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1: 日本@名無史さん 2017/05/25(木) 23:01:28.42
一見順当そうなで、実はいろいろあったよなぁ・・・
秀忠.家光.家綱.綱吉.家宣.家継.吉宗.家治.家慶.家茂・・・のあと「誰っ?」って

世継ぎ争いって、結構奥深いと思うのは俺だけか?








3: 日本@名無史さん 2017/05/28(日) 17:13:43.62
一見順当そうだった試しがない気が

6: 日本@名無史さん 2017/05/29(月) 22:40:52.23
家宣の遺言が本当なら、彼は英君というべきでしょう。
将軍職は血のつながったわが子に継がせたいと思うのが人情。
なのに、幼い家継では心配だから、尾張吉通に跡を委ねるべきでは・・・と。
新井白石の反対で実現しなかったとはいえ、家宣の思いは、吉通か家継しかなく、吉宗の出る幕はなかった。

家継にいったん継がせた後、万一家継に故障があったなら、・・・ってそうした事態を想定して、尾張の五郎太か紀伊の長富丸が名が出てきて、ようやくその後見として紀伊吉宗の名が登場する。

だが、家継が危うくなった時、すべてひっくり返されたんだよ。
そこに天英院とか月光院の意向とか、水戸と紀伊の談合とか・・・そういう事情があったかどうかに関係なく、最有力者の吉通の死がその後の歴史を変えたんだと思うな。
徳川 家宣

徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。

家宣は死の床についたとき、側用人の間部詮房を通じて新井白石に将軍継嗣について相談した。

「鍋松(家継)は幼く、古来幼主の時に世が平穏であったためしが少ない。また天下の事は私すべきものではない。東照宮(家康)が御三家を立てられたのはこのような時のためであるから、自分の後は尾張殿(徳川吉通)に将軍職を譲って鍋松が成人した折には尾張殿の心に任せた方が良いか、あるいは鍋松が成人するまで尾張殿には西之丸で政治を執ってもらい不幸にして鍋松が死んだ場合には尾張殿に将軍家を継いでもらった方が良いか、どちらが良いだろうか」

との家宣の下問に対し、白石は両案ともに反対、鍋松を継嗣として譜代の者がこれを補佐することを進言した。家宣もその案を受け入れ、間もなく息を引き取った。

7: 日本@名無史さん 2017/05/30(火) 13:01:41.77
>>6
徳川家康が3代家光以降は馬鹿でも幼児でも長男相続を徹底したから徳川は400年もった
直系長男がいてもそれを退けて家督相続を認めるとお家騒動が起こる可能性を新井白石は指摘したのであり新井白石の手柄のような書き方をしているからすべて史実かは分からんがな
幼君は心配だからと我が子を退けようとしたなら家宣は必ずしも英邁ではない
血筋よりも能力重視で跡取りを選ぶとなるとお家騒動に発展する

12: 日本@名無史さん 2017/05/31(水) 22:24:31.29
>>7
直系長男の相続をさせなかったのは家康なんだけどな。
秀吉への人質として養子に出されたとか、鶴松誕生後に結城家に追い出されちゃったとかで、アウトになった経緯はわかるけど。問題は、直系長男がいないか死んじゃった家綱・家継・家治・家定・家茂の跡継ぎだろう。

慶喜の例を除いて、結果的には将軍家のより近親者が選ばれていたようなんだけど、家治の後の家斉が例外なんだよ。本来なら甥の家斉より弟の清水重好でしょう。
病弱説、ゲイ説いろいろあるけど、甥が弟に勝ちゃったわけで、幼い家斉を迎えたことが、人材で選んだなんて言う心算ないけど。
清水 重好

徳川 重好(とくがわ しげよし)は、徳川御三卿の一つ、清水徳川家の初代当主。清水 重好とも。

将軍となった異母兄の徳川家治は宝暦10年(1760年)から明和7年(1770年)までに清水屋敷を11回、家治正室の五十宮も2回訪問しており、兄弟の仲は良好であったとみられる。しかし、家治治世の後半になると、一橋治済の待遇上昇とともに地位が逆転していった。

安永8年(1777年)に将軍世子の家基が死去すると、治済の長子の豊千代(徳川家斉)が天明元年(1781年)に家治の養子となった。そして天明6年(1786年)に家治が死去すると、家治の最近親(家治の弟)の重好を差し置いて、家斉(家治の従弟の子)が将軍に就任した。

14: 日本@名無史さん 2017/06/01(木) 14:58:29.33
>>12
だから、戦国時代には徳川(松平)家を含め直系長男相続が徹底されていなかった
一族内紛、お家騒動も大名家では頻繁に起こっていた
家康は天下を執ったら考えを改めお家騒動を避けるために直系長男相続にした
次男の国松のほうが優れていようとも長男の竹千代(家光)が跡取りであると決めた

家斉は家治の従弟の子
清水重好は家治の実弟だがあまり年齢が違わない上に中年になっても子が一人もおらず次代は養子になることが確定していたため候補から外れた

17: 日本@名無史さん 2017/06/03(土) 23:24:22.47
>>14
>清水重好は家治の実弟だがあまり年齢が違わない…

家治とその弟重好の年齢差は8年だが、家綱とその弟綱吉の年齢差は5年とさらに短かった。

>中年になっても子が一人もおらず次代は養子になることが確定していたため候補から外れた。

綱吉には相続時、世子徳松がいたが、重好には実子がなかったのは事実だ。
だが、家治の世継ぎとして家斉が西ノ丸に入った時、重好は36歳だった。
しかし、家光に世子家綱が誕生したのは、家光が37歳の時だ。
壮年の重好に、その時点で子がないというだけで、実弟を斥け、それこそ無事成人するかどうか不確かな、当時わずか8歳の従弟の子を外から招き入れるのは、血統論からすると、どうかと思う。

重病説には、当時重好がふつうに登城していた記録が「徳川実紀」にある。
生母の素性の卑しさを理由に挙げる意見についても、母は遊女だったという伝えが仮に事実としても、父は紛うことない将軍だ。
それを言えば、綱吉、吉宗の生母の素性だっていかがわしい。

21: 日本@名無史さん 2017/06/04(日) 19:40:40.38
>>17
家光は家綱誕生の4年前に千代姫が誕生している
それに家光は将軍秀忠の長男であり20歳の若さで父秀忠から将軍位を譲られた直系
36歳で継嗣がないまま養子入りが検討された重好と同様ではない

28: 日本@名無史さん 2017/06/06(火) 00:56:34.76
戦国時代なら 産声をあげた順序より能力を重視する
じゃないと家臣に寝首をかかれて下剋上に遭うかライバルに国を奪われるから
けど天下泰平の江戸時代は長幼の序がすべて
賢明な弟よりバカだろうが障害があろうが兄貴が大切
評判の良い遠い親戚よりとりあえず近親者を優先

果たしてそんなことが当為というか法則というか暗黙の了解というか当時ほんとうにあったんだろうか?なんか結果論みたく思える

36: 日本@名無史さん 2017/06/07(水) 09:21:49.76
将軍のこどもが死に過ぎることについて対策を取ろうとはしなかったのだろうか?

37: 日本@名無史さん 2017/06/07(水) 09:57:45.72
当時の江戸って、5人生まれて成人するのは2人ってとこでしょう。
将軍家だけ死亡率が高いというわけではないのでは?
それより、一部の将軍を除いて、子供ができなさ過ぎる方が気になる。

39: 日本@名無史さん 2017/06/07(水) 13:39:56.52
男子のみなら
家康 いっぱい
秀忠 2人、のち1人切腹
家光 3人
家綱 0
綱吉 1人、成人せず
家宣 何人かいるけど、家継含めて成人せず
家継 0
吉宗 3人
家重 2人
家治 1人、18歳で死去
家斉 いっぱい
家慶 何人かいるけど、家定以外成人せず
家定 0
家茂 0
慶喜 いっぱい

できないし、育たないなー。

44: 日本@名無史さん 2017/06/07(水) 21:10:21.07
>>39
秀忠には保科正之がいた
家慶も驚くほど子沢山だよ

45: 日本@名無史さん 2017/06/07(水) 21:27:54.04
>>44
家慶のところは家定以外成人してないじゃん

46: 日本@名無史さん 2017/06/07(水) 21:46:49.40
>>39
吉宗に成人しなかった源三という男子がもう1人。
一橋と母親が同じ。

41: 日本@名無史さん 2017/06/07(水) 20:18:05.30
清水重好は徳川斉朝と同じで、側室を持たなかったから子供がいないだけじゃない?
衆道や病弱なら記録があるはず

56: 日本@名無史さん 2017/06/08(木) 22:52:45.85
>>41
尾張斉朝の男色説は、『江戸の性の不祥事』(学研新書)で紹介されている『井関隆子日記』の中でほのめかされている。(隆子は姪が尾張家の簾中に仕えていたというから、信憑性は高い)
家光の小姓たちとの衆道も、『徳川実紀』の中に出てくる坂部五右衛門との逸話や酒井重澄、堀田正盛との関係から察すると、本当なんだろう。

対して、重好については、そういう逸話が残っていないはず。
重病、男色、生母の卑賤といった理由が根拠薄弱なら、血統論からいえば、やはり実弟の重好を後継にすべきだと思う。従弟の子家斉を迎えるのは、そのあとが順当だ。
ただし、こういう意見もある。
家治の子家基はすでに世嗣として公にされ、西の丸に入り、権大納言に任じられていたので、その急死があって、後継者を選ぶとなると、重好は家基にとっては叔父にあたるので、世代の順逆から言うと、適当じゃないというわけだ。
非常にこじつけっぽい話だと思う。

47: 日本@名無史さん 2017/06/07(水) 22:11:14.59
水戸綱條も可哀想なくらい子供死んでるね

48: 日本@名無史さん 2017/06/07(水) 22:20:01.77
争い
甲府綱豊VS館林綱吉
尾張継友VS紀伊吉宗
紀伊慶福VS一橋慶喜

50: 日本@名無史さん 2017/06/08(木) 10:51:02.58
>>48
候補者が結果として二人とも将軍になったのは最後の例だけか

51: 日本@名無史さん 2017/06/08(木) 12:11:41.31
>>50
甲府綱豊は六代家宣のこと。

58: 日本@名無史さん 2017/06/11(日) 14:10:03.87
世継ぎ問題の中では家綱を後を巡る議論だけ異例
なんで宮家が出てくんだよって感じ
鎌倉幕府の先例はわかるが

徳川 家綱

徳川 家綱(とくがわ いえつな)は、江戸幕府の第4代将軍である(在職:慶安4年(1651年) - 延宝8年(1680年))

側室のお振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。加えて家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。家綱の死により、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れた。

家綱の危篤に際して、忠清は鎌倉時代に将軍源実朝の死後に宮将軍を迎えた例にならい、家綱の祖父秀忠の兄・結城秀康の血を引く有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説があるが、近年では忠清が宮将軍擁立に動いたことを否定する説もある。


59: 日本@名無史さん 2017/06/11(日) 15:15:43.24
>>58
徳川実紀にも出てくるみたいですが、酒井大老はなんで宮様を引っ張りだそうとしたのかしら。

60: 日本@名無史さん 2017/06/11(日) 16:42:31.69
>>59
酒井忠清は春日局との血縁で成り上がった稲葉・堀田一族と違って徳川四天王の一つ、酒井家の宗家ともいうべき家柄だったから家光の血統への執着なんてなかったんじゃないの?

61: 日本@名無史さん 2017/06/11(日) 17:19:53.85
>>60
譜代筆頭格の酒井だからこそ、春日局の血縁として成り上がった稲葉や堀田といった新興勢力が許せなくて、宮将軍擁立により将軍権力を無力化して、以後の将軍側近の台頭を防ごうとしたとか。。。

62: 日本@名無史さん 2017/06/11(日) 18:29:22.20
酒井はあきらかに尾張綱誠を担ごうとしていた。
家康→秀忠→家光→家綱と続いた直系が絶える初めての事態に、家綱の弟たち、御両卿であった綱重の子綱豊か綱吉を迎えるべきか、御三家から迎えるべきか…幕閣はうろたえたろう。
御三家は当時はまだ格式として確立していなかったというけど、筆頭格である尾張家の藩主光友は家綱誕生前には、家光の後継者になる予定だっていうし、長男綱誠は家光の姉千代姫との子だし…
忠清の立場としては、宮様を担ぎ出したのは、当時公然と知られていた、亡き家綱のお手付きの女中が男子を出産するかどうか、見届けるまでの時間稼ぎにする気だったんだろうって、いう話がある。

63: 日本@名無史さん 2017/06/11(日) 18:32:18.97
>>62
で、その女中とやらは女の子かなんかを生んだの?それとも死産?流産?

65: 日本@名無史さん 2017/06/11(日) 18:54:15.09
>>63
その女中お丸は死産し 酒井大老は失脚
春日局の一族の堀田正俊は尾張が義直以来家光を脅かしつづけたと思い込んでいるから綱誠なんて「とんでも」な話だったんだろう
だから正俊は綱吉擁立に動き将軍を継いでからは徳松死後綱吉唯一の子となった鶴姫の夫に紀伊綱教を迎え入れようと運動したんだって

72: 日本@名無史さん 2017/06/12(月) 01:07:23.40
酒井忠清の父忠世は秀忠付の年寄だったが、家光が世子になるとその幕閣に加えられた。
後の大老にあたる地位にまで昇りながら、家光上洛の時に西の丸出火災の責任を留守居として負わされ失脚した。尾張義直らのとりなしで名誉は回復されたが、家光からは以前から煙たがられていたそうだ。
そして忠清・・・
老中になった頃から、譜代名門の御曹司として、先輩の松平信綱や阿部忠秋さえ遠慮があったという。その頃の尾州・紀州は、のちに将軍家の相続争いが起きた時分と違って、宗家同様権現様との血筋は濃かった。特に尾張は、光友が家光の甥、綱誠はその嫡男だ。
徳川家累代の名門譜代の自負からすると、父を遠ざけた家光の弟たちより、秀忠とお江与の血を引く千代姫の子をと、考えたとしてもうなづけるな。

73: 日本@名無史さん 2017/06/12(月) 01:22:04.73
失礼>家光の弟たち、じゃなく家綱の弟たち。
嫡子家綱はともかく、その弟たちに継がせるぐらいなら・・・ってな意味。
酒井忠世は、秀忠にとっての本多正純のように遠ざけられたのかも。

75: 日本@名無史さん 2017/06/12(月) 22:03:03.44
忠長に成人する男子がいたら、どう遇されたろう?
親父謹慎でも、子は駿河から外されてもそこそこの格式を保てたかな

徳川忠長

1606‐33(慶長11‐寛永10)江戸前期の大名。幼名国松。世に駿河大納言ともいわれる。2代将軍秀忠の三男。母は正室江与の方(崇源院)。3代将軍家光の弟。

甲府20万石にはじまり,1624年(寛永1)甲斐・駿河などで55万石を領し,駿府城に入る。才知にすぐれ父母に寵愛されたため家光にはうとまれたといわれ,また30年ころから乱行が目だったため,31年甲府に蟄居,翌年上野高崎城に幽閉され,33年自刃した。


79: 日本@名無史さん 2017/06/13(火) 05:24:18.19
>>75
忠輝、忠直が先例だから、家光の忠長への憎悪を考えれば、それはないだろうね
忠輝-大名統制に強権を保つために厳しく処罰。長沢松平家宗家の再興にも時間がかかった
忠直-本人は厳しく処罰するも、秀忠孫・家光甥の光長に家督が継承され、江戸城中に居住させるなど優遇。

76: 日本@名無史さん 2017/06/12(月) 23:26:57.35
>>75
そういやぁ、ずいぶん前の話だけど、新人物往来社が主催した座談会の中で、尾張家当主だった義宣氏が宗家徳川恒孝氏に時代劇にも出てくる「松平長七郎」について、
「忠長の一子、松平長七郎の後は子供がいたはずなんですけど、うちの系図でも、長七郎でで消えちゃってるんです」
と言っていた。

84: 日本@名無史さん 2017/06/13(火) 23:21:13.06
>>76
尾張の家系図に長七郎の名があるのは驚きだが、義宣さんは堀田家からの養子で、血の繋がりはない(女系では吉通にさかのぼる縁があるようだけど)
宗春公と同様サ‐ビス精神旺盛な人のようで、いろいろ物議をかもす話題を提供してくれている。
家康が家光を推した長子相続論の根拠として、しばしば取り上げられるお江への長~ぃ「訓戒状」も、この人が発掘しみたく本人は言っているけど、学者の間では偽書と言う説が有力だそうな。

80: 日本@名無史さん 2017/06/13(火) 17:27:30.41
忠長に男子がいたら
家継より年長だから
確実に殺されたろう

81: 日本@名無史さん 2017/06/13(火) 19:19:19.89
>>80
家綱だろ

保科正之は家綱より年上でも家綱の後見人になり正室側室大量に持って大勢の子持ちだったが
(ただし家庭内はボロクソでお家騒動起こしている)

82: 日本@名無史さん 2017/06/13(火) 20:58:28.01
保科は正室腹ではないし、家光に対して非常に謙虚な姿勢を貫いたからな

83: 日本@名無史さん 2017/06/13(火) 22:21:56.04
生まれながらの将軍のくせに
なかなか世継ぎをつくらなかった家光は阿呆だな

98: 日本@名無史さん 2017/06/16(金) 15:31:18.95
生まれながらの将軍は家光、家綱、家治、家慶、家定くらいかな

みな特に無能ってわけでもないが家臣任せの将軍ばかりだな
家光は多少親裁志向もあっただろうが

115: 日本@名無史さん 2017/06/18(日) 18:42:32.95
江戸幕府が存続していたら、慶喜の子孫と家達の子孫で将軍継嗣問題が起きていたかも。

116: 日本@名無史さん 2017/06/18(日) 21:07:53.08
田安亀之助が成人するまでの中継ぎというのが慶喜将軍就任の要件
やはり慶喜家が別家していただろうが、その際は御三卿が再編成されてたかもしれない

118: 日本@名無史さん 2017/06/19(月) 22:18:54.45
>>116
そもそも論から言うと、家慶は世継ぎの家定が病弱で子がないことから、 慶喜をその後継者として考えていたらしい。 毎年冬に鷹狩りで獲られた鶴は天皇に献上されたというが、本来、鷹匠と小姓に限られていたこの猟場へのお供に、 当時の一橋慶喜だけが特別に許されていたと『柳営行事』の記事にあるそうで、家慶は「鷹をのせるときの拳はこのようにせよ。肘はこうするとよい」などとことのほか可愛がっていたという。

119: 日本@名無史さん 2017/06/19(月) 22:44:53.04
もっとも血統論からすると、これはおかしな話で、この時点では慶喜の血筋は宗家から遠く、田安慶頼が順当で、紀伊慶福誕生後は、史実どおり家茂が継いだのが妥当だろうね。
あくまでも血統論>人材論にこだわった場合の話だけど。
一説には、この鶴は天皇に献上され、宮中で新年三が日朝のお吸い物に供されたという事から、慶喜の「鶴御成供奉」は、有栖川宮吉子の男子で、天皇家とゆかりがある立を、 家慶が後継云々とは関係なく、配慮しただけだと言う人もいる。

138: 日本@名無史さん 2017/06/25(日) 11:43:05.08
>>118
『徳川慶喜公伝』によると

将軍家慶は葛西筋(亀有)や目黒筋(駒場野)での鷹狩に慶喜を同行しているが嘉永5年11月14日に行われた「鶴御成」には同行していない
「鶴御成」の際の「羽合」は本来世子が行うならわしなので 阿部正弘の反対で実現していない
阿部は慶喜を高く買っていたが時期尚早と考えていたようだ

120: 日本@名無史さん 2017/06/19(月) 23:15:50.46
>>119
水戸斉昭と家慶は相婿で、徳川慶喜はその正妻の子なので甥的な存在だったから、とも考えられる。
斉昭と家慶は親しかったようで、家慶の上臈を斉昭のところに使いにやったとき斉昭が手籠め同然に側室にしてしまったが、笑って許したとか。

121: 日本@名無史さん 2017/06/19(月) 23:32:09.06
>>120
鳶魚の逸話に出てくる有名な話だね。
笑って許したっていうけど、当時でさえ相当なスキャンダルだったはずだよ。

123: 日本@名無史さん 2017/06/20(火) 08:52:03.58
>>119
飾りみたいな将軍なら田安慶頼でいいはずなのに
このひとが外された理由を教えてください
亀之助が候補になるなら実父の慶頼のほうが順当ですよね

135: 日本@名無史さん 2017/06/24(土) 19:17:41.06
>>123
世継ぎの家祥の将来を不安に思って、家慶が後継者として考えたのは、当初は田安慶頼だったかもね。暉姫を嫁がせようとしたぐらいだから。けど家祥が将軍になった後は将軍家との血縁が家斉にさかのぼる慶頼に対して紀伊家に生まれた慶福は家慶にさかのぼり、将軍家との血筋は最も近かった 家慶治世の後半を仕切った阿部正弘は幕閣への家柄にとらわれない人材登用や外様雄藩の幕政参与を進めた改革派で、水戸斉昭や島津斉彬と近しかっかし太平の世と違って内憂外患の時代だったから、将軍の叔父か従弟かという血統より有為な人材を優先する考えがあって 家慶・正弘主従の構想では 家定の後継者に慶喜を思い描いていたとしても不思議ではない

136: 日本@名無史さん 2017/06/24(土) 20:51:44.91
御三卿は、他家への養子優先とか言ってるけど、御三卿に残れば、将軍継承権を持ち、官位も上なのに本当にそんな考えだったの?

定信は政治的にって話もあるけど、母の身分が低く、兄もいるから養子に出されるのは妥当な気がする。
一方、一橋治済は、同じ母を持つ兄が越前に養子に出されているが、兄が治済にお願いに参上したり、気まずくなかったの?
そもそも血筋だけが頼りなのにこれを無視してて、正統性とかどう考えてたの?

137: 日本@名無史さん 2017/06/25(日) 11:31:21.46
>>136
宗尹の子供が養子に出されてた頃は、家重に男子二人いたこともあって田安一橋ともに一代限りの方針だったんじゃないかと

142: 日本@名無史さん 2017/06/25(日) 18:04:53.40
>>137
時系列を見ると そのとおりだ

1737年 家重嫡男 家治誕生
1741年 家治元服後 西ノ丸に入り 従二位権大納言昇任(世嗣決定)
1745年
2月 家重次男 重好誕生
10月 田安宗武擁立派の老中首座 松平乗邑罷免
11月 家重 将軍就任
1746年 大御所吉宗 中風を患う
1747年 宗武 家重から登城停止を命じられる 一橋宗尹嫡男 重昌 幕命により越前家 松平宗矩の養子となる
1751年 吉宗死去
1758年 宗尹三男 重富 兄重昌の死を受け 越前松平家を継ぐ  重好 清水門内に屋敷地を賜わる

139: 日本@名無史さん 2017/06/25(日) 14:31:43.67
>>136
同じ板の過去スレでさんざん議論になったな この話
「有徳院様御議定」で示された吉宗の意向は御三卿は将軍の庶子(本来の意味とは違い 世子以外の男子)の受け皿づくりだったはず
独立した大名にはせず食邑のみ与えて部屋住みの地位に据え 嫡子がない場合は その家を明け置き 新たに将軍庶子が出生した場合に限りその家を継がせるべきだとされた

145: 日本@名無史さん 2017/06/25(日) 20:31:25.75
>>139
だからその方針だと、治済が一橋家を継ぐこと自体がおかしいわけで、そこをおかしいとは思わなかったのか?ってことだよ。
将軍が残り物から選びます、って。
運よく、一橋家を継承できたことが全て、ってこと?

宇多天皇・嵯峨天皇のように臣籍から復活した例もあるのだから、臣籍にあったものがっていうのも本当の理由かね?

157: 日本@名無史さん 2017/06/26(月) 23:41:42.40
>>145
そのとおりのようで そのとおりじゃないようで 
実は肝心なところがあやふやなんだよね
第一に金科玉条のように家重の幕閣や側近が振りかざした「有徳院様御議定」これが文書として残っていない
重昌・重富兄弟や定信を一橋や田安から放り出す口実として当時の老中や側衆が一橋宗尹とその簾中一条顕子や田安宗武正室だった宝蓮院に強要するネタとして使われた事実が史料として伝えられているだけ
ただし第二に「有徳院様御議定」が伝えられるとおり吉宗の意志としてその内容は家重に世継ぎが誕生したら御両卿を根絶やしにせよというのではなく跡継ぎがいる場合の相続は認めている
つまり田安家の宗武→治察 一橋家の宗尹→治済・・・ここまではOK

158: 日本@名無史さん 2017/06/27(火) 00:05:14.32
補足すると一橋家の場合さらに治済→(治国)→斉敦→斉礼まではOK
田安家の場合、定信が久松松平に養子に出された時点でOUTのようで
実はそのあとを継いだ治済五男の斉匡は将軍家斉の弟だから 御三卿当主は将軍の代替わりごとに新将軍の庶子によって更新されるべきだという「御議定」の趣旨にかなうのでOK

とはいえここまでくると吉宗の真意を当時わざとねじ曲げる力が働いていたと考えるべきだろうね

159: 日本@名無史さん 2017/06/27(火) 00:27:53.05
ごめん
斉匡は将軍家斉の弟だから・・・田安家を継ぐのは違反だ
家慶の弟が継承するのが本来だろうね

161: 日本@名無史さん 2017/06/27(火) 02:41:11.23
>>159
それは当時かなり問題になったみたいね
御三家から待ったがかかったが、強引にのりきったようだ

引用元: ・徳川将軍家の後継争いについて語るスレ




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