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8: 日本@名無史さん 2009/11/25(水) 10:40:32
石高少なく屋敷が広い藩
美濃郡上藩48000石 青山墓地10万坪
信濃高遠藩3300石 新宿御苑66000坪余

9: 日本@名無史さん 2009/11/25(水) 19:12:37
>>8
もはや江戸とも呼べない僻地に屋敷地を貰った代償ってことで。

10: 日本@名無史さん 2009/11/25(水) 19:31:05
美濃郡上藩48000石
上屋敷 文京区本郷1 7839坪
下屋敷 青山 105704坪
下屋敷 三田 1000坪?

信濃高遠藩33000石
上屋敷 神田小川町 3630坪
下屋敷 木場 1792坪
下屋敷 恵比寿 4570坪
下屋敷 新宿御苑 66815坪

11: 日本@名無史さん 2009/11/25(水) 20:58:53
井伊が豪徳寺のあたりに土地持ってたそうだが、あれって領地?
屋敷じゃないよね?

12: 日本@名無史さん 2009/11/25(水) 21:36:50
>>11
2代井伊直孝の時に世田谷20ヶ村を拝領した
今も代官屋敷が残ってる

13: 日本@名無史さん 2009/11/25(水) 23:33:53
世田谷に貰うというのは、江戸に滞在するための賄い領・・・とか?

14: 日本@名無史さん 2009/11/26(木) 08:09:40
世田谷一万石。江戸藩邸の経費を賄う。

15: 日本@名無史さん 2009/11/26(木) 08:31:09
世田谷は2306石

18: 日本@名無史さん 2009/11/26(木) 19:43:39
世田谷は藩邸への薪炭の供給と普請の労役でしょ

19: 日本@名無史さん 2009/11/26(木) 23:14:22
井伊家は関東だと世田谷と佐野に采地があった

20: 日本@名無史さん 2009/11/27(金) 03:05:13
世田谷みたいな一等地に館を構えるってすごいな。
やっぱり小藩は多摩川超えた先に屋敷を造るの?

22: 日本@名無史さん 2009/11/27(金) 05:19:08
>>20
江戸の頃の世田谷は在所、つまり片田舎
一等地でも何でもねえよ

37: 日本@名無史さん 2009/11/27(金) 21:57:40
松平忠直の乱行と徳川忠長の乱行はどうも幕府のでっち上げだと思う

忠直の子どもの仙千代に福井を継がせなかったのも謎  
母親は将軍家の娘なのに

38: 日本@名無史さん 2009/11/27(金) 22:07:17
そもそも仙千代は結城秀康の孫、しかも忠直の嫡男なんだかられっきとした将軍後継者のはず。しかも結城秀康は秀忠の兄だ。
水戸の光圀が、兄を不憫に思い、兄の子に水戸を継がせたように秀忠も兄の子孫を不憫に思い、将軍家を別格にした際の御三家の一つに加えることくらいできたはず。

なのに何故仙千代に福井を継がせ、御三家の一つに立てなかったのか。
水戸黄門の影響で「御三家=水戸」って思ってる人が多いけど、家康は水戸を御三家に入れろなんて一言も言ってないはずだから、仙千代を福井の藩主に立てて福井を御三家にしてもよかったわけだ。
尾張62万石、紀伊55万石、福井50万石でもいいじゃないか

40: 日本@名無史さん 2009/11/27(金) 22:15:36
>>38
水戸を入れろと言っていないが尾張紀伊が御三家だとも言っていない。
越前の場合、結城落ちして松平になったのが致命的。
将軍継承の道が閉ざされた代わりに石高は御三家と比べて優遇されている。

45: 日本@名無史さん 2009/11/27(金) 22:41:22
忠長の場合残しておくデメリットとしては


・領地が政治、経済、軍事の要所を押さえすぎている
・家康&信玄ゆかりの地で権威ありまくり
・二大街道を押さえているので、諸大名が通るたびに挨拶しなくてはならず「もう一つの幕府」状態
・織田家が外戚としてしゃしゃり出てくる可能性が十分に考えられた


まぁ秀忠も後々のこと考えてもうちょっと地味なところにすればよかったのにお江与がうるさかったのだろうね
徳川 忠長

徳川 忠長は、江戸時代前期の大名。父:徳川秀忠、母:江(浅井長政の三女)

秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において自刃した。享年28。

改易の理由として、加藤忠広の改易に関与した(『藩翰譜』)、大坂城と畿内55万石の所領を求めた(『寛永小説』)等の説が江戸中期からあり、『徳川実紀』に載る家光との後継者争いの逸話と併せて家光による計画的な排除とする説がある。しかし当時の細川忠利や島津家江戸家老の伝聞や観察によれば、忠長の改易は彼個人の狂気とされる。


49: 日本@名無史さん 2009/11/28(土) 10:50:23
>>45
奥州あたりで30万石与えて浅井の名跡たててやったら明治まで持つたと思うけどねぇ・・。
忠長卿は。

46: 日本@名無史さん 2009/11/27(金) 22:55:27
忠長、忠直は4代将軍争いに巻き込まれたって側面もある

当時既に家光の男色女嫌いは公然の秘密で、さぁどこの家から養子を向かい入れるかというレースが既に始まっていた。
二大将軍の兄筋であり本来将軍になれた越前、神君ゆかりの地を拝し正室の子であり浅井長政・織田家の血も流れるサラブレッドな駿河。尾張や紀州よりこちらのほうに行く可能性も十分あった。もし家光が嫡男をもうけても一門の中で越前や駿河が格上になる可能性もあった。

こういう状況だと、いろいろ誹謗中傷合戦が起きたのは当然なわけで

50: 日本@名無史さん 2009/11/28(土) 12:02:53
忠長の議論になると大抵浅井の話が出るが、浅井ってそんな継承しなきゃいけない名族か?
浅井に拘る意味が分からん。

51: 日本@名無史さん 2009/11/28(土) 12:31:37
忠長が浅井家の名跡を継げば、家格は御三家並みで大廊下席、官位も大中納言か宰相ということになるだろうからな。母親の実家とはいえ、突如浅井が御三家に次ぐ家柄になるのはち違和感あるな。

信吉の甲州武田家だと納得なんだが・・・

67: 日本@名無史さん 2009/11/28(土) 23:28:11
>>51
忠長が浅井の名跡を継げば越前並みの大廊下下の間、官位も従四位下少将、稀に従四位上中将で御三家とは比較にならない、並の国持ち大名待遇になるだけだと思うが違うか?

68: 日本@名無史さん 2009/11/29(日) 00:02:30
普通は会津松平家と同格になると考えるだろ。

69: 日本@名無史さん 2009/11/29(日) 00:03:26
越前は自滅して何度も家格を下げまくってるだけだろ
それでも豊後に配流された忠直の子の光長ですら三位中将、弟の忠昌も宰相
ここで踏みとどまっていれば並みの国持大名になることはなかっただろうし

名跡を継ぐと言っても、実態は浅井という名の新たな一門創設にすぎないだろう
家臣も重臣は幕臣から付せられるはず、駿河家の創設とそう大きな差はないと思う
家光と同腹である以上、保科正之の会津藩より家格が下がることは考えられないし、(名跡を継ぐ分割り引いて、)御三家に准じて大廊下上之部屋、極官も従三位権中納言と想像する。タラレバを言ってもしょうがないけどw

まあ忠長が浅井の名跡を継ぐなどあり得ないとは思うが、いくら他家の名跡を継いだとしても、二代将軍の子の家が並みの国持大名になるとは考えられない。

72: 日本@名無史さん 2009/11/29(日) 01:20:51
ぼくのこともたまにはおもいだしてください。
きよたけ

74: 日本@名無史さん 2009/11/29(日) 01:33:58
清武は将軍の子ではないし、甲府藩の一家臣の家督を継いだから仕方ない

78: 日本@名無史さん 2009/11/29(日) 18:54:56
将軍御台所が生んだ男子は
家光と忠長だけ。

79: 日本@名無史さん 2009/11/29(日) 19:01:41
五摂家の姫ってのはよほど生殖能力が欠けておったんだな

85: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 10:22:44
>>79
でも皇族・公家・他の大名に嫁いだ者は子供産んだ姫も多い

87: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 11:08:46
>>85
むしろ、武家(とくに大名)の子女が一番病弱というか、早世している割合などが高いような。江戸期以前に比べて、早世した子の記録が残り易いとはいえ、戦国~江戸初期まではけっこうの数の大名が正室の子だけど、中期以降は一気に「母は某氏」が増えているように思う

89: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 11:43:34
松平忠輝とか宇喜多秀家は無駄に長命だな
社会的に抹殺されていたのに

91: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 20:08:03
>>89

・規則正しい生活
・超健康食
・隔離(伝染病の可能性が低くなる)

そりゃ長生きするわな

93: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 20:40:33
>>91 
宇喜田秀家が流された八丈島は飢えと隣り合わせの島だろ。
前田家から支援があったとはいえ、そんなに充実した食生活を送っていなかっただろう

94: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 20:42:17
>>93
八丈島は昔から伊豆七島で一番農作物が作りやすく豊かな島

90: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 18:57:29
絵島も配流されてから長く生きた。
長生きというほどではないけど。
江戸での生活ってのは健康的ではないのかもしれんね。
庶民レベルでは江戸は人口消費が大きくて再生産能力が低い。
外部からの人口流入によって都市が支えられてたという話もあるが。

92: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 20:34:00
結論は白米食を辞めて麦を食え

96: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 20:51:42
ストレスがない
粗食
これが一番長生きする

98: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 21:20:42
島流しでも八丈島と佐渡では天国と地獄
八丈島では現地妻を持った流人も少なくない。
魚は獲れるし何より暖かい。

99: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 21:55:17
佐渡って魚いないの?

100: 日本@名無史さん 2009/11/30(月) 23:29:05
金山労働が過酷って事なんでは?
金山はじん肺で五年くらいで死んじゃうし。

101: 日本@名無史さん 2009/12/01(火) 02:52:13
江島や忠輝は粗食だけどかなり健康にいい食事だったのだろうね

102: 日本@名無史さん 2009/12/01(火) 08:23:01
八丈島には何度か行って、町営の民俗資料館にも行ったが、宇喜田秀家はじめ 流人の生活にも触れられていた。江戸から船に乗せられた流人たちは風待ちのために三宅島に2ヶ月かそこら滞在するが、そこでは大歓迎されるが島を離れる時に法外な金を請求される。
八丈島に着くと流人たちは各集落に割り当てられるが三宅島での記憶から心を開かないが、村人は温かく迎え、そのうち嫁の世話までするようになる。やがて子供もできたころ赦免の知らせが来ると家族泣き別れになる場合もあったが、一度故郷に帰った後妻と子を引き取りに再び島に行った者も多い。
それが民俗資料館の解説で、一方的記述かと思ったが後で三宅島にも行って三宅島のぼったくり体質は本当だったことを実感。その数ヵ月後火山噴火。

117: 日本@名無史さん 2009/12/02(水) 19:58:22
同じ島流しでも種子島は食物も豊富で楽な暮らしができたらしい。
大坂からは薩摩藩の役人が護送を担当。

118: 日本@名無史さん 2009/12/02(水) 20:22:19
どうせなら種子島とか八丈島とか南の島がいいな。
という俺の先祖も土佐へ流罪か。

119: 日本@名無史さん 2009/12/02(水) 22:14:03
石高・領地が多い割に陣屋大名というと何処がありますかね?

120: 日本@名無史さん 2009/12/03(木) 00:41:12
>>119
支藩とかなら鍋島の鹿島藩とか小城藩、毛利の長府藩や徳山藩では

121: 日本@名無史さん 2009/12/03(木) 00:42:06
>>120
鹿島じゃなくて蓮池だった

132: 日本@名無史さん 2009/12/03(木) 21:31:59
>>119
石高が多い陣屋大名には
肥前小城藩鍋島家は、73000石
柳間の外様大名

家格が高い陣屋大名には
伊予西条藩松平家は、30000石
大広間の親藩大名

がいる。

123: 日本@名無史さん 2009/12/03(木) 14:51:05
井伊家は、越前松平家の格式と同じ扱いになる事を求めて、幕府に運動していたそうだが、越前松平家の格式って、どんなものだったの?

譜代筆頭の井伊家が、越前松平家の格式と同じ扱いになるように、幕府に運動していたくらいだから、越前松平家は、井伊家よりもかなり良い扱いをされていたんだろうか?

135: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 00:24:06
>>123
それは知らなかったな。出典は?

松平越前守家 ( )は中期の家格低下時
伺候席大廊下下之部屋(大広間)
官位
初立ち正四位下少将(従四位下侍従) 極官正四位下中将(従四位下少将)

井伊掃部頭家
伺候席 溜間(定溜)
官位
初立ち従四位下侍従 極官正四位上中将

定溜三家は国持大名上位なので家格低下の時は逆転している。

143: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 06:32:06
>>135
「江戸に学ぶ日本のかたち」(山本博文著)の[第二章 武士のかたち]の中に、「井伊家は、譜代大名としては唯一少将に上る家である。このため、親藩である越前家とほぼ同等となり、越前家の格式と同じ扱いになることを求めて運動した。」
と載っていたが…。

153: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 12:31:01
>>143
玄関式台に刀番が上がれるかどうか、とかそんな感じなのかな。

156: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 15:47:42
>>153
刀番の侍は、御三家の刀番は、大広間溜で待機。

前田家・島津家・伊達家・毛利家と、越前松平家・津山松平家・松江松平家及び、溜間詰大名の刀番は、玄関を上がって遠侍次之間の前のあたりで控えていた。

それ以外の面々は、玄関に上がれないから、主人が退出するまで玄関の外で刀を持って立っていなければならなかった。(「江戸城」 村井益男著による。)

これに関してみると、井伊家と越前松平家との差は無いな…。

124: 日本@名無史さん 2009/12/03(木) 15:11:42
越前松平って結城秀康の系譜じゃなかったったけ?
だから松平の中でもそんなに格が高くないとかなんとか聞いたきがする

128: 日本@名無史さん 2009/12/03(木) 18:54:22
>>124
越前系松平自体は元々は相当に優遇されていた
それを早世・配流・自殺・御家騒動などで自滅しまくって、その度に石高も家格も下げまくって当初より格も低くなった

134: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 00:11:42
>>128
それでも潰されないのが「制外」

127: 日本@名無史さん 2009/12/03(木) 18:36:23
極位極官は、井伊家は正四位上近衛中将、越前松平家は従四位上近衛中将で、官位でいえば、井伊家の方が上になるが…。

また、江戸城の詰所は、井伊家は黒書院溜之間、 越前松平家は大廊下下部屋だから、こちらの方は、両家とも遜色ないな…。

官位や詰所以外の待遇とか処遇を求めていたのだろうか?

130: 日本@名無史さん 2009/12/03(木) 19:47:59
井伊って松平?

131: 日本@名無史さん 2009/12/03(木) 21:31:52
>>130
井伊家は、赤鬼直政の時に、家康から「そなたに松平姓を与えよう。」と言われたが、直政は、「井伊は、由緒ある姓だから、折角ながらお断り申し上げる。」と辞退している。

また、諱の方も、井伊家の通字である「直」を代々受け継いでいるから、将軍家から偏諱を賜る事も特に無いな。

144: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 06:47:14
井伊家代々の藩主は将軍世子の元服式での加冠役を務めまた、将軍家の名代として日光東照宮に参詣する日光名代を務めている。

さらに京都御所に対し将軍家の上使となるなど特に家格をあげておく必要があったのではないかと・・

145: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 06:53:15
国主格、10万石格、老中格・・

今の人間からしたら格式は多少低くても経済力があった方がって思うが
やっぱり当時の人からすると逆なのかな

153: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 12:31:01
>>145
経済力より格式の方が遥かに重要だろうね、御家にとっては。
わずか3万石の御連枝が大大名と肩を並べ、たった5、6万石の長府毛利家が准国主時代には賜諱・殿上元服・侍従の家格で国主クラスの家と姻戚関係にあるのに、並みの大名に転落後は国持大名との縁戚は皆無だし・・・

146: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 07:02:23
5万石程度のの老中(譜代)が50万石もの外様大名に「・・その方・・」と言い、丁重にお辞儀をして貰える。さぞや気分がよかっただろう。

147: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 07:35:21
100、70万石の譜代を作らなかったから幕末に幕府は薩長に負けたんだよ。

148: 日本@名無史さん 2009/12/04(金) 09:14:19
その場合は、4代が終わった時点くらいにその譜代が執権とか呼ばれちゃってるかもしれないけどね。
御三家ですら頼りにならなかったんだから、大身譜代がいても同じことだよ。

引用元: ・【大名】江戸三百諸侯について語ろう9【藩主




江戸三百藩全史【増補改訂版】