1: ◆esgAa5yCiM 2006/01/23(月) 00:07:35 ID:JsEha19s0
三条実美から木戸幸一まで、ある時は「冗官」と言われ、またある時は「首相奏薦第一人者」とも呼ばれ、日本近代史において最も政治的な「宮中職司」であった内大臣について語り合いましょう!

1.三条実美     明治18(1885)年12月22日~ 
2.徳大寺実則    明治24(1891)年2月21日~ 
3.桂太郎       大正1(1912)年8月13日~
4.伏見宮貞愛親王 大正1(1912)年12月21日~
5.大山巌       大正3(1914)年4月23日~
6.松方正義     大正6(1917)年5月2日~
7.平田東助     大正11(1922)年9月18日~
8.牧野伸顕      大正14(1925)年3月30日~
9.斎藤実       昭和10(1935)年12月26日~
10.湯浅倉平     昭和11(1936)年3月6日~
11.木戸幸一     昭和15(1940)年6月1日~

昭和20(1945)年11月24日 廃止








4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/01/23(月) 00:38:45 ID:LufiuXEy0
西園寺のお兄さんだけ20年以上とものすごい長期ですね

7: ◆esgAa5yCiM 2006/01/23(月) 01:21:50 ID:Mly3IgL10
>>4
徳大寺は侍従長と兼任でしたから、ちょっと毛色が違うことは事実ですね。

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/01/23(月) 00:43:34 ID:xswqmjEv0
内府のはじまりは総理大臣になりたかった三条実美を押し込むために作ったと言うことですが、それが結局戦時中の大実力者木戸幸一に至るんですけど、元老の死のほかのポイントどこでしょうかね。
斎藤実あたりから西園寺は意識し始めたんじゃないかと思います。

>>4
三条の死後はどうでもいいポストだったんで別に変える必要もなかったんでしょうかね。

7: ◆esgAa5yCiM 2006/01/23(月) 01:21:50 ID:Mly3IgL10
>>6
個人的には、湯浅の後期がターニングポイントと思っています。
特に、平沼奏薦に湯浅が難色を示すところや、その後の阿部・米内内閣を作るところなどは、すでに西園寺公望の影響を離れていますので、一つの転機に見えます。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/01/23(月) 10:32:59 ID:WWEUnH3a0
>>6の言われるように当の西園寺が内大臣キャビネットメーカー制に取り組んだと言われているがその辺どうなんでしょ?
原田日記持ってないんだけど、何か書いてあったりするんでしょうか?
鳥居民氏なんかは、西園寺は斉藤内閣→岡田内閣+斉藤内府という流れで輔弼を海軍の穏健なラインで固め、独走しつつあった陸軍から天皇をお守りする構想を描いたと、しかしそれが2.26で一気に瓦解したと言ってますな
そうならば、斉藤が長く在職していたらキャビネットメーカーになったかも知れない

9: ◆esgAa5yCiM 2006/01/23(月) 11:06:14 ID:gNHtJKEZ0
>>8
坂野潤治氏に拠れば、満洲事変後の牧野内府時代には西園寺の推す「憲政の常道」と牧野の推す「協力内閣」の方針の違いをめぐって対立があり、結局西園寺側の方針通りに事が運び政友会単独の犬養内閣が成立した、とあります。

また、斎藤内府を「内大臣キャビネットメーカー」にする件では、なにせ在任期間が短すぎるので何とも言いようがありませんが、当時の斎藤内府の年齢(77歳)を考えると、少々厳しいかもしれません。
また戦前に出版された『斎藤実日記』によると、内大臣就任から2・26事件までの約3ヶ月間で、宮中出勤は僅かに10数回程度で、それほどの大きな政治的権力を持っていたとも思えません。

愚見ですが、如何でしょうか?

11: 8 2006/01/24(火) 02:25:17 ID:7Pm0W0hV0
坂野潤治氏の説は初見でした、ありがとうございます
そうですか西園寺は牧野時代には「憲政の常道」で犬養内閣・・・となると5.15で危機感を強めた西園寺が方向転換したと・・・そう考えていいのかな

斉藤内府の件は、確かに期間が短くて想像を語る事になりますね。
実質的には内大臣秘書官長の木戸が内大臣府を取り仕切っていたんでしょうか?

13: ◆esgAa5yCiM 2006/01/24(火) 09:54:25 ID:JhZx5DZy0
>>11
坂野氏の論文が今手許にないので私見が交じりますが、確かこの論文の一つの骨子は、「元老と内大臣の“権力争い”」にもあったと思います。
つまり、すでに犬養内閣成立前の1931年末の段階で、元老職と内大臣職のあいだに何らかのバッティングがあったと見ることもできましょう。
また、このころ田中光顕がしきりに新聞紙上で「内大臣廃止論」をぶち上げているのも、西園寺とは無関係ではありますが気になるところです。

1930年9月30日に木戸幸一が内大臣府秘書官長の就任を依頼された際、牧野内府から「内大臣府と言うところは仕事がほとんど無く極めて暇ですがそれでも良いですか」と言われたという話が『木戸幸一関係文書(日記に関する覚書)』に出てきますが、2・26事件頃までの内大臣府は、牧野の「協力内閣論」に見られるような政治的主導権把握に向けての動きはあるもののまだまだ西園寺の影響力が強大だったと見ることができるのではないかと考えています。

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/01/24(火) 10:43:09 ID:4aaGk84q0
>>8
鳥居民氏の『昭和二十年』での内府ネタは面白いですね。
小磯による近衛内府案説とか米内による石渡内府案説とか。

15: ◆esgAa5yCiM 2006/01/24(火) 11:20:44 ID:JhZx5DZy0
>>14
その本は知りませんでした。今度読んでみます。
戦争末期になると、木戸内府の処遇に困ったりしている政府関係者がいたことは事実ですね。
それにしても、米内の石渡内府って面白いなぁ。。。
(自分が首相だった時の書記官長を据えようってか?)

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/01/24(火) 18:41:26 ID:S0SSd5GS0
>>15
>戦争末期になると、木戸内府の処遇に困ったりしている政府関係者がいたことは事実ですね
この部分できたら詳しく教えて欲しい。

20: ◆esgAa5yCiM 2006/01/25(水) 10:11:45 ID:MWSRcD6E0
>>17
ソースは高木惣吉か細川護貞あたりだったと記憶していますが、東条倒閣運動があった頃、木戸を動かさないことには政局が動かないのでそのあたりの運動をやった際(黒幕は岡田か?)、木戸あたりには陸軍からの裏金(アヘン密売で蓄えたらしい)がかなり出回っており宮中方面では東条の“覚え”めでたく、倒閣にも支障を来していたとの話です。
また、昭和20年に入っても、木戸は重臣たちから「陸軍より」と見られており近衛の終戦工作が失敗に終わる一つの要因ともなっていたともあります。
このあたり、木戸内府更迭の動きと絡んでいると考えられます。

なるほど、これも>>17氏へのひとつの回答となりますね。
私見ですが、木戸内府もまぁ、自己保身に長けた人で、うま~く責任回避しまくりながらキャビネットメーカーを務めていますよね。
誰かが「木戸なんか(孝允の義孫じゃなかったら)官庁の課長止まりだよ」という酷評を残していたことを思い出します。

22: 未だに8 2006/01/26(木) 02:28:43 ID:10ns9/LM0
>>20
そうなんですよね。
昭和10年頃までは内大臣が活発に活動していたという感じは無い。
鈴木貫太郎ですが、仰るように天皇のご信任篤かった事は確かだと思うのです。
ただ、鈴木の性格からして政務に近い分野では、天皇に影響を与えるような積極的発言はしなかったと思われるんです。
その点、牧野の方が内政、外交とも明るく頼りになったのでは?と思うわけです。
一方で、仰るように内府だけが突出するような宮中の人事構成ではないというのは同意ですね。
まあ、天皇自身がまだまだ若殿なわけで、どの程度宮内官たちを自ら活用しようとしたかという点も考慮する必要があるとは思います。

木戸は保身上手というお話、ほぼ全面的に同意ですw

23: ◆esgAa5yCiM 2006/01/26(木) 09:04:39 ID:ig6yksv/0
>>22
いつもレスありがとうございます。

>ただ、鈴木の性格からして政務に近い分野では、天皇に影響を与えるような積極的発言はしなかったと思われるんです。


貫太郎は侍従長就任直後に「満洲某重大事件」の処理で、
田中内閣をぶっ倒しちゃったので、そういった事情もあると思いますね。
昭和天皇も後年、あの件については反省していたと巷間言われていますし、貫太郎自身も、海軍出身だったこともあって、陸軍長州閥の田中を桂冠に至らしめるという政治的な動きをしてしまったことは、反省していたのかもしれません。

>その点、牧野の方が内政、外交とも明るく頼りになったのでは?と思うわけです。

もちろん、牧野の方が鈴木よりも一枚上手であったことは想像に難くありません。
が、>>20でも書きましたように、なにせ宮中出仕日数が少なすぎる、「内大臣府は極めて暇」とか自分で言っちゃってる、そういった外的な条件から見ると、手腕はあっても発揮する機会がない。
それに比べると、毎日宮中に参内していた鈴木侍従長の方が、昭和天皇へのアドバイザ的役割を果たし得ていたのではないか、と推測できます。

>まあ、天皇自身がまだまだ若殿なわけで、どの程度宮内官たちを自ら活用しようとしたかという点も考慮する必要があるとは思います。

この当時はせいぜい30代前半で、まだまだこれから、って感じでしたものね>昭和天皇
ただ、この時期に西園寺の息がかかった連中が周囲を固めていたのは結構意味が深いのではないかとも思います。
2・26事件後、宮中の陣容は大きく変わりますが、唯一残った湯浅内府にある種の期待を寄せていたのではないか、とも思います。

>木戸は保身上手というお話、ほぼ全面的に同意ですw

勝田龍夫の『重臣たちの昭和史』に木戸が跋文を寄せていますが、戦争について「あれしか仕方なかった」なんて書いてあるのを見て、思わず苦笑してしまったことがあります。w

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/01/23(月) 22:51:09 ID:lxD3XHbV0
西園寺の意図は元老という個人から内大臣という役職にキャビネットメーカーの権能を移すことにあったのでは西園寺にとっては誰が内大臣に在職しているかはあまり大きな問題ではなかったのだろう

12: 8 2006/01/24(火) 02:28:17 ID:7Pm0W0hV0
>>10
キャビネットメーカーだけでなく、天皇の相談役補佐役としての元老の役割全般を常侍輔弼の内大臣に持っていこうとしたと良く言われてますね

13: ◆esgAa5yCiM 2006/01/24(火) 09:54:25 ID:JhZx5DZy0
>>10
おっしゃっている「西園寺の意図」がいつの時代のものか分かりませんが、『西園寺公と政局』では1938年10月25日の西園寺の発言として「(近衛には陸軍だのの勢力が付きすぎているので)今日近衛を内大臣にもっていくのは絶対に反対である」という西園寺の発言があります。
少なくともこの時点では「誰が在職していてもあまり大きな問題ではない」役職では無かったことだけは事実のようです。

18: 8 2006/01/25(水) 03:34:40 ID:ccKvEuP20
>>13
元老と内大臣のあいだに何らかのバッテイングですか、なるほど。
これは、全く想像に過ぎないのですが、ただ一人残った元老である西園寺も老いて興津に篭る事が増える中、天皇自身が新たなアドバイザを必要としたであろうと思われ、そうした自然な流れから出ているのではないでしょうか。
当時の常侍輔弼の宮内官の中では、牧野がもっとも昭和天皇が頼りにしそうな駒のように思えます。

それ以前にも国務・政務人事に宮内官が影響力を発揮する場面はあるものの、内府が強力な政治力を持ったのは、木戸内府の時が例外的に突出しています。
それは元老が居なくなったという事以外に、時代背景がそうさせたとも考えられるのではないでしょうか?
天皇が高度かつ素早い判断や現状認識を必要とする場面が多い程、内大臣の役割は大きく重くなるように感じます。
1930年代前半はまだまだノンビリした時代という事もあって、常侍している者から直ちに意見を求めなければならない場面が少なかったから、西園寺公お召の御沙汰というスピード感でOKだったとも思われます。

20: ◆esgAa5yCiM 2006/01/25(水) 10:11:45 ID:MWSRcD6E0
>>18
天皇のアドバイザとしての内大臣というのは、まさにおっしゃるとおりですね。
但し、2・26事件以前の内大臣(牧野・斎藤とも)宮中出勤が非常に少ない(入江相政や岡部長章など当時の侍従たちの回想によるとせいぜい週1回とあります)事がネックです。
2・26で鈴木貫太郎が襲撃されたことを考えても、どちらかというと内大臣よりも侍従長の方が当時はアドバイザ的役割を果たしていた
と見ることも可能ではないでしょうか?
(鈴木は何と言っても、「たか」さんの旦那ですし、牧野並みに天皇の信任篤かったと思われます)
そして、もう一つ2・26以前の宮中四大官の布陣が、侍従武官長以外、内府-牧野・斎藤、宮相-一木・湯浅、侍従長-鈴木、とある程度まとまっていたので、内府だけが突出する必要がなかったと見ることもできると思います。
(一木は宮相のあと枢相になっていますから、より“完璧”ですねw)

1930年代前半は未だのんびりしていた、というご意見はまさにその通りだと思います。
ただ、気になるのは、その「ノンビリ」がいつから「せわしなく」なったのか、そのターニングポイントを知りたいものです。

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/02/02(木) 00:26:12 ID:F4njoRKT0
木戸内大臣に関する本ってありますか?

29: ◆esgAa5yCiM 2006/02/13(月) 23:57:46 ID:mxQQc3Hh0
>>28
>>28さんが、もしこれから興味を持とうと思われる方でしたら、まずは図書館で『木戸幸一日記』を年表片手に重要な日付のところだけ拾い読みするのはいかがでしょうか。

そのうち、ゴルフ日程なんか気になるようになると思いますよ。
やっぱり何であっても「一次資料」です。

32: ひさしぶりの8 2006/02/18(土) 05:17:47 ID:JS2N5Lh60
>そのうち、ゴルフの日程なんか気になるように・・・

そうなんですよ
この時期にこんなメンバーとハーフ終わってから何相談したんだろうなって
ちょっと高価だけど、持ってて損はないですね『木戸日記』
私は『原田日記』を揃いで買うか、今回は『杉山メモ』だけにしておくか思案中ですじゃ

33: ◆esgAa5yCiM 2006/02/18(土) 17:18:39 ID:BL+DLaQg0
>この時期にこんなメンバーとハーフ終わってから何相談したんだろうなって

そうそう、その怪しげな動き、気になりますよね。
今、木戸日記の現物が実家にあるのでちょっと‘うる覚え’ですが、確か昭和15年6月1日の内大臣就任の前日か前々日にもゴルフをしていた旨の記述があり、苦笑していました。
ただ、もしかするとこれも「何相談したんだろう」の1つかもしれませんね。

『原田日記』ですが、私は15年くらい前に神保町の古本屋で索引(9巻)を除く全8冊揃い(箱無し)を1万円で入手しました。
『原田日記』の記述で面白いところは、口述なので話題が飛んでいて、その事件が起こっていた「その時」ではなく、後になって「あの時はこうだった」「あの人がこう言っていた」などと書いていたりする点があることですね。
その分注意深く読まないといけないと言うことですが。。。

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/03/13(月) 11:07:26 ID:g5bxkMvf0
西園寺が首相推薦をしなくなって内大臣主催重臣会議になったというのがやはりシステム的な転換点で無視できないところだが、思うに若年の天皇にいろいろ好きなことを吹き込んでいるのではないかという強迫観念が牧野の頃には既に存在していて、そういう類のものが根底をなして周囲が重大なものたらしめた側面もあると思う。

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/04/06(木) 17:56:26 ID:qH7GM9ox0
実は内大臣は統帥に関与できた。
木戸がたまに陸海軍の調停をやっている。
しかし木戸は保身に長けたタイプなので、国家のためには必要なものであっても、軍部を刺激するようなレベルでの統帥事項への関与を行わなかった。
西園寺がはやいうちに内大臣に国務と統帥の調停役をやらせていればと悔やまれる。
斉藤が長生きしていればよかったが、しかし海軍出身の彼では陸軍を怒らせただけかもしれない。

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/05/27(土) 04:19:07 ID:QD8tZ97Y0
敗戦後の憲法改正の時、近衛文麿が「内大臣府御用掛」のポストで改憲に関わってるが「御用掛」のポストは法令に規定が見当たらないんだが臨時職なの?

用語解説 | 日本国憲法の誕生
ttp://www.ndl.go.jp/constitution/etc/yogo.html
内大臣府の改憲調査
ttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kennpousisirou.htm

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/30(日) 23:35:41 ID:nEYGRfdA0
閣外相としての内大臣を復活しよう。
宮内庁を宮内省にして、政府から独立した地位とする。

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/01(火) 09:55:53 ID:SmuSDL+i0
英国の王璽尚書は下院院内総務が兼任。なんかしょぼい。

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/22(火) 23:51:18 ID:rZ0DODuB0
>>46
党幹事長は党務が忙しいから国務大臣としては軽い職務を担当するんだよ。

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/14(土) 02:23:09 ID:/B30JdYG0
日本でも一時期話題になったな

引用元: ・【冗官?】内大臣について語ろう【キングメーカー?】