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1: 日本@名無史さん 2008/08/01(金) 23:05:10
古代から近現代まで何でもOK。
原則宮中に出仕してる女官で宜しく。
さ、始めましょー(御所言葉)。








6: 日本@名無史さん 2008/08/05(火) 15:16:06
生源寺伊佐緒っていう男みたいな名前の女官が明治時代にいたらしいね。
嘉納治五郎の親戚で、嘉納の出世のバックアップしたらしい。

8: 日本@名無史さん 2008/08/05(火) 20:58:58
后妃に仕えた女房もこのスレでいい?
興味のある女官は称徳天皇に仕えた吉備由利。
称徳が危篤のときに唯一そばいることが許された人物。名前も現代風で可愛い。
もう一人は徳川和子に仕えた石井局こと西洞院行子。
和子が石井局の働きを労って半家の石井家が創立された。

9: 日本@名無史さん 2008/08/05(火) 22:01:03
>>8
吉備由利は真備の妹だとか娘だとかいわれるけど
吉備氏の系図によると姉だったらしい。
なので、称徳の最後を看取った時はかなりの高齢だったらしいね。

10: 日本@名無史さん 2008/08/05(火) 22:54:14
>>8
吉備由利なんて知らんかった。実際は何て読むんだろうね。
京都にはたまにある苗字だよ。「由利」「由里」は。「ゆり」と読むけど。
彼女の弟も「泉」「牧雄」。前田利家の娘たちっぽいポリシーある命名する親父だったんだな、まきびは。

12: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 02:15:08
孝明天皇の時代、内裏は酒池肉林だったらしい。
まーーーー監禁生活だからね。

13: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 08:03:23
孝明天皇の初期の女官は半分以上が先代仁孝天皇からの女官で年上が多い。
自分用の若い女官が一人か二人だったらしい
若い女官をいれたくても、女官候補の実家がお金がないのでいれたがらずに朝廷のほうで手当てをふやすからということだった

14: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 15:09:06
>若い女官をいれたくても、女官候補の実家がお金がないのでいれたがらずに朝廷のほうで
手当てをふやすからということだった
 

ソース出して。
そんなに出仕するのに金かかった?
むしろ宮仕えしたら手当てもらえていいんじゃないかと。
あと、定員もあるから、古い人がお役を下がらないといけない。
むやみに増やせないと思うよ。

17: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 17:31:00
>>14
「忠成公手録書類写第三」
日本史籍協会叢書124 三条實萬手録一の129ページ

嬪御之人被召出候節兎角可然人躰を難被為得毎時御困り之由其故は元来微禄御困窮之簪紳家之御義
右御申上候は出勤之節支度調兼無據借財等ニて取繕被差上・・・・

とある。宮中に上がるまでの費用がかかったりあがった後も交際費にお金がかかるとおもわれ 子供ができた日には産所もつくらなくてはいけないし、物入りなのでは?

15: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 15:15:48
名家や半家などの娘って嫁ぎ先も確保できず宮仕えもできなかったらどうしてたんだろ?
地下官人の家に養子にいく堂上庶子は当たり前にいたからたぶん彼女ら堂上の娘も地下に嫁いだりしてるんだろうけど、摂関家など高位の公家の家の公家の家に家女房として仕えたりしたのかな?
英照皇太后の公母も唐橋家の女になってるけど、九条の正妻じゃないし、どういう立場の女だったんだろ。
近衛家でも、あの老女・村岡は地下の娘だしね。唐橋みたいに下流の堂上の娘が禁裏じゃなくて公家の家に家女房として仕えることはあったのかな?
門流の家に仕えるのは平安末期くらいはあったみたいだけど、江戸時代はどうなんだろ。

31: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 20:39:39
摂関家や宮家の娘たちが江戸に嫁にいく際におつきの女房としていくことがある。
摂関家や宮家に使えてそのまま江戸へ一緒にいく場合と、江戸へ嫁に行くので新規におかかえの場合があるらしい。
あと、将軍家や御台所の上臈としていくこともある。その縁で兄弟たちが武家にあるときもある。

ほかには大名の家臣、旗本、地方の神職や浄土真宗系の嫁になることもある。
あと尼寺にはいるとか。

地方に嫁げば「公家のおひめさま」ってありがたがられる立場なんだろうか。地方に行っちゃえば二度と両親とは逢えないだろうし習慣や言葉なんかも違うだろうから大変だろうね。

18: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 17:47:35
>>15
新中和門院の生母町尻量子は女院の祖母常子内親王の侍女だった。
貧乏公家の姫の片付け先としては大奥上臈、大名家上臈、出家など。
大名の国元御前になった姫もいる。運がよければ御生母様。

20: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 18:57:41
>>18
大名の側室は、結構江戸期の早い時期から国持ち大大名だとみられるよね。尾張家や伊達家。中期以降になると、10万石弱くらいの、大大名とはいえない規模の大名家にも側室として公家の姫が いっぱいいるよね。松浦とか。
冷泉家の姫なんて2代続けて岩出山の伊達家に嫁いでる。これは正室だけど、分家だもんね。和歌の縁があっても、本家の正室ではつりあわないわけだもんね。
島津では、一橋家出身の正室がいた重豪が、男子がいないから竹姫ばあさんのあっせんで京に側室を求め、甘露寺前大納言の娘・綾姫が側室に上がり、国許に下って間もなく、江戸の正室が亡くなり、綾姫は晴れて正室に格上げ、幕府にもお届け、に至った、ってケースもある。しっかし、いくら公家は貧乏とはいっても、大納言家の姫が、官位では下の家に妾奉公とは。ちょっとこの辺の事情、気の毒というか何と言うか、公家側ではどんな認識だったんだろうね。
決してそれで当たり前、という認識ではなかったと思う。

21: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 20:46:09
>>18
近衛家熙の正室は霊元天皇の皇女憲子内親王。
町尻量子は正室憲子内親王没後家熙の妻になった
もっとも摂関家の正室としては町尻家は不十分であったらしく公的な場所に出ることは許されなあったらしい

22: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 21:30:09
>>21
摂家の正室の「公的な場」って何?

家業を持った家の正妻はその家業の業務の重要な役割を担っていたらしいけど。
山科家とか。馬鹿女じゃつとまらないほどみたいね

23: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 21:40:39
>>22
近衛家で行われる数々の公式な行事のこと。
憲子内親王は当然これに出席していたけれども、町尻量子は出席できなかった。
妾扱いであったため。
公家の家で年中行事が行われていることは知っているよね?

24: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 21:57:46
なるほど。
具体的には何か役割があるの?鎮座ましますだけじゃなくて。
山科家正妻などは、実際に装束の注文を受注し、裁縫まで行っている。
中世ね。江戸期は知らん

30: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 20:16:16
>>24
近衛家の主人とともに摂家としての行事を主催することは妻の重要な務めだが?
摂家である近衛家の正妻が裁縫はないだろう、貧乏公家の真似をしなくてもお付きの女房にやらせたらいい。

25: 日本@名無史さん 2008/08/06(水) 21:58:50
妾扱いか。
家女房とは違うのかな?

30: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 20:16:16
>>25
家女房は正室がいる場合、主人や正室に仕えているという意味での家女房。
ただ、町尻量子が家熙と結ばれたとき家熙は正室と死に別れた男やもめで、家熙は以降正室を持たなかった。
町尻量子は家熙の実質的な妻扱いではあったのだが、家格が釣り合わなかったために正室扱いは受けず、公的な場所(公的な行事への出席や、摂家の正夫人として内裏へ参内すること)への出入りはできなかった。

26: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 16:44:25
孝明天皇は、中山慶子になんで手を出したんだろう。

27: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 17:58:15
孝明天皇附きの女官は年増ばっかだったんだよ。父帝の女官をそのまんま引き継いだから。
若い天皇に年齢が釣り合わないわけ。んで、女官を入れ替えてみては、という九条らの提案を、孝明天皇はその辺は優しいから、職を失うことになる女官を慮って実行しなかったんだけど、たまたま欠員が出て、新しく中山慶子が出仕するようになった。んで、当然若いの他にいないから手がついたわけ。『幕末の朝廷』(家近良樹著)でその辺の経緯説明がある

28: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 19:57:37
しかし、孝明天皇の後宮は酒池肉林だったとある。
ブ○の慶子に手をつけなくても・・・。

29: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 20:05:02
それは後の話
中山に手をつけたころはまだ孝明さんも若くて、女御の九条凪子くらいしかいなかったんだよ

32: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 20:51:19
>>29 
准后とは、公武合体や尊皇攘夷で考えの違う九条家の出ということで途中から仲悪かったらしいね。准后の方が美人だけど。
でも、岩倉具視の妹とか何人かいたじゃん。

33: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 21:16:21
孝明天皇の女御、側室たち

女御;九条夙子(孝明天皇より3歳年下)

典侍;坊城伸子(孝明天皇より1歳年上)

内侍御雇;中山慶子(孝明天皇より4歳年下)

内侍;堀河紀子(孝明天皇より6歳年下)

内侍御雇;今城重子(孝明天皇より3歳年上)

(役職は明治天皇の手がついたと思われるときのもの)
孝明天皇が中山慶子に手をつけた1851年当時、坊城伸子は難産でこの前年に死去していたものの、女御九条夙子、並びに四奸二嬪で有名な孝明天皇の寵姫今城重子はすでに孝明天皇の傍にあって寵愛を受けていた。
年の若い堀河紀子(岩倉具視異母妹)が孝明天皇に仕え始めるのはこの翌年。
(明治天皇生誕の年にはじめて宮中に出仕)。

中山慶子がおそらくたった一回のセッ〇スで受胎したのは事実らしい。
宮中で噂にもならず、父の忠能も娘に帝の手がついたのを知らなかった。
一回きりのセッ〇スならだれでも良かったでしょ。
孝明天皇も若かったし。

34: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 21:43:49
父親も分巣な慶子の妊娠を疑ったらしいね。

35: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 21:49:40
>>34
父親が本当に自分の娘をブすだと思っていたなら宮仕えになんか出さんだろw
若い頃にはあれはあれで見れる顔だったんだよ
堀河紀子だって妖艶な美女のように言われているが兄貴の岩倉具視はガマガエル顔だし

38: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 23:25:46
中山慶子は宮使え後もチョクチョク実家に戻ったりしてたらしい。
自分の娘ながら不美人で自由人な慶子が帝以外の男の子供を身ごもったのでは??と疑ったちゅー文章を昔見た。

40: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 23:40:40
>>38
その文章とやらは、信頼のおける出典だったのかなw

39: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 23:33:12
中山家的には、既に後宮で女官長をしていたお清の女官(慶子の大叔母)みたいになれば家も助かる、位に考えてたんだろ。
大正天皇の生母愛子も最初は皇太后つきの女官だし。
帝の外戚になるよりも、岩倉みたいに別の野望があっただろ。

40: 日本@名無史さん 2008/08/07(木) 23:40:40
>>39
柳原愛子に手がついたとき、父が怒ったと伝わってるね。ほんとかな。
「最近の若い人は・・・!」とか明治天皇のことを言って。明治帝の手が娘につきそうなのを最初から父はわかっていて、んであえて娘を皇太后の御所に出仕させたのに、まんまと明治帝の手がついてしまったので怒ったとか。娘に帝の手がついて怒る理由が思い浮かばない。

45: 日本@名無史さん 2008/08/08(金) 20:51:13
>>40
天皇の妾になることが娘にとって幸せかどうかは分からない
愛子はおとなしい女で宮中でもでしゃばることがなかったというし
女官たちの嫉妬に耐えられないと思っていたのかもしれない
同じくらいの家柄の公家の正室となったほうが幸せであることも多い
父親が願う娘の幸せは傍目には分からないよ

46: 日本@名無史さん 2008/08/08(金) 22:04:24
>父親が願う娘の幸せは傍目には分からないよ

この時代、臣下の身で明治帝のことを「最近の若い人は・・・!」と言って怒る、
それが事実ならば、そんなヒューマニズムの話じゃないと思うんだが。

47: 日本@名無史さん 2008/08/08(金) 22:15:18
柳原光愛は江戸時代を生きた公家だよ
明治になってからの絶対君主制、天皇神格化は知らないの
案外江戸時代から帝に日常的に接していた公家たちは明治になったからと言って急に帝を神だの神聖だのとは思わなかったんじゃないだろうか
明治天皇の皇后や側室たちも皆公家の出だしね

50: 日本@名無史さん 2008/08/09(土) 13:54:11
柳原愛子は運よく天皇生母になれたからよかったもののそれ以外のお手つき女官なんて出産養育費用が掛かるわ、天皇の死後は出家して女官としての手当ても失うし、必ずしもいいものじゃない。
お清のまま女官として出世してくれたほうが家計も助かるから柳原光愛が愛子の妊娠を怒っても不思議ではない。

56: 日本@名無史さん 2008/08/09(土) 19:57:51
>>50
それは江戸時代まで。
明治時代になると天皇家にも武家の嫁入りのしきたりが取り入れられ、明治天皇の側室たちは子供を産むときに実家へ帰ることが許されなくなった。よって、側室たちが産む子の出産費用、養育費はすべて天皇家もち、天皇家が養育係まで付けて育てることにした。
雅子妃が出産のときに母親に付き添われていた(美智子さんもそうだったんだけどね)といって2ちゃんねるでバッシングされているけれども、長い歴史から見れば皇族や未来の天皇はすべて母親の実家で母親の親兄弟に囲まれて生まれていたわけで。
天皇や皇族の妃は明治時代から出産のときに実家に帰れなくなったんだ。
当然、明治時代から、妃や側室の実家が出産費用や養育費を出す必要はなくなった。

51: 日本@名無史さん 2008/08/09(土) 14:07:18
柳原卿が、愛子の妊娠を怒ったのも、もともと明治帝のおそばに上がらせたわけじゃないから。
皇太后の御所にあがらせたのに、まんまと男(明治さん)の手がついちゃったから怒った。
ちなみに愛子はひどくヒステリック(たぶん血圧低そうな、神経質そうな顔つきしてるし、慢性的な甲状腺の病気とかあっていらいらしやすかったのかと想像)で、妊娠中などは気が高ぶって大変だったらしい。
実際お産も難産続きで、早い段階からおしとね辞退を申し出たらしい。大奥側室じゃないから「おしとね御免」じゃないけど、女官の仕事のひとつである侍寝のお勤めを免除してもらった、ってことらしいけど。

57: 日本@名無史さん 2008/08/09(土) 20:20:22
>>51
微妙に違う。
柳原愛子が妊娠中に気が高ぶったという記録はない。
ただ、難産体質で明治天皇の寝所を辞したのは事実。
産が重かったためか産をするときに泣き叫んで暴れた
一般人の妊婦でもよくある光景
ただ皇室では御法度だったらしい
高貴な人は自分がとりみだした姿をけして他人に見せてはならない
ましてや自宅出産が禁じられた明治時代以降
出産時に取り乱す高貴な人の姿は女官たちの物笑いの種にもされたらしい
香淳皇后(昭和天皇皇后)の出産に付き添った人の話として
皇后は陣痛の最中にも一言も声をけして発しなかったとある
それが高貴な人の出産だということらしい

58: 日本@名無史さん 2008/08/09(土) 20:56:41
愛子は大暴れしたから、極度のヒステリー状態にあったと記録にもある。

59: 日本@名無史さん 2008/08/09(土) 21:04:22
>>58
お付きの女官が産が重くて暴れたと言いふらしただけで、ヒステリーだという診断結果はない。
ヒステリーだという史料をあげよう。

60: 日本@名無史さん 2008/08/09(土) 23:37:17
ドナルドキーンがいくつもの資料で書いていると述べている。
ベルツとかも書いてるんじゃねーの。

66: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 18:50:29
>>60
本人が聞いたのではなく、孫引き、ひ孫ひきなわけか
それで、君はドナルド・キーンがかいた原文を読んだわけ?

69: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 19:05:17
>>66
ドナルドの『明治天皇』っていま文庫本になってて非常に詳細だけど
あれってどこまで信頼できるわけ?

72: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 19:54:50
>>69
ドナルド・キーン自身が明治天皇に会ったり身近にいたわけではない、
史料や文献をあさってこれはこういうことだ、と私見を導いたのがあの著書。
それに従えば、柳原愛子にヒステリーだという結論を下したのはドナルド・キーン自身であって、
ドナルド・キーン自身は柳原愛子に会ったことも見たことすらない

62: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 09:05:09
明治大正と一条朝については専用スレがあるからここではそれ以外の時代を語ったほうがいいかもね。
北条政子と張り合った朝廷の権力者藤原兼子なんてどう?
鎌倉時代は女官も女房も面白い人が多いよ。

64: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 18:32:52
いや、別に流れにまかせてつれづれなるままに進めばいいと思うよ。
明治期の女官の話だって興味深いし。
鎌倉期の女官といえば、個人的には、後深草院二条が興味深いなあ。
村上源氏の嫡流・名門久我一門の姫ながら、父が早死にしたこともあって后妃ではなく女房として仕えなければなからなかったり、不運な人だよね。

67: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 18:55:22
>>64
後深草上皇が二条に手をつけたのはまだ父存命中。
父もその後妻もすっかり乗り気で、衣装を準備したりとそわそわしていたようだ。
雅忠も、娘を女御にしたいのならば、女御として正式に入内でなければ娘に手を付けることを許さないと断固とした態度をとればよかったのに。後深草院が女房待遇のまま二条をこっそり犯すのを手助けした上、病床で二条が妊娠していることを知っても尚、後深草院に何の働きかけもなし。
二条は男子を産んだが母方の四条家でこっそり育てられこの皇子のことは皇胤本朝運紹録にも載ってない。

70: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 19:22:45
>>67
当時の久我家では西園寺家に立ち向かうことはできないだろうからどう踏んでも女御にはなれなかったんじゃない?
だから女房のままでも皇子を産んでもらって即位できる可能性にかけたんじゃない

71: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 19:45:56
>>70
後深草院にはすでに煕仁親王(のちの伏見天皇)をはじめとする諸皇子がいたから女房待遇の二条が皇子を産んでも即位は無理。この時代、后の位は西園寺家が独占していたけれども、後深草天皇の中宮だった西園寺公子(東二条院)には女子しかなかった。
煕仁親王の母は西園寺家傍流の洞院家の出だが、女房扱いとは言えひとつの殿舎をもらい、東の御方などと呼ばれていた人だった。
ほかの皇子を出し抜いて即位させるには二条を女御にするしかない。
西園寺家だって承久の乱ごろまではぱっとせず、鎌倉幕府と親しかったことでにわかになりあがった権門家。雅忠に天皇の外祖父になるだけの根性はなかったようにしか見えない

65: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 18:41:09
「とはずがたり」は日記といえど源氏物語を意識した創作も多い、なんて説もあるけど、実際読んでいくと、彼女の考えや悩みが現代人の思考や煩悩と何も変わらないということが読み取れて、宮中生活が身近にかんじれる良書だと思うんだよね。
晩年の記述では、旅をして地方の遊女と身近に接した経験から彼女は、自分のような御所の女官も、春をひさぐ遊女も本質的には似ている人生だ、と言っているところとか、当時の高貴な姫がここまで言えるなんて何て賢い人だったのかと感心するよ。セッ〇スしまくりの美しい女官だったのは間違いないでしょう。

68: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 19:04:01
だから、不運だっていうのさ。
鎌倉期の後宮なんて、政権を武家に取られた後遺症ですごく退廃していたのがよくわかるよ。
セッ〇スくらいしか楽しみなかった、というか、なにかある種の狂気を感じるくらいだ

73: 日本@名無史さん 2008/08/10(日) 20:19:26
「とはずがたり」のなかに、二条の父が、「二条」なんていう小路名を女房名にするなんていやしからん、と不服を奏上したところ、院からは「たしかに皇室から分かれて間もない源氏の家の姫なら「○○方」や「××殿」という名前が適当だとこたえがあったらしいが、うやむやになってしまったことも、二条のストレスになってたみたいね

82: 日本@名無史さん 2008/08/11(月) 21:53:56
>>73
時代によって変わるのかもしれないけど女房クラスの候名で
「~の方」「~の御方」「~局」「~君」「~殿」と「二条」「三条」だと格がちがうの?
上記の7つをランク付けするとどれが一番上?

83: 日本@名無史さん 2008/08/11(月) 22:10:30
>>82
女房の候名で「~の方」「~の御方」「~殿」というのはないよ
逆にいえば「二条」も、実際に周囲の女房に呼ばれるときにはそのまま呼び捨てということはない(平安時代ぐらいだと女房名に「こそ(○○さん、という意味)」を付けて呼んだりしたようだ)
通り名じゃなくてたとえば「大納言局(父親が大納言だし)」とか親兄弟の官職を冠してくれってことだったんじゃないの
「○○方」とか「○○殿」とかは例えばその女性が結婚したり、天皇の手がついたりして自分だけの建物を所有したときに、その建物を冠して呼ぶ呼び名。
宮中に「局」をもらっているだけの女房にその名はない。

91: 日本@名無史さん 2008/08/13(水) 16:44:11
老々介護で有名になった北白川女官長の若い頃の写真がみたいぜ。

108: sage 2008/08/16(土) 23:55:09
>>91
「北白川祥子」でググってみ。ウィキに永久王との結婚写真が出てる。
洋装だけど、現代でも十分通用する美人で初めて見た時「こんなきれいな人がいたんだ」ってビックリした。姪にあたる常陸宮妃華子さまの若い頃に何となく似てるよ。

ウィキの「永久王」には十二単姿(和装)の写真が載ってる。こっちの方はキレイと言うより可愛い印象。洋装と和装とでは随分変わるんだなと思った。

109: 日本@名無史さん 2008/08/17(日) 00:00:43

祥子さんの洋装写真、貼っときますね。
それにしても、戦時中とはいえ結婚生活の短さが悲しいわ。子供に恵まれたとはいえ…。
本当に北白川宮家は「悲劇の宮家」だったのね。


Kitashirakawa-no-miya_1935_2

111: 日本@名無史さん 2008/08/17(日) 11:42:26
老老介護って祥子妃は介護するがわ?される側?

112: 日本@名無史さん 2008/08/17(日) 15:55:33
皇太后の介護してたよ。

113: 日本@名無史さん 2008/08/17(日) 15:59:28
介護するのは皇太后宮付きの医師団でしょう。
祥子さんは女官長だったけど、高齢だし元皇族なので、あくまでも名前だけの女官長だったんじゃないのかな?皇太后がどこかの御用邸に静養に行くときのニュースをチラッと見たけど、キャスターが「皇太后さまだけじゃなく他の女官の世話もしなくちゃいけないから大変」みたいなコメントしてたのをかすかに覚えてる。

116: 日本@名無史さん 2008/08/17(日) 22:44:20
北白川女官長が、皇太后の車椅子押してただろ。

117: 日本@名無史さん 2008/08/17(日) 23:27:13
>>116
そんな場面があったんだ。でも北白川さんには 重労働だっただろうね、大正生まれの方だから。どんな経緯で女官長になったんだろう?元皇族だからかな?華子さまが関係しているから?

これからは「老々介護」が当たり前の風景になるんだよね。考えただけで気分が落ち込む。
話そらせてスマソ。

118: 日本@名無史さん 2008/08/18(月) 07:44:57
13宮家が一般人になって、没落していく中、竹田と北白川は、別荘売却などして比較的、元宮家の格式を保てたといわれます。祥子さんには、房子内親王という姑がいて、夫を亡くしているから自分が何とかしなければ!という気持ちは強かったと思われ。さらに、嫁入り前に行く華族女学校ではなく、御茶ノ水女子の前進の女子師範学校OGという才媛だったから、女官という道をよしとしたのじゃまいか?

119: 日本@名無史さん 2008/08/18(月) 08:11:07
>>118
そうだった、祥子さんは現お茶の水の出身だったんだ。
華族なのに、現学習院には行かなかったんだよね。
「才色兼備」とは彼女のような人を言うんだなあ…。

姑の房子さんとは仲良かったのかなあ?でも房子さんは夫も息子も亡くしているし、皇籍離脱後は何が何でも北白川家の家格を守ろうと必死だったんだろうね。自分が明治天皇の娘というプライドもあっただろうし…。
祥子さんが女官長になった頃はもう既に故人だったっけ?

香淳皇后にとっても、祥子さんの存在は大きかったと思う。
祥子さんが永久王妃になった時、既に皇后だったけど、没落を免れた旧宮家の妃であったこと、姪に華子さんがいたことなど、女官長として申し分のない家柄だったことが大きかったんだろうね。昭和天皇の訪米の際、皇后も同伴したけど、ようつべに皇后の後ろに祥子さんの姿が映ってた。若い頃の美貌をかすかに残した、品のある顔立ちだったなあ。
皇后は晩年「老人特有の症状」だったけど、祥子さんのことは認識できたんだろうか?長年そばにお仕えしていたんだけど…。

あと「女官」とは全然関係ないけど、祥子さんの長男道久さんの最近の写真を見たらお母様そっくりで驚いた。美男子だったよ。
長文スマソ。

120: 119 2008/08/18(月) 08:30:10
書き忘れた、祥子さんのお兄さんは昭和天皇の侍従長で「徳川ブラザーズ」って呼ばれていたらしいね。よっぽど二人とも天皇皇后の信頼が厚かったんだろうね。

121: 日本@名無史さん 2008/08/18(月) 09:02:25
東芝定年退職して、いまは伊勢神宮の宮司だよね、北白川氏。
娘しかいないみたいだから、北白川家も彼で途絶える。

祥子さんは、60代くらいの写真を見たことがある。
目がパッチリして、庶民的で優しく明るい印象のおばちゃんに見えた。
ウィキには、三島由紀夫が学習院時代に惚れていた、って書いてあってびっくり。
祥子さんの弟が学習院で三島と親友だったとかで、『春の雪』のヒロインのモデルだとか。
たしかにあのヒロインは幼馴染との恋を裂かれて宮家の妃に内定する筋書きだったが。
関係ないけど、数年前の映画で竹内結子が演じててすごい綺麗だった。

ちなみにどっかで読んだけど、三島由紀夫は正田美智子さんとも見合いをしたことあるらしい。

引用元: ・女官について語るスレ




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