51utDI60zZL



1: 新羅三郎義光 2008/08/19(火) 00:39:40 ID:W7tXt4U7
常陸の勇出羽転封と、その後の「秋田の四倒れ」。
戊辰の役における官軍への対応など等。
話題に尽きない佐竹氏を語るスレです。
控え!控え!この扇二月丸が目に入らぬか!
先におわす方を何方と心得る、出羽国主右京大夫佐竹次郎なるぞ。
一同控え! 







2: 人間七七四年 2008/08/19(火) 16:07:16 ID:RNLaI/MK
茨城県が誇る英雄・佐竹氏

3: 人間七七四年 2008/08/19(火) 16:12:54 ID:uK60TKs+
佐竹の本拠地太田城の存在すら知らない太田市民

5: 人間七七四年 2008/08/21(木) 15:58:31 ID:y7Jo2K8T
出羽に行ってからは、まったく無視されてる佐竹氏

7: 人間七七四年 2008/08/21(木) 22:54:10 ID:y7Jo2K8T
出羽に国替えとなったときは、佐竹氏の家来は96騎といわれる
ごく身近な家柄の家来だけ連れていった。他は置き去り。
なにしろ、石高は半分以下になってしまったのだから、全員は連れていけないな。

8: 人間七七四年 2008/08/22(金) 21:18:58 ID:wrLZl3KB
96騎っていうのは嘘でしょう
少なすぎる
あと、開発によって実高も江戸中期には40~50万くらいまでいったね

11: 10 2008/08/22(金) 22:09:21 ID:011dBCGc
検索したら、93騎だったワ。ごめん。 

12: 人間七七四年 2008/08/22(金) 23:40:41 ID:wrLZl3KB
義宣の共をしたのが93騎であって、その他家老やその陪臣、義重らと共に秋田へ行った家臣も含めれば、どんなに少なくても500人は居ただろうよ

13: 人間七七四年 2008/08/23(土) 00:14:24 ID:/u8mBvC8
93騎ってのは直臣の数であって、陪臣以下は含めていないだろう

15: 人間七七四年 2008/08/23(土) 18:24:46 ID:YQkfpT9e
>>9
1の別名、太田御殿とは、水戸武田-徳川氏が佐竹氏から引き継いだ太田城の館そのままのものを、一国一城令から水戸城を憚って太田御殿と称したそうな。

その太田御殿の主殿の一部は、戦後しばらくは小学校の講堂として残って機能していたそうな。その講堂は戦中に病院の病床の役割を果たす機能となり、しばらくは存在したが、衛生上よくないとの浅はかな考えで取り壊されたそうな。

その太田御殿(講堂)は言い伝えによると佐竹氏時代のものだったらしいので、市ではそれを隠しているみたいなので、1は相当知識が豊富みたいな方かな?

16: 人間七七四年 2008/08/23(土) 20:06:03 ID:FLaIMOoB
太田城といっても、防御の遺構はほとんどなかったみたいなので、太田御殿と称しても全然問題ないと思うよ。

佐竹氏は、遺構も文書も、きれいさっぱり残ってないらしい。

17: 人間七七四年 2008/08/23(土) 20:09:54 ID:FLaIMOoB
義宣だったか、義重だったか、甲冑姿の肖像画が残っているが、鎧だらけで顔も覆っているから、肖像画の意味なし。

ヨロイカブトの記録図かよ!。
375px-Satake_Yoshinobu
義宣

18: 人間七七四年 2008/08/23(土) 21:58:49 ID:VFaoVKrB
布団の逸話が好き

父子がお互い気を遣い合っちゃって微笑ましいったらありゃしない

佐竹義重

就寝時に敷布団を使わず、薄い布だけ敷いて寝ていたという逸話がある。出羽に転封された後、「北国は寒いから」と子の義宣から寝巻きと敷布団を送られて使ってみたものの結局気に入らず再び敷布団を使うことはなかったという。


36: 東義久ってどお? 2008/09/01(月) 10:26:29 ID:Q/++35j2
前スレの957さんへ。
>佐竹家の娘の嫁ぎ先って、けっこう審らかなの?

はい。私は原本を直接見たことはないのですが、主に3パターンあるらしいから、男系だけでなく、代々の当主の母や妻、娘についても比較的はっきりしてるよ。

(1).「佐竹家譜」(これは佐竹代々の当主の記録。)
(2).『寛政重修諸家譜伝』の「佐竹系図」
(3).『続群書類従』の「佐竹系図」「御当家(つまり佐竹)系図」

ちなみに、私謹製の「間違いだらけの」佐竹系図によると…、
隣の岩城一族との縁組が多いです。恐々謹言。

37: 人間七七四年 2008/09/02(火) 19:49:33 ID:gYxMzwUC
佐竹の家臣扱いとなっている江戸氏(元の水戸城城主)にも婚姻関係は一応あって、江戸氏の娘が、徳川家康に嫁いでいるらしい。側室だけど、60過ぎの家康にハタチ以下の娘が嫁いでいるわけでロリコン趣味とか、書かれているのを見たことがある。

佐竹と江戸氏の婚姻では、南北朝の時期に那珂氏に攻められて窮地に陥ったが、のちに逆襲して那珂一族を皆殺しにしている。唯一、命を助けられた男がいて、佐竹と婚姻関係があったから助けられたらしいのだが、これが江戸氏の始祖。

38: 人間七七四年 2008/09/05(金) 09:15:53 ID:pRbUYUHM
>>37
江戸重通の娘は結城晴朝の養女となって結城に入嗣した秀康の正室になったはずだが…
重通の嫁は晴朝の姉妹で、その娘は晴朝の姪にあたる

もしかして家康の側室の、お梶の方(英勝院)の事を言っているのかな?

39: 人間七七四年 2008/09/05(金) 20:52:27 ID:Wq8sc6ru
>>38
オイラの記憶違いだったようだ…?。
http://homepage2.nifty.com/hpsuiren/sengoku/tokugawa/yasu-3.htm
※リンク切れ

によると、側室:お梶..1578~1642
.(お八・お加知・お勝、法名:英勝院)
父:水戸城主 江戸但馬守
養父:太田康資
とある。ウィキによると、これは諸説のうちのひとつらしい。嫁いだのは13だが、家康は60過ぎではなく49。
江戸氏の水戸城が落城したのは、1590年だが、お梶が嫁いだのも1590年で、江戸重通は結城晴朝を頼って結城城に落ち延びたので、娘達を結城家に入れたり、太田康資に養女に出したり、一家離散の年だったのだろうか?。
このへんは何かゴッチャに混ざって、オイラの頭脳の理解度を超えている。

それにしても「影武者 徳川家康」作画:原哲夫 で、お梶が大活躍しているが、生まれた城に戻りたいというのがお梶の願望だったが、それは古い江戸城のことだったが、まさか、水戸城だとは水戸育ちのオイラでさえ、今日まで知らなかったよ。
お梶の子供は早く死んでしまったので、家康の男児を預かって代わりに養育したが、その子供が、水戸徳川家の始祖となった。

40: 人間七七四年 2008/09/05(金) 21:15:49 ID:0REWAqfF
>>39
>養父:太田康資

これ本当? 康資は1581年に里見家中の騒動に巻き込まれて死んでるけど。
https://ja.wikipedia.org/wiki/太田康資

42: 人間七七四年 2008/09/07(日) 00:14:23 ID:cYIO9TRz
>>40
国府台以降の康資の行方は曖昧だったりする
一般には1581年に死んだとあるが
これもハッキリせず、一説には佐竹氏を頼ったとかもある

43: 人間七七四年 2008/09/08(月) 01:33:51 ID:eFOLg98c
>>42
佐竹を頼ったのは、子の太田重正では?
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1219073980/

44: 人間七七四年 2008/09/08(月) 03:04:28 ID:MylhO73x
>>43
って事は義重の偏諱を賜って重正?

45: 人間七七四年 2008/09/08(月) 05:41:35 ID:eFOLg98c
>>44
根拠はないけど、重の字は多分そうだと思うよ。

47: 人間七七四年 2008/09/26(金) 03:34:22 ID:60l95W5r
>>45
重正が義重の元で元服したのなら、康資が佐竹を頼ったから…とも考えられる。

同族の三楽斉も居た事だしね。

49: 人間七七四年 2008/10/06(月) 00:56:07 ID:E4RvO9a6
元東洋製作所社長・佐竹義利(佐竹義準男爵の長男)は佐竹東家の出であり、現秋田市長・佐竹敬久は佐竹北家の出である。
ちなみに現在、戦国期の領地である茨城県と江戸期の領地である秋田県の双方から「殿様」として人々に慕われている。
江戸期に入って領地が変わった場合、片方からしか「殿様」扱いされないことが多い中、異例と言える。

https://ja.wikipedia.org/wiki/佐竹氏

52: 人間七七四年 2008/10/06(月) 13:49:54 ID:rEDdBVoX
>>49
残念ながら、茨城における佐竹の知名度は水戸徳川家に比べて相当下だろ
歴史をかじってなければ、ほとんど知らないだろ

55: 人間七七四年 2008/10/06(月) 18:47:04 ID:x4Sdl3aW
茨城出身じゃないからなんともいえないが…
水戸市とかじゃなくて常陸太田市とかではどうなの?

56: 人間七七四年 2008/10/06(月) 19:24:53 ID:IVM3/dhy
常陸太田市では、水戸光国公が御隠居した場所「西山荘」(せいざんそう)が有名でございます。佐竹の城跡は、学校になっていると思うが特に遺跡なし。

水戸徳川家の有名人は、最後の将軍よしのぶがいたっけ。

57: 人間七七四年 2008/10/07(火) 02:56:05 ID:KSqmJChP
水戸周辺なら
徳川斉昭、徳川慶喜、藤田東湖、武田耕雲斎、会沢正志斎あたりは学校でも習うしみんな知ってると思う
市や県でも幕末水戸藩を前面にプッシュしてるから、光圀なんかよりも親しみがある
歴史館の展示や各書籍でも幕末関係が圧倒的に多い
佐竹一族は関鉄之助や原市之進よりも知名度低いと思う…
そもそも茨城と言っても地域によって何もかも全く違う
佐竹に限って見てみても、例えば水戸以南は佐竹支配は僅か10年ほどでしかない
当然佐竹の知名度は皆無に等しい
歴史に通じてる人にとっては侵略者でしかなく、親しみがあるような存在ではない
あと、笠間市などは佐竹の支配をほぼ受けた事はない
古河、結城、坂東、常総、守谷、取手など県南県西周辺は常陸国でさえなく
無論佐竹の支配もなく知名度も絶無に等しい
佐竹が数百年に渡って支配してきた土地は県北地域(奥七郡)であり
自然、知名度はここにしかない
県北地域に限ってはやや知られており、年寄りなどは「佐竹の殿様」の話しをする人が多少いる
それでも「義昭」「義重」など個人名まで知る人は極稀だ
やはり太田と言えば西山荘、光圀隠居の地としてのイメージしかない
地元でもそれをウリにしている
地元人に有名なものを聞いたら
水戸黄門、西山荘、粽(チマキ)、蕎麦、葡萄、梶山静六、かわねや(これはないか)
のいずれかを挙げるだろう

58: 人間七七四年 2008/10/07(火) 22:23:08 ID:YnzWjn7i
会津と水戸って蘆名・佐竹時代から関係が深いね

60: 人間七七四年 2008/10/08(水) 19:47:04 ID:WxqACmyq
会津の城の天守閣は、砲撃されて穴だらけだし、水戸藩の巨大な学校施設はほとんど炎上して、ボロい天守閣もどきだけが残った。
(その後、大平洋戦争の空襲で焼失)、

江戸幕府による佐竹氏の秋田移封は、移封とはいえ、いかに平和で損失を出さないものであったか、よくわかるわな。、

62: 人間七七四年 2008/10/10(金) 01:02:22 ID:96LNzGJ5
水戸市だと大ジョウと江戸氏、そして水戸徳川家
佐竹なんてほとんどやらない

63: 人間七七四年 2008/10/10(金) 08:22:36 ID:viGbuNgn
各勢力の統治年数を見ると
大掾 約200年
江戸 約200年
佐竹 約 10年
徳川 約270年
だから水戸で佐竹が全く知られてないのは仕方ない
佐竹が54万石で存続してれば水戸も大都市として栄えたかもしれんけど
今や県南ばかり栄えて県北は終っとるわ
そのうちつくばに県庁移ったりして…
太田は末期だけど天庵様のお膝元は大発展


66: 人間七七四年 2008/10/11(土) 14:51:43 ID:j44DjfdL
wikiで佐竹氏の項目を読んだときに、>>49の記述は確かに疑問に思った
佐竹が茨城で殿様扱いされているというには知名度が低すぎる

67: 人間七七四年 2008/10/11(土) 15:07:21 ID:XvG1N9Xu
「県」からは無理でも地元ではそれぐらいの扱いは受けるだろ

68: 人間七七四年 2008/10/11(土) 23:32:13 ID:BETHkbzB
太田では有名よ

69: 人間七七四年 2008/10/12(日) 08:29:21 ID:jROggIBP
市内の人は「佐竹」の名前ぐらいは知ってるだろうけど(多分…)
太田と水戸は水戸黄門が強すぎるからなぁ
名所も名物もお祭りも水戸家一色だし

81: 人間七七四年 2008/10/14(火) 10:36:26 ID:t1v7XdzA
俺、太田出身だけど「義昭」とか「義重」なんて名前を他の人から聞いた事ない
確かに年寄りに話し聞くと「昔、佐竹の殿様が~」と口にするのは何度も聞いた事あるけど別に畏敬の念を抱いて「殿様」と言ってるわけじゃないよ
同じく「水戸の殿様が~」とか「岩城の殿様が~」とか「棚倉の殿様が~」とかみんな「殿様」だし
単に大名って意味で言ってるだけ

82: 人間七七四年 2008/10/14(火) 20:17:23 ID:DyNRf4Yr
うちのすぐ近くに、佐竹の家臣がいたお城があるが、親は「殿様がいた」としか知らない。

昔は、義昭とか義重などの本名で呼んではいけない。
官職名で呼ぶ。

83: 人間七七四年 2008/10/14(火) 20:50:54 ID:KQ32uPK3
まあ、肉親でもない限り、よっぽどの家臣でも呼び方は「殿様」「大殿様」「若殿様」くらいのものだわな。

84: 人間七七四年 2008/10/15(水) 10:54:27 ID:0/zLKu5g
そもそもさ、太田でさえ歴史館か図書館で調べない限り街中には何一つ佐竹の存在がないよね
あれじゃ歴史好き以外は知るわけないよ
市や観光協会でも水戸黄門ていう全国区のウリがあるから今更マイナーな佐竹を引っ張り出す気は全くないようだ…
それ以前に茨城て観光にあまり力入れてるようには思えないし
郷土意識薄い県民性だし

85: 人間七七四年 2008/10/15(水) 14:01:06 ID:k1rslc8D
茨城で一番面白い時代は南北朝だと思う
北畠親房がKYで、すったもんだしながら南北入り乱れて、最後に藤氏一揆で瓦解とか面白すぎるだろw

86: 人間七七四年 2008/10/15(水) 16:53:41 ID:iaCbZZkR
茨城の南北朝はすげーね。佐竹も一枚かんでる。
常陸の軍勢は、京都まで上洛したくらいだから。

87: 人間七七四年 2008/10/16(木) 11:01:48 ID:REot/YPV
南北朝時代はやたら雄大だからね
常陸も全国有数の激戦地になったし
佐竹は尊氏の旗揚げから従い九州まで転戦したように、一貫して北朝方だったが
南朝方が優勢な常陸に於いては孤軍となる事も度々で悪戦苦闘した
北朝の佐竹、南朝の小田・大掾(後、北朝)・那珂
既にこの頃からこの構図ができあがってたんだよな

88: 人間七七四年 2008/10/20(月) 00:01:10 ID:vlHGKtnv
北畠親房が難破して常陸に漂着しなければ…

89: 人間七七四年 2008/10/20(月) 17:43:20 ID:FxBWFkPA
北畠の領地は、奥州だからね。霊山町あたりか。
奥羽全域が北畠の領地というべらぼうな広さ。

で、北畠親房の息子が、京都から派遣されて、数年後、天皇の命令により、そこから京都に向けて上洛したわけ。 そこを妨害したのが佐竹氏だったから、後年、朝敵の汚名を着せられることになる。

90: 人間七七四年 2008/10/20(月) 18:00:54 ID:ieR92pNz
貧乏くじっていうか、なんつーか、佐竹は何か損な役回りだ

91: 人間七七四年 2008/10/20(月) 18:34:36 ID:FxBWFkPA
北畠顕家(北畠親房の息子)は、南朝の後醍醐天皇の命令に従って京都に向けて進軍している。主力は白河方面から南下したが、別働隊は海岸沿いに常陸国に侵入。

一方、北朝の天皇からは、佐竹氏に常陸守護を正式に任命してるから、佐竹氏としては北畠軍を迎え撃たざるをえない。

別働隊を、日立市みかの原で待ち伏せするが敗れてしまう。
太田城を捨てて、金砂郷山?の山頂に逃げ込んで数年我慢するはめに。

100: 人間七七四年 2008/10/26(日) 13:46:31 ID:LsjbjfEx
佐竹はどうして関ヶ原時の動向が研究されないの?

102: 人間七七四年 2008/10/27(月) 08:24:15 ID:eE1cZz6K
つうか佐竹は全部研究されてないだろ
義宣のwikiとか一行目から間違ってて噴いた

103: 人間七七四年 2008/10/27(月) 10:15:01 ID:7qAD0hyi
全部研究されてる大名なんて存在しないよ。
佐竹は東国の大名では比較的研究されてるほう。
文書も沢山残っているし、洞というメジャー戦国大名が余り使わなかった広域連動体制を持っていたり、守護大名からそのまま近世大名になったりしたので割合見るべき部分が多い。ただマイナーな大名なので、(研究はされてるが)話題にのぼることが少ないだけ。
その代わり某東国大名sのようなマンセー馬鹿も少ないけどな。
佐竹の関が原のときの動向を書いた本や論文は結構多い。雑多だけど。
あと義宣のwikiの記述は、はっきり間違ってるといえるほどのことは書いてないと思う。
むしろ義重のほうがかなり変。

106: 人間七七四年 2008/11/01(土) 14:46:24 ID:Rs2MAK8Y
やっぱり秋田へ転封して常陸が水戸徳川化してしまったのが原因じゃね?
ずっと常陸にいたら人気はともかくもっと研究されてたろうね。

107: 人間七七四年 2008/11/01(土) 22:48:31 ID:7hwXez1N
戦国期より江戸期の大名の方が現代に残した影響が大きいからだろうね。
名古屋は信長・秀吉の地元だけど、目に見える影響や遺産といったら、やっぱり尾張徳川家のものになるし。

108: 人間七七四年 2008/11/02(日) 00:59:24 ID:O1uOsHhC
>>107
でも、例えば山梨は未だに武田信玄の国、新潟は上杉謙信、広島は毛利、熊本は加藤清正なんだよね。

109: 人間七七四年 2008/11/02(日) 02:39:49 ID:63bg8Er5
まあ、尾張・紀州・水戸は特別だからね
さすがに御三家の影響力は強い
でも水戸は悪い意味での影響が大きいけどw

117: 人間七七四年 2008/11/04(火) 17:50:11 ID:JOsHgteE
佐竹の存在が薄れたのは水戸藩の政策より茨城人の飽きっぽさに原因があるような気がする…
各城郭が破壊されたのは一国一城令によるもので全国共通のものだし太田城が都市化してしまったのは明治以後の事で水戸藩時代は久慈郡一帯を統括する藩庁が置かれ割合城としての景観は保たれていたようだ

光圀時代に度々行われた廃物希釈で数千からの寺社が廃されたり整理されたりしたが佐竹の存在を払拭する為などと言われているが、実際は単に尊皇思想によるものだろう
佐竹転封から半世紀以上経った頃に思い出したように佐竹の払拭を行うのは今更な感じがする
当然佐竹と関係ない寺社も整理されているしむしろ正宗寺、佐竹寺、清音寺、天徳寺など佐竹の旧菩提寺や建立した寺院は水戸藩でも保護され現存する

160: 人間七七四年 2008/12/06(土) 10:23:14 ID:Wl54izXI
その時歴史が動いたの実況にあったレスで、
「佐竹の後ろから攻める戦法も卑怯でかっこいいよ」
というのが、あったんですけど。
佐竹家特有の戦術なんですか。
撤退するまで対陣して追撃。

161: 人間七七四年 2008/12/06(土) 14:57:59 ID:M20I61IQ
そりゃ近衛龍春のつまらない小説の創作だ。
長年佐竹について調べてるが、佐竹がそんな戦術を使ったという話を見たことは一度もない。つーかただの卑怯者じゃねーか。アホか。

佐竹が得意な戦術は「常に無理をしない。基本何もしない」だ。

162: 人間七七四年 2008/12/06(土) 18:51:41 ID:VVk5bpw/
そのような無気力な戦術が得意だったとは意外でしたな。
が、東北地方の空前の大軍による決戦で(戦いの名前忘れた)、佐竹軍は伊達政宗を大敗させて、政宗も「明日はもう死か」と観念したあと、いざ朝になったら、佐竹軍は全軍撤退していなくなっていた。

故郷の太田城が攻められているという虚報を聞いて、慌てて帰ってしまっていた。

163: 人間七七四年 2008/12/06(土) 20:29:33 ID:M20I61IQ
●1574 
上杉謙信が越後から出陣し佐竹と合同して関宿を救おうとしたが、義重は駄々をこねて謙信と決裂し、関宿は北条によって落居する。

●1584 
沼尻の合戦では佐竹方が圧倒的な鉄砲力を持ったことで北条との決戦を主張する意見のほうが多かったが、義重は対陣を長引かせるほうがいいという、たったひとり真壁だけが主張した意見を入れて、三ヶ月近く花火を打ち上げて過ごす。無論花火の火薬は鉄砲の為に用意したものだった。

●1585 
人取橋合戦では初日の戦いで少数の伊達に対して圧倒的な兵力で攻め寄せ、翌日には伊達勢を壊滅させることが出来ると思われたが、佐竹の大将で、おそらく全軍の総指揮官でもあったと思われる小野崎義昌が下人に刺されて死んでしまったので、夜のうちに全軍が風に消え去るように退却した。太田が攻められそうになったので退却したというのは、奥羽永慶軍記か何かの創作。

●1589 
仙道方面に迂回した伊達勢が会津へ向かうと知っていながら、義重は何故か田村氏の大平城を攻めるという戸村義和の斬新な意見を採用し、同盟国の蘆名を滅亡させる。佐竹が伊達勢を追いかけていれば、政宗は摺上原で挟み撃ちにあって、少なくとも蘆名も壊滅は免れたかも知れない。上手くいけば壊滅していたのは伊達のほうだったのは言うまでもない。このいくさで蘆名が滅亡したことにショックを受けて義重は隠居する。

と、このように佐竹は常に無理をせずに積極的に何もしないという画期的な戦略戦術スタイルを用いて常陸五十四万石を獲得した。ちなみに関ケ原のときは佐竹は何も出来なかったために何もしなかった。関ケ原が長引いて再戦国時代になっていたら、多分宇都宮の蒲生を攻めていた。
追い討ちが得意技っていうか、追い討ちのおの字もない。

164: 人間七七四年 2008/12/06(土) 20:52:58 ID:7ao6bY7v
>>163
下妻城攻防戦、多功原の戦い、高道祖原の戦いなど数倍もの大軍だった北条を破ったとか言われてるのは?

165: 人間七七四年 2008/12/06(土) 21:43:52 ID:M20I61IQ
>>164
●1571 
北条勢が下妻に現れたという一報を聞き、蘆名と対陣していた義重は即講和。
小野崎義昌と酒出義久は遊軍として下妻付近に配置。
義重自身はさらに南の岩井へ進軍して北条の本陣へ向かう。
軍記物いわくこのとき義重は一騎駈して七人ブチ殺す。
しかし結局は鬼怒川を挟んで対陣となる。
里見が攻めてきたと聞いて北条から講和の申し出があり、和睦と相成る。

●1572 
皆川氏討伐戦(多功原の戦い)。
主目的は宇都宮から離反した皆川氏の討伐。
皆川は佐竹に攻められたので北条に援軍を要請したが、北条がどれくらいの勢を連れて来たかは不明。だが佐竹が勝利したらしい。
北条勢は退散し、義重は皆川の城々を攻めるが、何故か本城の長沼城だけを残して太田に帰陣する。甲陽軍鑑の軍略からヒントを得てこういう行動をしたというが、この時皆川を滅ぼしておいたほうが良かったんじゃねーかと思うのはわしだけではないはずだ。
多分義重は皆川を滅ぼしてもそのあとどうしていいか良くわからなかったのだろう。
またしても「何も足さない、何も引かない」というサントリー山崎チックな戦略を取る義重であった。

●1576 
高道祖原の戦い,、というのは多賀谷政経が死んだのをいいことに北条がまたしても下妻に攻めてきたときのことだろうと思う。わしの記憶が正しければ、この時佐竹からの援軍は小野崎義昌と恐らく車斯忠?だった。
この二人は佐竹家中ではイケイケドンドンの突撃スタイルで良く知られており、政経の跡を継いだ重経とともに下妻付近で北条氏照勢?を破った後、そのまま北条勢を追って現代日本では秘境として知られる五霞の逆井城?まで攻め込み、城を陥落させてしまった。しかしとても逆井城の維持は無理だろうという極めて理性的な判断により、戦利品を奪って下妻に凱旋したという。
佐竹には珍しい快勝なのは、義昌と斯忠、そして非常にキレ者の多賀谷重経のおかげだろう。

ついでに●1574の関宿救援戦の帰りに佐竹は壬生勢の追撃を受けて、荷駄部隊を襲われ、黄金を奪われるという失態を犯している。追い討ちが得意どころか、自分達が追い討ちされてしまったという笑える話。

司馬遼太郎いわく、佐竹は「おっとりした大旦那」だそうだ。さすが司馬。これほど正鵠を射た表現はない。戦国板ではどの大名がどの大名より強いだの偉いだの馬鹿だのハゲだのという馬鹿げた口喧嘩で喧しいが、佐竹のファンであればそんなのは放っておいて、
むしろこの大様振りを愛せ。

172: 人間七七四年 2008/12/08(月) 19:58:25 ID:sDlldPBV
>>165
>甲陽軍鑑の軍略からヒントを得てこういう行動をしたというが、 

これどういう事?
甲陽軍鑑って義重の頃にも有ったの?

173: 人間七七四年 2008/12/08(月) 20:33:04 ID:a+ZjskTV
>>172
すまん。正確に言うと、信玄の工夫21ヶ条の軍略のように義重が行動したのを、本当かどうかわからないが高坂昌信っぽい人が聞き及んで、甲陽軍鑑に記したということ。

そして信玄の工夫21ヶ条とやらも、甲陽軍鑑に載せられているらしい。
わしの持ってる甲陽軍鑑は中途半端なのでどっちも載ってない。

175: 人間七七四年 2008/12/09(火) 12:36:37 ID:sPR99U1C
どうにも江戸時代の大名の感覚で考えている人が多すぎる
戦国時代の関東東北では所謂伝統的豪族が蟠踞しのちに洞と言う固有の形態に変化していくわけだが基本的には室町秩序によって支配を維持していた
更に親戚縁者が複雑に絡み合い、利害も多種多様に絡んでいる
一方を攻めれば一方から不満が出て、一方を助ければ一方が離反すると言った状態だ
勝っても負けても必ず誰かの仲裁が入り、これを無視すれば離反者がでるためにある程度聞き入れる必要がある
それに皆、代々幕府から支配を認められた勢力であるから討伐令でも出ない限りは私的な戦で安易に滅ぼす事はできない
あくまで戦は示威行為であって滅ぼす事を目的にはしていない
消極的とか言う問題ではなく、古来よりこういった伝統的秩序によって関係が保たれていた

176: 人間七七四年 2008/12/09(火) 14:46:10 ID:6i17Ml26
あと、宇都宮方面や、常陸南部は土地が平らで、境界線などあってないようなもん。

177: 人間七七四年 2008/12/09(火) 19:56:32 ID:46LOOwM2
その伝統をこっそり覆そうとしたのが義昭かな

183: 人間七七四年 2008/12/12(金) 19:59:12 ID:/jSz7sEN
常陸南部は平坦ではあるが今よりも湖沼や河川が無数に広がっていて往来が楽であったとは言い難い
常陸は中小勢力が犇めいていたが、地図で支配地を確認すると河川や湖沼を隔てて割拠しているのがよく分かる
橋がほとんど無かった昔は渡河するには思いのほか時間や金銭を消費した
こういった事も常陸路が流行らなかった一因になっているのではないかと思う
北は八溝山地が連なり陸奥とを隔て、西は筑波山地が下野とを隔て南は水域が下総とを隔て、東は荒波の太平洋があり案外閉鎖された地形であると言えるだろう
加えて西から東北へ向かうには距離的にも遠回りになるから常陸路から足が遠退くのは自然と言えるかもしれない

196: 人間七七四年 2008/12/27(土) 22:16:52 ID:d4xLGBMw
戦国板なのに、南北朝から律令制にまで話が遡っている・・・。

ある程度辺境で遠回りな方が、敵から攻められた時、堅い守りになる。

佐竹は太田舞鶴城は平時の行政のみと割り切り、実際の籠城戦では金砂城へ籠もる。
鎌倉時代も、南北朝も、山入一揆の時も。

風土記で一番記述が詳細なのも、常陸風土記。

今の東京は実は平安時代までは遠浅の海。「足立」は足が立つくらいの浅瀬という意味。
千葉県は島だった。安房が高岱で、その麓が上総、海に近い平野が下総。
今の利根川はむしろ海峡だった。で、霞ヶ浦・北浦の当たりに「鹿島神宮」「香取神宮」を建立。

昔の京とみちのくは、東海道ではなく東山道で結ばれていた。(今の北陸ルート)。
越後・信濃から関東に入り、上野、下野、常陸。

板東平氏が中心地と定めたのも、実は常陸。

199: 人間七七四年 2008/12/28(日) 11:58:10 ID:qK7sE4Mg
常陸は元々、平氏と藤原氏が支配する土地だったからね
というか関東自体そうだけど
佐竹は常陸平氏と結んで藤原系勢力らを駆逐し常陸北部に支配を及ぼすようになった
氏族としては源氏だが、新羅三郎義光が源氏の中で浮いていたためか極めて平氏と密接であった
その後も平清盛と関係を密にし着実に勢力を拡大、下野や下総まで及ばんとしていた
が、清盛が倒れ平氏が衰退すると矛先が一気に向けられて血祭りに上げられてしまったわけだが…
でも基本的にこの頃から1590年頃まで佐竹の支配は変わってないんだよね
奥七郡には400年の地盤があったが、400年の古習に足を取られる事にもなった
東北・北関東辺りの勢力は最後まで変わる事はなかった

引用元: ・\●/佐竹氏を語るスレ 其之参



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