1: 日本@名無史さん 2007/03/06(火) 22:56:44
村上天皇の第二皇子。
記述によれば、大変な美形・精神薄弱だったそうですが






冷泉天皇(天暦4年5月24日(950年6月12日)- 寛弘8年10月24日(1011年11月21日)、在位:康保4年10月11日(967年11月15日) - 安和2年8月13日(969年9月27日))は、日本(平安時代中期)の第63代天皇。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。

第二皇子であったが、異母兄の広平親王を押しのけて、生後間もなく立太子。時の権力者である藤原実頼・師輔の兄弟の力が働いていたと思われる。康保4年(967年)、村上天皇の崩御を受けて18歳で即位。この時初めて紫宸殿で即位式を行った。精神に病があり皇太子の時代から問題になっていたことから、藤原実頼が関白についた。同母弟の為平親王(村上天皇第四皇子)と、もうひとりの同母弟の守平親王(村上天皇第七皇子、後の円融天皇)の間で冷泉天皇の皇太子(皇太弟)をめぐって安和の変が起こった。




5: 日本@名無史さん 2007/03/07(水) 12:55:55
綺麗な名前だな。そんだけ。

6: 日本@名無史さん 2007/03/07(水) 23:10:59
村上天皇は16人の子供がいましたが中でも一番可愛がっていたのが第二皇子の冷泉天皇だといわれています

23: 日本@名無史さん 2007/03/15(木) 08:01:20
>>6
それは違うな
村上天皇と安子皇后が一番可愛がっていたのは冷泉天皇の同母弟で円融天皇の同母兄の為平親王だよ

しかし為平親王が同母弟である円融天皇に皇位を奪われたのは為平親王妃の父親が、左大臣源高明(醍醐天皇の皇子)だったからだ
藤原氏としては、源氏に天皇の舅の地位を取られる訳にはいなかったからな

7: 日本@名無史さん 2007/03/08(木) 01:44:11
今で言うアスペルガー?

8: 日本@名無史さん 2007/03/09(金) 20:17:39
梁に毬を乗せようとして、1日中蹴り続けていたとかいう話だっけ?

12: 日本@名無史さん 2007/03/12(月) 18:58:31
冷泉帝は退位後42年生きた(61歳で崩御)。
陽成帝は退位後65年生きた(81歳で崩御)。
退位後は何をしていたのだろう?
全く表舞台に現れなかったというのが不気味だ

13: 日本@名無史さん 2007/03/12(月) 22:42:48
花山院は荒くれどもを集めて大暴れ
陽成院は色事に精を出した
陽成院のヤバい恋人って誰だったっけ?

それに較べて、冷泉院はつまらんな・・・何か逸話あったっけ?

14: 日本@名無史さん 2007/03/12(月) 23:13:34
>>13 
冷泉帝は五、六歳の時に父帝にあてた手紙に男性性器を描いたとか、思春期になっても天井高く鞠を突き上げる遊びにこだわり、いつまでも続けていたらしい。

18: 日本@名無史さん 2007/03/14(水) 23:36:55
>>14のエピからすると、精神分裂病というより自閉症って感じかな?
素人の印象だけど

退位してからの逸話なら、自邸が火事で炎上しているのを見ながら、「庭火」を意味する題の神楽を口ずさんで、群臣に笑われたというのがある
このエピなんかは、不遇の院への同情と、冷遇されても強くというか飄々と世を過ごしたある種のたくましさを感じるといったら、考え過ぎかな?

20: 日本@名無史さん 2007/03/15(木) 01:06:25
>>14
>冷泉帝は五、六歳の時に父帝にあてた手紙に男性性器を描いたとか、

出典は?

24: 日本@名無史さん 2007/03/15(木) 20:44:36
>>20 
『歴代天皇のカルテ』って本に載ってた。
「大鏡」「江談抄」「古事談」からのエピソードらしい。
冷泉天皇は幼少より顔つきや日常生活動作が普通ではなく…
とも書いてあるが、そんな奴天皇にするなよ

11: 日本@名無史さん 2007/03/11(日) 00:57:19
元方の民部卿や桓算供奉の怨霊でもいいから、とにかく誰かにとりつかれて欲しい過疎スレであった

26: 日本@名無史さん 2007/03/17(土) 00:25:45
冷泉の孫娘(花山の皇女)は野犬に喰われた
これも元方の怨霊は三代後まで発揮している

28: 日本@名無史さん 2007/05/02(水) 17:04:32
>26
花山天皇の皇女は、強盗に殺されたんだよ。
万寿元年十二月八日に事件発覚、万寿二年三月十六日に犯人が逮捕されている。
若くして退位させられた花山天皇は、自分の乳母子やその娘にまで子を産ませ、随分身分の低い女性とも交渉があったらしい。

77: 日本@名無史さん 2007/05/12(土) 22:01:52
>>28
あれ(゚Д゚)
花山の皇女は恋愛トラブルで袖にした男に、屋敷内から連れ去られて真夜中に全裸で川に投げ落とされたと記述があるよ
皇女は自力で川から上がり助けを求めたものの誰も来ず、寒さと体力消耗とで凍死。
その凍死体を通りかかった野犬が食い散らした。

ちなみに昔の平安時代は現代より平均気温が低く寒かった(現代は温暖化だからなぁ)

78: 日本@名無史さん 2007/05/13(日) 00:16:47
全く同じ話が今昔物語?か何かにあった
ディテールも全く同じ
野犬に食われて骨と黒髪だけ残ったってやつ
花山天皇の皇女の話なのか
強盗に身ぐるみ剥がされて川に落ちたってことになってるけどほとんど同じ
これ実話なら衝撃だよなあ

79: 日本@名無史さん 2007/05/13(日) 06:47:01
>>77-78
今昔物語などの説話は、作り話も含まれているからね。
>>77の出典は何?
万寿元年十二月八日に事件発覚、万寿二年三月十六日に犯人逮捕の記事は、国史大系板「日本紀略」にあるもので、信憑性は高いと思うよ。
恋愛絡みのネタではなく、犯人は物取り目的と思われ、皇女を殺した犯人が逮捕されてる。犬の話は出てこない。

82: 日本@名無史さん 2007/05/13(日) 20:09:40
>>79
「殴り合う貴族たち」に話が出てましたね。
それによると、小右記に、「花山院の皇女が盗賊に殺され、遺体が犬に食い散らかされた。実際は盗賊ではなくなにものかが誘い出して殺したのだ、という噂もある」とあるのだとか。
で、万寿二年三月に逮捕された容疑者の口から、首謀者として左中将某の名が出たため、実資や道長、頼通も驚いたとか(万寿二年七月二十五日)。

その三日後に名前不詳の「真犯人」が、「全て私がやりました」と自首してきて幕になったそうですが、なぜか万寿三年四月に、件の左中将は理由も不詳のまま右京権大夫に落とされ、後は権守やら左京大夫を歴任して終わったそうです。

84: 日本@名無史さん 2007/05/13(日) 21:59:54
>>82
左中将某=伊周の息子だっけ?

85: 日本@名無史さん 2007/05/13(日) 23:55:02
>>84
>左中将某=伊周の息子だっけ?
ですね。荒三位と呼ばれていたとか…。

86: 日本@名無史さん 2007/05/14(月) 00:50:34
>>85 
藤原道雅だね。
花山法皇に矢を放った伊周に負けないくらい、かなりのドキュンだったようで…

19: 日本@名無史さん 2007/03/15(木) 00:25:04
そもそも精神異常に至った原因はなんだろう
生まれた時は正常だったろうし

29: 日本@名無史さん 2007/05/02(水) 17:23:51
>19
「大鏡」によれば、冷泉天皇は、賢帝とたたえられた父村上天皇よりも整った顔立ちをしていたと書かれてありますし、五体満足ではあったのでしょうね。五体満足ならば、生まれた時は正常だと思うでしょうね。生後約3ヶ月で皇太子に立てられたときには、異常はわからなったかもしれない。
村上天皇の皇子については、乗馬の際、馬のたてがみを口でくわえ、必死でしがみついていたと言う第八皇子永平親王の逸話もあり、冷泉天皇と同じような症状だったのかもしれません。

36: 日本@名無史さん 2007/05/07(月) 08:32:27
近親婚のせいかもねぇ。

37: 日本@名無史さん 2007/05/07(月) 09:28:01
日本で近親婚はやばいという認識が生まれたのは いつごろなんだろう。

38: 日本@名無史さん 2007/05/07(月) 10:09:25
>>37
近代まで認識はなかったんじゃないかな?
鳥羽天皇と待賢門院(いとこ同士の結婚)の皇子にも正常な人もいたし、冷泉天皇の両親、村上天皇と中宮安子(いとこ同士の結婚)の皇子女も、冷泉天皇以外は正常だった。
冷泉天皇ののちに続く、花山天皇、一条天皇、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇、すべて両親はいとこ同士。
後冷泉天皇の両親は叔母と甥で、後三条天皇の両親がまたいとこ婚。
天皇家は、江戸時代末頃まで、近親婚(おじと姪、おばと甥、いとこ間の結婚)を行っていたよ。

42: 日本@名無史さん 2007/05/08(火) 08:58:50
冷泉天皇の叔父朱雀天皇も、精神薄弱だったというね。
朱雀天皇は、醍醐天皇と関白藤原基経の娘中宮穏子の皇子だけれど、(ちなみに、醍醐天皇の母は藤原氏だが、穏子との血縁は少し離れている)中宮穏子が21歳のとき生んでいた皇太子保明親王は早世、保明親王の遺児慶頼王が皇太子に立てられたがこれも早世(菅原道真の祟りとされた)。
藤原氏が天皇家の外戚としての地位を失おうとしているまさにそのとき、中宮穏子が懐妊、39歳で生んだのが、朱雀天皇。怨霊を避けるため、3歳まで御簾内から出さず、夜も灯りをともして育てられたと言うが(大鏡)、精神薄弱で政治を執ることができなかったため、叔父の藤原忠平が史上2人目の関白に就任、藤原氏の発展を築いた。
中宮穏子はこの後、41歳で村上天皇を生んでおり(村上天皇は冷泉天皇の父)、こちらは賢帝だったため、藤原忠平の死後は、摂関を置かなかった。

43: 日本@名無史さん 2007/05/08(火) 09:14:31
3歳まで御簾内から出さずか。
そりゃクル病にもなるだろうし、精神の発達にも支障をきたしそうだな。
先天性の障害か後天性の障害か判別できんな。

44: 日本@名無史さん 2007/05/09(水) 15:45:09
冷泉天皇の奇行(「江記」などより)
・足が傷つくのも全く構わず、一日中蹴鞠を続けた
・父帝に手紙の返事として、男性の陰茎が大きく描かれた絵を送りつけた
・清涼殿近くの番小屋の屋根の上に座り込んだ
・病気で床に伏していた時、大声で歌を歌っていた
・退位後に住んでいた御所が火事になった折、避難する時に牛車の中で大声で歌を歌った


普通こんな皇太子は廃位されるだろ、常識的に考えて…

53: 日本@名無史さん 2007/05/10(木) 18:23:44
>>44 
歌とサッカーと高い所が好きなだけで、精神薄弱扱いされるこんな世の中じゃ…

45: 日本@名無史さん 2007/05/09(水) 16:03:42
皇太子時代の冷泉天皇には、冷泉天皇の母中宮安子の長兄である
藤原伊尹が、娘の懐子を送り込んでいたからね。
冷泉天皇は生殖能力だけは正常で、皇太子時代に妃の懐子との間に皇女をもうけていたから、伊尹にとって懐子の皇子を帝位につけるために、冷泉天皇を即位させることは重要だったろうね。
案の定、冷泉天皇が即位した翌年、懐子に師貞親王(のちの花山天皇)が誕生したため、
冷泉天皇は在位2年で退位させられてしまった。

46: 日本@名無史さん 2007/05/09(水) 19:04:01
>>45 
第一皇女は14才の時に生まれたしね。
女好きは花山帝も同じだったらしく、妻の母との間にも子供を作ってるW

103: 日本@名無史さん 2007/05/15(火) 22:25:28
朱雀天皇の愛娘で冷泉の皇后昌子内親王は美人だったらしいけど子供できなかったね。

104: 日本@名無史さん 2007/05/15(火) 23:02:05
出来なかったと言うよりも出来るわけないってか。
冷泉の狂気を怖がって殆ど近付かないで、里邸に籠もっていたらしい。

106: 日本@名無史さん 2007/05/16(水) 01:08:11
冷泉の子供を生んだ二人の女御は早くになくなったし、妻として付き合うには大変な方だったのかもね

107: 日本@名無史さん 2007/05/16(水) 09:25:18
>106
冷泉天皇の女御は早く・・・といっても、冷泉天皇の女御藤原懐子は40歳、女御藤原超子は年齢不詳(この人は20代後半ぐらいかも)、同じく年齢不詳の女御藤原付(付の下に心)子が冷泉没後円融天皇に出仕しているところを見ると、歴代天皇の女御と比べてそんなに早死にではなかったかも。冷泉天皇の弟円融天皇の女御の場合、藤原詮子が41歳、尊子内親王が20歳で死去しているので。
花山天皇が即位したとき生母は亡くなっていたことが知られるので、懐子は早死にのイメージがあるのかもしれないけれど、当時の平均年齢からするとそれほど早死にだったわけでもない(ちなみに藤原懐子は冷泉天皇より3歳年上)。
冷泉天皇と同年生まれだった中宮昌子内親王は、冷泉天皇より早く、50歳でなくなっていますね。


108: 日本@名無史さん 2007/05/16(水) 12:36:39
平安時代の平均寿命が30歳前後だったよね?
一条天皇の中宮・藤原定子は25歳で死去

109: 日本@名無史さん 2007/05/16(水) 13:01:56
>108
藤原定子はお産で死んだから、寿命とは言い難いのだけれど。

東三条院藤原詮子は、弟藤原道長の邸で、一条天皇と中宮彰子臨席のもと、盛大に「四十の賀」を開いている。
いわゆる、長寿を祝った行事で、「五十の賀」「六十の賀」なんてのもあるのだけれど、最初の賀が四十歳から。四十歳が長寿と見なされていたことがわかる。

110: 日本@名無史さん 2007/05/16(水) 13:25:41
>>109 
じゃあ冷泉帝の62歳は長寿だね。
陽成帝の82歳は化け物か…

112: 日本@名無史さん 2007/05/16(水) 18:09:11
近代以前の平均寿命は、乳幼~幼年までの死亡率が高いから、平均がガクって落ちるけど、10歳ぐらいまで生き延びると、そこからはかなりの高確率で50歳近くまでは生きていられたそうだにょ。

114: 日本@名無史さん 2007/05/16(水) 18:43:34
こうしてみると
女性はお産で死ぬ確率高いんだね
昔の女性は、妊娠したら生きるか死ぬか賭ける感じでガクブルだったんだろうか…

115: 日本@名無史さん 2007/05/16(水) 20:17:36
戦前まで生きるか死ぬかの危険があったからな、妊娠は。

121: 日本@名無史さん 2007/05/17(木) 22:19:31
冷泉天皇のお后でなんか変わった死に方をした人がいたようだけど
朝方に、肘をついたまま眠るように亡くなっていたやつ?

122: 日本@名無史さん 2007/05/18(金) 01:40:27
>>121 
冷泉帝の寵愛が篤かったという三条天皇生母、藤原超子(854~882)ですね。(;´Д`)ハアハア

136: 日本@名無史さん 2007/05/19(土) 00:13:35
冷泉帝は弟の円融帝と比べると子沢山だけど、円融帝の実子が一条帝ただ一人というのが何とも・・・
一条帝の実父は冷泉帝だったりして・・・。

138: 日本@名無史さん 2007/05/19(土) 11:46:09
>>136 
一条天皇は歌や笛など芸術面に秀で、また温和な性格だったらしいから普通に円融帝の子供じゃない?
冷泉―花山ラインのドキュンさが見られないしね。

142: 日本@名無史さん 2007/05/20(日) 18:23:05
冷泉帝は退位後、大好きなサッカーと歌三昧の悠々自適な生活を送っていたんだろうなぁ
牛車の中でもギター片手に

143: 日本@名無史さん 2007/05/21(月) 02:07:11
屋根に登ったのは、きっと一人になりたかったんだよね。
イケメン冷泉帝( -_-)

144: 日本@名無史さん 2007/05/21(月) 22:37:12
冷泉帝の和歌って残ってないのかなぁ
確か陽成帝は残ってたと思ったが

151: 日本@名無史さん 2007/05/25(金) 23:50:47
扶桑略記には陽成帝は御所を抜け出して六条の公家の屋敷に盗みに入ったという記述があるが、冷泉帝が屋根に登ったのは御所の外でめいっぱいサッカーをしたかったんだと思う。
悲しいかな冷泉帝はその勇気が無かった。
御所が火事の時、避難する牛車の中で大声で歌を歌ったのは、御所の外へ出れてうれしかったのだろう。

153: 日本@名無史さん 2007/05/27(日) 12:07:17
冷泉帝の狂気の原因は村上天皇の第一皇子・広平親王を立太子に出来なかった外祖父の藤原元方一派の怨みがもとだと思う
広平親王と冷泉帝は同じ歳の異母兄弟なんだが、母親の身分の差でアサーリ後継争いから脱落
二人の皇子が三歳の時に、元方は恨みながら死去。
そうしたいきさつから、元方の呪いを恐れた冷泉帝の母の安子中宮一派は幼い憲平親王(冷泉帝)を絶対に外に出させなかったと思う
当時は、魔物や物の気の存在が信じられていたし外に出れば元方の怨霊に殺されると思い込んでいたと思われる

154: 日本@名無史さん 2007/05/27(日) 12:12:56
ところが、回りの過剰心配のせいでまだ幼いうちから外で遊ばせてもらえず屋敷内に監禁よろしく閉じ込められたら怨霊の存在がなくても幼子が遊べずまともな神経でいられるはずがない
結果、憲平親王(冷泉帝)の中で精神異常が発生

155: 日本@名無史さん 2007/05/27(日) 12:29:09
一日中蹴鞠を蹴り続けたり屋根に登ったり牛車の中で歌ったりしたのはやはり外に出れるのが嬉しくて嬉しさ爆発の行為だったと思う
また、寝込んだ時にも歌を歌っていたのも外に出れないストレス解消方法だったんだろう
それが、周りに理解されなくて狂気のレッテルを張られた可能性も。

158: 日本@名無史さん 2007/05/28(月) 03:22:46
御所が焼けた悲しみを歌ったぐらいで、キチガイ扱いか…
いつの時代もパンクは抑圧されてきたんだよ。

162: 日本@名無史さん 2007/05/29(火) 00:56:35
「お、おかみが屋根にっ!!」
歴代天皇で唯一御所の屋根に登り、都の景色を楽しんだ冷泉帝は漢の中の漢!

引用元: ・冷泉天皇について語ろう