豪族の出で、早くに父を亡くすが、その父の余財を兄の子に与える。十六才で学業を長安に受けて聖童と囃され、微賤の頃の光武帝もその志操をよみし、中郎将来歙の推挙によって郎中と為り、三度遷って謁者と為り、蜀への遣いの最中に蜀郡太守となる。
 
呉漢が兵糧切れで撤退を考えていた時に、公孫述は必ず敗れますと撤退すべきでないと進言し、呉漢は劣勢に見せかけ出てきた公孫述を撃った。成都が落ちた時には真っ先に乗り込んで、蔵を検閲し、その財宝を保全し、僅かも私物化せず、吏民を慰撫した。
後に騎都尉となり漁陽太守となって匈奴と戦う。この時に、蜀郡太守時代の話、公孫述が山のように財宝を残したのに、張堪が郡を去る時は轅の折れた車に布の袋だけだったと、光武帝の耳に入って、感心される。

948: 煽り君 ◆ZCHj4hzGyA 2010/06/28(月) 21:57:29 0
>>947
『後漢紀』の記載で判明したが、光武帝でなく明帝が感心した。
(『後漢書』では帝としか書かれていないから、てっきり光武帝のことだと思った)

引用元: ・『西漢』 → 『新』 → 『東漢』(光武帝)




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