514EFAWY9NL



1: 人間七七四年 2007/09/03(月) 22:13:52 ID:A5luq1hn
山名四天王って知ってる?








3: 人間七七四年 2007/09/03(月) 22:23:11 ID:aJAuRmWQ
正直、鳥取と島根の区別がつかない。

8: 人間七七四年 2007/09/04(火) 19:15:44 ID:bnfuMqAO
>>3
但馬国 - 令制国のうちの1つ。現在の兵庫県北部にあたる。

4: 人間七七四年 2007/09/03(月) 22:42:08 ID:EFkGTeAu
武勇に優れたのは吉岡定勝か?
でも秀吉にやられて娘夫婦のとこに隠居して農民になったしショボイのしかいない

6: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/09/04(火) 04:17:31 ID:jet71MDD
>>4
しかし秀吉の千成瓢箪を奪ったほどだ。

9: 人間七七四年 2007/09/07(金) 20:29:26 ID:AGFMGGh7
吉岡氏は南北朝以来、湖山池西岸を本拠とした国人領主で、代々因幡山名氏に仕えたが、定勝の代である1573年(天正元年)に因幡国に進出した吉川元春により本領を安堵された。
羽柴秀吉軍との間で激しい戦いが行われた防己尾城1581年(天正9年)織田信長の命を受けた羽柴秀吉による鳥取城攻撃の際は毛利氏に与し、居城・防己尾城に拠って羽柴軍を迎え撃っている。秀吉軍の防己尾城攻撃は合計3回行われたが、定勝は湖水が入り組んだ地形を巧みに生かしたゲリラ戦法で、いずれの時も秀吉軍を撃退している。特に2度目の攻撃の際は、秀吉自慢の千成瓢箪の馬印を奪取するほどの大勝だった。
しかしその後は秀吉軍の長囲による兵糧攻めにあって落城する。城を出た吉岡氏一族は帰農した。
また、この一族から池田氏の藩政時に登用された者もいたが、明治維新以後は大阪などへ移住したため、鳥取県には吉岡温泉郷などの地名は現存するが、吉岡姓は少ない。

16: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/09/22(土) 20:29:30 ID:u2MVWRrs
加陽国親。

17: 人間七七四年 2007/09/24(月) 12:41:17 ID:Qq9FxhsF
加陽国親(かやくにちか) 

但馬山名氏家臣。
官途は美濃守。但馬朝来郡物部城に拠る。
1575年、織田氏に対抗するため山名氏と毛利氏との間の和約締結に尽力した。

26: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/10/17(水) 03:25:27 ID:G29oUbFT
竹田城の石垣は凄いらしい。

27: 人間七七四年 2007/10/17(水) 22:36:54 ID:YxJHLffC
>>26
凄いんだが、山名時代とはほぼ関係が無い。
現在に残る竹田城址は戦国時代も終息した豊臣政権時に斎村政広が築いたもの。
山名時代は土塁だった。

天空の城とも呼ばれるその景観は、実際ものすげえよ。
かなり圧倒される。
この時期は寒すぎるだろうがw

28: 人間七七四年 2007/10/18(木) 09:25:39 ID:H5TNGxAX
>>27
竹田駅を降りて見上げると高々と上の方に見えるんだよな竹田城。
ありゃあすげぇよ
104: 人間七七四年 2008/02/08(金) 08:02:24 ID:hO3rSomx
竹田城って10日くらいで落とされたってきいたんやけど

105: 人間七七四年 2008/02/17(日) 18:07:33 ID:8iTIFHI2
>>104 
大量の火縄銃に驚いて、開城したらしい。 
城内に攻め込まれたとか兵糧攻めで落ちた訳ではない。

31: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/10/19(金) 21:17:41 ID:Yr2YHqpb
但馬国出身の沢庵和尚は山名祐豊の家臣だった秋庭綱典の子。

32: 人間七七四年 2007/10/20(土) 01:34:22 ID:pfOQ//Wb
>>31
家臣っつっても祐豊の家臣の家臣のそのまた家臣っぽいけどな。

しかし定期的に話題振るねアンタw

47: 人間七七四年 2007/11/04(日) 10:57:37 ID:zQr/H0jI
但馬の海賊について教えろ!

48: 人間七七四年 2007/11/05(月) 21:48:31 ID:JCQBdrCF
但馬に海賊なんかおったん?

49: 人間七七四年 2007/11/05(月) 22:23:26 ID:9PgjM5rR
NASA日本助か?

50: 人間七七四年 2007/11/06(火) 03:18:36 ID:b5PKYJtF
但馬水軍かどうかはわからんが、美保かどっかの沖合いで尼子と山名は船戦してるぞ。

51: 人間七七四年 2007/11/06(火) 19:49:35 ID:w2pu8uJZ
山中鹿助と但馬水軍がつるんでた話

53: 人間七七四年 2007/11/07(水) 20:22:53 ID:ut6O/L8n
奈佐日本助

戦国期山陰の海賊。前歴不明であるが、但馬城崎郡の出身。
永禄12年(1596)6月、尼子再興をはかった尼子勝久・山中幸盛に応じて隠岐に渡島し、さらに出雲忠山に上陸した。
元亀元年(1570)10月、尼子の船手大将として満願寺城を攻める。
天正元年(1573)、西方から山陰に進出した吉川元春に降伏。
同9年、山陰進出の豊臣秀吉が吉川経家の鳥取城を陥落させた際、海賊行為のゆえに近隣の丸山城で自刃を命ぜられ、10月24日、佐々木三郎右衛門らと自刃.

54: 人間七七四年 2007/11/11(日) 09:43:20 ID:/aVrBDhD
塩冶周防守も海賊の筈ですよ。

90: 人間七七四年 2008/01/12(土) 00:32:28 ID:/1LAS03v
但馬在住35年
山名四天王=垣屋、田結庄、太田垣、八木
近所に田結庄さん、太田垣さん、八木さんは住んでるが
いまだ垣屋さんには会ったことがない。

91: 人間七七四年 2008/01/13(日) 19:55:21 ID:GG8zVXgr
但馬って秀吉が来るまでどうなってたのか全然知らないよ。
平和だったの?

103: 人間七七四年 2008/01/26(土) 21:02:12 ID:aOly5O8m
>>91
山名の家臣同士の小競合いとかあったらしいよ。

例えば、香住の長氏と浜坂の塩谷氏の争いとか・・・
鳥取の武田氏と浜坂の塩谷氏の争いも有ったし(大庭の戦い)

毛利家臣の吉川元春が但馬に攻めてきた事もあるよ。
但馬勢は殆ど無血開城したらしいが・・・

平和ではなかったようだね。

107: 人間七七四年 2008/02/28(木) 08:58:06 ID:T/ZY6Ol/
>>91
天正時代に秀長の軍勢が、そこら中の寺社を焼いたという伝説が但馬全域で語り継がれているようだよ。地元の豪族を皆殺しにしたとか・・・
旧日本軍が東南アジアの国々にしていたような事があったみたい。

112: 人間七七四年 2008/04/21(月) 00:16:45 ID:lhpYsXmL
吉岡定勝ってどうよ

113: 人間七七四年 2008/04/23(水) 01:47:14 ID:8eRD2h6M
秀吉との戦いにしか活動が見られんからなぁ。
毛利から離れて仕官先を探したが見つからず、結局故郷に戻って帰農したし。
お人よしの豊国から再仕官の誘いもあったろうに、断ったのかねえ……

121: 人間七七四年@全板トナメ開催中 2008/06/07(土) 10:10:43 ID:FoxH+MAV
山名は山陰のイメージがあるな。
室町期の山陰は山陽と比べてどうだったんだろ?

122: 人間七七四年 2008/06/21(土) 15:14:58 ID:xNEVkueo
交易が盛んなんじゃないかな

123: 人間七七四年 2008/07/08(火) 15:01:24 ID:GlNgy7nD
若狭は交易が盛んだけど、但馬や因幡はどうなのかな

124: 人間七七四年 2008/07/23(水) 15:22:55 ID:yz4PLcei
但馬は柴山か 西廻り航路の寄港地は。

125: 人間七七四年 2008/07/26(土) 17:57:50 ID:bd0z6QLH
諸寄も寄港地だよ。

126: 人間七七四年 2008/08/11(月) 20:56:13 ID:EDdTiB/D
八鹿とかやっぱ、円山川ぞいに物資をさかのぼって運んだのかな?
豊岡からとかさ?

131: 人間七七四年 2008/09/27(土) 14:54:21 ID:SRg6aMm4
生野銀山って相当古い歴史があるんだね。

132: 人間七七四年 2008/10/11(土) 14:06:36 ID:Q095rThb
大同2年だものね

133: 人間七七四年 2008/10/12(日) 04:44:21 ID:Jj70H0/P
しかし開坑したといわれるだけで、産出量も誰が管理していたのかもさっぱり不明だがw
山中に落ちてたキラキラ光る石を拾ったら鉱石だったから、朝廷に献上しただけなんじゃね?

135: 人間七七四年 2008/11/13(木) 15:07:47 ID:lIgfdLDy
本格的に掘り出したのは山名祐豊か。

138: 人間七七四年 2008/12/16(火) 14:20:26 ID:qqT1l0E6
山名はあまり銀のイメージがないね。

139: 人間七七四年 2008/12/18(木) 01:40:09 ID:PxGhgpG/
それはしょうがない。
生野銀山の本格採掘は天正期、正確に言うと文禄以降のことだからな。
大森銀山の灰吹法が伝わるのは、山名と毛利が手を組む天正期になってから。
それまでは山名と毛利は対立関係だし。
毛利と組むと織田との対決により銀山の採掘どころじゃない。
文禄期になってようやく安定した採掘が行われるようになった。
山名氏は生野銀山の銀で潤ったことはほとんどといっていいほど無い。
そもそも銀山の所有を巡って山名祐豊と太田垣朝延は10年以上揉めてたw

140: 人間七七四年 2008/12/28(日) 14:49:26 ID:lRx+EhHj
もう少し前から掘ってれば山名も強かったかな。
それ以前から十分豊かだったのか。

142: 人間七七四年 2009/01/27(火) 15:33:56 ID:MA6mhALq
大内や細川と違って山名は交易はしてなさそうだし。

143: 人間七七四年 2009/02/12(木) 14:49:18 ID:uWxcbRMn
何でだろうね。

144: 人間七七四年 2009/02/24(火) 15:13:10 ID:yX4CIWwg
領国の関係じゃない

145: 人間七七四年 2009/03/07(土) 15:09:50 ID:9+UbqAd0
日本海は交易は盛んだけどね

146: 人間七七四年 2009/03/07(土) 16:41:42 ID:+XnJqWb4
但馬や伯耆には境港・舞鶴・三国のような良港が無いからな。

149: 人間七七四年 2009/03/23(月) 20:40:00 ID:5SH4dR6E
>>146
境港は伯耆だぞw

150: 人間七七四年 2009/03/25(水) 00:37:03 ID:0ccc47Fz
そうだっけか?w
ま、西伯耆は早くに尼子の勢力下に入ってたから……で許してくれw

173: 人間七七四年 2009/08/25(火) 06:39:31 ID:0RY0dsDm
銀山はだれがしきっていたの?

174: 人間七七四年 2009/08/26(水) 01:36:07 ID:gqxn0oQl
本格的な開鉱当時は太田垣の領内だったので太田垣が仕切っていたらしい。
そこに祐豊が銀山に目をつけ、しゃしゃり出て太田垣と紛争状態に。
間もなく祐豊が管理するようになったみたいだが、結局室町幕府をバックにした信長に代官を派遣された。生野銀山が莫大な銀を産出し始めるのは丹波の国政が安定する文禄・慶長以降。

ざっとこんな流れ。

185: 人間七七四年 2009/10/26(月) 23:31:26 ID:l7bmSB3q
>>174
こないだ生野銀山行ってきて、「山名が採掘してた」と聞いたんだけど、やっぱり実態はそんな感じだったか。

まあ山名の領国の雰囲気が感じられて、収穫はあったよw

175: 人間七七四年 2009/09/08(火) 16:06:59 ID:AmjIy5NQ
太田垣も銀山上手に使えば強勢になったかもね。

151: 人間七七四年 2009/03/25(水) 21:10:14 ID:biqMsqBX
美方の山賊まがいの連中は、羽柴秀長の但馬侵攻の際、険しい地形を利用して、さんざん苦しめたらしいね。
んで、鎮撫後、藤堂高虎のだまし討ちにあい、呼び寄せられて鉄砲で撃ち殺されたってね。

154: 人間七七四年 2009/05/04(月) 14:52:50 ID:l4242plm
>>151
小代衆だっけ?
今の村岡あたりの豪族だよね。

156: 人間七七四年 2009/05/16(土) 14:25:48 ID:u2kAPHFd
小代衆ですか。善戦したんですね。

158: 人間七七四年 2009/06/09(火) 15:39:28 ID:DptuwKc6
山陰方面の作戦は意外と激烈。

168: 人間七七四年 2009/07/29(水) 21:01:59 ID:FOlm2hpd
桂小五郎が潜伏してたくらいしか知らない
戦国時代なんてなおさら分からない

169: 人間七七四年 2009/08/08(土) 14:48:35 ID:mT2SIFME
但馬の山名は目立たないし。

170: 人間七七四年 2009/08/18(火) 13:42:35 ID:VoHTtNNN
豊国さんはなぜか目立つんだよね。

171: 人間七七四年 2009/08/18(火) 23:59:37 ID:PnP2wqf9
但馬山名は祐豊の死後没落して、祐豊の子って誰だっけ? 状態になり忘れ去られたが、因幡山名は祐豊没落後に豊国が表舞台に登場し、関ヶ原以後も生き残ったからなぁ。
人の良さを表す逸話(凡庸っていうか度が過ぎてるぐらい)で知られているのも特徴。

172: 人間七七四年 2009/08/22(土) 20:02:52 ID:WmNc8bwZ
>>171
たしか氏政だったような
んでその子孫も山名禅高により復興と

176: 人間七七四年 2009/09/16(水) 15:30:35 ID:nkNzmQqe
四天王は仲良くなさそう。

177: 人間七七四年 2009/09/16(水) 21:09:32 ID:hPZoh3SA
誠豊時代の四天王(太田垣・田結庄・八木・田公)は仲良し。
祐豊時代の四天王(太田垣・田結庄・八木・垣屋)は田結庄だけハミゴ。
まぁ内心はどうか知らんが。

178: 人間七七四年 2009/09/26(土) 15:39:27 ID:LUtTfajI
案外纏ってるんだ

179: 人間七七四年 2009/10/08(木) 15:23:10 ID:6HhwlQkL
内紛で滅んだわけじゃないからね。

180: 人間七七四年 2009/10/16(金) 15:08:21 ID:3pVYMJzv
赤松と争って実力ある大名になれなかったね。

181: 人間七七四年 2009/10/16(金) 22:44:38 ID:Ifb2YO3h
播磨を実力で領国にしようとして結局失敗したのが痛い
資金や軍勢集めて徒労に終わったんだからな

182: 人間七七四年 2009/10/22(木) 13:16:07 ID:Xwwm+FF3
日高町の進美寺山城の合戦では、城に籠もった北但馬の国人衆に今川頼貞率いる掃討軍に小佐郷の地頭職伊達道西(貞綱)・義綱の但馬伊達氏の名が見えるね。

184: 人間七七四年 2009/10/25(日) 00:59:40 ID:1zbTKFym
>>182
あの頃は守護が頻繁に変わった時期だね。
今川駿河守(頼貞)から桃井盛義(建武5年頃)に代わり、同じ年(建武5年はつまり暦応元年)に吉良貞家に代わっている。
貞家は京都から下国しなかった(結局在国しなかった)から進美寺山城攻撃は守護不在のまま行われたようだよ。但馬伊達氏は津付方の道西(貞綱)と山田方の宗助の嫡子義綱の二大勢力に分けられるね。進美寺山城攻撃は義綱が主力だったようだ。

187: 人間七七四年 2009/10/27(火) 02:04:31 ID:xsqSv0zn
>>184
小佐郷の伊達氏(義綱)は山田方の地頭職をめぐって立石氏(五郎法阿)と相続争いをしてたな。津付方の道西が義綱と義父子関係を結んで本格的に立石法阿と争うことになる。

188: 人間七七四年 2009/10/29(木) 08:35:31 ID:hKhIY3RE
>>187
八鹿中の裏山が伊達道西の居城だよ。中学の近くに居館があったのでは?
九鹿城の立石氏と対峙してたようだよ。

190: 人間七七四年 2009/11/02(月) 12:57:40 ID:3aORfepR
>>188
道西の居館は中学校から100mほど南の辺りではなかったかと思われます。

190: 人間七七四年 2009/11/02(月) 12:57:40 ID:3aORfepR
>>187
伊達・立石両氏ともに城まで築いた争いでしたが、結局、法阿は地頭職を手にできなかったのですよね。
山田方地頭職となった伊達義綱もその後、山名時氏の許へ走り、その職は伊達道西の手中に。
道西の長年の謀事が成ったと見るべきなのですよね。
ただ、それ以降、小佐郷に伊達氏の名が見えなくなってるのは何故でしょうか?

191: 人間七七四年 2009/11/02(月) 18:14:14 ID:i3BkNkrG
>>190
但馬伊達氏(津付、山田)って、ある意味関東の上総武田氏
(庁南、真里谷)の興亡と(もちろん時期は違うが)ダブるんですよね。

192: 人間七七四年 2009/11/06(金) 12:47:46 ID:9IhLbmFt
伊達義綱は後に朝綱と名を変え、引き続き北朝軍の尖兵として南朝方攻略に当たりますな。

193: 人間七七四年 2009/11/06(金) 18:19:04 ID:5HqKH6vn
>>192
ややこしいよね。伊達朝綱時代は、南朝方なんだよな。まあ、親分の山名時氏が南朝に鞍替えしたからなんだけどさ。俺は他国(遠江)人だから、そこのところがうまくわからないんだよ。

195: 人間七七四年 2009/11/07(土) 01:46:06 ID:2pjEGpf6
>>193
山田方の朝綱(義綱)は山名時氏に振り回された格好で北朝から南朝に換わらざるを得なかったけど、津付方の道西(貞綱)は冷静に事態を見てたね。
小佐郷伊達氏もこれが双方の明暗を分けることになる。

196: 人間七七四年 2009/11/10(火) 01:39:01 ID:5aeqGWqq
その後の小佐郷に伊達氏の名が見えなくなるのはどういう事情があったとお考えでしょうか?

197: 人間七七四年 2009/11/12(木) 00:50:01 ID:ziv9Fa9f
>>196
朝綱(義綱)・真信親子、つまり山田方は山名時氏について但馬を去ったけど、津付方、つまり道西の家に何かあったんだろうね。あくまで個人的見解というか推論だが、跡目争いがあって衰退したか、子の直綱が世継ぎに恵まれなかったか、このあたりではないかな?
素人考えだね。ゴメン。

199: 人間七七四年 2009/11/12(木) 08:55:31 ID:ziv9Fa9f
そもそも小佐郷伊達氏の存在も立石法阿が南禅寺に故地を寄進して文書が引き継がれて遺ったから明らかになったんじゃないすかね?南禅寺の政所が小佐郷に置かれたでしょうから。てか、但馬の地元住人は伊達や朝倉の存在は有名なんすか?
私みたいな余所(遠州)者は資料のみの俄か知識でしかないんだけど。

200: 人間七七四年 2009/11/12(木) 15:13:03 ID:5btlIN4l
確かにそれが大きいですよね。
最終的に足利義満が小佐郷地頭職を南禅寺に寄進した際に伊達氏の文書も南禅寺に渡ったからですね。小佐郷地頭職としての伊達氏の初見は承久年間の下知状でしたね。
ちなみに私も但馬人ではないのですが同地には時おり訪れます。
伊達氏にしても朝倉氏にしても同地を離れて久しく
それほど「有名」ではないようですよ。

引用元: ・◆◆ 但馬の戦国時代について ◆◆




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