51otSciiASL



1: 班超 03/06/11 08:17
おれってテロリスト?








3: 王昌齢 03/06/11 09:28
従軍行三首

青海の長雲雪山暗く
孤城遙かに望む玉門間
黄砂百戦金甲を穿つも
桜蘭を破らずんばついに還らじ

4: 世界@名無史さん 03/06/11 17:37
たしか洛陽に帰ってから数日で死んだんだよな・・・

泣けてくる・・・

班 超

班 超(はん ちょう、32年 - 102年(建武9年 - 永元14年)は、中国後漢の軍人。

歴史家一家に生まれたが、一人武人としての成功を望み、西域(現在の新疆ウイグル自治区あたり)から北匈奴やクシャーナ朝を追って後漢の勢力を広げ、その後は西域都護として長く西域を保持した。

100年(永元12年)、班超は西域にいる事31年におよび、故郷の漢土が懐かしくなり、朝廷へ帰国の嘆願書を出した。その願いが聞き入られ、102年(永元14年)八月、班超は洛陽に帰還したが、一ヶ月後の九月に故郷で死去した。享年71。


14: 李元庚 03/06/18 04:49
映画の敦煌はよかったね。バルブ期だから作れた代物だ。

30: 世界@名無史さん 03/07/03 01:21
玉門関の「玉」は新疆産の翡翠のことだそうな。

1280px-Yumenguan
唐代の玉門関遺跡

玉門関

玉門関(ぎょくもんかん)は中華人民共和国甘粛省敦煌市の北西約90kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢と唐2度に渡り建立された。現存する玉門関遺跡は唐代のものである。

元来は漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で、長城をこの地域に建設し紀元前108年から107年にその最西端に建造されたとされる。その後、六朝時代には交通の要綱として栄え、唐代に再建された際は安西の東側に建設された。玉門関は、中国で古代より文化人が辺境の地での戦いや孤独な生活を思い詠嘆する地で、唐代の詩人王之渙は「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須(もち)いん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。


64: 世界@名無史さん 04/01/03 23:30
玉門関とは当時の西域と中華を分けていた関所。 
ここから班超ら漢軍は西域へと出兵していったが、皇帝が死ぬと喪に服す意味と作戦変更のため玉門関は閉じられ、班超らは帰還を命じられた。これを好機と見た匈奴は大軍を率いて西域に侵攻してきた。 
さぁどうする班超!

65: 世界@名無史さん 04/01/04 02:04
班超は命令に従い、しぶしぶ帰還するわけだが道すがら、各地の都市国家の王、大臣に哀願され君命に逆らい、西域にとどまることを決意する 

班超のほかに人いなかったのか? 
死ぬまでこき使って

66: 世界@名無史さん 04/01/05 21:00
班超がウテン城まで帰途についていたので、それより西の諸都市はあっというまに匈奴に落とされてしまっていた。班超は少数の漢兵とウテン兵を集め、疏勒城を包囲していた匈奴を蹴散らし、その勢いでイトウ城、温宿城、姑墨城を攻略。 
匈奴を天山山脈の向こう側へ追い返した。 
こうして班超によって西域諸国は再び漢のものとなった。 


班超の部下って甘英以外にだれがいたの?

67: 世界@名無史さん 04/01/05 23:09
しかしエンキ、キジを残すのみとなった班超の西域征服を邪魔する勢力がいた。西の大月氏であった。大月氏は7万の大軍を率いて疏勒を襲ってきた。絶体絶命の危機であったが、本国で派兵積極派の和帝が帝位についたことにより本国から援軍を得て、大月氏の大軍を退けることに成功する。 
これにより班超は西域と語に任命されたのである。

31: 世界@名無史さん 03/07/03 23:39
ホータンで軟玉をひろってみたいな。
オアシス国家、オアシス国家っていうけれど、楼蘭や月氏国かなんかもやっぱりアジア的な専制君主制なのかな。
西域関係でカキコしますた。

32: 世界@名無史さん 03/07/03 23:43
糸魚川で我慢して拾う漏れ・・・・

34: 世界@名無史さん 03/07/14 02:01
しかし中国といわず東アジアってなぜに玉(ギョク)を特別視するのかね?
他にも宝石は色々取れるだろうにね。

35: 世界@名無史さん 03/07/15 01:07
緑がかった白が東アジアでは珍しいタイプだったからかな。

36: 世界@名無史さん 03/07/15 01:53
結局、西域経営は得だったのか、損だったのか?

37: 世界@名無史さん 03/07/15 02:00
払った代償は大きかったが、汗血馬や交易ルート、さらに西方の土地の情報など、得たものも計り知れないね。

39:   03/07/15 02:35
数万の軍隊の遠征と、匈奴との戦争など、負担は計り知れないと思う。

班超の言う「西域から匈奴を牽制することで長城以南の漢土を守る」のは成功したけど、西域からの牽制はあまり関係無かったと思う。匈奴遠征部隊が勝ったから西域征服も成功したと言える。

別に西域なくてもよかったんじゃないかと思う。

43: 世界@名無史さん 03/07/23 00:30
でもやっぱり西域が開けなかったら、文化の交流はなかったと思う。
唐の繁栄ももちょっと遅かったんじゃないかな。

なんにしても世の中が安定して、外に目を向けたくなった時期だったわけだし
西域でなければさしづめ東域とか、日本やら朝鮮やらにもっと目が向いてたのかな。

44: 世界@名無史さん 03/07/23 01:41
匈奴との抗争にせまられてたわけだから

戦場が匈奴か、漢か西域かのちがいじゃないか?
ま 西域で戦うのがベストだろ。

48: 世界@名無史さん 03/10/13 03:06
タラス河畔萌え

54: 世界@名無史さん 03/12/07 15:34
いわゆるソグド人とかペルシャ風なオアシス都市国家群があった。
いいなぁオアシス都市。

55: 世界@名無史さん 03/12/07 21:21
カッコイイよな。ソグドとかのオアシス都市国家連合。

56: 世界@名無史さん 03/12/08 22:52
匈奴ってほんとうぜぇ!
ちょっかい出すなって感じ。しかも強いし。

57: 世界@名無史さん 03/12/08 22:54
劉邦から武帝まで前漢は匈奴の属国だったな。

58: 世界@名無史さん 03/12/09 22:49
でも匈奴って漢字の雰囲気が好き。
あと月氏。玉の民ってのが。


59: 世界@名無史さん 03/12/30 13:16
オアシス都市国家の騎兵部隊ってやっぱりらくだ騎兵隊だったんでしょうか?
うわぁぁあ、やっぱり萌えすぎるぅよぉ・・・
月氏とらくだ騎兵と匈奴のモンゴル騎兵の対決キボンヌ

60: 世界@名無史さん 03/12/30 13:28
吐蕃のヤク騎兵とで三つ巴でw

61: 世界@名無史さん 03/12/30 13:31
堅昆あたりのトナカイ騎兵と四つ巴で・・・ってなんだか珍獣合戦だなヲイ


73: 世界@名無史さん 04/02/10 19:38
月氏はラクダじゃなくて馬でそ
あと月氏は木製の文化をもってたからあんまり遺物がないって説があったね

68: 世界@名無史さん 04/01/08 00:23
トカラ語の話し手だった民族の正体はいまだ分かっていないのでしょうか? 
やはりコーカソイドなのかな。印欧語族の飛地のような不思議な存在だ・・・

69: 世界@名無史さん 04/01/08 21:37
トカラって漢字だと「大夏」ですよね。
地域だと今のアフガン北部でマザリシャリフあたり?

BC175頃 バクトリア、西北インドに侵入

BC174頃 匈奴との戦争に破れた月氏族が西方へ移動、匈奴は東トルキスタンを支配する

BC160頃 月氏族が大月氏となりイリ川地方へ移動し、圧迫されたスキタイ系サカ族がインドに南下する

BC150  スキタイ系サカ族がソグディアナ地方を征服するとともに、バクトリア領へも侵入(~125)

BC139頃 武帝が張騫を大月氏国に派遣する(~126頃)
この紀元前2世紀前後のバクトリア地方だけをみれば、ギリシャ人のグレコバクトリア→インドスキタイ(サカ)のトハラ人→匈奴に圧迫されて移動してきた大月氏の順で玉突きのような民族移動があったってことでいいのかな。
ていうかどれも(゚д゚)ウマーな具合に南下して、(゚д゚)ウマーな具合に支配大成功なんて、なんでいっつも移動してきた側のほうが強いんだろ。ギリシャ人よりサカのほうが強いってのはわかるけど。

莫高窟には張騫が出かけてく絵が残ってるけど、月氏の故地でもある敦煌に彼らの遺したものとかはないのかしらん。ホータン玉とかが象嵌された遺物かなんかはみつかんないかな。まあともかくアフガン、パキスタンなどなどの情勢が安定しないことには始まりませんね。
72: 世界@名無史さん 04/01/26 00:47
トカラって漢字だと「大夏」ですよね。

大夏はバクトリアじゃないの?

大夏

漢代の漢字表記である「大夏」が後代の「吐火羅」同様「トカラ」を転写したものであるかどうかが、古くから疑問となっている。指し示すものは「バクトリア」という地であることは間違いないが、「大夏」の2文字が何を転写したものであるかは確定的ではない。




引用元: ・西域 ~シルクロード~ 玉門関は開かれた!




ユーラシアの交通・交易と唐帝国