51rsnq+H9ZL



1: 人間七七四年 2007/10/11(木) 17:14:30 ID:+aC08PBe
越相同盟は北条と上杉にとってどのようなものだったんでしょう?
この同盟における両者のメリットは?
また結ぶに至った経緯など越相同盟について語ってください。






越相同盟/越相一和(えつそうどうめい/えつそういちわ)は、戦国時代の永禄12年(1569年)に甲斐の武田信玄に対抗するために、越後の上杉謙信と相模の北条氏政が結んだ軍事同盟である




2: 人間七七四年 2007/10/11(木) 20:48:46 ID:ws2xZBrW
この同盟で謙信は佐竹とかと疎遠になったんでしょ?

3: 人間七七四年 2007/10/11(木) 23:04:38 ID:IbrfXsCK
>>2
以前から疎遠

5: 人間七七四年 2007/10/11(木) 23:27:28 ID:ws2xZBrW
これって北条から持ち掛けたんだよね?
結ぶ必要もない同盟をなんで持ち掛けたんだろう

6: 人間七七四年 2007/10/12(金) 02:14:50 ID:ajWNfy9c
前年に里見に大敗北してたのに今度は武田を敵にする事になったので、今までの謙信に対してやってきた事に恐れた北条が謙信に土下座したのがこの同盟。
まず上杉に松山城返還や深谷上杉・忍城成田&騎西城小田・羽生城返還・金山城由良&館林は上杉へ。北条の攻撃で落城寸前の関宿城簗田氏は現状維持。佐野氏を北条は見捨てる。さらに北条から養子という名の人質提出。
さらに里見に安房・上総・下総と千葉氏の帰属確認。
そのかわり居城古河城が孤立しながら守備してた足利義氏を謙信は尊重する。
越相同盟破綻後も北条は人質を取られており上杉とあからさまな敵対行為はしてない。
また越相同盟以前からの佐竹の背信に怒っていた謙信も関宿城救援しない事と結城白河支援・常陸小田攻めしない・羽生城廃城化で武蔵南部への侵攻をしないという意思表示で北条に義理を果して佐竹を困らせた。
アホ里見は千葉氏が里見の下風に立つわけね~よと拒否した。
松山城がちゃんと返還されたかはわからんが越相同盟破綻後に成田忍城&小田騎西城&由良金山城&足利長尾館林城&佐野唐沢山城が北条に戻る中で深谷上杉が北条へ戻らなかった事から松山城は上杉方になってたのかも知れない。

こんな感じでしょうか?間違いを訂正ヨロシク。

18: 人間七七四年 2007/10/13(土) 16:58:14 ID:csO9pD0q
>>6
関宿救援をキョヒったのは謙信じゃなく、佐竹・宇都宮の方でねえんだが?
だっでよ、北条と内通じだ結城が勝手に帰っぢゃうじ、那須も一暴れずるがらでねえの?

7: 人間七七四年 2007/10/12(金) 02:25:37 ID:/HGUxbiA
確か上杉から北条に送られた人質は柿崎の子かなんかだったよな。
謙信に妻子が無く兄弟もとっくに嫁に出た姉しかいないから肉親を出せないのは分かるが一族ですらない家臣の子で氏康の息子と人質交換は驚いたw

18: 人間七七四年 2007/10/13(土) 16:58:14 ID:csO9pD0q
>>7
柿崎の子は態度が悪ぐでよ帰されちまったんでねえが?

9: 人間七七四年 2007/10/12(金) 02:53:19 ID:6zDkm6Kh
謙信に養子に出された氏康の息子はまあ当然ながら人質の扱いだが、実子の居ない越後上杉家に養子を出すっつうことはあわよくば謙信死後に家督継承っつう目もありうるわけで、そういうことまで考えて人質に出したのだとしたらやはり大したものだと思う
御館の乱で景虎方が勝ってたらどうなっただろうか

20: 人間七七四年 2007/10/13(土) 19:40:49 ID:ZQ4hc2Bm
>>9
当初の予定では、景勝が暗殺でもされないかぎり越後国主は景勝に行くだろうが
名はあれど越後に利の薄い関東管領職を北条出身の三郎景虎に渡すことで越後上杉は関東情勢に振り回されずにすむようになり(三郎景虎がいる限り北条も上杉領を攻めにくい)、北条は関東管領職を実質貰う形になって関東支配が楽になる…って感じだったんじゃないかね?

28: 人間七七四年 2007/11/15(木) 05:20:46 ID:Gkf5keFg
同盟交渉の窓口になったのは誰?

67: 人間七七四年 2008/06/21(土) 16:13:11 ID:QBGjYSVE
>>28
北条側:石巻天用院(使僧)

69: 人間七七四年 2008/06/22(日) 01:30:18 ID:Z0FIIQl+
>>67
上戸だったと伝わってるんだっけね。
北条は使者の選別がうまい。

70: 人間七七四年 2008/06/22(日) 09:15:07 ID:/21BosXo
>>69
謙信と一緒に飲んだりしたんだろうかw

71: 人間七七四年 2008/06/22(日) 10:08:31 ID:UuBG441x
>>70
進藤家清から謙信に出した手紙では50代の「いかにも仁なる御出家」で「上戸」とか。
わざわざ謙信に使者が酒は呑める人だと報告するのが面白いねw

30: 人間七七四年 2007/11/17(土) 01:27:10 ID:pKdwMhFh
この同盟ってさ力関係がどう考えても織田徳川同盟と一緒だよな

織田=上杉
徳川=北条

32: 人間七七四年 2007/11/17(土) 04:46:21 ID:q/yy3grO
尾三同盟ほど力に差が付いていないから、明確な上下関係はないと思うが。

34: 人間七七四年 2007/11/17(土) 09:34:19 ID:LRhFWQ/A
この同盟は謙信は譲歩してないけど氏康はだいぶ譲歩してるよな。

35: 人間七七四年 2007/11/17(土) 09:50:56 ID:OGq4LEuu
氏康側にとって必要な同盟だった
ということか

37: 人間七七四年 2007/11/17(土) 10:18:24 ID:q/yy3grO
謙信も北条方の公方権力を容認しているから、一方的という訳でもない。
まあ、北条の方が大幅に譲歩しているのは否定のしようがないけどね。

謙信にしてみれば、北条が謙信方になることで関東はめでたしめでたしのつもりだったんだろう。
しかし蓋を開けてみれば、諸将から非難囂々、武田へとすり寄らせる結果になったわけで。
謙信と関東諸将における「関東の安寧」の認識の差が浮き彫りになったのは興味深い。

39: 人間七七四年 2007/11/17(土) 16:04:28 ID:VI09xDwb
>>37
その辺は氏康なのか窓口になってる氏照・氏規あたりなのかは知らんけど、薄々わかってた感じはあるな、関東諸大名と謙信の認識の違いってものが。

北条からすれば上杉と関東諸大名が切れてくれれば十分なわけだし。

40: ◆HWcl3tDt8E 2007/12/16(日) 22:40:08 ID:jhvA1YJ5
【早雲】後北条家総合スレッド 其の二【氏直】
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1187642750/l50
から越相同盟ネタを持ってきました。
たいした内容ではないですが自分で調べたのをネットの他の場所に挙げた時に2chのパクりだと言われるのは嫌なのでトリップつけます。


駿越交渉
謙信は永禄十年正月に義重宛てに南甲有手切と伝えており、この時点で三国同盟の裏側についてなんらかの情報を得ていたと考えられます。同年十二月にこの三国同盟のほころびから今川と上杉の交渉がはじまります。(長谷川弘道「永禄末期における駿・越交渉について」)翌年四月に今川側では三浦氏満、朝比奈泰朝といった重臣が交渉を担当するようになって本格化し、氏真の要請があれば信濃に出兵するなどの条件で密約ができます。
信玄の裏切りを恐れてできた密約ですが、信玄はこれを察知して逆に今川との断交の口実にしたようです。
永禄十二年年正月七日氏照の越府宛て書状に「今回の駿甲手切れ、年来今川が謙信と通じていたのは信玄滅亡の企て歴然で信越国境の雪が深い間に駿河に仕置きするべきでありこの一理によって干戈を動かしたという由、然則、当方御一味」ということで、同日の直江宛書状にも同内容のことがあり、また同月十六年の由良→河田宛書状にも同内容のことがあります。このように、越相同盟は駿越交渉にのっかる形ではじまったもので、以降の北条の一連の信濃出兵要求もこれに基づくものかもしれません。
なお、この氏照書状で雪が深いとありますが、『正法寺年譜住山記』『信長公記』等によれば永禄十一年冬から十二年春はまれに見る豪雪で、それゆえ謙信が身動きがとれなかったようです。さらに上越国境では明治時代に数年かけて作った道路が雪解けにより半年で通行不可能になったくらいで、春になっても中々通ることはできなかったでしょう。
ですが、そんなことにかかわらず謙信は今川・北条との密約を果たす気は全く無かったようです。

41: ◆HWcl3tDt8E 2007/12/16(日) 22:41:53 ID:jhvA1YJ5
甲越和与
信玄は永禄十一年本庄を叛かせて芦名を味方につけ自身も北信濃に侵攻しますが、謙信はなんとかしのぎます。正月二十一日の芦名方の小田切への書状で越後へ乱入するとともに、北条と相談して倉内を攻めるとあります。信玄の北信攻め中に北条が動いた形跡はありませんが、気になるのが同年十二月二十四日の本庄→北条宛て文書。
本庄は同月五日の沼田への御出馬を祝い、協力を求めています。でもこれは信玄の駿河攻めと同時期。どうも信玄は北条に沼田を攻めようと言って、軍を集め、北条が北上したのを見計らって駿河に侵攻した?検討の余地有り。
本題、信玄は本庄の乱が鎮圧される以前に信長を通じて義昭に甲越和睦の御内書を届けさせます。(丸山和洋「甲越和与の発掘と越相同盟」
謙信のもとには二月に、信玄には三月に届いたようです。五月に交渉本格化、七月下旬に成立。
北条はほぼ毎度のように信濃出兵を求めており、謙信も応じるそぶりを見せますが、七月二十九日鮎川盛長宛書状で信州を攻めようと準備していたが向こうが子細申してきたので延長したとあります。
八月十八日氏政→千葉書状で輝虎は六日に越府出張、五日以内に沼田に着陣を告げてきたと有り、その他にも複数の書状で謙信が一度沼田に入ったことがわかります。しかしこれは今後も数度行われる戦うふり越山で、信玄と戦う気はなかったようです。
同月、足利義昭より甲越和与がまとまったことは然る可きと。
謙信がこの頃沼田から引き上げて越中へ『百日』の遠征を行うと、ほぼ同時期に信玄は関東に侵入。
まるで示し合わせたかのようですね。
この間、信玄は武田神社文書にある書状で沼田、厩橋撃破を伝えていますが、実際のところは戦いはなかったでしょう。
十一月に越中から帰国、二十日沼田に入る。二度目の戦うふり越山。佐竹も参加する予定で太田父子に「急度催促簡要」と伝える。
十二月八日氏康→由良書状で倉内で越年するよう要請していますが、同月十日信玄→信長書状では謙信が沼田に出張したが義昭、信長をたてて家臣の反対を押し切り防備を固めなかったとしています。もちろん謙信は信玄が確信していたように信玄とは戦わず、翌年正月に佐野に出兵、北条から抗議されます。
同年三月頃、北条は甲越和与を察知したらしく、これを破棄するかしないかの話が出始めます。
謙信は八月に甲越和与を破棄しますが、結局信玄と本気で戦うことはありませんでした。

42: ◆HWcl3tDt8E 2007/12/16(日) 22:46:34 ID:jhvA1YJ5
関宿と関東からの越山要請
関東では永禄十年までに里見、広田を除くほとんどの勢力が没落するか謙信を裏切って関東経略はほぼ破綻します。
先月の佐竹、謙信の断交に次いで、簗田は永禄十年四月に北条、義氏と誓詞を交わします。
この条件に「相馬がなんと言っても氏政は簗田に協力する」とあります。
相馬氏は先年に相馬整胤が家臣の謀反で死亡し、高井治胤が後を継いで謙信にも協力していました。
簗田はこの『相馬一跡』を自分が相続することを狙っており、この辺りの行動は全て相馬領併合の野望に基づくものだったようです。
相馬治胤もこれを察知して簗田の策謀を阻むため北条と組んで、守谷城を義氏に差し出すという手をとったようです。
(ただし、この辺は自分でちゃんと調べていないのであまりわからないのですが…。)
このように簗田側とすれば、相馬領土併合に失敗したので北条に不満があったでしょう。
これ後も続いたようで、越相同盟下で北条、上杉ともに相馬領領有を認めなかったことに不満を感じたらしく、故に元亀元年には信玄は相馬領併合を認めることで簗田を味方につけます。対して、北条はそもそも関宿を狙っており、簗田の要求を聞く意味合いもあまり感じていなかったのでしょう。
永禄十一年八月~九月頃に北条は野田氏の栗橋城を接収、山王山、不動山に砦を作って関宿を包囲し、第二次関宿合戦がはじまります。
謙信から「手を返された」と見られていた佐竹ですが、北条の関宿接収を恐れてか謙信に越山を要請します。
十二月五日、北義斯が「関宿凶事眼前候」を伝えますが、謙信は本庄と新雪で行けないという風に言ったのでしょう。
同月二十四日、義重は信玄の駿河攻めで小田原が取り乱しているので人数が足りなくても越山してくれと食い下がっています。
さらに永禄十二年二月五日多賀谷政経→河田長親書状「関宿之地大切ニ候上、御急束御越山」
同月十一日太田道誉→山吉豊守書状で「御越山ニ相極候…関宿之儀、極々相詰候間、例式ニ思食間敷候」
同日の別の書状で「南甲取合」っているので「関宿之堅固中」に「越山」
三月七日白井長尾憲景→越府書状「関宿之儀…到無越山者、可為自落、御越山之外不可有」等。
このように、多くの越山要請は北条と戦えというより(戦うことにはなりますが)関宿救援を求めたものです。
(ただし、太田は後に関宿と越山はわけていますが)
ここから謙信は北条に関宿攻めをやめるよう要求し、それが和平条件になったと考えられます。

43: 人間七七四年 2007/12/17(月) 00:21:19 ID:354Cty9d
>>40-42
臼井城スレで語られていた内容の詳細だね
越相同盟までの流れが分かりやすい
乙です

45: ◆HWcl3tDt8E 2007/12/19(水) 18:27:57 ID:3v7Krz+P
レスありがとうございます。

>(ただし、この辺は自分でちゃんと調べていないのであまりわからないのですが…。)
と書いた簗田の件は大体確認できました。
簗田は相馬整胤の死の前から相馬領攻略を狙っており、ともに謙信方であった永禄五年正月に相馬方だったと思われる目吹城を攻略、さらに四月に守谷城(相馬之地)の攻略をはかっています。簗田が先手をうって北条に帰参した後、相馬治胤は義氏に頼んで北条への従属をとりなして貰い、その際に義氏に守谷城を差し出すことを申し出ました。義氏は古河への復帰に熱心だったようで、それにつながる守谷城差出を喜び相馬治胤を擁護するような行動をとります。
一方で簗田と北条氏政の間では義氏が守谷から古河に移った後で守谷城と領土は簗田のものになるという密約ができていたようです。しかし、結局義氏の守谷への移動は行われませんでした。
簗田の上杉方はの復帰は永禄十一年八月で、北条が関宿に仕掛けた時期と前後するかもしれません。

46: ◆HWcl3tDt8E 2007/12/21(金) 23:53:20 ID:Fkm9TRXh
越相同盟後の「北条高広主導の甲相越三国同盟」説についてのレスです。

第二次甲越和与についてもちゃんと調べようと思っていたんですが、当方、信長・義昭には疎いのでそう簡単にはまとめられそうになく、とりあえずは平山優『武田信玄(吉川弘文館)』や谷口克広『戦争の日本史13信長の天下布武への道(吉川弘文館)』等 手持ちの信玄、信長本から書いてみます。
確か謙信から信玄に対北条同盟を持ちかけた史料もあったように記憶していたのですが確認できませんでした。『対北条』というのは甲越和与の話から自分が勝手にそう思っただけだったのかもしれません。
以下、明記していないものについては何所収か把握していません。
元亀三年正月の信玄→信長の祐筆武井夕庵宛て書状で謙信が甲越和与を望んでいるが承諾できないとしているそうです。
同年七月三十日、信長→謙信書状で謙信・信玄の和をすすめているそうです。
十月五日信長→信玄書状で甲越和与の調停中なので越後攻めはやめて欲しいと考えていたところ同意を得て喜ばしい、との書状。
しかし十月三日には信玄は西上をはじめており、平山優の本では信玄の出陣準備を信長は越後攻めのものと考えてたようだとしています。
『「織田信長文書の研究」補遺百三十号』、『染谷光廣「武田信玄の西上作戦小考-新史料の信長と信玄の文書」日本歴史360号』等で扱われているとのこと。
十一月二十日信長→謙信書状で出し抜かれた信長はこの信玄の動きに激怒し、義昭とともに甲越和与のため義昭のため努力していたのに信玄の所行は前代未聞の無道さで、未来永劫信玄と結ぶことはないとしています。
これは歴代古案所収、上越市史別編にあり。

これらの限りでは第二次甲越和与については義昭信玄信長関係のなかで扱われているものばかりで北条高広からのものは新視点かもしれません。

48: 越相同盟ってどぉ? 2008/02/08(金) 13:02:07 ID:8yZt0OBb BE:712620364-2BP(1)
>>41の「北条が沼田へ行った」との情報元なのですが…
これは「永禄十一年十二月二十四日の本庄→北条氏照宛て文書。」のことなのでしょうか?
これについて何か知っていたら、何でもいいので是非、教えてください。

49: 人間七七四年 2008/02/08(金) 19:02:32 ID:1HQJSaFX
>>48
>>41
の丸島氏(←丸山じゃないぞ)の論文は確認してないが、優しい俺様が上越市史から引用

>史料番号630 (永禄十一年)極月廿四日由井源三宛平繁長書状
>(前略)今月五日向沼田之地可被■(※取カ)御出馬之由、大慶奉存候、(中略)
>当国之人数払而爰元在陣仕候間、縦令上田之衆(※庄カ)迄被遣御馬候共、
>後詰之沙汰不可有之候、(後略)

とあるので、多分情報元はこれだと思います

50: 越相同盟ってどぉ?ってどぉ? 2008/02/17(日) 16:22:55 ID:6HtgqHJX BE:1662780678-2BP(1)
>>49さんへ
わざわざ、原文でレスを頂き、どうもありがとう!!
漢字入力は大変だったでしょうにね。
永禄十一年十月から十二月にかけての後北条勢力の動きを、可能な限り資料で探ったのですが…
氏康・氏政・氏照・氏邦・氏繁は、どうやら、行ってないみたいですね。
(綱成は確認できなかった)

その2行目を意訳すると「今月五日に沼田の向けて出馬した『と聞きました。』このうえなくめでたい。

この「由」つまり、『と聞きました。』がポイントでしょうね。本庄はだまされたのかなぁ。


51: 人間七七四年 2008/03/10(月) 07:55:10 ID:FvxH7bh5
上杉家は案外柔軟だな。
小田原北条、甲斐武田とかつての宿敵とホイホイ同盟してるし。

53: 人間七七四年 2008/03/25(火) 12:11:39 ID:35TeItez
>>51
そんなこといったら、長尾家と上杉家がそもそも宿敵。

54: 人間七七四年 2008/05/26(月) 09:22:53 ID:w9ga6aHd
この同盟で佐竹や里見、大田資正とか激怒したろうな。

58: 人間七七四年 2008/05/26(月) 23:36:26 ID:7wD0ZlZl
>>54
出羽に移った頃の義重に聞いてみたいな
今は越相同盟をどう思いますか?って
おそらく複雑な表情になると思う

関宿城が落ちる寸前だったあの時分、もし越相同盟が結ばれなければ北条による北関東への侵攻が3年早く開始されていた可能性が高い

越相同盟によって助かった義重ら北関東の諸将らは北条の足を引っ張りまくった訳だし
その奮戦は越後上杉氏にとっても大きかった

55: 人間七七四年 2008/05/26(月) 10:25:41 ID:FNMnP7hm
北条側のほうが不利だったけど
結果的には上杉は関東の諸将と関係悪化しちゃうし、お家騒動も起きてしまうで、得だったのかね。
謙信が景虎に関東管領を相続させて北条に帰してきたら当主との兼ね合いで北条の頭痛の種になったかもしれんが。

56: 人間七七四年 2008/05/26(月) 23:07:14 ID:AstcgFeo
北条がすごいと言うより この時期の由良足利長尾兄弟がスゲー腹黒の曲者だよな。
謙信から伊勢崎や館林を恩賞でもらいながら下総臼井城攻略の総大将に足利長尾が命じられて失敗した途端に謙信を裏切る始末。
その後は謙信が何度も新田~足利領を蹂躙してるが太田金山城の防御力の高さは異常。
佐野なんて降伏して目付けを入れられたり人質を取られてばっかりなのに。

61: 人間七七四年 2008/05/27(火) 03:03:32 ID:kbi8vhFl
越相同盟が無ければ上杉はこれまで通り北条を攻めるから、北条は武田、上杉、関東の衆で包囲されてかなりやばくなるんじゃないか?
つーかそうなる可能性があるから越相同盟したんじゃねーの?

62: 人間七七四年 2008/05/27(火) 03:35:54 ID:joBS6hfc
当時の謙信は赤城山を大きく迂回し桐生氏の領地から敵陣の由良氏の弟の足利を経由して関宿救援に向かうという状況で(厩橋の北条が上杉から離反したから。その代わり桐生氏の養子の実家は佐野氏で、渡良瀬・桐生川の水利を巡り由良・桐生は対立し始めていた)
そのため上杉に関宿城救援の妙手がなかった。
だから大規模に上杉が北条と戦う可能性は低い。

65: 人間七七四年@全板トナメ開催中 2008/06/08(日) 15:59:14 ID:AUu2m2Ry
越相同盟はどちらにもいちおう利はあるでしょう。

まず北条は公方義氏と北条家の地位を関東管領から承認されたわけだし分国の経営がやりやすくなる、武田への上杉の助力も得られる(これがダメで結局同盟は破棄されたけど)。
上杉にしても関東、越後国内(頻繁な謀反)、越中と三方面の戦線から一つ、それも三国峠を越える一番負担が大きいものがなくなるのだからこれに勝る利はない。

ただ氏康の「対武田の同盟者としての上杉への期待」と謙信の「関東の安定」とがかみ合わなかったんだろうな。同盟中の北条は駿河・伊豆はもちろん関東でも武田に押されている。
これの助力を氏康は謙信に期待したんだろうけど。

68: 人間七七四年 2008/06/21(土) 16:35:05 ID:N/S4wleA
>>65
関東では押されてはいなかったと思う。
武田里見連合の伊豆侵攻も撃退してるしその後も伊豆での戦いは全て退けた。
三増峠も最後以外は計算通りじゃない?
武蔵北西あたりで降伏した奴がいるがそれはこの時の戦術を考えれば仕方ない。

72: 人間七七四年 2008/06/22(日) 13:34:04 ID:Cc8cnH+4
>>68
関東遠征では
小田原焼かれて上杉との同盟関係が不振な事も浮き彫りになってるし
政略面では武田の思い通りじゃない?

75: 人間七七四年 2008/06/22(日) 21:56:19 ID:JS3mARjj
>>68
小田原を焼かれるのは元より覚悟の上でしょう
野戦できる兵力はあったんだからさ。

謙信との同盟が機能しなかった事とこの戦は無関係。
三増峠での氏政の遅延までは完全に北条の作戦通り。
氏政の遅延と信玄の作戦は関係ないからね。

76: 人間七七四年 2008/06/23(月) 00:37:49 ID:nJn8lYRX
>>75
野戦できる兵力本当にあったのかな。
信玄書状によれば氏照達は6、7千ほど。
里見とか駿河とかにも兵力を割いてるし小田原にいた氏康たちに二万近い兵はあったのかな。あと信玄はこの遠征の前に甲越和与を結んで謙信を抑えてから進撃してるから謙信が動かないことは想定の範囲内だったのでは。
小田原焼いた事はいい宣伝にもなったし。

74: 人間七七四年 2008/06/22(日) 19:33:40 ID:t6cXnI/R
謙信は関東管領職を名実ともに次代に受け継いでいくものと考えていたのだろうか。
その場合、北条家との将来の展望をどう思い描いていたのだろう。
三郎の立場は微妙。
同盟結時の暗黙の了解だった山内家継承、管領継承のために手元に置いた説もあれば、上野の領有権と分ち難く結びついた存在であったため、人質の意味があって返さなかったという説もある。少なくとも晩年の景勝の地位補強を見ると越後国主としての実権者という意味での跡継ぎは、内心景勝と決めていたように思える。

引用元: ・越相同盟について



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