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1: 日本@名無史さん 2014/08/02(土) 23:22:15.26
なぜナンバー2が、権力を手中にし、世襲制で天下をとれたのか
さらになぜその異質な体制が維持できたのか
普通、将軍家がTOPで有力家臣団が補佐するのが普通だがTOPを差し置いて完全世襲の家臣の家が前面に出て天下に号令をかける・・・なんでこうなったの?








225: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 11:03:36.00
承久の乱がなかったら北条家は将軍の外戚という形にあくまで拘ったと思う。
それしか支配の正当性を担保するものはないからね。
承久の乱で義時自体に大きな権威が発生したので、外戚へのこだわりは薄まって行った。
どちらかというとティムールの形態に似てるんじゃなかろうか。

233: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 16:10:54.96
>>225
>どちらかというとティムールの形態に似てるんじゃなかろうか。

ティムールはチャガタイ・ハン家を最後は廃立したので、ハン擁立自体が権力掌握までの一過性の処置だ。一方 北条氏はその滅亡まで鎌倉殿を必要としたので、一緒にはできない。
 
東国社会での武家の棟梁というのは、やはり軍事貴族か、それ以上の家柄ではないと東国武士団と主従関係を結べない。没落した貧乏御家人は御内人となったが、所帯の大きい古株クラスにとって、在庁官人上りの北条を主君に仰ぐなど無理な話。
北条も自分の家格の低さが分かっていたから、御家人の第一人者の立場で幕府を実質支配する方向を取らざるを得なかった。

231: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 15:11:57.46
権威と権力は別。
北条氏の権力は有力豪族の討伐によって幕府内の地位を固めた。特に三浦氏の滅亡は大きい。
義時・泰時時代の鎌倉幕府は北条と三浦の連立政権みたいなところがあった。
結局 北条氏は武家の棟梁としては家格が低すぎた。
よって宝治合戦以降も、自らの代わりに新たに皇族将軍を迎えた。
宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。

232: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 15:32:04.21
宝治合戦は単に北条が三浦を滅ぼした戦いとは違うだろ。
北条宗家の外戚を巡る三浦と安達の戦いの様相を呈している。
この頃の政争の玉は完全に将軍家ではなく北条宗家になっている。
時政、義時の頃の豪族討伐とかなり性質が違う。
その後も将軍家ないしその周辺が政争の帰趨を決するような状況は一切なくなっている。

234: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 16:17:26.22
時政、義時の時代ってのはほとんど頼朝の意思が反映されてんだけどな
いわゆる同族の源氏討伐がメイン、武田討伐や佐竹討伐、摂津源氏の解体や義仲討伐、蒲漢者範頼やら義経やらこのとき頼朝配下の軍団構成は坂東平氏

236: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 16:26:45.10
武田氏で生き残ったの石和流だけだもんな
ほとんどこの時代は一部を除いてほとんどの源氏が滅んでるからな

237: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 16:29:42.36
後世から系図みると、石和流が武田の嫡流みたいに見えてしまうんだよな。
この辺が系図の怖いとこ。

239: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 17:25:27.56
時政・義時が滅ぼした豪族
 梶原  比企  畠山  和田

ポスト頼朝の権力争い

241: 日本@名無史さん 2014/11/11(火) 19:30:08.10
権力闘争はどんな時代にもある。
政権に求心力がないと、権力闘争は室町時代みたいなgdgdなもんになる。
鎌倉時代の権力闘争は承久の乱と幕末除いて所詮宮廷内闘争の域を出ない小規模なもん。
これは一見派手に見える時政、義時時代の御家人どうしでの争いでもそうだ。
鎌倉での数100単位の市街戦だからな。

242: 日本@名無史さん 2014/11/11(火) 19:42:25.98
>>241
足利将軍のアレは守護同士を争わせるいつものお家芸だから、あれを持って求心力が無いにはならんと思う

翻って北条得宗家も時宗の頃すら 一族で内紛を起こしてるし そもそも二代義家以来のお家芸じゃん

敵対者を謀反の前に暗殺すんのは

243: 日本@名無史さん 2014/11/11(火) 19:53:38.70
>>242
守護同士争わせなきゃいけない段階で、守護の力が強すぎて政権の求心力に問題アリなんだよ。
結局その手法でなんとかできたのは義満と義教だけで、義教は絶頂期を作り出すと同時に、犬死してしまって、室町幕府解体のきっかけになってしまったしな。

245: 日本@名無史さん 2014/11/14(金) 20:36:28.09
>>243
そもそも、北条執権の得宗家時代に守護職独占したのを全国の武士が不満に思ったから倒幕されたんやん

足利氏が政権を握った頃は地方武士が力をつけまくった時期だし、むしろ自分の一族に加えてから守護に任命するなどきちんとコントロールして、足利義満から義教の時代には中央集権化が加速すらしてる

少なくとも北条執権や建武政権では南北朝時代を収められないのは崩壊したので明らかでしょ

246: 日本@名無史さん 2014/11/15(土) 13:14:46.23
初期は分をわきまえた立ち回りで上手く実権を握ってた北条が、何で他の御家人の不満を買う独占体制をするようになってしまったの?
傲慢になったのか、まずいと知りつつせざるを得なかったのか。

248: 日本@名無史さん 2014/11/15(土) 20:57:58.15
北条が恨まれてたのかね?
その場の勢いで滅ぼされてしまったような感じ。

250: 日本@名無史さん 2014/11/15(土) 21:51:07.63
武家ってその場の勢いで勝ち馬に乗るというのが体質だからな。
鎌倉幕府成立の時の流れから、徳川幕府滅亡の時の流れみてもこの辺は一貫している。
新田義貞が挙兵してあっという間に滅亡するまで、幕府の動員にみんな従ってた。
北条が憎いとかなんとかで動いた武家はほんの少数ってのが現実だと思うよ。
その証拠にすぐ中先代の乱とかで大軍が時行の味方になってるw
その中には義貞に従って鎌倉に攻め入った連中もかなりいたはずだw
武家ってほんと利己的で、自分の家の盛衰以外はほんと考えないもんなんだよ。

251: 日本@名無史さん 2014/11/15(土) 22:57:00.91
>>250
鎌倉末期は元寇に冷水害に食糧難に徳政令の失敗に悪党による治安の悪化で年貢だけでは国も家も成り立たなくなったらしいしな

一所懸命は正に命懸け
忠義は二の次にもなる

だから足利は土地独占を断念して貨幣経済を導入せなあかんかったわけだ

252: 日本@名無史さん 2014/11/17(月) 09:05:50.58
足利って家臣に土地を与えすぎて徳川幕府と正反対
貨幣経済って成功したといえるのか疑問だ

255: 日本@名無史さん 2014/11/17(月) 18:23:16.80
>>252
少なくとも北条すら永仁の徳政令が失敗したくらいだが
足利は遂に貨幣経済導入だけでなく借書などの金融商品を派生させたしな
それに家臣に土地を遣りすぎた訳ではない
そもそも土着武士が巨大化したのが守護なんだから

そもそも尊氏義満以来、貿易推進な足利と鎖国は祖法(家康を除く)を国是に掲げる徳川とでは政治体制が違うよ

256: 日本@名無史さん 2014/11/18(火) 07:57:12.89
貿易は江戸時代は禁止されてたけど室町時代は守護大名も自由に参加できたんだよな

258: 日本@名無史さん 2014/11/18(火) 12:57:59.77
倭寇(海賊)問題が発生してたから対明貿易もかなり苦労してんだけどね

勘合貿易、割り符を使って木片を合わせ合わなければ商取り引きもさせてもらえなかった時代
支配が及ばなかったところが勝手にしてただけでしょ
この時代は各地に小京都の乱立

290: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 10:38:16.29
武家政権でこれだけ壮絶に散った一族は他にないしな。
実に濃い一族だ。

292: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 12:25:19.80
>>290
なんせ「討幕」されることなく秀吉時代まで存続しちまって 家康時代には高家筆頭になっちまい

北条の名跡を継いだのが足利の意を受けた室町政所伊勢氏から着た伊勢宗瑞だし

294: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 15:20:08.45
伊勢宗瑞の小田原北条氏もありならば
一応、系統が小大名で残ってるな。

天領時には
たまに小田原城代を務めることも有ったようだが江戸幕府の温情だろうか

323: 日本@名無史さん 2014/11/24(月) 13:40:05.13
高倉健だけでなく川端康成も北条の子孫と言ってたんだろ
元寇の昔から相手がワールドワイドだな<ノーベル賞

324: 日本@名無史さん 2014/11/24(月) 15:59:30.88
族滅食らった割には子孫が結構いるんだなw

325: 日本@名無史さん 2014/11/24(月) 16:13:07.51
>>324
族滅???
多すぎる分家全部滅ぼすとかやってねえよ

326: 日本@名無史さん 2014/11/24(月) 17:40:43.32
つうか、北条の末裔とか平家のおちうどレベルの話だろ

330: 日本@名無史さん 2014/11/25(火) 01:07:26.60
平家は清盛の子孫がそれにあたるから数少ないが、北条は義時の子孫となると相当いるからなあ
川端は泰時の子孫で高倉健は朝時の子孫と言ってんだっけ?
墓碑が北条鱗だからなんかいいよなw
あの鱗紋使うやつはほとんどいないし

332: 日本@名無史さん 2014/11/25(火) 07:55:45.46
正三角形が鎌倉北条
二等辺三角形が小田原北条 

たしかこのような感じ

333: 日本@名無史さん 2014/11/25(火) 08:12:51.90
>>332
いや、鎌倉北条氏が多用したのは北条鱗(背の低い二等辺三角形)だよ
だからこそ「北条鱗」なんだし

338: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2014/12/13(土) 14:52:50.25
ナンバーツーが天下を取ったなんて本当に思っているのか。
征夷将軍がナンバーワンなんて後世の権力者が勝手に決めたことで、有名無実の官職だったのを誰かが頂点に持ってきただけのこと。鎌倉幕府の頂点は執権北条氏。

もし日本史が鎌倉時代で終わって、その後1350年くらいからスペインかトルコにでも支配されてたら、「将軍=武家の頂点」の概念は存在しなかった。"将軍"をジェネラルともアドミラルとも訳さなかった。
"別当"くらいの意味で消えていた。

340: 日本@名無史さん 2014/12/14(日) 21:26:13.80
>>338
そりゃ足利が征夷大将軍になったのはそれしか残ってなかったからだし
そもそも大君絶対主義とか 徳川のフカしだしな

341: 日本@名無史さん 2014/12/14(日) 22:58:43.75
鎌倉幕府だけは代表取締役副社長・専務が北条のイメージ
将軍である社長は代表権無しの平社長

342: 日本@名無史さん 2014/12/15(月) 15:17:21.95
そりゃまあ子孫はいるかもしれないが、政治的には北条氏は完全に滅亡。
普通は裏切り者がいて、少なくともしばらくは生き残るもんだけど。
高氏だって、平家だって生き残りがいた。
なんなのこの一門の団結力、あるいは宗家の統制力?

343: 日本@名無史さん 2014/12/15(月) 15:33:05.20
日本の武家は裏切りや内通があるのが普通だからな。
内紛はあれども裏切りや内通がないのが北条家の強みだったんだろうな。

348: 日本@名無史さん 2014/12/15(月) 17:42:01.85
北条は何か嫌々やっていたって説あるけどどうなんだろ

349: 日本@名無史さん 2014/12/15(月) 20:11:55.55
一見御内人の専制のようだけど、実は有力一門の均衡の上に立ってただけって説も有るみたいだね。
どの面を重く見るかってだけの気もするが。

351: 日本@名無史さん 2014/12/15(月) 22:47:53.23
結局日本じゃ専制政治なんて無理でしょ。
他人の顔を伺わなければ何もできない。
無理にやろうとしても大概は数年で瓦解。

359: 日本@名無史さん 2015/02/09(月) 10:37:09.98
後半はやたらと短命な人物が続いた印象
安達との近親婚を繰り返した結果でしょうか・・・

360: 日本@名無史さん 2015/02/09(月) 14:39:31.59
最初の三代はそれなりの寿命、4代目以後は短命。
まあ自然死以外も含むけど。
分家にはそれなりの寿命の人達もけっこう。
3代目の嫁選択が悪かったんじゃないの。

366: 日本@名無史さん 2015/02/10(火) 12:13:22.18
北条の短命ってのは当時の人間の噂の対象にならなかったのかな。
頼朝やその孫の竹御所が死んだときは、「平家の遺児を葬った報いであろう」だのなんだのいわれていたそうだけど。

367: 日本@名無史さん 2015/02/10(火) 14:50:02.97
>>366
北条泰時の息子や娘が次々早世したり気が狂ったりしたときには比企氏やら伊賀氏やらの怨霊だといわれていたようだよ
泰時は庶長子の生まれだったけれども比企氏や伊賀氏を外戚とする異母弟たちが比企の乱や伊賀の乱で次々失脚していったからね
(父義時の最初の正室は比企氏、後室が伊賀氏だった)

泰時の子は三浦出身の矢部禅尼との間の時氏以外も短命が多かった

369: 日本@名無史さん 2015/02/10(火) 15:47:33.88
>>367
比企谷の話は有名ですよね。比企の娘の怨霊が北条の娘を祟ったとか。
現代の感覚でいえばナンセンスだけれど、当時はまだ目に見えないものは相当怖かったようで。

398: 日本@名無史さん 2015/02/28(土) 02:10:02.56
>>366
6月に死ぬ人多かったんで、後鳥羽院の祟り、とか言われたてのはどっかで見たな

しかし、得宗の早死には20年ほど権力握ってからの死だからそれほど祟りという感じはなかったかも

363: 日本@名無史さん 2015/02/09(月) 23:19:30.15
中世の人間の生活スタイルに問題があったわけではないだろうしやっぱ遺伝的なものなのかな

足利はどちらかというと夭折・不妊が多いような

365: 日本@名無史さん 2015/02/10(火) 10:05:27.91
昔は幼児死亡率が高いので、その頃を乗り越えれば、50.60程度は期待できたらしい。それが北条泰時子孫はほとんど30代以下で死亡ってのは、やっぱり健康に問題があった家系だとしか思えない。まあ殺されたり自害も含んでるけど。
普通の病死で20代30代がごろごろ。
もしかして半分くらいは暗殺?

373: 日本@名無史さん 2015/02/14(土) 10:12:11.01
貞時あたりになると、もう短命を覚悟してたんだろうな。
貞時、どうせ短命だからやりたいようにやる。
高時、どうせ短命だから享楽的に生きる。

375: 日本@名無史さん 2015/02/14(土) 19:27:49.96
貞時は傀儡と化さずに平頼綱を討ち独裁権を強化させたり豪胆さを感じる

377: 日本@名無史さん 2015/02/14(土) 21:44:13.36
貞時の絶頂期が得宗の権力が極まった時だよね。
そこからの転落は恐ろしく早くて真っ直ぐに滅亡へと行ってしまったのが凄まじい。

378: 日本@名無史さん 2015/02/17(火) 15:33:35.50
若いうちに家督相続しなきゃならなかったストレスもあったんじゃない?

時政 頼朝挙兵時四十代
義時 時政追放四十代
泰時 義時死去四十代

以降は早いうちに家督相続

380: 日本@名無史さん 2015/02/19(木) 11:51:47.84
北条の短命を見ると後漢王朝を思い出す。しかし北条は短命でも直系相続で来たから立派ではある。
それを思うと経時-時頼の相続は時頼の消極的なクーデターだったのかも知れん。
時頼賛美の記述や伝承が多いのも後ろめたさを隠すため?

381: 日本@名無史さん 2015/02/20(金) 20:51:32.13
>>380
経時には子が居たからね。
そしてその子らの消息は歴史から消えてしまうわけだから怖い。

392: 日本@名無史さん 2015/02/26(木) 23:49:13.36
時政の親も早死に説があるんだろ
それ以前も系図が複数あるろこからみても結構早世多かったんじゃ
時政と息子孫がちょこっと長生きしたからそのあとが目立つがもともと健康に不安があったのかもあの血筋

394: 日本@名無史さん 2015/02/27(金) 13:48:29.23
>>392
母親の血ってのも影響あるからね。
時政の母ちゃんあたりが長生きの血筋だったのかもしれん。

395: 日本@名無史さん 2015/02/27(金) 19:00:44.52
吾妻鏡に時政の母親(政子の祖母)って出てこないでしょ
時政と19歳違いの政子が18歳で頼朝と結婚したあたりから載ってるのだから
時政の母親存命なら出てきてもおかしくないのに

396: 日本@名無史さん 2015/02/27(金) 19:21:48.50
そもそも時政の事あまり触れてないのが吾妻鏡だからな。
そこはなんとも言えんわ。
前半生のことバッサリ書かれてないのは、わからなかったというよりも、
時政の事は書きたくなかったからだろうし。
時政の母親や政子の母親なんかもその巻き添えで書かれてない可能性がある。

410: 日本@名無史さん 2015/04/01(水) 16:58:42.29
これだけ優秀な人間が続いた一族もめずらしいが
最後に高時というババを引いちゃった

411: 日本@名無史さん 2015/05/10(日) 20:37:02.61
高時もそんなに悪い人物ではないでしょ
虚無感を漂わせている部分が末期のもの悲しさを感じさせるが

417: 日本@名無史さん 2015/07/26(日) 15:25:39.25
とにかく、得宗家に優秀で清廉潔白な人が続いたんだよね。

二代目義時はあの疑り深い頼朝に、彼ほど信頼出来る人はいない、と言わせたくらいで、父の時政が頼朝を見限った時も、義時は頼朝に付いたし、頼朝の寝所のガードを任されるほど信頼された。

泰時(彼の号が得宗)は歴史に残るレベルとゆーか、天下を差配した人の中で最も清廉潔白と言える人物。父義時からの相続でも兄弟にほとんどを譲ってしまったし、弟のピンチには仕事を投げ出して駆けつけるって男らしさにも溢れる。泰時自身が天下万民の手本にならねばいけないとゆー思いで生きていた。
とにかく泰時には“いいひと”エピソードが多い。

時頼は三本の鉢植えエピソードもあるくらいの人物で、その子である時宗は日本をフビライの魔の手から救ったスーパーヒーロー中のスーパーヒーロー。

高時は評判良くないけど殉死者が870人いたし、その子の時行が中先代の乱の主将になった時も、時行は7歳のおぼっちゃまくんにも関わらず多数が加勢したから、高時も人望は相当あったのだろうね。

418: 日本@名無史さん 2015/07/30(木) 20:38:43.50
人望はあっても優秀ではないだろ。
目の前の問題から逃げ続けたのだから。

419: 日本@名無史さん 2015/08/01(土) 21:18:18.67
高時が優秀だった証拠はまるでないが、北条一門の結束が半端じゃないのは事実。
だいたい日本じゃ必ず裏切りもんがでるんだけどね。
ところが北条一門は普段内紛ばかりしてたくせにいざって時はほとんど落ちこぼれを出さずに戦って族滅したからな。名越とか裏切ってもよさそうなもんなのに裏切らんし、赤橋みたいな家は普通なら高氏を頼るもんだがこれまら裏切らずに最後まで戦った。
こういう外敵に対する結束力の高さが北条一門の真の強みだったんだろうね。

420: 日本@名無史さん 2015/08/02(日) 06:55:56.46
名越家は家格の高さ故に得宗家と反目してきたけどそれは例外的で何処の分家も得宗家に献身的だからな
北条政村は執権でありながらも得宗の時宗の良き藩屏だったわけだし

425: 日本@名無史さん 2015/08/08(土) 09:17:57.77
滅亡に際しての北条氏の結束の固さに感動すると同時に、幕府方についたのがほぼ北条氏一門しかいなかったことに驚く。
承久の乱に際して、御家人が結束して戦ったのとあまりに対照的だ。

426: 日本@名無史さん 2015/08/08(土) 13:48:33.70
鎌倉末にはそれだけ人心が北条から離れていたということだわな。

429: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 08:08:15.20
まぁ、諸侯が求めたのは結局のところ鎌倉幕府のリメイク版だからね
足利尊氏は自信が望まずとも自然と期待と信望が集まる

433: 日本@名無史さん 2015/08/28(金) 02:20:30.73
北条得宗家と持ち上げながらも、どこの馬の骨だかかわからんという反発が反北条の根っこだったんだろうな。

434: 日本@名無史さん 2015/08/30(日) 19:23:39.76
創設時からあった執権ならともかく得宗専制は北条家内の私的なものだからね
得宗の下に執権が置かれる複雑な構造に

435: 日本@名無史さん 2015/08/31(月) 01:15:59.81
公的な家政機関として朝廷に認められるっていうのは、意外に重要だったんだな。

引用元: ・北条得宗家って日本の歴史の中でも異質だよね




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