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1: 独孤伽羅 2010/09/10(金) 19:38:37 0
北朝総合スレじゃ!
皆の者、わらわを讃えよ! 








312: 世界@名無史さん 2013/11/22(金) 06:44:03.40 0
北周の武帝が長命ならそのまま陳を征服して中国統一してただろうが
隋や唐と違って鮮卑復古主義を掲げてたから面白い統一王朝ができただろうな

313: 世界@名無史さん 2013/11/25(月) 00:33:23.57 0
>>312
次がアレだから結局隋と同じく2代であぼんじゃろ

322: 世界@名無史さん 2014/01/05(日) 15:01:53.19 0
北斉はあれだけ軍事力が強かったのに全土統一にそれほど積極的でなかったのは何でだろ
北周は毎回侵攻しては撃退されてたけど突厥や陳と組んで統一に向けて色々仕掛けていたのに

324: 世界@名無史さん 2014/01/05(日) 15:21:33.42 0
北斉王朝は、人間がどこまで堕落できるかの実験場とも言えるな。
男も女も欲望の限りを尽くした。

最後に幼子まで皇族がほぼ全員処刑されたのは確かに哀れだが北斉の腐った統治で苦しんだ人間にとっては「腐った血筋なんか断絶してしまえ」って人も絶対いたと思う。

329: 世界@名無史さん 2014/01/27(月) 11:16:08.18 0
>>324
北周でもそうだが北魏末期以来の胡漢紛争が亡国まで引きずったからな。
文宣帝高洋の狂主ぶりがクローズアップされがちだが官僚間のヘイトこそが元凶だからな。この王朝の直系でなく実力による兄弟相続が政権の不安定さを招き火に油を注ぐ結果になった。

325: 世界@名無史さん 2014/01/05(日) 21:49:45.09 0
あれだけ悪逆非道を書き連ねられるとさすがに史家のネタ盛りじゃないかと疑わしくなるがありえなくもないかなあと思えてもしまう

327: 世界@名無史さん 2014/01/20(月) 18:52:28.47 0
陳慶之はまず、迎撃に現れた北魏軍七万を一日で撃滅する。
次に二万の兵が籠城する城を、こちらも一日で陥落させる。
さらに十五万の北魏軍を二十日間の激闘の末に退ける。
ついでにノコノコと遅れて戦場に到着した敵の援軍二万四千を潰走させる。

陳慶之の総兵力は騎兵七千である。



リアル無双状態だなw
中国史上最強クラスの名将じゃないか陳慶之は

328: 世界@名無史さん 2014/01/20(月) 19:41:46.61 0
最後ボロ負けしてますから

むしろ1千騎で中原の覇権国家後趙10万以上の軍を撃破した慕容恪の方が凄いな
慕容恪一代で遼東から山西、河北、河南、山東、安徽あたりまで領土広げているから

330: 世界@名無史さん 2014/01/27(月) 11:21:44.06 0
>>328
石虎の宇文部、段部攻撃に乗れたのが成功の因であり、中国東北部に避難していた漢人を吸収したのが成長をもたらし、冉魏という反動国家のおかげで後の前秦後秦のチベット系と戦わなくてよかったからな。

331: 世界@名無史さん 2014/03/01(土) 21:06:14.35 0
倭が北朝ではなく南朝に朝貢したのはなぜ?

337: 世界@名無史さん 2014/05/01(木) 15:01:02.55 0
>>331
南朝っていうか「魏→西晋→東晋→宋」って流れで宋までしか国交ない
宋を魏の正統な継承政権とみなしてたんだろ。
百済の手引きというなら百済は南北両方に朝貢してたから
倭が北朝と国交ないのは説明できない

341: 世界@名無史さん 2014/05/03(土) 08:10:26.98 0
>>337
結構儒教的大義名分論が当時の大和朝廷には浸透してたんだろうか?

雄略天皇の時代に「曲水の宴」を催したって記事が日本書紀にあるけどそこまで中国文化が入ってたなら席上みんなで漢詩を読みあったりしてたかもしれない。

342: 世界@名無史さん 2014/05/04(日) 01:40:01.61 0
>>341
儒教は応神天皇の時に王仁が皇太子の家庭教師になったからそれなりに上流階級にはしられた可能性高い。しかし、仮に儒教的な大義名分論はまったく知られてなかったとしても、「政権の継承」って概念はそんなに理解不能な難しい話じゃないだろう
あっちの外交官が前政権との関係を説明する際にちゃんと権利を引き継いでるようにあれこれ理屈いうだろうし

332: 世界@名無史さん 2014/03/01(土) 21:55:50.20 0
>>331
倭国の友好勢力である百済の手引きだろ。
梁の後景の乱時、廃墟になった健康に来た百済の使節が号泣した記事がある。

333: 世界@名無史さん 2014/03/01(土) 22:08:10.36 0
しかし梁は脆すぎるな
たかが東魏の1人の武将にここまで壊滅に追い込まれるとは
結局この侯景の乱で最も利を得たのが西魏北周だな
四川獲得に後梁の傀儡化で遥かに劣っていた東魏北斉との勢力の差が解消された

335: 世界@名無史さん 2014/03/02(日) 11:24:25.92 0
>>333
建康がいきなり制圧されたのが痛かった。しかも方面軍を指揮する皇族が援護しないとか
結局西晋の八王の乱以来、皇族の方面軍支配は有害でしかないことを証明しただけだった。

336: 世界@名無史さん 2014/04/30(水) 22:51:47.75 0
中国の有名な暗君

幽王-西周最期の君主。寵妃である褒姒を笑わせるために、諸侯の軍を参集させる烽火を乱用。
結果、本当に異民族の侵攻があったにも関わらず誰も助けに来なくなると言うイソップ童話を字で行く逸話を残す。

劉禅-蜀漢最後の君主。その幼名「阿斗」が中国ではどうしようもない人物を指す言葉になるほどの人気のなさ。
日本においては「在位40年は歴代皇帝トップクラス」「そもそも蜀は無理ゲー」と言う評価が強く、彼の記事を見ても分かる様にその評価をどうするか考えることは三国志ファンが必ず通る道である。

恵帝-西晋の二代目。あの司馬懿の子孫で司馬炎の息子とは思えないほどの超絶暗君。
マリーアントワネットより千五百年前に「穀物がないのならば肉粥を食べればいいではないか」と言う言葉を吐いたと言う。西晋が短命王朝で終わったことや、異民族時代である五胡十六国時代の遠因となった人物。

蕭宝巻-南朝斉の第6代皇帝。内向的性格で、幼馴染の寵妃のために無茶苦茶な後宮工事を施す。反乱のさなか、衛兵に殺害され首を蝋で固められて反乱勢力の手土産にされると言う屈辱的な最期を迎える。
死後、諸侯に落とされ「愚かな東の侯」という意味で東昏侯の号を与えられた。

後主(高緯)-北朝北斉の第5代皇帝。奸臣を近づけ忠臣を退けた典型的な暗君。
次々に国土を失う中にあっても「まだ一生遊ぶには十分な国土がある」と言う奸臣の甘言(?)に納得してしまい、結果自分も含めた一族皆殺しの結果を招く。

後主(陳叔宝)-南朝陳の最期の皇帝。隋軍に宮廷を包囲された際も逃げ隠れするなどの醜態をさらす。
亡国を招いたことやその過程で妃が殺されたにも関わらず、何ら恥じる様子もなく連行先の長安で楊堅に仕えた。
あまりの情けなさに殺されることもなく天寿を全うすることができたと言う。

343: 世界@名無史さん 2014/05/05(月) 03:04:06.43 0
劉禅何気にすごくね?
平時ならまだしも乱世において曲がりなりにも在位40年だぞ
万暦帝などとは訳が違う

むしろ劉禅から百年経たないのちの時代の南北朝のヒャッハーな皇帝や明中期にかけての皇帝に較べたら、劉禅はかなりマシな部類
ヒャッハーは暴君だから劉禅とはベクトル違うかもしれないが、明の暗君オンパレードの歴史を見れば「もしかしたら劉禅よりダメだコイツ…何とかしなくちゃ」な気分になる事請け合い

344: 世界@名無史さん 2014/05/05(月) 15:18:26.83 0
そもそも五胡南北朝は暗君・暴君率がヤバい
開明君主の数が少なすぎて泣ける
その開明君主も寛容すぎて内乱誘発→自爆のコンボでヤバい

346: 世界@名無史さん 2014/05/06(火) 19:47:39.70 0
北朝歴代で最も残忍な君主は誰?

具体的にどんなことをしたの?

347: 文宣帝高洋 2014/05/06(火) 22:27:15.98 0
>>346
呼んだ?

348: 世界@名無史さん 2014/05/07(水) 22:13:46.87 0
寵愛していたはずの側室を惨殺し五体をばらばらにして抱きかかえて琵琶に見立てて高吟「佳人は得難し」って朗々と歌い、満座の貴人は恐怖戦慄したそうな>文宣帝

この皇帝、悪逆の所業を列挙していけばきりないよな。
大量虐殺から個々人への嗜虐行為まで。
「親疎なく乱交せしむ」なんか人を殺してないだけまだましかもしれん。
でも、北斉の皇族はみな近親○姦の経験者ってことになるんだよな・・・・。

349: 世界@名無史さん 2014/05/07(水) 22:28:25.28 0
文宣帝が狂気なら、後主は堕落の果て。

囚人を裸にしてさそりのうじゃうじゃいる桶に放り込んで絶叫してのた打ち回るのを兄皇子と一緒に見物しておおはしゃぎ。

北周軍が大挙侵攻してきたときには
「14歳以上20歳未満」の婦女子に結婚を禁じて後宮にかき集めようとしていた。
親兄弟で少女を隠すものがいれば死刑と宣言して。
馬や鷹にまで王号を下賜して、「王」を名乗る者は千人以上だった。

この後主はそれなりに教養もあるし、幼少期は善良な子供だったというのが怖い。

350: 世界@名無史さん 2014/05/07(水) 22:30:26.62 0
このさそり、後主本人が徹夜で宮中の庭でかき集めたものらしい。
どうやってさそりなんか採ったかは知らないけど。

352: 世界@名無史さん 2014/05/07(水) 22:39:56.37 0
北周の宣帝は臣下の妻に酒を強要して泥酔したところを○姦、皇后にした。
ちなみにこの暴君、5人も皇后が同時期にいた。
その一人は後の隋の文帝の娘。

その臣下はたまりかねておそらく死を覚悟で絶望的な反乱を起こして殺されている。

353: 世界@名無史さん 2014/05/07(水) 22:43:20.49 0
北斉ではわりとまともだった孝昭帝も甥に反乱を起こした時には重臣の一人の片目を抉り取った後に甥の前に進み出ている。

おびえきった甥の廃帝高殷は「これ等のものの処分は叔父に任せる」とさっきまで命懸けで反乱軍に抵抗していた忠義の臣を見棄ててしまう。

354: 世界@名無史さん 2014/05/10(土) 08:37:49.44 0
北周の武帝は皇太子の宣帝の躾に杖で激しく殴打するなどの体罰しばしば朝議にあがるほど厳しいものだったらしいが
その時点で別の皇子を皇太子に変えることは考えなかったのかね

357: 世界@名無史さん 2014/05/15(木) 22:15:07.84 0
北朝全体通して後漢に匹敵するぐらい早死にした皇帝が多いよな。
40歳超えて生きたのって西魏の文帝ぐらい?

360: 世界@名無史さん 2014/05/15(木) 23:41:21.06 0
早死にの原因に、不老不死の薬の常用ってのが多かったような

362: 世界@名無史さん 2014/05/16(金) 21:42:22.97 0
>>360
飲酒と荒淫もな

361: 世界@名無史さん 2014/05/16(金) 00:39:26.12 0
唐も道教の霊薬で結構死んだのよなあ

363: 世界@名無史さん 2014/05/16(金) 21:51:54.95 0
南北朝時代は戦乱時代というだけでなくもう色々とめちゃくちゃな時代だった

西洋で言えばキリスト教徒が宣伝するローマの退廃と相似する

364: 世界@名無史さん 2014/05/17(土) 09:32:26.41 0
>>363
王羲之、顧愷之のような文化人を支えた時代だし、なにより仏教の隆盛による社会の再編が進んだ時代だがな。

365: 世界@名無史さん 2014/05/17(土) 19:59:45.07 0
当時の仏教は、総合文化であり、城外に成立し始めた村(邨 そん)等に根を下ろしたとか言う話があったねえ

366: 世界@名無史さん 2014/05/17(土) 21:39:00.11 0
>>364
北から次々民族が南下がようやく終わりなのが南北朝だろ
仏教もあるだろうけど。

北方系等と漢族との混交が進みつつあったのがようやくこのころだな。

367: 世界@名無史さん 2014/05/18(日) 09:47:30.63 0
時代が下れば下るほど、北魏のように部族制を解体し、自分たちの血統を地方名士層に組み込もうとしているなど漢族社会に溶け込んでいっているけどね。

369: 世界@名無史さん 2014/05/19(月) 17:41:43.02 0
ものの見事に鮮卑意識がなくなってしまったからな

370: 世界@名無史さん 2014/05/19(月) 19:45:23.82 0
中華の文化力は凄いな
モンゴル以外ほぼ漢化されちゃってるし

ローマですらゲルマンを吸収しきれなかったのに

373: 世界@名無史さん 2014/05/20(火) 02:41:20.42 0
文化を取り込み、混血し、しかも漢人意識が変わらない
まあ日本も文化を取り込みつつ日本人意識が変わらんところはある

377: 世界@名無史さん 2014/05/20(火) 23:00:14.04 0
支配階級を完全に同化させる漢族はすごいとしか思えない。

はるか後世でも清の宣統帝は満洲語は「立て」「座れ」しか言えなかった。

379: 世界@名無史さん 2014/05/21(水) 21:17:42.36 0
>>377
中国化するとへたれになって、さらに北から騎馬民族がw

409: 世界@名無史さん 2014/06/28(土) 01:03:40.09 0
長安に都を置いた唐朝皇帝はもはや遊牧生活を送ることはなかったが、都から外出することが多く、関中での食糧不足のさいには百官を引き連れて糧食の得やすい東都の洛陽まで行幸することも頻繁にあった。
皇帝が食糧を求めて移動するという発想は中国王朝の伝統にはなく、機動性に富む遊牧民の風習に由来する可能性が高い。
ここに北魏から唐にいたる「拓跋国家」の連続性を垣間みることができよう。

419: 世界@名無史さん 2015/02/01(日) 23:32:03.26 0
>>409
西魏二十四軍、六柱国大将軍って、匈奴の二十四長の丸写しだと思う
北ケツ型の都城も、何事も中軍右翼左翼という配置方法をとる、遊牧民のやり方そのものだしさ
やっぱ一連の拓跋国家は遊牧民の面影が色濃いなと

434: 世界@名無史さん 2016/04/29(金) 17:58:26.03 0
>>419
匈奴有力部族出身の独孤氏が、拓跋国家群の門閥となり歴代皇帝の外戚になってるからね
そういう可能性も十分考えられると思う

438: 世界@名無史さん 2016/07/04(月) 23:05:28.94 0
>>419
>北ケツ型の都城も、何事も中軍右翼左翼という配置方法をとる、遊牧民のやり方そのものだしさ

北闕型の都城って後漢の鄴が最初だろ
遊牧民云々はこじつけだろ

439: 世界@名無史さん 2016/07/05(火) 02:26:45.18 0
>>438
鄴は、北ケツというより「南北二分」じゃね?
都市の真ん中に、東西方向に基準街路をぶちぬいて、南側を商業地区、北側を政治地区とする。王宮は当然北側に置かれる。世界史的に一番よく似ているのは、島義勇による札幌の初期設計(もちろん直接の関係はないw)

これ、秦の咸陽がモデルという説があるよね。

424: 世界@名無史さん 2015/06/07(日) 23:02:20.25 0
李世民も出自が鮮卑族の大野氏だからこそ、天可汗として遊牧民に推戴されたのだよ
これがただの漢族ではそうはいくまい
租庸調という人頭税システムなんかも、人や家畜などの動産の把握を重視する遊牧民の価値観の名残りといったところか

425: 世界@名無史さん 2015/06/08(月) 00:05:34.68 0
ただ単に一番強かったからでは?
別に人種は関係無いのではないかな。
正直李世民が本当に遊牧民かも怪しいし。

443: 世界@名無史さん 2017/05/01(月) 23:01:23.73 0
凌煙閣二十四功臣の尉遅敬徳って鮮卑系だそうだが、ホータン王族の尉遅姓とはまったく無関係?
西魏とかにもいたよな尉遅

444: 世界@名無史さん 2017/05/02(火) 22:18:01.60 0
『魏書』太祖紀の天興六年に「朔方尉遲部」つってたり、『魏書』官氏志が「西方尉遲氏」つってたり、よくわからん。
姚薇元『北朝胡姓考』は、代郡尉遅氏(朔方尉遅氏)はホータンの尉遅氏(Vijaya)とは別物だって言ってる。
ホータンの尉遅氏は吐谷渾に所属した部落のひとつなんだと。

445: 世界@名無史さん 2017/05/03(水) 02:10:33.27 0
>>444
なるほど、ありがとう
音写がたまたまカブっただけでも当然納得できるんだが、微妙に繋がりそうでもありモヤモヤする
とくに鮮卑慕容部から出てる吐谷渾の名前が出てくると気になるね、血縁ないにしても同じ鮮卑語では?って感じで・・・

ホータン王名を調べてみたら1世紀の兪林から始まり2世紀の安国で一旦不詳になってしまった後(ここまで「尉遅」名なし)、ようやく魏書・西域伝にて和平二年(461年)に尉遅秋仁が出てくる模様
これは太武帝に追われた吐谷渾の慕利延が、逃走先のホータンで王と数万人を殺して占拠した444年の十数年後のこと
8世紀のチベット仏教書では2世紀のホータン王をも「Vijaya」で記しているってことだが、再検討の余地は残ってないかなあ

446: 世界@名無史さん 2017/05/05(金) 16:39:18.85 0
隋書に卑示閉練というホータン王が出てくるのを知った、卑示は尉遅の表記違い
これだと「Vijaya」にだいぶ近いから、やはり尉遅の件はたまたま音写がカブっただけのようだ
ウヰッチという名の元鮮卑の簒奪王族が、後にカローシュティー調の現地名に変じたというのでもなければね

384: 世界@名無史さん 2014/05/22(木) 20:45:35.39 0
石勒「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」

385: 世界@名無史さん 2014/05/22(木) 21:05:23.21 0
>>384
>石勒
多少捜索も入っているだろうけど格好いい名文だよねえ

引用元: ・【北魏・北斉】北朝総合スレッド2【北周・隋】



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