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1: 世界@名無史さん 2017/06/18(日) 21:18:17.44 0
北京原人から習近平まで








8: 世界@名無史さん 2017/09/22(金) 18:19:35.57 O
南京が首都だった中華民国時代は北平に改称された

9: 世界@名無史さん 2017/09/22(金) 19:33:14.80 0
台湾では、今でも北平が正式名称
さすがに、大陸との交流が盛んな今では、北京と呼ぶ人が多いが

11: 世界@名無史さん 2017/10/09(月) 23:33:28.01 0
今の大天朝が覆ったら「北京」の称も変わるのかもしれない。
意外と「薊」?

ロシア軍が駐屯したら改称されてプーチングラードなんてなw

古代中国の都市。春秋戦国時代には、燕の都が置かれた。現在の北京市。

12: 世界@名無史さん 2017/10/09(月) 23:38:17.98 0
次の王朝は、北京を首都としない可能性も高い
もともと、日本でいえば札幌を首都としているような、極めてアンバランスな場所にある

13: 世界@名無史さん 2017/10/10(火) 05:13:36.22 0
人口分布の中心でいえば河南省らしい。
これまで統一王朝の都にならなかった所というのもしがらみがなくていいかもしんない。

14: 世界@名無史さん 2017/10/10(火) 06:44:26.66 0
中国っていったら、「長江の下流に人口が密集している」というイメージを持っている人が多いけど、実際には華北平原の人口密度が極端に高い

19: 世界@名無史さん 2017/10/10(火) 12:15:45.69 0
パリとかも北の端にある都市だが、一度北から来た異民族が支配者になって以来ずっと中心になっている
パヴィアもそうだった
コルドバもそうか

21: 世界@名無史さん 2017/10/10(火) 14:06:51.93 0
洛陽、長安、開封、南京、北京
統一国家の首都となった都市は少ないな

25: 世界@名無史さん 2017/10/10(火) 23:16:27.30 0
北京は、華北平原の北東の端にある。
つまり、中国から満州やモンゴルに行くのにも、逆に満州やモンゴルから中国に行くのにも、必然的に北京を通る。
回りは険しい山岳地帯だから、ここを通るしかない。だから北京は、商業ネットワークのカナメになる場所。
 

26: 世界@名無史さん 2017/10/10(火) 23:23:03.13 0
古くは関中も北京みたいな立ち位置たったのだろう
周のような遊牧民と華夏人が接する場所。

34: 世界@名無史さん 2017/10/11(水) 20:33:41.02 O
清軍の入関がなく李自成の大順国が続いてれば、西安(長安)が唐朝以来800年ぶりに首都になってたかも知れない

36: 世界@名無史さん 2017/10/11(水) 21:38:37.90 0
順は北京が第一希望でしょ

38: 世界@名無史さん 2017/10/11(水) 21:42:20.21 0
北京も、長安と同じ道をたどる
いったん首都でなくなったならば、二度と戻ることはないだろう

39: 世界@名無史さん 2017/10/11(水) 21:48:21.20 0
首都でなくなったら、企業が北京に本社を置く意味がなくなり、北京は急速に衰退することが予想される。
そうなったら、上海や広東省が圧倒的な経済力を持つことになる。中国は、全体的に暑い南の国になる。

44: 世界@名無史さん 2017/10/14(土) 02:43:55.98 0
春秋戦国時代には燕の首都で薊(けい)と称された。
周の国都洛陽からは遠く離れ、常に北方の匈奴などの遊牧民族の侵入による被害を受ける辺境であった。

秦漢代には北平(ほくへい)と称されるが、満州開発が進み、高句麗など周辺国の勢力が強大となると、戦略上、また交易上の重要な拠点として重視されるようになった。
北京市に隣接する河北省涿郡(たくぐん)は三国志の英雄劉備の故郷で知られるとともに隋の煬帝が築いた大運河の北の起点とされている。

45: 世界@名無史さん 2017/10/14(土) 02:45:18.92 0
遼は南京と呼び、金は中都と呼び、元は大都と名付けた。

51: 世界@名無史さん 2017/11/03(金) 16:50:25.74 0
北京がなぜ千年の都になったかと言えば、地形のせい。
北京は巨大な三角州である華北平原の東北端に位置する。
周囲を険しい山脈に囲まれた、唯一の出入り口。

中国からモンゴルに行くにも満州に行くにも、逆に北から中国に入るにも、必然的にここを通る。まさに、兵家必争の地。

52: 世界@名無史さん 2017/11/03(金) 16:51:57.29 0
隋の煬帝が運河の北端としてから、商業都市としての北京の発展が始まった。
その後、モンゴル帝国の時代に運河がますます整備され、かつての長安や開封に代わって中核商業都市になった。

58: 世界@名無史さん 2017/11/03(金) 17:26:19.94 0
>>52
永済渠は高句麗遠征用の兵站輸送運河だったんだよなぁ、煬帝はん無茶するわ
洛陽からスタートじゃなくて、済南あたりまでは黄河使ってそこから北上する運河にすれば半分以下で済んだ気もするし

74: 世界@名無史さん 2017/11/04(土) 19:37:46.40 0
隋の煬帝も、江南が大好きだったため、首都の長安にいたのは最初の頃だけで、あとは揚州に入り浸るようになってしまった。

あのまま隋の世が続いていたら、正式に遷都していた可能性もある。

75: 世界@名無史さん 2017/11/04(土) 19:39:42.04 0
これが神聖ローマ帝国やセルジューク朝だったら、皇帝がいま現在いるところが首都だ。
そもそも、皇帝は移動するのが当たり前の存在で、首都なんてものがない。

76: 世界@名無史さん 2017/11/04(土) 19:47:22.48 0
隋の煬帝が江南に長期滞在しているスキをついて、唐の李淵は長安を占拠した。
勝手に隋の新帝を擁立して、そいつに禅譲させて皇帝になった。

唐と隋は、北朝と南朝のような位置関係になってしまった。

やはり、南に首都があると、どういうわけか軍事的に弱くなる。
隋は、あっという間に唐に滅ぼされた。

77: 世界@名無史さん 2017/11/04(土) 21:15:11.28 0
そら脅威になるのが北辺におるからな(隋の場合は主に突厥)
精兵はそっちに駐屯することになるし、それを吸収することができたらほぼ自動的に勝ち
靖難の変もだいたい同じ
87: 世界@名無史さん 2017/11/11(土) 19:41:16.52 0
明がスタートしたのは、1368年。
永楽帝が北京に遷都したのは、1421年。
その間の半世紀は、南京が首都だった。

もうちょい長かったら、「西漢・東漢」みたいに、「南明・北明」と区分された可能性が高い。

90: 世界@名無史さん 2017/11/11(土) 19:51:53.16 0
>>87
南明てのは存在したけどね
https://ja.wikipedia.org/wiki/南明

93: 世界@名無史さん 2017/11/12(日) 08:00:45.11 0
都を自分の本拠地である「北京」に遷した。同時に金陵は、南京と改称された。遷都の理由は、北方のモンゴル民族の来襲に備えるためには、南京よりも北京の方が都合が良かったからである。
 
北京が初めて首都に選ばれたのは、金の4代目「海陵王」の時である。以来、南京に首都を置いた明代初期を除けば、今日の中華人民共和国に至るまでの800年あまり、北京が中国の都となる。これに対してなぜか、南京を都とした王朝は長続きしていない。
 
最初に南京に首都を定めた三国時代の「呉」は58年間で滅びた。その後「東晋」は103年間、「宋」は59年間、「斉」は23年間、「梁」は55年間、「陳」は32年間と、みな短命に終わったのだ。
 
明朝も、南京が都だったのは、わずか34年間でしかない。それに第二次世界大戦中中華民国の南京政府は、日本帝国陸軍の侵攻の前に10年で陥落し、戦後再び、南京に帰ったものの、たった3年で台湾に追いやられている。

94: 世界@名無史さん 2017/11/12(日) 08:02:45.91 0
永楽帝が、北京に遷都した理由は、もう一つある。永楽帝にとって、南京は居心地が悪かったのである。なぜなら兄の息子の建文帝を殺すという、やってはいけないことをやってしまったからである。このことは、永楽帝にとっては、生涯の大きな汚点となり一種の罪悪感を背負って生きていくことになるのだ。
 
それに南京には、建文帝の側近がおり、彼らとの関係がしっくりいかなかったのだ。
事実、永楽帝は建文帝の側近の一人「方孝孺」に即位の詔書を起草させようとしたが、彼はその命令に従おうとせず、最後には「燕賊、位を奪う」と書いたので、永楽帝は、方孝孺とその一族873人を粛清して、南京から去ったのである。

95: 世界@名無史さん 2017/11/12(日) 08:05:47.46 0
最初に北京に遷都したのは、金の海陵王

海陵王は「天下一の美女を娶る」と豪語したとおり、数多くの女性を後宮に集めた。
『金史』巻63 列伝第1「后妃上」によれば、皇帝に即位する前は3人程度だった妻妾が後年には数えきれないほどの数に登った。
また、海陵王はしばしば臣下の妻を奪い、近親相○をおそれず、幼女を強○した。
姉妹や母娘を揃って後宮に入れることもあり、己の意に従わない女性は殺すことをためらわなかった。宮中の床に布をしきつめて、あらゆるところで宮女と乱交した。

96: 世界@名無史さん 2017/11/12(日) 08:09:07.55 0
金の海陵王が北京に遷都したという話の認知度は低い。永楽帝の遷都のほうが、遥かに有名だ。
ひとつには、いまの北京が建設されたのは永楽帝のときだからだろう。北京が誇る名所旧跡は、永楽年間に建設されたものが多い。 それ以前の痕跡は、いまの北京にはほとんど残っていない。

100: 世界@名無史さん 2017/11/12(日) 13:09:02.96 0
古今東西、遷都は常に、多大な労力と犠牲を払って遂行される。
鉄道も飛行機も自動車もない時代。移動するだけでも大変だ。
大土木工事で死者が続出する。
華の都から、辺境へと転落した人々の恨みは深い。

よほどの暴君が有無を言わさず実行しないと、誰もついてこない。
遷都を強行した皇帝の評判が概して悪いのは、そこに原因があるのかもしれない。

102: 世界@名無史さん 2017/11/12(日) 13:36:42.67 0
金の海陵王、元のフビライ・ハン、明の永楽帝。

北京に遷都した連中は、いずれも暴君ぞろいだ。

106: 世界@名無史さん 2017/11/13(月) 12:58:46.44 0
クビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をカラコルムから中国の大都に移動させるなど様々な改革を打ち出した。

クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。

107: 世界@名無史さん 2017/11/13(月) 13:00:23.85 0
至元4年(1267年)からは中都の郊外に中国式の方形様式を取り入れた都城大都の建造を開始、至元8年11月乙亥(1271年12月18日)に国号は漢語で「大元」と改められた[2]。

109: 世界@名無史さん 2017/11/13(月) 13:03:45.89 0
しかし、クビライの宮廷はあくまで遊牧の移動生活を保って大都と上都の間を季節移動しており、元はいまだ遊牧国家としての性格も濃厚であった。

110: 世界@名無史さん 2017/11/13(月) 15:20:24.04 0
しかも巨大宮殿を作ったけど、日常はテント生活

111: 世界@名無史さん 2017/11/13(月) 16:12:06.99 0
テント生活だから、中国式の家具なんかより、ペルシャ絨毯が必需品
中国文化より、ペルシャ文化に傾倒したのは当たり前であった

112: 世界@名無史さん 2017/11/13(月) 16:51:16.03 0
元の宮殿は儀礼用でハーンを含めてモンゴル人はみな宮城の隣の空き地にテント張って住んでたようだな

118: 世界@名無史さん 2017/11/14(火) 07:31:32.67 0
上都は寒すぎるので、冬は北京が首都になった
あの北京が避寒地になるとは、どんだけ寒いんだよと言わざるを得ない

143: 世界@名無史さん 2017/11/15(水) 21:48:46.57 0
(コピペ)

マルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で上都について、大理石で出来た宮殿があり、建物の内部はみな金で塗られ、鳥獣花木の絵が描かれるなど工芸や技術の粋を尽くした装飾がなされて見るものの目を楽しませている、と書き残している。
マルコ・ポーロらによりヨーロッパへ伝えられたきらびやかな大都市・上都の姿は、その後のヨーロッパ人の想像力に影響を与えた。

『見聞録』を読んだイギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジは、1816年に『クブラ・カーン、あるいは夢で見た幻影:断片』を書き、この中に歓楽の都・ザナドゥを登場させた。

以後、ザナドゥは伝説の都、あるいは理想郷の象徴となっている。

145: 世界@名無史さん 2017/11/15(水) 21:52:33.45 0
マルコ・ポーロは、実際に上都に行ったはずだから、きらびやかな雕欄玉砌の描写には説得力がある

146: 世界@名無史さん 2017/11/15(水) 21:53:49.93 0
ただし、寒すぎて農業生産力がゼロに近いので、食料不足には悩まされたようだ。
その点に関しては、いにしえの唐の都・長安にすら遥かに見劣りする。

147: 世界@名無史さん 2017/11/15(水) 21:58:21.49 0
帝国の権力者の所在地という以上のものはなかったろうな

148: 世界@名無史さん 2017/11/15(水) 22:11:41.97 0
まあ現実には、上都が避暑地で、本籍は大都だっただろうな。
経済力の差がありすぎる。

151: 世界@名無史さん 2017/11/15(水) 22:38:22.34 0
中国で大ヒットしたタイムスリップ時代劇「宮廷女官ジャクギ」では、清の康熙帝が毎年、避暑と鎮撫を兼ねてモンゴルに行幸していた。

夏の間は、モンゴルのテントで過ごしてた。あれと同じようなものか?

154: 世界@名無史さん 2017/11/15(水) 23:05:28.02 0
商都としての北京の経済力は、元代がピークだったな
明清では、政治都市って感じになった

162: 世界@名無史さん 2017/11/16(木) 21:23:41.54 0
あの北京ですら、モンゴル人にとっては南国だったか

163: 世界@名無史さん 2017/11/16(木) 21:24:28.22 0
明の永楽帝も、南京が暑くて逃げだしたんじゃないか
北京育ちの奴にはキツいだろう

164: 世界@名無史さん 2017/11/16(木) 21:26:20.13 0
中央アジア出身で、インドを征服したムガール帝国の開祖・バーブルが、「ここは暑くて、メシが不味い」と、死ぬまで文句を言ってた話は有名だ。

大帝国の皇帝になっても、やっぱり故国に帰りたいという話。

166: 世界@名無史さん 2017/11/16(木) 21:29:04.14 0
ん?
元々南京生まれ育ちじゃないの?
大明成立後に燕王に封じられて北京に赴任し、そのまま根拠地になったんで。

167: 世界@名無史さん 2017/11/16(木) 21:52:28.71 0
そうだった。北京に行ったのは、大人になってからだな。
南京育ちの奴には、北京の寒さはかなりキツかったはずだ。
そんな北京にわざわざ舞い戻るとは、やはり、天下を取る奴は根性の据わり方が違う。

168: 世界@名無史さん 2017/11/16(木) 21:55:36.82 0
しかし、南京は、冬の寒さもかなりのものだ。
日本より寒いんじゃないかと言われている。
夏の暑さが異常なおかげで、あまり目立たないが。

169: 世界@名無史さん 2017/11/16(木) 21:57:59.76 0
南京の気候は、東アジアモンスーンの影響を受ける亜熱帯湿潤気候に属しています。
雨が多く非常に暑い夏が南京の特徴です。
中国では、武漢と重慶に並んで「中国三大火炉の一つ」と言われるほど南京の夏は酷暑となります。

年間平均温度は15.7℃です。
一年で最も寒いのは1月で平均気温は2℃まで下がります。
7月の平均最低気温と平均最高気温は、24℃と32℃まで上がります。
過去に記録された最高気温は43℃(1934年7月13日)、最低気温はマイナス16.9℃(1955年1月6日)です。

173: 世界@名無史さん 2017/11/16(木) 22:05:28.63 0
北京の『乾燥度』は半端ではありません。秋から冬は、雨も雪もほとんど降らないため、特に空気が乾燥します。部屋の換気をすると、室内の湿度はあっという間に、20%以下になります。

「北京で初めての冬です」という話をすると、ほとんどの人が「ここはとても乾燥しているので、水分をこまめに十分補給してください」とアドバイスをくれます(日本で、挨拶代わりにそんな話が出る土地は、まずないと思います)

174: 世界@名無史さん 2017/11/18(土) 07:53:38.40 0
永楽帝が南京から北京に遷都して500年間、北京が明清の首都であり続けた。
やがて、清は崩壊する。孫文が率いる中華民国臨時政府が成立し、500年ぶりに南京が首都になった。しかし、これも長くは続かない。臨時政府はすぐに崩壊し、袁世凱が北京で中華帝国皇帝に即位した。

175: 世界@名無史さん 2017/11/18(土) 07:58:10.32 0
中華民国は、1911年の辛亥革命によって、1912年1月1日、南京において成立した。
しかし、この時点では中国を代表する政府として国際的に承認されていた大清帝国が北京に存続していた。両者は宣統帝の退位、臨時大総統職の孫文から袁世凱への移譲、「臨時約法」遵守などで合意し、統一された。
その後、袁世凱は中華民国の首都を南京から自らの勢力基盤である北京に移したが、これが北京政府のはじまりである。

176: 世界@名無史さん 2017/11/18(土) 08:00:17.04 0
結局、中華民国の大皇帝・袁世凱がすぐに北京に首都を戻してしまった。
大皇帝はすぐに失脚し、中華民国が復活したが、そのまま北京が首都であり続けた。

177: 世界@名無史さん 2017/11/18(土) 08:02:57.17 0
袁世凱の死後、中華民国が復活し、黎元洪が大総統となった。
袁世凱系の勢力である北洋軍閥は、段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派とに分裂する。

以後、中国は群雄割拠の時代に突入した。

178: 世界@名無史さん 2017/11/18(土) 18:59:19.15 0
その後、1940年代にも南京に国民政府ができる。

汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は1940年から1945年にかけて中国に存在し、中華民国の南京政府。行政院長(首相)は汪兆銘。

首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼ばれた。
中華民国南京国民政府の名で呼ばれることも多い。

179: 世界@名無史さん 2017/11/18(土) 19:16:45.60 0
シナを再統一した中国共産党は、北京に首都を置いた。

そして、現在に至っている。

180: 世界@名無史さん 2017/11/19(日) 09:37:57.92 0
中華人民共和国は、迷わず北京を首都にしたようだが、他に選択肢はなかったのか?

181: 世界@名無史さん 2017/11/19(日) 10:22:45.31 0
国民党が支配していた南京を首都にするには危険だったのかもしれない

186: 世界@名無史さん 2017/11/24(金) 00:02:44.02 0
「北京に遷都した人」として歴史的に有名なのは、金の海陵庶人、元のフビライ・ハン、
明の永楽帝、清の順治帝、中華帝国の袁世凱・・・といったところか。
 

188: 世界@名無史さん 2017/11/24(金) 00:07:04.68 0
>>186
共産党も

190: 世界@名無史さん 2017/11/24(金) 00:08:49.02 0
>>188

じゃあ、「中華人民共和国の毛沢東」も入れよう

191: 世界@名無史さん 2017/11/24(金) 00:10:39.15 0
どの王朝も、もともと他の地域が地盤だったにもかかわらず、吸い寄せられるように北京へと都を移してきた。

北京こそは、天に選ばれし王城の地。

192: 世界@名無史さん 2017/11/24(金) 00:22:26.73 0
それもそろそろ終わりそうだな
黄砂に飲み込まれて歴史から消えるだろう

211: 世界@名無史さん 2017/11/27(月) 21:21:06.08 0
かっての北京は城壁に囲まれた町でした。北京は厳重に二つの部分に分かれています。内城と外城です。内城は、俗に言う北京城の部分で、9つの門がありました。
この9つの門のうち、現存するのは正陽門(前門)という故宮の真南にある門と、徳勝門という北西の門です。

外城は、内城の南に出っ張るような形の部分で、言ってみれば「下町」のような場所でした。

http://www.china-watching.com/ura/ime271.jpg

212: 世界@名無史さん 2017/11/27(月) 21:22:31.29 0
城内と城外、城内でもその場所場所によって町の雰囲気が全然違います。
内城は紫禁城があり、官僚なども住んでいただけあって、格式ばった雰囲気がありますし、外城は商店も多く、道も込み入っていて、なんとなく繁雑とした感じ。

その城壁は中華人民共和国「1950年代頃から」地下鉄を作る為、取り壊され、現在・北京地下鉄環状線です。

北京の地下鉄環状線は、ちょうど東京の山手線のように、北京旧・内城をぐるりと回っている市民の便利な足です。この環状線には駅が18ありますが、そのうちの11の駅の名の最後の文字は「門」で終わっています。

213: 世界@名無史さん 2017/11/27(月) 21:23:58.09 0
復興門「フーシーメン」駅から右回りに「門」の付く駅を拾ってみますと、
宣武門「シュェンウーメン」、和平門「ホーピンメン」、前門「チェンメン」、
崇文門「チョンウエンメン」、建国門「チェングオメン」、朝陽門「チャオヤンメン」、
東直門「ドンジィメン」、安定門「アンチィメン」、西直門「シィジィメン」、
阜成門「フチョンメン」、そして復興門駅にもどってきます。


なぜ、こうも門が続くのか。
そのなぞは、この地下鉄環状線が明・清の時代の北京を囲む城壁の地下を走っており、「門」の付く駅の地上には、城壁ありし日には城門があったからです。
その後も城門の名だけは残って、そこの地名や駅名として、いまも脈々と生き続けているのです。

221: 世界@名無史さん 2017/11/28(火) 20:00:50.94 0
北京の「前門」は、明代にさかのぼる歴史のある繁華街

地下鉄2号線「前門」の駅を降りると、昔の城壁の一部として「前門」の「城楼」と「箭楼」が2つ並んで建っています。
南側の「箭楼」をスタート地点に、南へまっすぐ続くのが「前門大街」。
古くからの商店街、歓楽街として、「北京の浅草」ともいわれる場所です。

このあたり一帯の歴史は古く、繁栄がはじまったのは、明代(1368~1644)から。
明代には、皇帝の住む故宮のまわりでは商売は許されず、商売人はこの「前門」あたりに集められました。
謹厳な空気の故宮のまわりから、この「前門」に来ると、あたりはうってかわって人々のいきいきとした熱気が漂い、堅苦しい宮廷務めに肩が凝った高級官僚などの格好の息抜きの場だったといいます。
気取りのない賑やかさがこのエリアの特色です。

227: 世界@名無史さん 2017/11/30(木) 19:09:59.91 0
万里の長城の兵卒って一体どこに住んでたんだろ
九辺鎮にはすべて合わせて百数十万の兵士が常駐してたそうだが
あんな崖っぷちの何もない所でよくそれだけの人口を養えたな

229: 世界@名無史さん 2017/12/01(金) 00:46:49.63 0
>>227
食糧を送るために、北京の大運河がある

230: 世界@名無史さん 2017/12/01(金) 00:49:31.62 0
モンゴル帝国の時代には海運が盛んになり、江南から天津港を経由して北京への海上輸送が行われた。

その後、明の反動的な政策で海運は衰退したのだが。

245: 世界@名無史さん 2017/12/08(金) 20:39:29.32 0
北京は華北大平原の北端に位置し、潮白河、永定河が形成した扇状地にあり、北京湾と呼ばれるポケット状の小平野をなしており、東、西、北を山に囲まれている。

西部の山地は総称して「西山」といい、太行山脈に属している。
北部と東北部の山地はすべて「軍都山」と称し、燕山山脈に属している。
天然の峡谷沿いに東北へ向かえば遼河平原に入り、西北へ向かえば蒙古平原に達する。
潮白河、永定河などの河川は、西北部の山地に発し、山を突き抜けて東南の平原地域へ向かって流れ、最後は渤海に流れ込んでいる。

246: 世界@名無史さん 2017/12/08(金) 20:41:14.36 0
つまり北京は、山に囲まれた麓にあり、いくつもの河が流れる、砂漠のオアシスみたいな都市。

水が枯れるまでは、首都であり続けるだろう。

引用元: ・北京の歴史




北京―皇都の歴史と空間 (中公新書)
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