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1: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/07/31 14:30
ひねくれ者で人間味あふれ自己を厳しく律した軍事的天才
同時期&死後(ナポレオン、ヒトラー)もファンの多い大王について大いに語りましょう。 






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フリードリヒ2世

フ リードリヒ2世(1712年1月24日 - 1786年8月17日)は、第3代プロイセン王(在位:1740年5月31日 - 1786年8月17日)。優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとす る芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。

学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、自ら書を著し哲人王とも呼ばれ、功績を称えてフリードリヒ大王と尊称されている。ドイツにジャガイモ栽培を広げたことでも知られる。





3: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/07/31 14:49
ヒトラーは自室にフリードリヒ2世の肖像画を飾っていたそうですがどこかで売ってませんかね?(それかプリンターで刷るか、画像を入手してカメラ屋印刷屋に頼むか)

部屋に飾りたいw

4: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/07/31 19:58
フリードリヒ大王自作の曲CD持ってますが
大バッハの息子が宮廷音楽家だったためか
えらく似た曲調で、王侯の作った音楽にしてはけっこう出来が良いかなと。

だからまぁ、大バッハに意地悪なテーマ与えて音楽の捧げ物になったわけだが。

5: 世界@名無史さん 03/07/31 20:15
プロイセンはフリードリヒからロンメルまで軍神を世界で一番輩出した国

6: 世界@名無史さん 03/07/31 21:54
ヒトラーは以下の5人を尊敬してました

大王(プロイセンの基礎を築いた)
ナポレオン(欧州史最大の征服者)
ワーグナー(19世紀最大の文化英雄)
ビスマルク(第二帝国建国の英雄)
ニーチェ(反キリスト、反道徳)


8: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/07/31 22:02
>>6
7年戦争の逆境克服を自身と重ね合わせてたそうですね。
ヴァーグナーはヒトラーが楽劇見た関係で、バイロイトを「聖地」的な扱いしてたとかなんとか。

ヒトラーが画家の時、画家として尊敬してたのは誰だっけ・・・
(ヒトラー話はスレ違いなのでやめておきます)
七年戦争

墺 仏露の3国に加えてスウェーデン、ザクセンなどドイツの諸侯も加えると、敵国の人口は8,000万にもなり、人口400万のプロイセンにとって絶望的かと 思われる戦いだった。フリードリヒ2世は、序盤のロスバッハやロイテンにおいて、巧みな戦術で自軍より倍以上の敵軍を破ったものの、孤立同然のプロイセン の兵力は消耗し続けた。
1757年6月18日にコリンの戦いで大敗した後は守勢に転じ、1759年8月12日のクーネルスドルフの戦いではフリードリヒ2世自ら敵弾にさらされて上着を打ち抜かれ、乗馬は2頭まで撃ち倒されて敗走している。

イギリスの軍資金援助も打ち切られ、フリードリヒ2世は自殺を覚悟したが、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死すると、甥で後継者のピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者であったため、奇跡的にロシアとの講和が成立した。

13: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/08/01 14:41
ナポレオン自体フリードリヒ2世のことを敬愛してる文言残してるはず(うろ覚え)

15: 世界@名無史さん 03/08/02 04:17
>>13
「いつも優勢な状態を整えて戦を始めるのに、最後には必ずジリ貧になっている変な将帥」
という趣旨のことを言っていたような。
粘り強さは誉めていたものの、軍才は認めていなかったようにも思う

16: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/08/02 14:03
>>15
なるほど、勉強になります。
ナポレオンが大王ひいてはプロイセンの軍隊形の考察をしてた記憶があって勝手に思い込んでいたかもしれません。

天才と忍耐の秀才では格が違うのかな。

極個人的には大王マンセーなのでナポレオンの戦いより、劣勢から挽回する大王が痛快です。

決定的な局面で負けてない(運が良い)根暗系秀才ヲタの大王の方が決定的な局面で負けてしまった(運が悪い、ブリュッヒャーとか)天才ナポよりなぜか興味が湧くんです・・・。

82: 世界@名無史さん 03/08/09 11:56
>>15だけどだいぶうろ覚えだった>ナポレオンのコメント

「この君は戦争のあらゆる規則に反して行動した。彼はオーストリア軍がそこに居ることを知らずに不意を襲われた。彼は『戦闘中に右方転進を行うこと』を余儀なくさせられた。この戦役においても、プラハの戦役においても、彼は常に数において優勢であったが、しかし遭遇戦は彼にとって不利であった。将帥たる者の偉大な技術は、実際においては劣勢にありながらも、戦場に臨んでは優勢たることにある。ロートリンゲン公は、フリードリヒ軍とシェーン軍とが別々に進んで来ていた時に、この両軍に襲い掛かるべきであったろうに、四万の兵とともにプラハに閉じこもり、五万の兵によっておめおめとプラハに封鎖されるという愚を犯したなどということは考えられないことである!ロートリンゲン公は三万の兵をもって封鎖を突破すべきであったろう。そしたらフリードリヒは封鎖を断念したであろう・・・

フリードリヒは私に対してはそのような行動は採らなかったであろう。ロスバッハにおける彼の作戦には何ら立派なところは見えない。彼はその殿軍の方へと走っている。そして人がこのような作戦行動を試みるのは、いつの場合にも、そうせざるをえないからなのである。そこには何ら天才的な行動は見えない。彼は敵の縦隊に正面から近づいたが、それよりもむしろ敵の縦隊の左側面を全兵力をもって襲撃していたなら、彼は偉大な将帥であるということになったであろう。この左側面からの襲撃は、私がアウステルリッツにおいて実行したことなのである。もし、ロシア軍の側面を襲撃する代わりに、私が殿軍の方へ赴いていたら、フリードリヒの二の舞を演じることになったのであろう。

・・・フリードリヒが最も立ち勝っているのは、その用兵の巧みさではなく、その大胆さである。彼は私が決してあえて試みなかったことを実行した。彼はその作戦線を離れ、まるで何ら戦術の知識のない者のように行動することがしばしばであった。彼は常に、戦役の当初は数において敵に勝っていながら、戦場においては決まって敵に劣るのである。彼の部隊は完全であり。彼の騎兵は優れていた。わが軍の立派な胸甲騎兵に抵抗できるものがないのと同様、彼の部隊や騎兵に抵抗できるものはいなかった。彼は、全くのところ、 
戦闘の間その軍隊を手中に把握している術を心得ていたのである」 
『セント・ヘレナの口述』より

86:   03/08/11 23:38
いつの戦争かは忘れたけどナポレオンはプロイセンに攻め入った後、大王の墓をまっさきにおまいりに行ったらしいね

87: 世界@名無史さん 03/08/11 23:52
>>86
で、ヒトラー総統はパリ占領後の視察に真っ先にナポレオンの墓をおまいりに行ったと・・

17: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/08/02 14:15
世界史板でこのスレ覗く方ならご存知でしょうが
大王の幼少期に、富国強兵馬鹿の父親との確執、自分のミス(ある意味)で親父に大親友を殺され引き篭もり、現実逃避してる辺りから芸術や音楽、文学、哲学、他諸々学問に傾倒し、フランスに想いを馳せ学問から派生する理性的な概念、ひねた性格、完璧主義

即位して後、その時代にしては合理的且つ現実的で自分に厳しく、啓蒙君主なんて言い出してサンスーシ造営にしてもルイほど国費負担とまでは行かず、兵に優しく(実際は違うかもしれないが)女嫌い、ある意味誇大妄想的、大バッハを困らせるふざけたテーマを与え即興させ親友とまで言ったヴォルテールと喧嘩別れし、反マキャベリの論を示しながら、いざ自分が即位すると方針転換してるし
(反対の立場から考察してるだけに、より客観的且つ現実的に理論を実践できたのかも)

個人的にはナポレオンも好きですが、妙に人間臭くねじれた大王にけっこう親近感を持ってしまいます。

上に書いたことは端的に大雑把に書いたのでもちろん「そうとは言えない」部分もあるので悪しからず。
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フリードリヒ・ヴィルヘルム1世

フ リードリヒ・ヴィルヘルム1世(1688年8月14日 - 1740年5月31日)は、第2代の「プロイセンにおける王」(在位:1713年2月25日 - 1740年5月31日)。粗暴で無教養だったが、財政・軍制の改革によってブランデンブルク=プロイセンの強大化に努め、兵隊王(または軍人王)とあだ名 された。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、後にフリードリヒ2世となる王太子フリードリヒとは深刻な葛藤があり、気質の正反対な息子に 対して王は、しばしば暴力によって王となる者の模範を示した。「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と教育係に厳命し、フリード リヒの蔵書は取り上げられた。このような束縛は当然さらなる反発を招き、逃亡未遂と幽閉という結果を生むことになる。

しかし王の晩年に父 子は和解し、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はフリードリヒに対して「あとは、息子に継いでもらうから、思い残すことはない。あいつは上手く統治する能力 を全部持っている。軍も維持すると約束してくれた。分別もあるから大丈夫だ。」と全幅の信頼を表す言葉を残している。


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ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ

ハンス・ヘルマン・フォン・カッテ(1704年2月28日 - 1730年11月6日)は、プロイセン軍の軍人で、王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世(フリードリッヒ大王))の親友にして側近であった。1729年にフリードリヒの母方のハノーヴァー朝が治めるイギリス逃亡を手助けしようとした罪で、翌年斬首刑になった。

彼は王太子が監禁されているキュストリンの塔の傍で処刑され、その様子は後世まで語り草になり、多くの小説、叙事詩、ドラマ、舞台作品などに登場している。

王太子が「カッテよ、この私を許してくれ!」と房の窓から叫ぶと、カッテは「私は殿下のために喜んで死にます」と従容し、王太子の目の前で斬首に処せられたという。王太子はその処刑を窓から見ているよう、父王から強制されたが正視できぬまま失神した。カッテの遺書には「私は国王陛下をお怨み申し上げません。 殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますように。」と書かれていたと伝えられている。


19: 世界@名無史さん 03/08/02 22:36
フリードリヒは「浄福を得んがためには、人各々の流儀あるべし」と言ったし、自身プロテスタントでありながら、カトリックにも寛容だった。
まあ宗教的寛容はプロイセンの伝統でもあるわけだが、それとは縁遠いイエズス会の人間さえも、自国に受け入れていたと知った時には驚いた。

ヒトラーもナポレオンも、彼のそういうところは学ばなかったらしい。

22: 世界@名無史さん 03/08/02 23:13
そういえば、当時のヨーロッパでジャガイモの栽培、本格的に薦めたのも大王だったな。
食糧問題でも先見性があったようで。

27: 世界@名無史さん 03/08/03 00:25
>>22
英語で紹介されてるエピソードを受験勉強で読んだんだが、最初はなかなか上手くいかなくて、軍用地の、農民たちに見えるところにじゃがいもを積み上げて兵士たちに美味そうに食わせた(? とにかく美味いという評判を農民たちに与えた)そうだ。
で、農民たちが盗んで育てるようにわざと仕向けたという話。

28: 世界@名無史さん 03/08/03 00:40
当時はジャガイモ、どういう風に調理したんでしょうか?
ふかして食べたのかな。

30: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/08/03 01:16
>>28
学研・歴史群像シリーズの軍隊形の本(現在非所有なので正確なことはかけない)では
スープに放り込んで煮て食べた話があったはず、消化が良いので。

31: 世界@名無史さん 03/08/03 01:18
「空腹ほど兵の士気をくじくものなし」(ドイツ参謀本部)
当時では珍しく後方補給部門、重視していたんですね。

32: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/08/03 01:20
>>31
傭兵多かっただけに、かなり気を使ってたんでしょうかね。
脱走したまま生かしておくより、脱走して敵側に雇われる事も嫌う一面もあり戦場で死んでもらった方が良かったなんて話ありますね。

33: 世界@名無史さん 03/08/03 01:26
こんなのがあったので貼っておく。

18世紀のプロシアのフリードリヒ大王はサクランボが大好物でした。
だけど、雀さん達もサクランボが大好きで、大王が大切にしていた桜の木のサクランボを少し食べてしまいました。サクランボを盗られて怒った大王は雀さん達を撃ち殺しました。翌年、雀さん達がいつも退治していた毛虫さん達にサクランボを全部食べられてしまい、大王は深く反省しました。それ以来、大王は雀さん達を大切に扱うようになりました。もちろん、サクランボも雀さん達と分け合うことになったのでしょう。

「国松俊英著 鳥のことわざうそとほんと 山と渓谷社 1990年」
13頁

34: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/08/03 03:53
>>33
ワシントンの桜の木の話みたいですねw
怒ってすずめを撃ち殺す大王がステキ。

36: 世界@名無史さん 03/08/03 04:25
サクランボって、ドイツにもあったのか。
初めて知った。

37: 世界@名無史さん 03/08/03 09:44
温室栽培だったらしい(そりゃそうだ、冬にも食べてたらしいから)が、日本でも東北の山形が有名な産地であることを考えると、意外と多少の寒さには強いのだろう。

フリードリヒは食道楽ではあったようだが、宮殿の建設に比べれば使う金なんて微々たるものだしなあ。

39: 世界@名無史さん 03/08/03 17:22
食道楽と言っても同時代の他の王侯貴族に比べればつつましいもの。
食べきれないほどの皿を並べて一口食べては下げさせる、こんな事はしなかったようだし。

40: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/08/03 20:32
大王の得意戦術とか戦法とかあったんでしょうか。
軍事板で聞けなんて言われるかもしれませんがフリードリヒ大王およびプロイセン軍学に関して詳しい方のレスを望む。

41: 世界@名無史さん 03/08/03 21:05
>>40
斜線陣が得意だった(多用していた)。
戦術自体は古代からあるので珍しくないが、一応説明すると例えば右翼が銃撃している最中に左翼は敵に接近し、攻撃を集中させてその方面の敵を追い散らし、そのまま包囲するというもの。

プロイセンの戦力面における不利を意識して、局所優勢を狙ったものだったと言われる。
当時の戦争としては、相手をその場から追い出せば勝ちだったからね。

43: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/08/03 22:16
>>41
斜線陣は確か、横隊にも縦隊にも臨機応変に可変可能でしたっけ。
ナポレオンがどのあたりを取り入れたかは忘れてしまった。

オーダーミックスって大王じゃなくてマールバラ公だっけ?

44: 永遠の青 ◆V9k1yZSe4M 03/08/03 23:55
>>43
一般的には、ナポレオンが、フリードリヒ大王の斜線陣の発展形である、オーダーミックス戦術陣形の完成者と呼ばれています。

42: 世界@名無史さん 03/08/03 21:57
世界史系ジョークスレより

ある大学の講義にフリードリヒ大王が招待された。
会場にはヨーロッパ中の軍人が斜線陣の話を聞こうと集まっていた。
大王は到着すると、司会に聞いた。
「で、私は何をすればいいのかね?」
「もちろん、あなたの最も得意なことについてお聞かせください」
すると大王はおもむろにフルートを取り出し、独演会を始めた。

46: 世界@名無史さん 03/08/04 21:19
大王は現代ドイツではどのように評価されているんでしょうか?

47: 世界@名無史さん 03/08/04 21:23
>>46
どーでもいい人、と評価されています。

51: 世界@名無史さん 03/08/04 21:50
>>47
ドイツ再統一時(1990年)ではドイツ史に影響を与えた人物の第4位に入っていた。
影響と評価ではまた意味が違ってくるけど。

48: 世界@名無史さん 03/08/04 21:36
大王は昔はドイツ人の理想とされていたような気が...

49: 世界@名無史さん 03/08/04 21:42
>>48
ナチとかプロイセンの時代だろ?
パラダイムは180度転換した。

53: 51 03/08/04 21:54
ちなみに
1位・アデナウアー。
2位・ビスマルク。
3位・ルター。
だったような気がする、うろ憶えだけど。
シュピーゲル誌が行ったアンケートの結果だったと思う。

54: 世界@名無史さん 03/08/04 22:24
>>53
1位・アデナウアー
このあたりが政府に媚びているな。

59: 永遠の青 ◆V9k1yZSe4M 03/08/05 03:16
>>54
やっぱ、アデナウアーは、20世紀でいい意味で記憶に残る政治家だからじゃないですか。焦土と化した西ドイツで、「経済の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げる一方で、軍の名誉を肯定する演説をして、ドイツ国民の自尊心を満足させたんですから。

「悪いのはナチス。ドイツ国民と軍は悪くない」
そういう既成事実を作り上げてしまって、周辺諸国から突っ込まれる余地を少なくしたというのも、大した手腕だと思いますよ。

56: 世界@名無史さん 03/08/04 23:26
オットー大帝やフリードリヒ・バルバロッサの名前は上がらなかったのか。

58: 世界@名無史さん 03/08/05 00:23
>53
それよりヒトラーが上がってないのは何でだ?
悪い意味ではあるが最大の影響を与えた人物だろう。

60: レヒフェルト ◆1.le4.SwIo 03/08/05 15:07
>>58
タブーなので。
日本の天皇とか党情比出来とかとは勝手が違うでしょうし。

実際ドイツ人に聞いたが、フリードリヒ大王は知ってる人が多くてもあまり評価をしてるスタンスの人は少ない感じ。勿論ドイツ人といってもバイエルンとかブランデンブルグとか血統家系故郷とかで心象も違ってくるやもしれませんがルートヴィヒ2世の方が有名みたいですねw

71: 世界@名無史さん 03/08/05 17:07
フランスのルイ15世周辺では「ブランドブール伯」と呼ばれていたそうな。

72: 世界@名無史さん 03/08/05 21:01
>>71
「ブランデンブルク辺境伯」のフランス語読みだな。
プロイセン王になってからも、選定侯としてはその名前だったそうだ。
「プロイセンにおける王」に過ぎなかったから。

73: 世界@名無史さん 03/08/05 21:57
>>71
「マルクグラーフ(辺境伯)」はフランスの「マルキ(侯爵)」だから「ブランドブール侯」のほうが正確かもしれない。

74: 世界@名無史さん 03/08/06 00:00
フリードリヒ二世て、在世時から「大王」と呼ばれていたのか?
それとも自分で付けた自称?

78: 世界@名無史さん 03/08/08 21:29
>>74
自称は「サン・スーシーの哲人」。
よって「哲人王」と呼ぶ人もいる。
「大王」というのは恐らく七年戦争以降の他称かと。

81: 世界@名無史さん 03/08/08 23:51
どうせなら自称はポツダムのフルート奏者にして欲しかった。

89: 世界@名無史さん 03/08/13 13:41

結局、フリードリヒ大王のプロイセン軍はイエナ・アウエルシュタットで壊滅する訳だが。一人偉大なリーダーが出るとそこから飛躍出来なくなるのが問題。「7年戦争では、こうやって勝った」が金科玉条になる。

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イエナ・アウエルシュタットの戦い


イエナ・アウエルシュタットの戦いは、ナポレオン戦争中の1806年10月14日、ドイツのテューリンゲン、イエナおよびアウエルシュタットで行われた戦闘である。

ナポレオン1世率いるフランス帝国軍と、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍が交戦した。この戦いの結果、プロイセン軍は甚大な損害を被り、その後の追撃戦で完全に壊滅、プロイセン全土がフランス軍に制圧された。特にアウエルシュタットにおいては、ルイ=ニコラ・ダヴーが2倍のプロイセン軍を破っている。


90: 世界@名無史さん 03/08/13 14:40
プロイセン軍を壊滅させた大陸軍は同じくナポレオンが指揮した
ワーテルローで壊滅したわけだしなぁ。

95: 世界@名無史さん 03/08/19 21:00
WW1のドイツで、勲功のあった軍人に授与された最高の勲章。
それがPour le Merite(「勲功に対して」の意味、仏語!)だが、
これを制定したのがフリードリヒ大王。
「ブラウエル・フリッツ」(青いフリッツ)とも呼ばれたこの勲章は、青色を基調にしたデザインで、“F”の文字が刻印されている。

ちょっとスレ違い

300px-Pour_le_mérite_Neilebock


97: 世界@名無史さん 03/08/19 21:31
>>95
いえいえスレ違いなんてとんでもない、貴重なお話ありがとうございます。

99: 世界@名無史しさん 03/08/20 02:12
>>95
ずばりそれをタイトルにした
「ブルー・マックス」という映画がありますね。
(DVDにもなりました。)
フランスかぶれの大王らしいけど(独語が車夫のごとくまずく、仏語の方がうまかった)

でも何度もフランスと戦争した割には、よく改名されずにWWIでもつかわれましたねー。WWIIの時は**鉄十字章に完全に代わられたのかしらん

100: 世界@名無史さん 03/08/21 01:28
>>99
帝政崩壊により、Pour le Merite勲章は廃止され、1939年9月1日制定の鉄十字章令で大十字章・騎士十字章・1級、2級鉄十字章が新たに制定されたため、完全に代わってしまいました。

ご存知かも知れませんがPour le Merite関連だとこのサイトが労作です。
もともとは大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが制定したOrdre de la Generosite勲章を
改名、受章者基準を改めたものだとかどーでもいい知識の温床
ttp://www.pourlemerite.org/

102: 世界@名無史さん 03/09/20 00:08
フランス語も決して完璧じゃなかったらしく、マリア・テレジアはそのことを皮肉たっぷりに喜んでいた。

ま、彼女の夫のフランツのフランス語もかなり滅茶苦茶だったらしいがな。

106: 世界@名無史さん 03/09/22 22:54
フリードリヒ大王って、当時の王侯には人気があったんだよね。
ヨーゼフ2世やピョートル3世もファンだったし。

107: 世界@名無史さん 03/09/23 09:18
その二人は先代がフリードリヒ嫌いだったから。
特にマリア・テレジアは、家族にはかなりアレな態度だったらしいし。
何か彼女には田中真紀子に近いものを連想するんだよね・・・
遠くで見てる分にはいいけど身内には、って意味で。

しかしそのせいでずっと謎なのが、「ピョートル三世の知能レベル」。
フリードリヒの書いてることが理解できるんなら、そもそもバカじゃなかろうし。

109: 世界@名無史さん 03/09/23 10:36
>>106
19世紀のドイツ民衆がプロイセンに同調した理由もわかるような
アメリカ独立戦争のときの西ドイツの諸侯など、自分たちの私腹を
肥やすために領民を駆り集めて拘束し、傭兵として送ったんだから
兵営の寝台では、逃げないように裸にされたらしい。
ウィーン体制下でも、大差なかったらしい
フリードリヒがまともに見えたのは当然だ


119: 世界@名無史さん 03/10/14 22:06
近代ドイツのプロイセン悪玉説って今はどうなんですか
全然間違ってるって評価ですか

121: 世界@名無史さん 03/10/15 08:16
プロイセン悪玉説は、旧敵国の感情論と、責任転嫁したい戦後の西ドイツが、生み出したのでは

実際にはフリードリヒの時代には、己の私腹のために、領民を傭兵として売り飛ばし、アメリカ独立戦争などで犬死させたのが西ドイツの諸侯

131: 世界@名無史さん 03/10/18 07:17
大王の晩年のなって官僚機構の分化が進むくらいに役所の仕事も増えた。

133: ◆RlujhF6VrA 03/10/18 10:56
>>131
国土が二倍に増えたんだから仕方ないかと。
むしろフリードリヒが現場にまで口を出すのをやめて欲しいと思っていた官僚も結構いたそうだが。

146: 世界@名無史さん 03/10/23 19:25
フリードリヒ時代のプロイセンの公用語はドイツ語?フランス語?

147: ◆RlujhF6VrA 03/10/23 22:33
>>146
フリードリヒ自身はフランス語の文書で指示したが、話し言葉はドイツ語(というか、上で出てくる亡命フランス人経由の単語を含むベルリン語)だったらしい。

149: 世界@名無史さん 03/10/24 22:13
現在のルクセンブルク語みたいなものかと

150: 世界@名無史さん 03/10/25 09:37
近代ドイツ語だって、ラテン語由来の語彙は多いしね。
それ以前はどこのドイツ語圏の国もフランス語の借用語だらけだったろう。

151: 世界@名無史さん 03/10/25 11:04
インテリ階級がずっとラテン語やフランス語を使っていたからしょうがないのでは?

日常会話程度では、そんなに語彙は要らないでしょう。

152: ◆RlujhF6VrA 03/10/25 20:14
そもそもフランス語自体、ラテン語の訛ったやつという言い方もあるくらいで。
法律とか政治とかの専門的な語彙に関しては、ラテン語とその流れをくむフランス語が圧倒的に発達していて、他の言語にはそこから流入していった。
特にドイツは、フランスと同じローマ法系の国だし。

単にドイツ人が趣味で使っていたんでなくて、一部にせよ、使わざるを得ない状況にもあったとは言えると思う。

153: 世界@名無史さん 03/10/25 20:47
>特にドイツは、フランスと同じローマ法系の国だし。
どっちかと言うとドイツの方がローマ法の影響強いけどね。

ドイツは後進国だったから近代にローマ法を一気に導入した。
19世紀いっぱいはほとんどローマ法が民法として通用したほど。

一方、フランスでは北仏の慣習法圏と南仏の成文法圏(ローマ法圏)が対峙していた。
ナポレオン法典は慣習法とローマ法の妥協の産物。

154: 世界@名無史さん 03/10/26 10:12
極端なお国柄は昔からだったのか

160: 世界@名無史さん 03/11/01 19:00
フリードリヒ大王は、商人や百姓の親父とも気さくに話をしたが、
部下には厳しかったらしい。

批判はあるにせよ、名君だったのだろう。

162: 世界@名無史さん 03/11/02 02:31
>>160
部下に厳しい・・・


「王は毎朝、数人の青年士官とコーヒーを飲みながら談論し、そのうち、一人の青年士官の前に ハンカチを投げるのが常だった。王のハンカチを受け取った者は、残って王の男色の相手を 務めなければならなかった」

引用元: ・プロイセンのフリードリヒ大王を語るスレ




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