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1: 日本@名無史さん 03/01/19 16:28
和田・朝比奈・葦名・佐久間などなど







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三浦氏


三浦氏は、平安時代の相模国の武家。三浦党とも呼ばれる。

諸説あるが、三浦氏は平姓直系の氏族である。源頼朝公によって建立された横須賀市の義明山満昌寺には,三浦氏の祖を平高望(高望王)の子・良兼とする系図(『満昌寺差上系図』)が存在し,『二中歴』に示される良文流の血統と矛盾するため,良文流か良兼流かを特定することは困難であると言わざるを得ない。『二中歴』を始めとする諸資料による十分な検証が行われておらず正確な史実は明らかでない。



3: 日本@名無史さん 03/01/19 16:49
三浦の乱はだめっすか?

4: 日本@名無史さん 03/01/19 17:01
>>3
宝治合戦のことかいな?

宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。


9: 日本@名無史さん 03/02/09 22:28
三浦の犬は友をも喰らう
三浦 義村

三浦 義村は、鎌倉時代初期の相模国の武将。鎌倉幕府の有力御家人。

義村は京都の貴族の間にさえ「六権八略」の権謀家として知られていた。『古今著聞集』には、将軍御所の侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に、若い下総国の豪族・千葉胤綱が着座し、不快に思った義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬな」とつぶやくと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判した逸話が記されている。

11: 日本@名無史さん 03/02/09 22:39
三浦義村は、従兄弟の侍所別当和田義盛と共に力を合わせて北条義時を討つと約束しておきながら、和田が北条に戦いを挑むや裏切って北条方についた。
そういうことで>>9にあるようなことを言われることとなった。

14: 日本@名無史さん 03/02/10 09:12
宝時合戦って 北条氏がしかけたみたいだけど 三浦氏が天下をとってかわろうとする(北条の次の政権を目指す)意欲があるのを恐れたから北条氏は三浦氏を攻めたのかな?
三浦が勝てたら元抗は三浦執権で対抗してたんかな

36: 日本@名無史さん 03/04/20 21:55
三浦義村は娘を北条泰時に嫁がせ、嫡子時氏を生んでいて舅(外戚)として、北条氏内での基盤が弱かった泰時の背後を支えると共に、幕府内での三浦嫡宗家の勢力の拡大を執権の外戚の立場から要求していった。

しかし嫡子時氏が安達氏の娘と結ばれ、経時と時頼を生むなどして、北条氏には、二つの有力な「外戚」が出現した。その二つの外戚の主導権争いの衝突が「宝治合戦」となったと考えられる。



23: 日本@名無史さん 03/03/07 01:26
奈良時代の東海道は鎌倉郡を抜けて三浦半島を通り、海を渡って、上総に通じていたんだそうな。三浦氏の時代はすでに東海道は相模から武蔵、下総というルートになっていたが、この古道も残っていたかもしれないね。つまり、三浦氏の所領は交通の要衝にもあたっていたということかも。
21: 日本@名無史さん 03/03/06 18:54
幕末の思想家佐久間象山の肖像画にある家紋は三つ引き両。 
ということは、佐久間象山は三浦一族?

25: 日本@名無史さん 03/03/13 22:04
石川一正の家臣にも三浦って言うやついたな

26: 日本@名無史さん 03/03/14 00:15
三浦一族の末裔が暮らしていた湖西市佐原邑の言い伝えによると、家康は三方が原合戦で落ち延びる際に佐原邑の農家の物置のワラ束の下に隠れて一晩明かしたそうな。
一般の歴史とは全然違う話しなんで信用は出来ないが、 徳川の家臣位はかくまったのかもとは思う。

32: 日本@名無史さん 03/03/31 00:42
上杉家臣の中条氏も三浦一族

33: 日本@名無史さん 03/03/31 00:49
佐久間氏ってホントに三浦氏の子孫なのかね?
そうなると佐久間氏を通して俺と三浦氏も繋がっているということになるが・・・。

37: 日本@名無史さん 03/04/22 06:27
里見家臣の正木氏

38: 日本@名無史さん 03/04/22 11:11
>>37
正木氏は江戸時代になって三浦に復姓してますね。

54: 日本@名無史さん 03/10/01 23:46
>>37
槍大膳・正木時茂が有名だな。

49: 日本@名無史さん 03/08/27 01:55
宮城出身の祖父が
「ウチの先祖は三浦義明」とか
「先祖は伊達家に仕えていた」とか逝ってたな。

50: 日本@名無史さん 03/08/27 03:01
>>49
三浦氏の血を引く戦国大名芦名氏の一族針生氏が芦名氏滅亡後伊達政宗に仕えてたな。
針生氏は後に芦名の名跡を継ぐ。仙台藩額兵隊総督、葦名 盛景(通称、靱負)は関係あるのかな?

後、連歌師 猪苗代兼載も芦名一族だったよな。

68: 日本@名無史さん 04/03/15 19:40
三浦氏が一番熱かったのは、何と言っても頼朝旗揚げの時。
参陣叶わず、頼朝は行方不明。
勇み足の結果、回りは畠山など敵だらけ。
本城である衣笠城に依って防戦するも落城。
惣領三浦大介義明は、頼朝を探し出す為に一族を海路落ちのびさせ自らは独り城に残り討死。
まるでドズルの様にカコイイ。

80: 残九郎 04/07/20 20:20
意外と知られていない相州三浦一族の埋蔵金伝説。好事家のなかには三浦小判といわれる
古金銀がのこっているくらいだからどこかにはあるはず。末裔の皆様情報はありませんで
しょうか?

82: 日本@名無史さん 04/08/28 09:24
俺は三崎十人衆のうちの一人の末裔

86: 日本@名無史さん 04/11/06 16:16:51
>>82
なにそれ?

87: 日本@名無史さん 04/11/08 21:43:25
>>86
三浦氏→北条氏に仕えた水軍衆ですね<三崎十人衆

89: 日本@名無史さん 04/11/27 11:35:50
>>87
三浦氏の旧臣で後北条氏に仕えたという意味ですか?
それとも三浦氏の一族?
どっちも兼ねてる場合もあるかもしれないけど。

100: 日本@名無史さん 05/02/13 15:13:42
>>89の北条はそもそも執権の北条なのか、元伊勢氏の北条なのか…?

101: 日本@名無史さん 05/02/14 11:47:47
>>100
後北条氏だから元伊勢氏の北条だと思う。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hojo_k.html

106: 日本@名無史さん 05/03/09 21:15:09
で、三浦氏って誰の子孫

108: 日本@名無史さん 05/03/09 22:43:50
>>106
一応桓武平氏らしいが、疑問視する説もあるという。

116: 日本@名無史さん 2005/04/12(火) 15:23:59
三浦氏って途中、上杉から養子もらってるよな。

この時点で断絶じゃないの?

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/miura_k.html

117: 日本@名無史さん 2005/04/12(火) 20:53:23
芦名盛隆が織田信長から三浦介の称号もらったから、一応芦名が三浦嫡流扱い?

119: 日本@名無史さん 2005/04/13(水) 16:17:30
結果的に美作三浦氏が幕末まで大名として存続したのだから、この氏が嫡流では?

122: 120 2005/04/14(木) 01:31:24
美作三浦氏と江戸大名の三浦氏は別の系統だよ。

123: 日本@名無史さん 2005/04/15(金) 19:01:49
中世美作三浦氏と近世美作勝山藩三浦氏2万3千石はつながってますよ。
近世三浦氏は義村の4子家村から出てますから。嫡流泰村の弟ですから、戦国相模三浦氏や中世美作三浦氏よりも嫡流に近いと思います。
源氏を名乗ったのは土井利勝の娘を室にしたからとありましたが・・・

126: 日本@名無史さん 2005/04/18(月) 20:52:41
江戸期の譜代大名三浦氏が、三浦家村の子孫というのはマユツバ。
宝治合戦のときに、行方不明でとなっていて死体が確認できなかったようだが、三浦本宗家の男子は合戦後執拗な幕府からの追求にあっているから、生き残っている可能性はかなり低い。自称(僣称)ではないかと思われる。

127: 日本@名無史さん 2005/04/18(月) 21:18:04
三浦の嫡流は、三浦義澄。
和田義盛は長男筋だが幼いころ父がなくなったのと、義盛の母が一説には遊女だったため嫡流には立てられず、分家扱いだったためと思われる。
また侍所別当就任は、嫡流と見なされたからではない。
祖父三浦義明の命懸けの平家への抵抗(衣笠城で城を守って落命)と、天候不良のため三浦一族が石橋山の戦いに間に合わなかったプラスマイナスのバランスをとったからである。
だから三浦本家をついだの荒次郎義澄ではなく、より規模が小さく他の源氏勢力から不満がでないような人望のある人物である義盛に白羽の矢をむけた巧妙な頼朝の人事だと思われる。

135: 日本@名無史さん 2005/05/02(月) 12:52:59
上総権介広常と頼朝の水干争奪戦を繰り広げた岡崎義実も三浦一族。

137: 136 2005/05/02(月) 22:58:15
>>135 
岡崎悪四郎義実だね。勇猛果敢なことからそういわれらしい、三浦荘
司義継の四男で三浦大介義明の弟。しかし、晩年はかなり悲惨だったらしい

163: 日本@名無史さん 2005/05/30(月) 15:52:19
三浦氏の祖である良文は将門の養子になったの?

164: 日本@名無史さん 2005/05/30(月) 16:10:34
将門の生年延喜4(904)年、
良文の生年は仁和2(886)年となるけど文献によって養子は逆だったりと。

167: 日本@名無史さん 2005/06/08(水) 02:24:11
三浦一族って、源 義朝にくっついて、隣接の鎌倉党、大庭を制躊し、三浦介としての在庁の権力を拡大していたけど、平治の乱で義朝が敗れてのちは、敗者として、大庭に相模国での権力を「平家の家人及び代官」となった大庭景親に牛耳られている。
三浦義明の成年~壮年期は、まさに三浦一族が飛ぶ鳥を落とす勢いの時であり、義明の兄弟、息子たちの名字からわかるように、三浦半島全域から鎌倉に向かって、椙本、岡崎、石田、津久井(2説あり)に広がっている。
しかし、源義朝がコケたあと、成年期を迎えた義澄は「三浦次郎」義盛は「和田」と三浦一族の本拠地を名字にしていることから、相模国での三浦一族の勢力減退をものがたっている。
三浦義明が命を投げ打って、頼朝の旗揚げに協力したのは、「源家の再興」が行われることによって、三浦一族の在庁勢力の回復が目的。源氏再興は建前にすぎない。

169: 日本@名無史さん 2005/07/05(火) 01:19:39
建前ねえ。

170: 日本@名無史さん 2005/07/15(金) 12:11:30
建前にこそ命をかけるのが武士(もののふ)ではないのか?

172: 三浦課長 2005/08/20(土) 12:23:35
この間古本屋や「三浦家の系譜」という本を買った。何でも山形の財閥で戦前には
「三浦銀行→(現山形銀行)」なんてものがあったそうだ。
三浦家の末裔は商売がうまいなあ。

224: 日本@名無史さん 2007/02/28(水) 16:21:00
辞世の句

三浦義同(道寸)

討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よ  くだけて後はもとの塊(つちくれ)


三浦義意

君が代は千代に八千代もよしやただ  うつつのうちの夢のたはぶれ


253: 日本@名無史さん 2007/09/23(日) 17:20:26
群馬県の沼田城を築城した沼田氏も三浦氏族ですよね?
やはり家紋は丸に三引き両だったのでしょうか?
親がそちらの出身なんですが、苗字が違うのでイマイチつながりがハッキリしないのです。

254: 日本@名無史さん 2007/10/09(火) 21:48:35
三浦一族直系の女は岡山県に逃げてる

256: 日本@名無史さん 2007/10/17(水) 19:20:34
>>254
直系ってどの家ですか?

257: 日本@名無史さん 2007/10/20(土) 16:56:30
泰村じゃね?

264: 日本@名無史さん 2008/03/04(火) 03:18:00
徳川家光の近臣で大名になった三浦氏がいたけど、こいつはどこの系統でしたっけ?
紀伊藩の家老は安房の正木氏が姓を戻したと思ったんだけど

267: 日本@名無史さん 2008/03/05(水) 07:47:16
>>264
三浦泰村の弟の家村の子孫を称してたらしい。
しかも三浦なのに将軍の命で源姓を名乗ってた。

268: 日本@名無史さん 2008/03/05(水) 13:13:59
>>267
なんかいかにもパチモノくさいような。

270: 日本@名無史さん 2008/03/23(日) 23:07:34
和田義盛の子孫で現在の長野県安曇野に移り住んだ方はおられますか?

長野県の小谷村にある大宮諏訪神社の社家が和田義盛の子孫らしいですが、どうにも疑わしいので質問させて頂きました。ちなみに現在は杉本を名乗っているようです。
和田の子孫の行方について詳しい方がいましたら、お願いします。

295: 日本@名無史さん 2009/02/22(日) 00:39:41
>>270
北条に敗れた後、逃げながら各地に散らばって隠れ住んだりしてる。
表面の記録に残ってるのなんて真実の一片でしかないよ。
根拠もなく僭称視するのは生きて存在してる側からしたら失礼な話w

272: 日本@名無史さん 2008/06/24(火) 17:53:20
承久の乱で和田の残党が宮方だったらしいし、あちこちに逃げてたとしても不思議ではないな

278: 日本@名無史さん 2008/07/17(木) 22:09:53
大分県には三浦氏が多いよ
梶原や宇都宮もけっこういる

286: YAP? 2008/10/12(日) 23:17:55
大分県に鎌倉武士の姓氏が多いのは、英彦山とか、或いは豊前の山伏などが、そのような氏姓をしょうしていたことと関係があるのでは?

佐々木・梶原のほかに、宇都宮もあるが、これは後の城井氏でれっきとした宇都宮氏の子孫だが。まあ、文永・弘安の蒙古来襲に備えて、九州に所領を持つ関東御家人に、在地をすすめる政策が行われたそうだから、千葉氏や宇都宮氏などに加え、佐々木氏なども庶家が定着したのだろう。

287: 日本@名無史さん 2008/10/13(月) 00:46:59
英彦山関係ないと思うが大分県には三浦や梶原、佐藤、工藤、児玉や足立以外にも小幡や佐竹や川越や秩父もいる!
元寇が主な要因だろね

292: 日本@名無史さん 2009/01/10(土) 10:44:46
大分県で一番有名な三浦は、三浦梅園だと思うが、彼も三浦一族なのかな? 

293: 日本@名無史さん 2009/01/10(土) 14:15:56
家伝だとそうだね。梅園の家紋も丸に三引だし。

305: 日本@名無史さん 2009/05/23(土) 03:23:34
紀州和歌山藩の三浦氏は子孫?

308: 【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 2009/06/04(木) 02:00:09
>>305
俺も前からそのこと気になっていた。

蘆名氏重臣になった方の佐瀬氏は蘆名氏滅亡後、最上氏に仕え、これが改易されてしまうと、信州高遠から移ってきた保科正之に召し抱えられ、そのまま会津藩滅亡まで諸分家を含め上士(一部は中士)。

306: 日本@名無史さん 2009/05/23(土) 21:53:31
先祖の正木氏が三浦時高だか義同だかの後裔って称してるけど実際はっきりしないじゃないっけ?

323: 日本@名無史さん 2009/11/07(土) 03:55:06
御浦氏

324: 日本@名無史さん 2009/11/07(土) 06:03:22
>>323
土豪って話だけど突っ込んだ話誰か知らない?
仮説でも可

325: 日本@名無史さん 2009/11/07(土) 14:47:17
>>324
古代御浦郡司代太田部直氏

太田部直氏→相模国造漆部直(相模宿禰)氏

漆部直氏→出雲臣族


326: 日本@名無史さん 2009/11/08(日) 12:04:52
>>325
どうもありがとう
弟武彦命系という事で良いのかな
穂積忍山宿弥は日本武による討伐後の後任?

327: 日本@名無史さん 2009/11/10(火) 07:12:53
>>326
>弟武彦命系という事で良いのかな

太田部直氏が漆部直氏族ならたぶんそれで良いと思う。
ちなみに武蔵国造も同族だね。


>穂積忍山宿弥は日本武による討伐後の後任?

穂積氏忍山宿禰を相模国造とするのは『旧事紀』だっけか?
何れにせよ、紀記からは何とも言えないよね。
他に師長国造とするものもどこかにあったようだし。

因みに漆部直伊波が相模宿禰姓を与えられ、同時に相模国造に任じられたのが神護景雲2(768)年のこと


328: 日本@名無史さん 2009/11/10(火) 07:18:48
因みに
「御浦」氏については『姓名録抄』にその名が見られるそうです。

330: 日本@名無史さん 2009/11/11(水) 19:31:22
>>328
ありがとう。他のだけど拾ってきたの貼っておくよ。

御浦氏 〔出雲臣族〕 姓名録抄等に見ゆ。大田部直の後か。
三浦氏 〔桓武平氏〕 御浦郡名を負(刀+貝)ふ。桓武平氏と云へど、恐く古代御浦郡の豪族の後
にて前項御浦それか。その系図の如き諸説一致せざるは後世の偽作なるを示す也。

太田亮著 姓氏家系辞書より

331: 日本@名無史さん 2009/11/12(木) 20:45:28
御浦郡司代の太田部直一族(=御浦氏)が、後世に桓武平氏良文or良茂流の男子を招婿したと考えるとすんなり行く。

引用元: ・三浦氏




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