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1: 日本@名無史さん 2016/05/23(月) 20:31:57.27
1183年11月、木曽義仲は後白河法皇が招集した朝廷軍を急襲し、これを撃滅した。(法住寺殿合戦)
義仲は法皇を幽閉、反義仲派の公卿を一掃する人事を行い、翌1184年1月に征夷大将軍に任ぜられて京都に幕府を開いた。
だが、歴史家は何故か、義仲の政権を幕府と呼ぶことは無い。これは一体どういうわけだろうか?
京都幕府の存在を認めたがらない闇の勢力でもいるのだろうか?








167: 日本@名無史さん 2016/08/17(水) 16:10:48.69
木曽義仲は日本人好みの悲劇性 英雄性は十分持ちながら 同時期の義経においしい所を
全部持っていかれて マイナー武将になってしまった。

170: 日本@名無史さん 2016/08/19(金) 21:02:30.57
火牛の計について教えてください。
義仲勢は加賀の百姓武士どもを叩きのめすのは簡単だったのでしょうか?

172: 日本@名無史さん 2016/08/21(日) 09:51:33.75
>>170
火牛の計は『源平盛衰記』の作者が『史記』からパクった創作と言われてるよね。

171: 日本@名無史さん 2016/08/20(土) 18:27:32.22
吉川英治の新平家物語を読んでる。とても面白い。
木曽義仲が京にのぼったところまで読んだ。
名作ですな。

179: 日本@名無史さん 2016/08/28(日) 14:37:50.65
<鎌倉幕府> 源頼朝 -北条政子ー北条時政ー大江広元
<京都幕府> 源義仲 -巴御前 ー中原兼遠ー大夫房覚明

こう見れば相似形で義仲も悪くないんだが、どこで差がついたのか?

180: 日本@名無史さん 2016/08/28(日) 23:27:16.11
ブレーンが手綱を握れていない、という事だな。

181: 日本@名無史さん 2016/08/29(月) 08:32:42.65
>>180
ブレーンというより嫁ハンの手綱の違いではないか

186: 日本@名無史さん 2016/09/11(日) 19:52:27.44
総追撫使に任命されてないからじゃね

182: 日本@名無史さん 2016/08/29(月) 11:30:04.19
巴御前って嫁だったっけ?

209: 日本@名無史さん 2016/12/30(金) 19:59:18.14
>>182
「便女」(びんじょ)

「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。」平家物語

192: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 14:39:21.01
ちょっと長いけど

1180年、以仁王の令旨が義仲のもとにも届けられました。義仲は木曽周辺の軍勢をまとめ、旗挙げし、平氏に味方する豪族を討ちつつ、新たな本拠地、依田城(長野県丸子町)に移り、軍事的後見役・根々井行親の勢力圏内の武将達を従えました。兼平も根々井行親の領地の近くに館を構えました。そして、義仲に従う軍勢は長野県から群馬県北部に及びました。

横田河原の合戦で勝利の後、越後国府に入った義仲は、北陸を固めるために、兼平を各地に赴かせました。兼平は新潟県糸魚川市、新潟県中魚沼郡津南町、福井県丹生郡清水町にそれぞれ「今井城」を築き、義仲の期待に応えました。

1183年、頼朝と対立した義仲のおじ義広と行家が、義仲の元にやってきました。その事をネタに頼朝は義仲に兵を送って「二人のおじか、息子の義高を鎌倉に差し出さなければ、兵を信濃に進める」と脅しました。義仲は家臣達と話し合いましたが、なかなか答えは出ませんでした。

義仲は自分を頼ってきたおじたちを見捨てる事はできず、「ここで鎌倉と戦うのは得策ではない。おじが無理なら義高を鎌倉に送るべきだ」という小室光兼と「どうせいつか頼朝とは決着をつけなくてはならないのだからここで戦うべきだ」という兼平が対立し、義仲は小室の意見を採って、息子の義高を鎌倉に送りました。これにより頼朝は満足し、義仲は鎌倉から脅かされることなく北陸道へ兵を送る事ができました。

義仲軍は、倶利伽羅峠の戦い(五月)の圧倒的な勝利をはじめ、北陸道を義仲軍は連戦連勝で進みました。兼平は木曽四天王の随一として、各地で戦いました。特に倶利伽羅峠の戦いの前哨戦であった般若野(富山県)の戦いでは六〇〇〇騎を率いて平氏側の先鋒部隊をけちらし、倶利伽羅での勝利を導き出しました。(続く)

193: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 14:39:46.72
(続き)
義仲は勝利におぼれることなく慎重に兵を進め、平家の都落ちを見定めてから京都へ入りました。平氏は幼い天皇を連れ西国に逃れ、再起を図ろうとしました。御白河院は義仲に平家追討を命じましたが、義仲はそれに従わず、都の治安を守ろうとしました。しかし、一一八一から二年にかけての飢饉のため、京では食糧不足に直面していました。そこに義仲軍が入るという変則的な出来事が起きたため、都の混乱は続き、義仲軍の名をかたって乱暴狼藉を働く者も現れました。
また御白河院進めていた新天皇の人選についても、義仲が北陸の宮(以仁王の子)を推して介入したため、次第に院は義仲を疎ましく思うようになっていきました。院は「平家追討」を名目に、義仲を遠ざけ、密使を送ってきた頼朝に接近しました。

義仲は山陽道に進軍しましたが、先鋒隊が水島(岡山県)で平家に破れ、また、院が頼朝に関東・中部地方の支配を許可する「十月宣旨」を出した事を知り、急いで京に戻りました。しかし、院の近臣は兵を集め義仲を挑発し、義仲は院に弓を引く事を決意しました。

兼平はそれをとめようとしましたが、義仲の意志がかたい事を知り、兼平は自ら院の御所に火を放ちました。 その結果、義仲は政権を握り、征夷大将軍にまでなりましたが、頼朝が送った義経らの軍に追われる身となりました。

兼平は義経の軍に立ち向かうべく義仲と別行動をしていましたが、死を前にして、二人は奇跡的にめぐり合い、そして、共に粟津で果てたのでした。

http://kyaro.nikita.jp/jinbutu/siten/imai.htm

194: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 14:43:04.99
兼平は
「どうせいつかは頼朝と戦わなければならないのだから」
って思っていたんだね。
いつから、どうしてそう思ったんだろう。

195: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 15:11:31.20
後白河法皇ってやつが歴史を引っ掻き回しているな。
どんな顔してたんだろ。

197: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 20:47:54.69
>>195
>後白河法皇ってやつが歴史を引っ掻き回しているな。

俺も昔はそう思ってたけどね。朝廷は自前の武力を持ってないから身を守るために使える者を常に求めているのだ。平家は大きくなりすぎて言うことを聞かなくなったから源氏に声をかけた。義仲も言うことを聞かない暴れん坊だから義経に目をつけた。

198: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 23:26:46.55
それを引っ掻き回すって言うんだろ。
民はいい迷惑だな。

199: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 23:46:02.23
しかし武士の武力無しには京の治安も守れないんだぞ。
武士がちゃんとやれば民のためにもなる筈だ。

200: 日本@名無史さん 2016/09/19(月) 00:10:27.45
自分は動かない麻呂の為にちゃんと働くわけは無いだろう。
まぁだからこその承久の乱なんだが。

202: 日本@名無史さん 2016/09/24(土) 07:20:38.30
軍事貴族連合盟主としての河内源氏とそれを下支えの暴力装置とした摂関権力を破壊するため白河上皇は、軍事奴隷階級を自らの直卒として掌握し全国の国衙郡衙を軍事管制した。
その総司令部が法勝寺の北面であり総指揮官が平家である。この革命的権力を継承したのが後白河であり武装皇権というべきもの。

皇家がやんちゃなので他家もならい
勝手に外交していたのが平家
勝手に幕府を建てたのが源氏

204: 日本@名無史さん 2016/09/27(火) 02:11:28.90
>>202
院政期が中世の始まりだから
単に武士対貴族という階級闘争的な史観ではなくて、貴族社会に中世の発祥を求めるのが最近の考え方だからね

205: 日本@名無史さん 2016/09/27(火) 09:52:34.44
しかしその貴族社会は社会のてっぺんから程なくドロップアウトしてしまう。
だから中世=武士って感覚なんだろ。
それに貴族は封建制を敷いてないからな。
半中世?的な感じか。

206: 日本@名無史さん 2016/09/27(火) 10:39:25.82
一応、鎌倉末までは公家は膨大な所領を有する支配階級の最上層部だろ。
中世も南北朝の真ん中あたりで二分化されるんjyないかな。応安の半済令あたりで。
前期中世・後期中世みたいな。

207: 日本@名無史さん 2016/09/28(水) 05:16:05.22
摂家や宮家から将軍を迎えたり協調しつつも、京と鎌倉は隔離してたから
ジレンマを完全に克服したのが室町で単純に権限自体は守護領国制の方が大きいからな

208: 日本@名無史さん 2016/12/30(金) 14:27:16.67
> 義仲は、オオカミ数頭相手に一人で立ち向かい斬殺

> 人形劇『平家物語』vol.5 - 22~24話
http://kiratemari.exblog.jp/4627472/
> 駒ヶ根の牧が狼の群れに襲われ、愛馬が餌食にされたことに腹を立てた義仲が、

> たった一人で狼数頭に立ち向かい斬殺する光景を目の当たりにして、
> 将来天下にはばたく武将の相を見て取り、その教育係を引き受けた…

  木曾義仲の興亡と越中国の伝説
http://ettyuukyoudoshi.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=299381386
> ・平治二(永暦元年、1160)年 7歳 狼退治

えっ・・・義仲が「7歳で」オオカミ退治って、ものすごい武人では?

210: 日本@名無史さん 2017/01/02(月) 02:35:14.70
狼は人を襲わないから無抵抗の狼を惨殺しただけやで

211: 日本@名無史さん 2017/01/02(月) 16:58:29.20
「狼数頭に立ち向かい」てあるが
それに狼が逃げる気なら人間の脚じゃ追いつけないだろ

212: 日本@名無史さん 2017/01/02(月) 17:59:20.42
大勢の先頭に立って相対したくらいの話じゃないのかね

213: 日本@名無史さん 2017/01/04(水) 22:06:39.17
江戸時代には人食いも多くて駆除用の落とし穴「狼落とし」の遺構も残ってるが義仲の時代にはどうだったのだろうか

【長野】オオカミ被害防ぐ江戸時代の遺構「狼落とし」発見 富士見町内2例目[11/12]
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1447944512
>江戸時代、乙事などの村々では畑仕事や草刈り中などに大人や子ども、馬がオオカミに襲われて命を落とした記録が古文書に残っている。

被害に悩んだ村々が藩に駆除を願い出たほか、1822(文政5)年には藩の指導を受けて村々で狼落としが造られたという。

248: 日本@名無史さん 2018/01/21(日) 23:21:20.38
朝廷 vs 武家 というと大抵は承久の乱や延元の乱を想起するが、その嚆矢は法住寺合戦である。義仲は数倍の法皇軍を破り、政局の主導権を手にした。

義仲は法皇派の公卿を朝廷から一掃し、親義仲派の松殿師家を関白にし、事実上の義仲政権を築いた。やがて、征東大将軍に任ぜられ京都幕府を開いた。
鎌倉軍の上洛、攻撃によって京都幕府は短命に終わったが、 この政権は鎌倉幕府のような緩やかな封建制度ではなく、非常にドラスティックな転換を志向していたかもしれない。清盛 頼朝 北条氏が出来なかった王家・公家・大寺社などの旧支配勢力の一掃である。
義仲は「未完の革命家」と考えてよい。

249: 日本@名無史さん 2018/01/22(月) 09:17:22.63
たしかに日本史上初を達成する行動は勇気がいるよな。

256: 日本@名無史さん 2018/02/02(金) 10:55:54.14
頼朝より先に幕府を開いた義仲は過小評価だよな。
教科書では扱い小さいし。

260: 日本@名無史さん 2018/05/03(木) 12:54:35.63
>>256
将軍イコール幕府じゃねえぞ

264: 日本@名無史さん 2018/05/13(日) 11:23:07.09
清盛の「脱・京都」志向と頼朝の「親・京都」志向も考える必要がある。
京都を離れたかったが完全には離れられなかった清盛
京都に還りたかったが鎌倉を捨てるわけにはいかない頼朝
それぞれ政権の成立過程と権力構造が違うので優劣を論ずるのは無意味。
ただ、この「六波羅モデル」と「鎌倉モデル」の内 長期政権として成功したのが後者であり、後世このモデルを採用した徳川幕府も成功したもんだから、頼朝>清盛に見られてしまうのは清盛の不幸ではあるな。
承久の乱で鎌倉方が負けておれば頼朝も北条も一発屋扱いであったろうし、石橋山の合戦後、梶原景時が「頼朝、ハケーン!!」と叫んでいたら頼朝は源三位頼政以下の扱いであったろう。

266: 日本@名無史さん 2018/05/13(日) 16:03:14.65
義仲と義経が目指したのは京での軍事貴族だったけど、頼朝だけは完全に違ったな
平家の畿内惣官職を幕府とする見方もある

267: 日本@名無史さん 2018/05/13(日) 16:42:41.43
頼朝はかなりの強運の持ち主だが、北条時政も運が良い。娘の結婚も政子にせがまれて仕方なく許したらしいからな

268: 日本@名無史さん 2018/05/16(水) 21:32:31.43
「武士の世の中」を作ったのは、実は以仁王だということを忘れてはいけない。

269: 日本@名無史さん 2018/05/17(木) 20:56:14.89
以仁王の存在が鎌倉の政権のきっかけになったのは認めよう。
しかし以仁王が作ったと言うのは語弊があるぞ。

270: 日本@名無史さん 2018/05/17(木) 21:14:21.61
令旨がなかったら頼朝は動かなかっただろうからな
流人生活自体は平穏無事だったらしいが

273: 日本@名無史さん 2018/05/18(金) 09:44:30.03
行家さんのことも忘れないでくれw

274: 日本@名無史さん 2018/05/18(金) 12:17:57.98
行家は源氏一族のお荷物だということは憶えている

275: 日本@名無史さん 2018/05/19(土) 05:54:54.83
行家は兵法のオタク的な知識は豊富にあったが、実践となると百戦百敗という
ダメダメっぷりだった

今の世のオタクにも通じるものがある

276: 日本@名無史さん 2018/05/19(土) 12:00:58.00
一勝九十九敗なら天下取れたのに・・・

277: 日本@名無史さん 2018/05/19(土) 13:31:46.34
行家は行動自体に小物感を感じてしまう

278: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 00:57:49.29
山伏に変装して苦労して各地を廻り、源氏の決起に貢献したのにね・・・悲

282: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 19:44:55.87
>>278
甥っ子どもも、行家おじさんには冷たかったな

285: 日本@名無史さん 2018/05/22(火) 09:32:51.91
叔父といっても義朝の末弟の行家は頼朝とあまり年は違わず、義平より年下だったな
昔の武将は子だくさんだったから、まだ父が種付け終わらないうちに長男が長子を設けることも珍しくなかった
平家でも忠度(清盛の末弟)も重盛より年下だった

279: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 03:04:55.17
烏合の衆というか、源氏は各々が目指す方向が全く異なっていたからな

280: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 09:56:23.33
武田兄弟や新田義重は何を目指していたのだろうか?
少なくとも頼朝の配下というのは本意ではないだろう、

281: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 12:59:22.83
武田は複数の分家で親鎌倉派と反鎌倉派で分かれていたからな

引用元: ・木曽義仲と京都幕府の謎




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