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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/04/26(土) 16:20:43.38 ID:9U+oML/f0
良スレなのになかったので立てました。








4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/04/27(日) 22:13:38.41 ID:oMxGYBD70
俺40代自営業
とある農家のお客様のお宅におじゃました時のこと
もう何年にもわたり何度も出入りしていたのにそこの主の爺さんがある日突然「あんたの爺さんと同じ部隊だったんだよ」と話を聞かされた
俺は遺影でしか知らない爺さんの話を他人様から聞くことになるとは思いがけずつい長居した
でも南方だったか大陸かは忘れた

うちの婆さんは元気な頃は全く戦時中の話はしなかった
逆に痴呆がでだしてから人に聞かせる感じではなく「あの時は大変だったね」って一人言みたいに喋ってたのが印象的だった
きっと元気な頃はあえて口にしなかったんだろうな

もう一人の爺さんは復員していて高田浩吉という歌手(?)と同じ部隊だったらしい
昭和30年代だろう テレビにその人が出てる時に「この人と同じ部隊だった 歌が上手くてな」みたいな感じで家族に話したとか
wikiみたら戦前から芸能活動していて兵役に就いたみたいだけどテレビのない時代は知らなかったんだろう それとももう既に有名人でなんでお前がいるのみたいな感じだったのかな


話は戻ってお客様の爺さんのお宅は無事復員したその主によって農業をしっかり再興し栄えたのだろう
方やうちの婆さんは女手一つで貸家住まいから商売を起こし苦労して少しの財産と多くの信用を残し三代目の俺が曲がりなりにも今も商売を続けられている
戦後みんながいろんな苦労して日本が復興したんだなと切に思う

でも今の日本は英霊が残したかった日本になってるのだろうか
きっとなんだかなあって思ってんじゃないかな

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/05/06(火) 08:36:47.88 ID:B1po10/K0
死んだ祖父の誕生日が天皇陛下と同じ日だったので記念のメダルをもらっていたのだが敗戦時満州にいた時にやってきたロシア兵にもっていかれたため現存してない。
 

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/05/25(日) 04:55:53.24 ID:n+MZPRCb0
亡くなった祖母から1回だけ戦争の頃の話を聞いた。
約30年前の8月15日。
祖母の弟はとても勉強ができて、近衛兵となったそう。
ある時、出撃命令が下され、天皇陛下から直接タバコを戴いたそう。
そして、御国の為に帰らぬ人となった…。
細かい部分は忘れてしまったけど、そういう話。

俺は広島育ちだから、原爆の話、戦争の話を小学校で良く「平和教育」の名の下に聞かされていた。
図書館にあった「はだしのゲン」の影響もあり、天皇=悪! 戦争=悪!が頭に刷り込まれていた。

でも、祖母の悲しそうな中に誇りを感じる口調を前に「日本は悪いことをしてたんだろ?天皇は悪い人なんだろ?」なんて言えなかった。
祖母は静かに小さな声で話すんだけど、凄い迫力だった。
背負ってる物が違うように感じた。
話の最後に応接間を指差して、「あの人(祖父)も中国で戦ってきたんだよ」と。
祖父はキョトンとした顔で「何の話をしてるの?」と言っていたw

俺の優しいじいちゃん、ばあちゃんが悪人なわけないじゃねえか、と自分の中で物凄い違和感が生まれ、(しかし何故かゴリゴリの左翼だった中高時代を経て)大学生になって徹底的に歴史を勉強した。

…俺は俺達のじいちゃん、ばあちゃん達を心から誇りに思う。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/05/26(月) 05:03:05.11 ID:K0dSQ9m80
戦後直後「我々は第三国人である」って威張ってる人たちがいたので困ったという話をきいたことがある。

日教組の強い地域で育ったので、学校の先生の言ってることと違っててえらく混乱した。

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/07/11(金) 12:35:03.70 ID:JvgSCrWY0
うちの爺さんは都電の運転手だった。戦争が激化するにつれて運転手・車掌・整備・保線・交通整理もどんどん徴兵され戦地に送られた。

代わりを勤めたのが女性と朝鮮人で、特に女性車掌は評判が良く、以降都電やバスの女性車掌が定着して、戦後職員が復員してきても「車掌は女性」が変わる事はなかった。車掌は美人ぞろいで、若い運転手はみんな美人車掌と結婚した。交通整理(信号のある交差点は少なかったので、都電が通る交差点には交通整理の職員が立つ)も女性のほうがうまかった、と言ってた。女性が毅然として交通整理した方が、皆が言うことを聞くらしい。

女性はいいんだが、出稼ぎ朝鮮人にとって都電に勤務すると「俺は官員様だ」と思い込むらしく、プライドが高く使うのが大変だった、と言ってた。電車の運行はチームワークが重要なので、日鮮職員みんなで懇親会やったりしてチームワークを保とうと努力したが、酒が入ると朝鮮人は殴り合いを始めてしまうので、日本人職員が出席したがらないので困った。

一度百人町にある朝鮮人の後輩宅に野菜のおすそ分けを持っていった事があるがおっかないババアが怒鳴り散らして「多分、日本人が何しに来た、みたいな事を言ってたと思う、とのこと」殺伐とした感じだった。今に始まった事でなく戦争中から在日との融合は難しかったみたい。

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/09/05(金) 03:34:25.33 ID:8EXIHils0
戦争中の日本じゃなくて、戦争前の日本を取り戻そうとする右翼って少ないよね

うちのひいばあちゃんがそういう考えで部屋の鴨居(長押?)の上にはひいひいじいちゃんの写真と、違う壁の鴨居に昭和天皇のお写真が飾ってあった
いわく、戦争おっぱじめた「近衛」はいい男なのは顔だけでその実「天子様」は御神輿にしか思って無いアカだとかなんだとか
昔はみんな自由にできたし、彼氏(ひいじいちゃん)と「ラプソディ」っていう映画見に行ったり汽車乗り継いで銀座で遊びあるったもんだと

軍隊とアカが天子様よりもえらくなっちゃって、天子様の赤子を横取りして自分の飼い犬かなんかみたいに厳しく躾けだした
自由も奪って会社も国が買い上げちゃって、金儲けも口出すようになって、そのくせ配給でなんとかしようってんだからありゃ筋金入りのアカだ
どこにそんな権限があるんだバカヤロー!ってしょっちゅう怒ってたよw

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/10/24(金) 22:57:07.57 ID:DrKWKfBl0
終戦ちょっと前に生まれた祖母に聞いた話だけど祖母の父親(自分にとっては曾爺さんです)は戦争に行ったけど要領良く立ち回ってたから戦場にも送られず生きて帰ってこれたとよく自慢してたらしい。
その後は親の田畑を受け継いだりコンクリートが儲かると聞いてその事業で成功したみたいで21世紀まで生きて自分も可愛がってもらった記憶あるけどその話聞いたら何故か曽祖父が尊敬出来なくなった。
これはあくまで自分の曽祖父に対しての気持ちだけど要領良く生きるより戦地で正々堂々と戦って欲しかった。

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/10/26(日) 16:38:46.70 ID:i7I/ZFb50
>>15
その要領の良さは尊敬に値すると思うけどな
脳味噌一つで自らの身体から命の危機を遠ざけたんだろう? 
能力ある素晴らしいお人じゃないか
戦後に事業で成功したのなら経済の上で国に貢献したことになるし、尊敬の眼差しで見てもバチは当たらないんじゃないかと思いました
戯言失礼

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/11/02(日) 10:02:35.77 ID:mZHYs8yo0
かと言って「戦場で敵何人殺したぞ」と自分の子に語る戦争体験者もあまり居ないと思う

昔、鶴瓶の深夜Tvでの投稿で父親が縁側で近所のなじみの奥さんと庭を眺めながら
「俺も戦場では人を殺した」とポツリと言い近所の人が「そうか殺したのかぁ」と答えその後二人共無言になり座っていた

そんな場面を見かけてしまった娘さんからの「戦場で人は殺さなかった」と自慢する人はよく居たが、父の戦争体験なんて聞いた事もなかった。と家族にも言えない父親の心の内を察する娘さんの心情の投稿だった。

徴兵体験者が多く居た時代は、戦争で人を殺さなかった自慢は多かったんじゃないかな。

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/11/11(火) 04:10:23.12 ID:LUq1x5AE0
うちの爺さんは味噌屋の長男で、昭和12年に25才で跡を継いだ。
その際に世話になった地元小学校の恩師が18才のヤクザ風の少年Kを連れて来て「感化院(今の少年院)出たばかりのどうしようもない奴で、身寄りもいない、世話を見てやってくれ」と言われ、仕方なくKを住み込みで働かせてやった。Kは見るからにヤクザ風なので、他の従業員から白い目で見られていたが、爺さんが弟のように世話を焼いてやると更正して、真面目に働くようになった。そのKも3年後に21才になると徴兵検査で甲種合格となり、そのまま軍隊入り、既に日中戦争が泥沼化していた。
爺さんは3人兄弟で、次男は大戦が始まるとすぐに赤紙が来て、3男は学徒出陣。昭和20年春、長男の爺さんにもついに赤紙が来て連隊本部に出頭するとまず身体検査を受けた。結果を待っていると徴兵官の軍曹が爺さんの顔を凝視している。軍曹殿は赤鉛筆で書類の爺さんのところに大きく×を書いた。「○藤○郎、不合格!」と怒鳴る声に聞き覚えがあった、Kだった。立派になっていたので見た目では全く判らなかった。
身体検査で不合格になり、家へ戻された爺さんは21世紀まで生きて、その後新兵とともに満州へ渡ったK軍曹は生きて帰らなかった。Kの面倒を見たお陰で生き残った爺さんは、この話を一つ話のように語っていた
ちなみに弟2人も帰ってきた、3男はまだ生きている

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/03/09(月) 10:42:32.16 ID:PKAUgVc30
>>18
いい話だな

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/11/11(火) 15:39:19.90 ID:7I6SJBbNO
うちの爺さんは所謂西洋音楽マニアで、レコードやら楽器を集めてたらしいが、大戦終盤はそういう軟弱な趣味は憚られるようになり、敵性音楽だの言われて肩身が狭かったそうな。
しかも似たような軍歌ばかりで辟易とした社会だったと。
その反動で、戦後はパンクを始め、今じゃ丸禿げロックやってるぜ!!!

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/11/14(金) 03:25:24.73 ID:5GKT+F7y0
うちの近所では昭和20年8月15日の朝に海軍機に空爆されて大きな被害を出した
農村で軍事施設などもないから一度も空爆などされた事がなく、まさか爆弾落とされると思わず、朝飯を食べていた家が多く庭に爆弾が落ちた家は爆風で家が倒壊、都会から疎開していた親戚も含めて11人中9人が即死、爆風で遺体損傷が酷くて男か女か判らなくて困ったそうだ
8月15日は村人みんなで遺体捜索や片づけに追われ、玉音放送も聞いたけどあまり記憶にない。爆風で顔と頭がズル剥けて男か女かも判らない遺体の印象のほうが強い、と婆ちゃんが言っていた。

戦後の米軍の記録によると、飛行停止命令が出る直前だったから、最後に弾薬を全部使ってしまえと関東上空を中心に、数百機の海軍機が我が物顔に飛び回っていたそうで、遊び半分に、民家とか普段狙わない標的を狙って爆弾を落としたらしい

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/11/15(土) 08:37:31.28 ID:FXjfrOGEO
鬼やな。

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/12/29(月) 21:59:53.66 ID:zCIAXpNj0
老人施設の年寄りに聞いた話ですが
昭和19年の神戸市の中学校の生徒の大みそかは、友人の家に集まり三宮の生田神社と兵庫の湊川神社へ初詣に行き、小学校時代の同級生の巫女さんをひやかし、闇屋で酒を飲んで福原の遊郭に行くことだったそうです。ちなみにその爺さんは神戸中学、火垂るの墓の清太と同じ学校です。
しかし神戸中学には餓死した同窓生なんか一人もいなかったと言ってました。
また昭和20年の9月頃は須磨海岸で浅利を取ったり、長田港で漁師の手伝いをして魚を貰ったり、六甲山で牛乳絞りをして現物をもらったりで飢えるようなことはなかったそうです。

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/01/18(日) 04:46:33.22 ID:7qEzI2Ak0
爺さんは米どころ新潟の農家出身で日米戦争始まった時は中学生だったので、東京の親戚に米を運ぶのが仕事だった。東京で羽振りのいい叔父さんの所へ米を届けると叔父さんは「よく来た」と言って銀座の資生堂パーラーでホットケーキをご馳走してくれた
全く経験した事のない衝撃のウマさに「本当にほっぺたが落ちるかとおもった」と言っていた

29: まさ 2015/03/16(月) 18:03:44.49 ID:NjBdXu/Q0
今年78になる親父から聞いた話
子供のころ住んでいたのは茨城県の磯原(現北茨城市)
風船爆弾の発射基地があったのは隣町の大津
なので毎日たくさんの気球が飛んでいるのが見えたそうです
空を埋め尽くすくらいの数の風船爆弾を眺めながら
あれがアメリカまで飛んでいくんだなどと同級生達と話していたそうです。

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/03/19(木) 10:41:33.37 ID:SnylIWM20
学生時代の話だけど
クラス担任的な先生がいらしてあるときクラス全員にご自分の経歴など話してくれた事があった

もともとは海軍士官になりたくて江田島の海軍兵学校で学んでいた
でも戦争末期だったので卒業しても乗りこめる艦艇などあるわけが無くて陸上の防御陣地の指揮をとっていた
その陣地では敵機の攻撃を受け「今度こそもう駄目だ」と死を覚悟したことが何度もあったそうです

終戦後は職業軍人とみなされて公職追放に指定されてしまい就職できなかったそうです
警察予備隊が設立された時も入隊したかったけれどまだ指定されたままだったので志願できなくて しい思いをしたとのことです
それでもあきらめずにいてやっと追放が解除されたのですぐに志願して入隊したそうです
そしてそのまま陸上自衛隊に勤務されて陸将補で退官されたということです

「自分は戦争中に何度も死を覚悟した、だから今更怖いものなどなにもない」とも仰られていて事実学生がその筋の(いわゆるカタギでは無い)人たちとトラブルになった時も単身相手の事務所に乗り込んで直接話合ってトラブルを無事に解決したこともあったそうです。

例としては不適格かも知れませんが男塾の江田島塾長のような独特の風格をおもちでした

わたしが社会人になってから自衛隊や防衛省の方たちと何度かお仕事をさせていただいたのですがあれほどの風格をお持ちの方はいらっしゃらなかったですね、器が違うとような感じでしたね

やはり死線を踏み越えるというような特異な体験がないと見つけることができないのでしょうか

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/22(金) 20:52:23.36 ID:OgwOkhAR0
去年、祖父が亡くなった。
海軍の船乗りだった。
支那事変から従軍していたのと海大出で結構な階級だった。
軍人一家のため、弟の大叔父は近衛中尉。

その祖父の母、曾祖母の話
日露戦争に従軍、ハルピンの前線の陸軍戦時病院から大連にある後地軍事病院までを行き来した看護婦だった。

婦長の曾祖母は、ある程度の高官専門に看ていたとのこと。
曾祖母の担当したある軍人さんは、笑顔がステキな優しい優しい軍人だったらしく軍人であることを忘れるくらい。
田中さん(僕の名字、仮名)ここでゆっくりお茶でも飲んでいきなさいよ、頂いた金平糖とビスケットがあるけど食べませんか?と、どっちが患者かわからないくらい優しかったそう。
ある日、曾祖母は内地転換の辞令が出た、日露戦争が終結に向かうのは、運ばれてくる兵隊の量で曾祖母も気づいていたらしい。
帰国し徴用解除、勲八等叙勲。

その後、大正に入り実家で主婦業に勤しんでいると、ある日、朝日新聞、地方紙の記者が黒塗りの取材ハイヤーに乗り10人くらいおしかけてきたそう。
明治の女は強いとばかりに『何事ですか、騒々しい。うちには新聞に載るような悪さをするような人間はおらん』と記者を並べて捲し立てたそう。
記者たちは、無礼を平謝りし『香椎浩平陸軍中将閣下がこの度、熊本第六師団長に任ぜられました。
着任の挨拶の際【日露で死に目を見たこの私が今諸君らの眼前にあるのも従軍看護婦の手厚い看護のおかげであり、国体一丸となり有事に向かう精神を決して忘れるな】と述べたあと司令室にての囲み取材であのときの看護婦に一言礼を改めて申しあげたい、熊本出身と聞いて同じ九州ものとしてあの時気持ちがいくぶん楽になったとのことで、田中さんに当時を振り返って頂いて取材と司令室までご案内さしあげたい』と。

曾祖母は、びっくりして家で一番の着物を羽織り向かったとのこと。
当時の写真と切り抜き記事は実家にある。
また第六師団だった大叔父は、その後師団長推薦で近衛兵に。
小さい頃から直接聞いて、亡くなったあとも祖父もよく話していたがもっと詳しく聞いておけばと後悔。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/24(日) 03:49:41.72 ID:1U8gOGsa0
在日朝鮮人だが、祖母も祖父もいわゆる強制連行とかじゃなく普通に来た。
みんなそうでしょ。戦時中婆さんは挺身隊で軍需工場に動員もされたが、模範的日本人として表彰もされた。婆さん曰く、いつも助けてくれたのは日本人だって。戦後密造酒で生計立ててた時も、いつも気にかけてくれてた警察署長の奥さんが、手入れあるみたいだよって教えてくれてたらしい。で、手入れの原因が朝鮮人の嫉妬によるチクリ

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/08/15(土) 17:46:09.00 ID:NGIzduFi0
関東の太平洋沿岸の町で生まれた親父の話です
戦争当時小学生だった父は浜辺で婦人会の人達が竹槍訓練をしているのを見たそうです

現場は遮蔽物など何もない開けた砂浜なのでそんな所で竹槍構えていたら敵に銃撃されてすぐに全滅だと思いますがあの当時はみんなまともな判断ができなかったんでしょうね

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/08/15(土) 22:11:13.84 ID:yiQzAdYL0
>>46
まあ竹槍訓練すること自体がアレだからな。

俺の父親(大正14年生)が満州在住で関東軍に召集され、敗戦間際丘に自軍が居て周りをソ連の戦車が取り囲んで、打開できるわけ無いのに何人かは粗末な爆弾抱えて(「アンパン」のような立派なものではない)戦車の下に突っ込んで自爆したが戦車はちょっと揺れるだけで何事もなかったかのように動いていたと。

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/08/23(日) 17:46:23.21 ID:8VFCqk9t0
親父が住んでいた所は田舎町だったので戦争が終わっても特に米軍が進駐してくるということはありませんでした
それでも一度だけGIが来たことがあったそうです
町で一番大きな病院にきたそうです

GIが子供にお菓子をくれるとという噂は親父達も聞いていたので友達と一緒におっかなびっくりで病院の前にとまっているジープに近づきました
するとGIは親父達に一枚ずつガムをくれたそうです
なんの用事でGIがきたのかはわからないそうです

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/08/29(土) 17:25:53.06 ID:zL26A2UN0
>>52
うちの婆ちゃんの家もド田舎なので進駐軍の駐留とかはなく、ジープ2台で一度来ただけだが、婆ちゃんの家の前まで来ると一人が大声出してジープが急に止まり、米兵達がジープ降りて、難しい顔をしながら婆ちゃんの家の門前辺りを指さして話し込み始めた。
土蔵の2階に隠れて、小さな窓から見ていた婆ちゃんはドキドキだったそうだ。原因は、その地方ならどこにでも咲いている赤いケシの花
翌日「道端のケシを抜け」と村役場からお達しが来て、みんなで訳もわからず抜いたそうだ。ケシは強いから翌年は元通り生えてきたそうだけどね。

多分、そちらに行ったのも「感染症が流行っていないか」「結核患者はどれぐらいいるか」等の衛生管理が目的だった可能性が高いと思われ
特に当時の日本は結核患者の数が多くて、GHQも進駐軍に感染する事を恐れて結核患者の数が増えていないか常にチェックしていたから、病院に行ったならその関係の調査の可能性が高い

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/08/27(木) 23:05:17.59 ID:5/fm6fhY0
ご先祖様は戊辰戦争戦ったんだぞ!
その話は小さい頃よく聞いた。
もっとも爺さんは俺が子供のころ死んだ。

亡くなる前にちょっと踏み込んだ話を聞いたが、小学生の頃だし歴史になんか興味を持つ以前の事なので、何となくうろ覚えしてた。

話と言うのは、
ご先祖様・・といっても、爺さんの爺さんなんだけど江戸の市内取り締まりをしてて、薩摩屋敷砲撃したとの事。

今何気なく思い出して調べたら、政治的な前段階はあるにせよ、実力行使で戊辰戦争の発端になった江戸の薩摩藩士包囲攻撃ってこれじゃないか!爺さんの爺さんが戊辰戦争おこしたと思ったら複雑だわ、しかも最初に屋敷に入ってるし・・・

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/08/31(月) 23:25:32.24 ID:+c0o+ztp0
爺ちゃんは戦争中子供で行く事はないけど、毎日食べ物が家にあるわけではなく、畑あさったり魚取りに行ったり子供ながら食糧は自分で得る生活でつらかったと言っていたが、婆ちゃんは、近所から色々分けてもらったし家にお手伝いさんいたり、特に苦労した事はなかったみたい。

結婚時は身分の違いでものすごく反対されたそうだ

58: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/09/07(月) 12:13:50.69 ID:QFx13mK70
終戦時に小学二年だった親父に墨塗り教科書について聞いてみた
教科書に墨をぬったの?と聞いたら最初はなんの話のわからない様子でした
そして教科書の話だといったら墨塗りでは無くて先生が手書きのガリ版で藁半紙に印刷した紙を教科書がわりにして授業を受けたそうです
小学校低学年だったからでしょうかね

59: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/10/20(火) 16:35:19.66 ID:ogRSs5W70
うちの祖父は太平洋戦争時、空母赤城に乗ってたんだけど、どーしても気になる話がひとつある。

真珠湾だったか他の攻撃だったか分からないんだけど、撤退時、1隻だけものすごく走るのが遅い艦があったんだって。けどその艦に合わせてたら反撃くらってしまうからって、「貴艦の幸運を祈る!」つって泣く泣くその艦残して先に帰った。

恐らくダメだろうなと思ってたけど、その数日後、その艦は無傷で無事帰ってきた。

っていう話なんだけど、史実調べてもそれっぽい話が見つからないんだよなぁ。
祖父は残念ながらもうだいぶ前に亡くなってしまって、父が祖父から聞いた話を又聞きしてるだけなんで、空母だったって言ってた気がする、とか言ってたけどそれもあいまい…。

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/01/04(月) 21:36:22.59 ID:jw4D4dvq0
>>59
うちの爺さんも空母に乗ってたらしいけど、潜水艦を追い掛け回してた。とか、艦隊から迷子になったとか、味方の迷子船を捜してたとかって話を聴かされたんだけど、ほんとにあったのかしらん?
有名どころの空母の史実にそんなのなかったぜ。

104: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/06/16(木) 03:30:08.93 ID:LJwyUIcz0
神戸の中学に通っていた俺の爺ちゃん、同級生が甲子園ホテルでボーイのバイトをしたら進駐軍のアメリカ女と一発できたという自慢話を聞き、死に物狂いで英語を勉強してドアボーイとして採用。
三か月働いたが、一発もやれず童貞のまま辞めました。
その後、学制変更で中学校が高校になり神戸大に進学、語学力を買われ共同通信に入社、平凡な人生を終えました。
その孫の俺、魔法が使える年齢になりました。

122: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/10/23(日) 01:53:20.35 ID:lgw678wE0
第二次世界大戦で、じいちゃんはゲリラ活動中の金日成を追ってたらしい。
やっと見つけた金日成に向かって一斉射撃したけど、逃げられたって。
「あの野郎、あのとき殺しておけば」
って、北朝鮮関連のニュース見ながら呟いてて、まじで驚愕戦慄した。

127: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/10/24(月) 02:30:51.80 ID:qzr2opw30
金日成追ってたじいちゃん。

あと、新兵で中国のどっかに派遣されたとき、度胸をつけるためと称して、なんの罪もない中国人を銃剣で殺すように命令されたんだって。

周りでその男の家族が泣いて命乞いするなか、命令に従わざるを得なかったって。
あれは心底辛かった、と。

狂気だよね、本当に。

128: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/21(火) 15:57:48.69 ID:sTwBsG+A0
もう誰も見てないかな。
父方母方の先祖達の話を色々聞いたから、書き込みたい。
ちなみに2ちゃん書き込むの初めてなので、変なとこあったらすみません。

母方の曽祖父母の話。
明治の人で、曽祖父亡き後、ひとり残っていた曽祖母が亡くなった後、日記や手紙などから祖父らも知らなかった曽祖父母の来歴が分かったらしい。
祖父達が信じてた曽祖父母の過去は「九州から進学のため上京した曽祖父が、遠縁の曽祖母と親戚の世話で結婚し、東京で所帯を持ち、卒業し就職した」というもの。

でも本当は九州で地方役人の夫と子供のいた曽祖母は、うだつの上がらない夫より書生だった曽祖父の有望さに賭ける気になり、何もかも捨てて7歳年下の曽祖父と東京に駆け落ち。 東京の学校に曽祖父を入れて曽祖母が稼ぎながら卒業させ、判事にさせた、というのが真相だったらしい…。

ちなみに祖父ら子供達は、曽祖母は曽祖父より3歳年下だと聞いてたらしい。サバ読むひいばあちゃんがちょっと可愛い。
母親が結婚前に亡くなったので私は会ったことはないけど、亡くなる直前まで、ピンと背筋を伸ばしてハキハキ物を言う、気の強い人だったらしい。
祖父曰く、「明治生まれの女の胆力は凄まじいからなぁ」だそうな。

130: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/21(火) 16:17:59.47 ID:sTwBsG+A0
父方の先祖の話。

曽祖父は孝と言うが、孝の親の話。
孝の父親は寅次郎と言い、村のお巡りさんだった。
犯人逮捕の賞状や立派なお墓なんかがあり、孝も写真や故人にまつわる物が多く残されていたから、この2人の親子関係をみな信じていた。
けれど本当は、孝と寅次郎の関係は父子ではなく、祖父と孫だった。
寅次郎には娘が2人しかおらず、長女に遠方から婿を取ったそうだ。
長女は孝を生むが、産後が思わしくなく、他界した。
昔の風習で、次女が婿と結婚し、孝を育てることになったが、その前に易者に結婚の良し悪しを占ってもらったそうだ。
すると「干支の回りが良くない」という結果が出て、寅次郎はそれを信じたらしい。

婿は実家に帰ることになり、孝は次女が独身のまま育てることになった。
両親不在と言う理由から、孝は祖父である寅次郎の養子となって、育ったようだ。
婿のことは、寺にも当然墓にも記録が残ってないし、うちにも手紙のひとつも残されてない。 なので今となってはどこの人なのか、名前は何か、ということすら分からなくなってしまった。

祖父の葬式の席で、祖父の妹である大叔母に聞いた話です。 この話は祖父も祖父の弟も、誰も知らなかったらしい。
大叔母はその話を大叔母(孝を育てた寅次郎の次女)から、家の歴史として他所に嫁ぐ際に聞いたらしいです。その話を聞いた時、父親が驚きすぎてギックリ腰になったのはダブルで衝撃的だった…。 お婿さんカワイソス

133: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/03/08(水) 14:10:31.53 ID:SGKTtrxd0
大正の終わり頃、俺の爺さんは大学生で、旧大名の伯爵家の書生をしていた。常に書生が3名ほど、女中さんが数名、執事と運転手がいたそうだ。書生は子供達に家庭教師したり、庭仕事など力仕事をやる他に、伯爵家の護衛係でもあるので、みな体格が良かった。

伯爵様は貴族院議員だったので、自宅に政治家がよく来た。政治家が来ると、茶を出すのは書生の役目で、女中は客間に入れなかった。話が外に漏れるのを警戒したんだろうな。

世相を反映して右翼みたいのも来たそうだ。その時は警棒や目つぶしを学生服に仕込んで、皆で部屋の中で控える。右翼が子爵様を威嚇するような事を言うと、黙ったまま全力で右翼を睨みつける。

それから20年後、戦争が激しくなると、伯爵夫妻が女中一人を連れて3人で我が家の離れに疎開して来た。伯爵様が女中を呼ぶ時のカン高い「きーわー」という声が、時代掛かっていて可笑しくて、親父たち兄弟は声マネをして、祖父に叱られた。

135: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/04/01(土) 21:09:56.36 ID:pQgZue960
訪問先のお婆さん(大正4年生まれ)から聞いた話。
農家の女が初めてタクシーに乗る時=嫁入りの時 だったそうな。

引用元: ・爺さん婆さんから聞いた幕末明治大正昭和の話5


戦前の生活―大日本帝国の“リアルな生活誌” (ちくま文庫)
武田 知弘
筑摩書房
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