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1: 日本@名無史さん 2009/11/20(金) 11:38:08
語りましょう。








3: 日本@名無史さん 2009/11/20(金) 12:52:26
相武、師長両国造の時代に始まって、やがて形成されてくる三浦党、鎌倉党、中村党、波多野党、その他山内首藤氏や渋谷氏、武蔵七党横山氏系の愛甲氏などの諸氏が、どのような過程を経て相模国で豪族化してきたのか、またそれぞれの豪族同士の友好関係や軋轢・対立関係の歴史について、そしてこれら諸豪族が源氏一族や平家や、治承・寿永の乱に対してどのように関わっていったのかについてとても興味があります。

もちろん古代~中世の相模のことについてならこれ以外のテーマについてもOKです。

多いに語って下さい。

5: 日本@名無史さん 2009/11/21(土) 14:03:18
鎌倉党
鎌倉氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏、板倉氏、安積氏、只野氏、酒匂氏他

三浦党
三浦氏、和田氏、佐原氏、岡崎氏、蘆名氏、大多和氏、多々良氏、佐久間氏他

中村党
中村氏、土肥氏、土屋氏、二宮氏、小早川氏、堺氏他

波多野党
波多野氏、松田氏、河村氏、柏山氏、佐藤氏、菖蒲氏他

7: 日本@名無史さん 2009/11/22(日) 05:12:53
北条め

子孫としてはついそう思ってしまう
恨むというより口惜しい

8: 日本@名無史さん 2009/11/22(日) 06:53:17
>>7
確かに相模の諸氏は北條氏によってズタズタにされてしまったよね(和田三浦梶原波多野etc)。
みな其々に立派な由緒を誇る家なのに。

もし良かったらどの家の子孫なのか教えて下さい。

9: 日本@名無史さん 2009/11/22(日) 07:27:54
>>8
三浦党です 和田合戦で離散した系統
不器用でも義を重んじる
血の中にこれがある気がしてならない

北条が持たなかったのは弁天さんとの誓いを破ったからと勝手に思ってますw

もっと長く中央に影響残してたら少しは血の通った道理が通用する世の中になってたかなと

14: 日本@名無史さん 2009/11/22(日) 22:59:11
>>9
>北条が持たなかったのは弁天さんとの誓いを破ったから

kwsk!

26: 日本@名無史さん 2009/11/25(水) 20:30:53
北条氏の鱗紋に関して『太平記』には、

むかし、北条時政が江の島弁財天の祠に二十一日間参籠して、子孫の繁栄を祈っていると、その満願の夜の明け方に、 緋の袴をはいた気高い女房が現われて、

『汝は前世に六十六部の法華経を書写し、六十六ケ国に奉納した。その功徳によって汝の子孫は日本を支配し、 栄華を誇ることになろう。しかし、もし非道なことがあれば、たちまち家は滅亡じゃ。 よくよく身を慎まねばならぬぞ』

と告げて、たちまち二十丈もある大蛇となり、海中に姿を消した。そのあとに残った三枚の鱗を時政は 持ち帰って家の紋にしたという。

15: 日本@名無史さん 2009/11/22(日) 23:26:38
梶原は悪人じゃない

16: 日本@名無史さん 2009/11/22(日) 23:32:39
吾妻鑑は北条サイドの資料だしな

20: 日本@名無史さん 2009/11/23(月) 17:51:15
>>15-16
多くの御家人たちから疎まれてたことはたしかみたい

22: 日本@名無史さん 2009/11/23(月) 21:26:38
>>20
梶原景時は頼朝・頼家の代わりに泥をかぶっていただけだよ。

24: 日本@名無史さん 2009/11/24(火) 10:41:00
そうだね。

上総広常、安田義定の粛清、結城朝光の排斥未遂。

後は、軍監として遠征軍に関わっていたところもあると思う。
功績だけじゃなく、失敗や違反も報告していたわけだから。
中には、「それぐらい見逃してくれよ」というやつもいただろうし。
言い分のあるやつだっていたわけだし。

また先陣の調整についても、責任を負うし、恨みも買う。
実は、当時の論功では敵陣への一番乗りと二番乗りでは恩賞に格段の差があった。
だからこそ、「抜け駆けの先陣」とか、競争相手をだましての先陣争いもするし、誰が先陣を勤めるかで、斬り合い寸前の喧嘩にもなる。

そういうポジションにいれば、有能なら下から恨みを買うし、無能なら上から忌避されるし。
どっちにしても恨まれるわな。

30: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 18:21:07
豪族の出来始めてどんな、河原のほーむれすみたいに点在してた中に文句いいのデカイのが仲間をまとめ始めたのか?見てきた様な人いる?

31: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 21:16:19
どうなんでしょうね?
国造には中央から派遣されたタイプと、在地豪族の長が任じられたタイプの2つがあったといいますが。

でも原始的な部族単位で生活してたころから部族の長はいたでしょうし。

あっ、でもその頃は世襲ではないか。


32: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 08:55:36
鎌倉やら三浦やら平氏を名乗ってるけど、たぶん在地の豪族だよね。

35: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 23:45:38
>>32
母体が在地豪族との見方には賛成。
ただし、父系は、国司や数代前に土着した中央貴族などから婿をとっていると見るのが自然だと思う。

在地豪族が在地豪族のままで(中央との繋がりを一切持たないで)、律令体制以降の時代を渡り抜いて行けたとは思えない。 

36: 日本@名無史さん 2009/12/08(火) 23:47:34
>>35
そりゃそうだ
在地豪族が在地豪族のままで(中央との繋がりを一切持たないで)、律令体制以降の時代を生き抜いて、後世でぬくぬく仮冒できたと思ってるのは宝賀などのごく一部だろう。

47: 日本@名無史さん 2009/12/11(金) 04:26:27
>>36
これは逆も真なりだよね。

相模だけじゃなく他国の豪族を含めても、鎌倉や三浦や中村や上総や秩父が平氏だの、波多野や小山や宇都宮が藤氏だの、足利や新田や武田が源氏だのと言っても、皆それぞれの母系一族は地元豪族だったんじゃないかと。

いかに中央貴族でも一旦地方に下ったら、「中央貴族が中央貴族のままで在地豪族との(姻戚)繋がりを一切持たないで」、その土地で勢力を築いていける筈がないと思う。

37: 日本@名無史さん 2009/12/09(水) 12:33:48
まあ律令体制自体が思われてるほど根付いてない。
半ば虚構で、実際の世の中はいつでも複雑怪奇なパワーゲームで回ってる。
現代の在日の仮冒見れば判るとおり、真実は極めて奇なり。
学者がキレーに綴るような机上の論理では回ってない。
むしろもっとドロドロしてるのが実際。いつの時代でもね。

中央で海外勢のクーデターが起きた時代の事だから短絡的に結論付けられる問題ではないよ。背景は現代とよく似てるわな。

48: 日本@名無史さん 2009/12/11(金) 21:31:36
てゆーかそれ以外相手居るの?
下向貴族の婚姻相手だったら地方豪族しか妥当な婚姻相手が居ない
権力・資金などの釣り合いを考えても

49: 日本@名無史さん 2009/12/12(土) 06:29:06
中央貴族が地方に“土着”するっていうのは、早い話が地元豪族に婿入りするっていうこと。
11: 日本@名無史さん 2009/11/22(日) 20:45:08
実朝暗殺の黒幕は三浦でOK? 

18: 日本@名無史さん 2009/11/23(月) 08:39:23
>>11 
三浦の犬は友をも食らうと言われた義村だかなあ。 
しかしなんで実朝の御首は秦野なんかに持って行かれたんだろう?

39: 日本@名無史さん 2009/12/09(水) 17:00:37
三浦ってヘタレの連続のような気がする。
和田の乱のとき和田と約束しながら裏切ってしまう
実朝暗殺のときも黒幕でありながら義時を逃がすとあっさち矛を収めた
承久の変も実弟が京都につきながら北条についてしまう
将軍頼経に北条倒して執権にならないかと誘われたが断ってしまう。
で、最後には北条に滅ぼされてしまう。それもろくに戦わずに…
なんでヘタレてしまうのか?

51: 日本@名無史さん 2009/12/13(日) 05:18:48
>>39
道寸は3年の篭城戦後に2000人討ち死の油壺。
将門ライクな伝説の残る義意。武門の三浦に相応しい最後だよ。
義村泰村と一緒にしてはいかん。

義明長男の義宗及び義盛系統が継いでたら
ゴタ付かずに上手くまとまったかもね。

52: 日本@名無史さん 2009/12/13(日) 16:12:44
三浦が和田を裏切った理由は?
和田合戦
和田合戦(わだがっせん)は、鎌倉時代初期の建暦3年(1213年)5月に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である。鎌倉幕府創業の功臣であり侍所別当の和田義盛は二代執権北条義時に度重なる挑発を受けて、姻戚関係にあった横山党や同族の三浦義村と結んで北条氏を打倒するための挙兵をした。だが、土壇場で三浦義村は北条方に与し、兵力不足のまま和田一族は将軍御所を襲撃し、鎌倉で市街戦を展開する。合戦は2日間にわたり続くが将軍実朝を擁し、兵力に勝る幕府軍が圧倒し、和田一族は力尽き、義盛は敗死した。

54: 日本@名無史さん 2009/12/13(日) 22:19:26
>>52
失敗が見えた時点で潔くさっさと撤退ということだろ。
三浦一族は、ヘタレというより、したたかだと思うがな。

53: 日本@名無史さん 2009/12/13(日) 16:34:33
和田の乱、承久の変と2度もチャンスを逃した時点で…

55: 日本@名無史さん 2009/12/13(日) 23:45:50
友をも食らう義村泰村が本家になったのが運の尽きだったってこった。
和田三浦も佐原三浦も名に恥じない散り方をした。
三浦 義村

三浦 義村は、鎌倉時代初期の相模国の武将。鎌倉幕府の有力御家人。

義村は京都の貴族の間にさえ「六権八略」の権謀家として知られていた。『古今著聞集』には、将軍御所の侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に、若い下総国の豪族・千葉胤綱が着座し、不快に思った義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬな」とつぶやくと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判した逸話が記されている。


56: 日本@名無史さん 2009/12/14(月) 00:21:57
裏切ったのは長男筋(義宗-和田義盛)と次男総領筋(義澄-義村)の心情的対立だろう。
ヘタレに「侍所別当 対 格下本家」の僻みがプラスされた臭い。

その後千葉の若殿に公然と不遜されるんだから弱気な雰囲気の人だったんじゃないか<義村
ある意味、黒小早川。泰村も似てる。

57: 日本@名無史さん 2009/12/14(月) 05:10:31
>>56
>裏切ったのは長男筋(義宗-和田義盛)と
>次男総領筋(義澄-義村)の心情的対立だろう。
>ヘタレに「侍所別当 対 格下本家」の僻みがプラスされた臭い。

そこを北条に突かれたってことだよな。
だから三浦はしたたかでも何でもない。

上総と千葉もそうだし。

坂東の豪族は将門以来、はっきり言ってお人好し揃い。

58: 日本@名無史さん 2009/12/14(月) 22:27:05
>>57
戦になったら一族がどっちが勝っても残るように割っとくのが普通だと思うけど。
裏切ったって言うより、負けそうだったから勝つ側に一族を送り込んだだけじゃない?

60: 日本@名無史さん 2009/12/15(火) 12:08:16
>>57
公暁の実朝暗殺は三浦が黒幕って本当か?
もしそうなら、相当な腹黒の陰謀家だぜ。
とても「お人好し」とは言えない。

61: 日本@名無史さん 2009/12/16(水) 00:57:49
>>60
公暁の乳母は、三浦義村の妻。
息子の一人も公暁とずっと行動をともにしている。
公暁が将軍になったら、その側近筆頭として、三浦義村が権力を握るのはまず間違いない。

実際、当日、三浦氏は、なぜか参詣していない。

62: 日本@名無史さん 2009/12/16(水) 07:50:12
北條と一緒になって他氏排斥に躍起になってるな。
それもかなり北條に媚をうる形をとりながら(告げ口の多用とか)。

三浦にすれば北條に恩を売って、自家の存在基盤を磐石にしたつもりなのかもしれんが、
相手からすればこういうのが一番信用できない。

63: 日本@名無史さん 2009/12/16(水) 10:09:17
黒小早川の義村が三浦をダメにした。
これが結論だな。
利己的で卑怯な立ち回りを何度も繰り返して、三浦義明からの強固な基盤を義村泰村のたった二代で没落させた。
裏切りがなきゃ和田合戦勝ってたよ。

64: 日本@名無史さん 2009/12/16(水) 10:32:57
鎌倉全期を通じて北条と合戦して五分五分で戦えたのは和田義盛だけ。
梶原・比企・畠山・安達・・・など一方的にやられてしまったのばかりだから。

65: 日本@名無史さん 2009/12/16(水) 10:36:35
そこで裏切るかって場面で平然とやっちゃうんだよな義村
よりによって身内相手にクリティカルなやつを

和田の時も承久の時も、お前がそこで動かなきゃという決定点で「三浦の犬は友を食う」を地で行ってる

息子の泰村の最後だってヘタレで動けずに弟の足引っ張って共倒れの形で自害
なにこのオウンゴール親子

70: 日本@名無史さん 2009/12/21(月) 15:37:05

坂東八平氏と武蔵七党の違い教えて下さい。


74: 日本@名無史さん 2009/12/23(水) 23:05:29
>>70

☆坂東八平氏
三浦、土肥(中村)、大庭、梶原、長尾、千葉、上総、秩父


☆武蔵七党
村山、横山、猪俣、児玉、丹治、西、野与、(私市)、(綴)

75: 74 2009/12/23(水) 23:11:54
↑いづれも「日本史小辞典」(山川出版社)より。

84: 日本@名無史さん 2010/01/28(木) 12:11:54
ここまで波多野党の話題無し

91: 日本@名無史さん 2010/03/07(日) 06:16:50
>>84
波多野党は調べると結構面白い。

ただ、三浦党や鎌倉党に比べて、資料が少ないのが難点。

資料が少ないから、当然、研究者などによって書かれた書物なんかも少ないものになってしまう、
それが残念。

104: 日本@名無史さん 2010/06/04(金) 10:39:43
>>91
秦野氏の領域は元々、相模でも最も早くに栄えた地域とむかし何かで読んだことある
たしか旧東海道の主要道筋に当たるんだっけ?

106: 日本@名無史さん 2010/06/04(金) 19:04:58
>>104
そう。
ただし、街道が変わってしまったらしい。
もともと波多野は、在庁官人の有力者だったそうだが。

107: 日本@名無史さん 2010/06/04(金) 22:12:09
>>104
ざっくり言うと、波多野党の成り立ちは、秦氏がベースになって開発した(11世紀初頭位までか?)土地に、目代として中央から相模に赴任してきた佐伯宿祢が(11世紀前半。源頼信の斡旋によるもの)、在地豪族であった秦氏と姻戚関係を結んで波多野荘の荘官となっていったもの。
更にその後、受領として赴任してきた藤原氏秀郷流の佐藤氏と姻戚関係を結んで(11世紀後半~12世紀初頭ころか?)、秀郷流藤原氏を称する一族になっていったものと思われる。

99: 日本@名無史さん 2010/05/10(月) 18:29:47
三浦一族は衣笠城から逃げて安房国猟島(千葉県安房郡)へ撤退
ここに頼朝合流テカ

103: 日本@名無史さん 2010/06/03(木) 15:02:13
>>99
三浦は房総から海を渡って来た一族なのかね?

106: 日本@名無史さん 2010/06/04(金) 19:04:58
>>103
三浦義明の娘が、安房の豪族に嫁いでいたからじゃないか。
それに当時の交通事情で、江戸湾の海上交通が栄えていたからね。

101: 日本@名無史さん 2010/05/19(水) 11:31:03
三浦義村がもっと野心があったら三浦半島がお江戸になってたでしょう

102: 日本@名無史さん 2010/05/24(月) 00:00:38
いやむしろ器が小さい割りに野心があリ過ぎたから身内を裏切ったんだよ
おそらく身の程を知って和田に従属してたら・・・それは正しい

123: 日本@名無史さん 2010/08/17(火) 23:07:52
丸子公景って何者?

124: 日本@名無史さん 2010/08/18(水) 01:19:06
>>123
平章名の岳父。
丸子連氏は大伴氏族とも和爾氏族とも、また物部氏族とも言われる。
坂東や陸奥ではまま聞くことのある氏族。
坂東は古代には対蝦夷戦の最前線(兵站基地)と位置付けられていたから、軍事氏族である大伴氏や物部氏の一族が相模に土着していたことは十分に考えられること。
因みに陸奥の道嶋宿禰氏も丸子一族。

125: 日本@名無史さん 2010/08/20(金) 01:25:21
上杉謙信の祖先だね

引用元: ・【三浦鎌倉中村】相模豪族について【波多野他】




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