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1: 太祖ヌルハチ 2005/09/12(月) 06:45:10 0
マンジュグルン・アイシングルン・ダイチングルン
壮大な満洲王朝298年間の歴史を語りあいましょう。

なお、ここは学界の内輪話や噂話を行うサロンではありません。
そういう雑談はよそでやってください。








9: 世界@名無史さん 2005/09/12(月) 16:25:29 0
雍正帝の勤勉さ(と人間不信)には頭が下がります。

12: 世界@名無史さん 2005/09/12(月) 16:46:46 0
乾隆通宝ってのカセイガイで見かけましたが、未だ通用するんですか?

13: 世界@名無史さん 2005/09/12(月) 16:49:19 0
通用はしないし、乾隆時代は長いから流通価値も低いし
古銭マニアも手を出さないだろうな。
132: 世界@名無史さん 2005/10/21(金) 03:57:01 0
清朝の銅銭の裏には満洲文字が刻印されてますが(時代柄か順治通宝は漢字)、王朝の文字普及にいか程の効果があったのかしらね。 
満洲文字の刻印は清朝好きとしてときめく反面、空しくも見えるんですけど。

133: 世界@名無史さん 2005/10/22(土) 19:11:39 0
実際には純度のまちまちな銀塊を複雑な計算で処理・決済してた支那ですから、銅貨のビタ銭なんかどうでもいいんじゃないかと。

134: 世界@名無史さん 2005/10/25(火) 00:45:02 0
>>133 
贋金でも一定の価値を認めて流通させる神経が恐ろしい。

188: 世界@名無史さん 2005/12/06(火) 19:37:12 0
>>134 
日本も含めて東アジアと東南アジアではそれがデフォルトでしたが?

15: 世界@名無史さん 2005/09/12(月) 17:55:54 0
どうでもいいけど雍正無視スンナ。

22: 世界@名無史さん 2005/09/12(月) 18:26:32 0
清の時代、中国の寺院はラマ教一色になってしまったのだろうか?

24: 世界@名無史さん 2005/09/12(月) 18:30:28 0
清がラマ教優遇したのは、蒙古族対策だろう。

25: 世界@名無史さん 2005/09/12(月) 18:31:02 0
ラマ教っていう呼び名は不正確。
チベット仏教と呼びましょう。
石浜せんせいの著作のタイトルも「チベット仏教」だし。

60: 世界@名無史さん 2005/09/16(金) 23:01:54 0
康煕帝がへたれだったら中国と新疆、チベットは別々の国になってただろうか?

61: 世界@名無史さん 2005/09/17(土) 03:40:50 0
>>60
康煕帝が、チベットを占領しなかったらという意味だと思うが、もしそうであっても、乾隆帝が占領していたと思う。 タリム盆地(東トルキスタン)は、乾隆帝の征服活動により新疆となったわけだから、康煕帝はあまり関係ないと思う。

62: 世界@名無史さん 2005/09/17(土) 12:41:48 0
チベット併合は雍正期だったりしますが。
そんなチベットがある事もあって、領土拡張は乾隆期より雍正期の方が活発だったりする。どの皇帝がって話より成り行きでしょうかね。

68: 世界@名無史さん 2005/09/18(日) 13:59:34 0
チベット「併合」と来たか…

69: 世界@名無史さん 2005/09/18(日) 14:53:41 0
日本のチベット史研究では何て言ってるの?
チベット征服?

78: 世界@名無史さん 2005/09/21(水) 02:00:04 0
民国時代に編纂された清史稿では、1793年に「西蔵」が「中国の主権下に入った」という立場をとっている。

103: 世界@名無史さん 2005/10/05(水) 18:01:14 0
乾隆帝はたった1万の軍でベトナムに侵攻したわけだが、ホントに勝てると思ってたのかね。

104: 世界@名無史さん 2005/10/05(水) 18:16:28 0
とりあえず足跡を残し、清の威光を示すだけで満足だったのでは?
十全老人と号したわりには、個々の戦争ではたいして戦果がないし。

109: 世界@名無史さん 2005/10/09(日) 00:25:21 0
何で清朝は漢民族に髪型と服装を押し付けた!
これさえなければ清朝を認めてもいいんだが。

113: 世界@名無史さん 2005/10/09(日) 10:23:37 0
>>109
俺としては、明代まで着用されていた漢民族風の衣装や髪型のほうがかっこいいと思う。
テレビとか見ていると、中国人の格好として、辮髪頭とか、チャイナドレスとか満洲風の風俗が登場するけど、中国の歴史や文化を正しく理解していくうえではいかがなものかと俺は思う。

111: 世界@名無史さん 2005/10/09(日) 00:42:08 0
ヌルハチだのドルゴンだのドドだの、満州族の名は濃いねぇw

114: 世界@名無史さん 2005/10/09(日) 21:00:13 0
えーと「清史稿」の列伝1后妃のところを読んでいて思ったのですが、后妃の氏族名が分からない后妃が多いような気がしました。
ヌルハチの時代ならともかく、咸豊帝あたりでも封ぜられた妃の名前、例えば“吉妃”と出ていても氏族名が分からないと書いてあったりします。
敬事房あたりで記録は残ってないのでしょうかねぇ?

115: 世界@名無史さん 2005/10/09(日) 23:09:49 0
そもそも旗人の氏族って結局どれくらいあるものなの?
だからと全部を覚えようなんて思わないが、満洲貴族八大世家すら検索してもヒットしないのよ。


141: 世界@名無史さん 2005/10/25(火) 18:12:24 0
乾隆帝と宣統帝以外の歴代皇帝
死ぬまで皇帝だった

142: 世界@名無史さん 2005/10/25(火) 21:05:07 0
順治帝は出家して退位したが?
順治帝

順治帝(じゅんちてい)は、清の第3代皇帝。在世時の元号順治を取って順治帝と呼ばれる.入関後(中国支配の開始後)の清の土台を確固たるものとし、次代の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三世の春、いわゆる康雍乾盛世の黄金時代を導く役割をした。

愛妃ドンゴ氏を亡くしてからは気落ちし、順治18年(1661年)に天然痘で急死した。24歳での若すぎる死に「順治帝は死んだのではなく、本当は寵愛する妃(ドンゴ氏、孝献皇后と追号)の菩提を弔うべく出家して五台山で生きている」との説が生まれ、「孝陵(順治帝の陵墓)には、骨壷はあっても棺はない」とも噂された。


145: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 17:45:37 0
清の皇帝は、いわゆる愚帝はおらんのがすごい。

146: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 17:58:17 0
同治帝、宣統帝は愚帝ではないのか?

147: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 19:02:39 0
個人的には好きなんだけど
咸豊帝でしょうねぇ。
奥さんはあんなだし・・・

148: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 19:10:03 0
嘉慶帝とか道光帝は情報が少なすぎて評価できん。

149: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 19:23:40 0
咸豊帝奕詝と恭親王奕訢、道光帝はどっちを跡継ぎにするか悩んでいたが、奕訢が皇帝になってたら全然違ってただろうな。

150: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 19:24:06 0
道光帝は阿片戦争の文献で結構出てくるぞ。

151: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 19:53:50 0
加藤さんの本に出てた道光帝の太子密見の勅書って北京で一般観光客でも見れるの?
同封されてたという、あのテっキトーな家臣に対する書も、帝王たる者ですらも、独りの人間に見えて良いのな。

嘉慶帝については、知りたいような。でも実際ドラマが無いのが正直なところでしょう。

154: 世界@名無史さん 2005/10/31(月) 01:23:39 0
清朝は元々、契丹や蒙古など北方遊牧帝国に近かったんでしょ。
だから蒙古八旗とかが居たし、モンゴルの諸部も半独立ながら従属したんでしょ。
清朝が中華帝国というのは一面にすぎず、本当は虚構なんじゃないの?
そこら辺に詳しい本て何かないですか?

157: 世界@名無史さん 2005/11/01(火) 00:54:52 0
>>154
何をいまさら。
狩猟・遊牧民に対するカガンとしての顔と、漢民族に対する中華帝国の皇帝という顔と、二つ合わせてダイチングルンでございますよ。
清末には満州族自体が尚武の風を忘れ、さらに漢族官僚が政治面で圧倒的な力を示すに至ったので、対遊牧民対策がひじょうにおざなりになり、清末、そして民国期の「辺境問題」がややこしくなったわけで。

159: タヌキ ◆My48Vfouj. 2005/11/05(土) 04:07:12 0
>>157
二つほどたりないね。

仏法をもって世界を安寧に導く王の中の王「転輪聖王」としての顔。
中国の衆生を教化する使命を帯びた文殊菩薩が王として化身した「文殊皇帝」としての顔。

「転輪聖王」は、対となってこの世に出現する「仏」(具体的にはダライラマ)に奉仕する存在。
「文殊皇帝」は、観音の化身(ダライラマ)や阿弥陀の化身(パンチェンラマ)などに対し、「仏法」という真理を介して同格の存在。

こういう顔で、モンゴル人やチベット人を喜ばせていた。

十九世紀後半、「旗人とモンゴル人の騎馬軍団によって中国を制圧する」という体制が、「中国の経済力と、中国の各省が自分たちの金で育成を始めた様式軍隊」に依存して王朝の存立を図る、という体制になってから、「中華帝国の皇帝」としての顔だけが突出して肥大化し、他の顔がないがしろにされるようになったのは事実。

160: 世界@名無史さん 2005/11/05(土) 10:19:38 0
>>159
満洲族は文殊菩薩を信仰していたとはいえ、ダライラマなどに対等になるように文殊皇帝に自らなったのは乾隆帝だけ(から)でしょう。

167: タヌキ ◆My48Vfouj. 2005/11/06(日) 08:10:02 0
>>160
順治とダライラマ五世の会見でも、そういう演出をしていた。

164: 世界@名無史さん 2005/11/05(土) 12:24:23 0
下らない質問ですが、昔「インディジョーンズ」という映画の中で清の初代皇帝ヌルハチの遺骨を売り渡すというシーンがありますが、彼のお墓は中国に今でも残ってるそうです。
チンギスハーンみたいに埋葬された場所が不明だとか、遺骨が盗まれたとかそういったエピソードがあるのでしょうか?
それとも全くの劇中の創作で盗んだということでしょうか?

165: 世界@名無史さん 2005/11/05(土) 14:16:08 0
>>164
ヌルハチの墓東陵とホンタイジの墓北陵は瀋陽の観光名所だぞ。
清朝滅亡後も張作霖政権、満洲国と歴代政権が保護してきたため関内の陵墓よりも保存状態がよい。関内の西太后と乾隆帝の墓なんか無残にも暴かれてしまったのだが。
ホンタイジの墓には瀋陽観光で行ったが、敷地は非常に広く木々が生い茂り大きな池もありよく手入れされた公園だった。そこからわりと近くに柳条湖事件の現場と馬鹿でかい記念館もある。

面白いのが中国観光地でよく見かける貸衣装屋。衣装をレンタルして好きにコスプレ写真が取れるんだが、雲南省なら少数民族衣装といった具合にその土地柄が現れる。北陵では皇帝、皇后、格格ファッション、モンゴル民族ファッションのほかに、軍閥ファッションや日本の和服もどきまであってワラタ。
和服は男女ともにあり、ペラペラの浴衣みたいなものにゴムでとめる帯がついている。面白がって着ている中国人の多くが襟を反対にしていた…。

166: 世界@名無史さん 2005/11/05(土) 21:08:39 0
孫殿英は順治帝と康熙帝の墓も掘ろうとしたが、順治帝は財宝を納めるなと遺言していたので辞め、康熙帝の墓は掘ると湧水が出てきたので辞めたという話だね。

180: 世界@名無史さん 2005/11/30(水) 22:24:54 0
雍正~乾隆時代前期が清朝いや、支那史上最盛期だと思う

181: 世界@名無史さん 2005/12/02(金) 23:48:37 0
そうなんだよなー。でも何故か宋が全盛でそれ以後は文明・文化が衰退したとかいう2ちゃんねらーがいるね。漢詩みたいな伝統文化に固執し、宋を過大評価する文人の影響か?
元以降の雑劇文化は低俗とか思ってる人もいるね。

182: 世界@名無史さん 2005/12/03(土) 04:55:08 0
>>181
宮崎市定御大の影響かと思われ。

239: 世界@名無史さん 2005/12/30(金) 14:02:36 0
>>181
貨幣発行枚数の伸び率は後代を圧倒(絶対数では清朝が上だが)し、世界に影響をあたえる発明もこの時代だ。北宋を全盛とみるのは過大評価と思わない。
経済的興隆期にあった時と問われれば、経済規模史上最大の現在よりも、昭和時代を挙げる人が多いだろう。

194: 世界@名無史さん 2005/12/15(木) 02:40:07 0
何で清朝は賢帝連発できたんですか

195: 世界@名無史さん 2005/12/17(土) 14:01:30 0
長子相続をしなかったからじゃないの。

249: 世界@名無史さん 2006/01/03(火) 02:50:48 0
今日、BSで雍正帝のドラマやるみたいだね。
宮崎市定の本読んだのはずいぶん前だけど、ラストは印象に残ってる。
うろ覚えだが、
「専制的な名君は、短期的には民の安寧に功はあっても、長期的には人や社会の進歩には罪悪であった」みたいな締め方だったかな?
太子密建の制度は名案だし、このおかげで清朝は末期まで暗君を出さず、
長続きしたんだろうけど、結果的にはそれが近代中国にとっては不幸だったんだな。
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太子密建


太子密建(たいしみっけん)は、清朝の後継者指名の方式。帝が生前に公式に後継者を指名せず、継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後で紫禁城の乾清宮の正面に掲げられた「正大光明」と書かれた額の裏に置き、皇帝の崩御後、衆人立会いの下でこれを開き後継者を決めるという方式である。第5代皇帝雍正帝が定めた。

この制度の利点(長所)としては、皇子たちが皇太子に指名されるように常に努力し、王朝の二代目、三代目に多い、いわいるお坊ちゃん皇帝が出にくい(常に最優秀な皇子が後継者に指名されていることになる)ことと、臣下が皇帝派と皇太子派に分かれて派閥争いをする事態を未然に防げることである。

255: 世界@名無史さん 2006/01/10(火) 01:41:39 0
>太子密建の制度

これは名案だけど餅age杉でしょ。 
ペルシアなんかで、ずっと昔あった制度らしいと、この板で知ったのだが、それはさて置き、いうなれば、専制君主制度下での名案なれど時代的に遅過ぎたとかね、追記して欲しいのよ。 
東アジア近隣国や、江戸期に倣ってやってみた藩があるとかの実例があれば、興味は出て来るけど。あるの?

256: 世界@名無史さん 2006/01/10(火) 17:28:12 0
太子密建の制は穴が多すぎる。実際ほとんど機能していない。
信頼できる宦官に遺言を託すのと実質的に変わらない。
結局ものを言うのは宮廷内の力関係であり、いくらでもうやむやにできる。

306: 世界@名無史さん 2006/02/12(日) 20:39:28 0
前から疑問だったのだが、
蒙古八旗の人間は北京に住んでいたのかモンゴルに住んでいたのか。

スマラグは北京育ちのモンゴル人でいいのかな。

307: 世界@名無史さん 2006/02/12(日) 22:11:07 0
>>306
多くの貴族系モンゴルは形式的な官職とともに北京にいた。
そしてそこで贅沢な生活を覚え、モンゴルに帰ってもそれをするので、漢族の商人に莫大な借金をするはめになってしまった。
まあ、現在のモンゴルと中国の抜きがたい対立の一因ですな。

308: 世界@名無史さん 2006/02/13(月) 09:18:14 0
「蒙古八旗」は満洲八旗、漢軍八旗とセットで、北京、内地十八省およびその他の各地に「駐防」の一員として配置。

>>307 の説明は、ザサクたちと蒙古八旗の区別がついていない誤り。

312: 世界@名無史さん 2006/02/13(月) 19:34:01 0
ザサクとは何?

313: 世界@名無史さん 2006/02/13(月) 22:12:25 0
ジャサクは文語では jasagh なんだけど、現代語のハルハ方言、普通に言うところのモンゴル語ではザサクと発音される。内モンゴルのチャハル方言ではジャサクのままなんだけど。

それとさ、よく知らないけど、内モンゴルの王公は、領地以外に北京に王府を構えて結構そこに入り浸ってたんじゃないの?

315: 世界@名無史さん 2006/02/13(月) 22:26:45 0
ジャサクは旗のトップ。
旗とは、八旗の旗と由来は同じだけど、ここではモンゴル高原を細分化しまくって作った行政単位のこと。モンゴル語ではホショー qosighu と言う。
ジャサクは世襲制で、ほとんどがチンギスかその弟の子孫だけど中にはそれ以外の者もいた。ジャサクのポストは限られていたから、貴族がみんなジャサクになったわけではない。 

318: 世界@名無史さん 2006/02/14(火) 07:05:35 0
旗の下の単位がソム。
ソムの長のポストは、当然ながらジャサクのポスト数より多い。
チンギスの子孫は、上記のポストの有無とはべつに、「タイジ」の称号を授与され、税制上の特権を受けた。

清末にもなると、タイジの数は増えて増えて、落ちぶれて、羊何頭かと茶の固まりを抱えて草原をさまよう乞食同然のタイジ様も多数でた。

333: 名無し象は鼻がウナギだ! 2006/03/05(日) 22:26:39 0
康熙帝以降の名前に満洲語の意味はあるんだろうか?
それとも純然たる漢風の名前?

例)康熙帝=玄○←「火ヘン」に「華」(何て読む?)

誰か教えれ

335: 世界@名無史さん 2006/03/05(日) 22:50:59 0
玄=「北の満洲族」
○=「火徳の明」+「中華」

漢民族オタの順治帝が、多民族国家大清帝国の皇帝にふさわしいように改名させた。元々は満洲族っぽい名前だった。

373: 世界@名無史さん 2006/03/15(水) 22:14:09 0
>>335
康熙帝のお母さんって漢族なんだよね。

375: 世界@名無史さん 2006/03/17(金) 12:00:49 0
>>373
漢軍旗人。

339: 名無し象は鼻がウナギだ! 2006/03/06(月) 14:09:16 0
名を漢風に変えた康熙帝から、宮廷の言葉は中国語(官話)になったのかな?
儀式だけは、満洲語併用、とかして。

340: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2006/03/06(月) 16:30:42 0
「ことばと社会」3号に村田雄二郎さんが「ラスト・エンペラーズは何語で話していたか?
―清末の『国語』問題と単一言語制」という論文を書いてます。この「国語」とは満語を意味するものです。これによると乾隆時代くらいに漢満併用から漢語単用になったらしい。
しかし正式には満語が公用語で、條約本文は満語とされてたみたいです。
ラストエンペラーは満語が話せず、ネイティヴの教師について学習したようです。

341: 世界@名無史さん 2006/03/06(月) 16:41:06 O
>>340
溥儀の家庭教師 イギリス人、レジナルド・フレミング・ジョンストンだな。
清朝皇帝の結婚式に立ち会った唯一の外人らしい。溥儀との普段の会話は北京語を使用してたらしいな
溥儀自身 満語は理解できず 単語を数個覚えただけと自伝に書いている。
ジョンストン氏は家庭教師時代の事を 紫禁城の黄昏という本に書いて出版しているので一度 読む事をお勧めする。本屋には置いて無いかもしれないから 図書館に行くといいでしょう。

342: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2006/03/06(月) 17:08:28 0
溥儀に満語を教えたのは伊克担という人でジョンストンではありません。
「紫禁城の黄昏」は昨年に新訳が出ていて普通に新刊書店で売ってますよ。

343: 世界@名無史さん 2006/03/06(月) 17:24:06 O
>>342
すまん、ジョンストンは英語教師だな、失礼
新訳出たんだ 買ってみます。情報ありがとう 知ったかすみません

344: 名無し象は鼻がウナギだ! 2006/03/06(月) 18:17:38 0
しかし、満漢併用、というのも大変だな。
皇帝臨席の会議なんか、どっちの言葉使ってたんだ?って感じだよ。
漢人はいちいち満語通訳に訳してもらったってことか?
ホント、清王朝時代は、出来事はよく分かってるけど、宮廷の言語事情とか考え出したら謎だらけじゃないか、って気がするよ。 

引用元: ・【康煕】清王朝について【乾隆】




興亡の世界史 大清帝国と中華の混迷 (講談社学術文庫)