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1: 人間七七四年 2009/05/18(月) 03:37:46 ID:aGxTIWvm
講談やゲームの影響で秀吉に手玉に取られた猪武者と思われがちな名将を語れ。 







3: 人間七七四年 2009/05/18(月) 12:44:50 ID:eWyivd+B
秀吉視点で損してるけど、十分以上に優秀な家老、軍人、人望
お市がいっしょに死んでくれるほど。
魅力があったんじゃないか。

5: 人間七七四年 2009/05/19(火) 20:24:50 ID:l2iPHpp3
でも野心丸出しで台頭してきた家康に同盟申し込んだけどナァナァであしらわれたよね。
あの頃の秀吉同様、家康も神掛かってた時期なんだけど(利用できるものは信雄でも利用してたたけど)
同盟して秀吉に対抗できるほどの器量でもないし、たいして利用価値もないと見切られちゃったのが権六風情の器量をあらわしてるんじゃないの。
信長の下でなら名将といっていい働きをしたけどね。でもそれだけ。

6: 人間七七四年 2009/05/19(火) 20:57:11 ID:f6Fit6pX
つーかあの当時の家康は、織田家内部の紛争には、局外中立の立場だっただけで。
自分の新領地もまだ不安定なのに、不安定をほっておいて他所に手を広げるようなアホな真似をする家康じゃ無いよ。

勝家の器量と言うより家康の都合だわな。

7: 人間七七四年 2009/05/20(水) 01:21:58 ID:Rz43HEEt
勝家や佐々や佐久間は乱世には向いてない感じがする
真面目すぎたような

逆に秀吉家康利家などはのし上がる為ならなんでもする
乱世向きの武将

8: 人間七七四年 2009/05/20(水) 05:14:06 ID:mClLHOB6
実際のところ、猛将といわれる割に華々しい戦がないし。
どっつかっつーと伊勢撤退戦のときに負傷してやられかけたとか……
有名な甕割りの逸話はもろ創作だし。

10: 人間七七四年 2009/05/20(水) 08:49:58 ID:LfSHvf8Q
>>8
んなこたない。派手な奇策や大逆転といった講談向きの話だけが「軍功」ではない。
きっちりと堅実に戦果を挙げるのも重要な軍功。
常に先陣などの重要な役割を任されて、かつ織田軍は着実に勝利を重ねたのだから、勝家が優秀な指揮官であったという評価は間違いではない。

12: 人間七七四年 2009/05/20(水) 10:40:13 ID:obBi3uY8
>>10
たしかに勝家は有能は有能だろうけど「猛将」と言われるほどの軍事功績があるかと言われると疑問符は付く。これは福島正則のスレでも似たようなこと書いたことあるけど、少数で多数の軍を猪突猛進で打ち破ったくらいの講談向きな「軍功」がないと「猛将」とは呼びづらい。
勝家には「甕割り」とか「かかれ柴田」などの逸話はあるけど、勝家や福島は軍功そのものよりも本人の剛毅な性格が「猛将」と呼ばれる所以なんじゃないかな。

ただ福島は好きじゃないけど勝家は割りと好きなのは、福島は偉そうな事を言っておいて形としては簒奪者(家康)に擦り寄った印象があるのに対して勝家はあくまで簒奪者(秀吉)に立ち向かったイメージのせいなのかなあ?

13: 人間七七四年 2009/05/20(水) 12:31:27 ID:LfSHvf8Q
まあ「猛将」は江戸時代に作られたイメージだろうね。
江戸時代は神君家康↑、相対的に秀吉↓、さらに相対的に勝家↑という構図だしね。

14: 人間七七四年 2009/05/20(水) 13:01:06 ID:0JgEhav0
そういえば江戸期の元禄くらいに評価されてた武将と言うのは、明智光秀、柴田勝家、石田三成だったそうな。
三人とも天下分け目の戦をしたから、だそうな。

15: 人間七七四年 2009/05/20(水) 19:24:31 ID:FQa5rszo
勝家が簒奪者に立ち向かったって・・・

各将の思惑はどうあれ、一応形式上は当時織田家の政策決定会議だった清洲会議を反故にしてるし、信孝より織田家一門の序列が上だった信雄(更に信包)を会議でもろに蔑ろにして自分と親しい信孝を推し、その後信孝以外の主要な織田家一門衆や織田家の家老や譜代衆、信長側近だった稲葉・細川・蒲生などと敵対。
清洲会議の決定を反故にして三法師を譲り渡さない信孝に肩入れ。
なりふりかまわず織田家と敵対勢力のはずの長宗我部や雑賀衆らと同盟。
どうみても織田家内部の派閥抗争です、ありがとうございました。

勝家がその派閥抗争にもし勝っていたら秀吉同様簒奪者にならなかったという確証がどこにあるのやら。
どうみても勝家も野望を持ってあの派閥抗争に臨んでいったようにしか見えん。

18: 人間七七四年 2009/05/21(木) 00:23:35 ID:BE/5fJE8
>>15
だから勝家も秀吉同様織田家の存続よりも自分の領地と影響力の拡大と派閥闘争にあけくれてたってだけでしょ。
それが秀吉だけ簒奪者で勝家だけ織田家の守護者みたいに言われるのはおかしいよね。

20: 人間七七四年 2009/05/21(木) 00:37:19 ID:nGe8+kX5
>>15
そういうイメージが広まっている、って話でしょ。事実がどうかでなくて。

16: 人間七七四年 2009/05/20(水) 21:16:30 ID:9AdZH15d
まぁ秀吉だって毛利や上杉と結んでるしね

11: 人間七七四年 2009/05/20(水) 10:15:55 ID:Vlc2uO4V
越前一国を任せられた器量は評価してくれ。

22: 人間七七四年 2009/05/21(木) 01:01:35 ID:1JP/Tgex
領国経営に加えて、北陸の一揆を平定して、上杉をあそこまで追い詰めたんだから十分華々しいだろ。
そりゃ功績でいえば秀吉より上だわな。

24: 人間七七四年 2009/05/21(木) 10:08:36 ID:FpU7JmlF
良い家臣になれても良い勢力の長にはなれなかったタイプだな。
指導してくれる人がいるうちはいいが。それがなくなるとどうしていいのかわからなくなる。
それだけ毒気がなかったってことなんだろうが。

25: 人間七七四年 2009/05/21(木) 15:01:56 ID:yUyUgntQ
家臣の意味を知っていたのでしょう
皆が主やTOPを目指しているわけではないよ
そこに譜代武将としての潔さや美しさを感じるのです
大きな大名家には必ず存在するタイプの人ですけどね

29: 人間七七四年 2009/05/22(金) 07:01:10 ID:I/ZOupIu
秀吉とその部下たちが凄すぎたね
秀吉は勝家の養子から盟友からどんどん切り崩していった
まさに相手が悪かった
秀吉の家臣にはプライド的になれないし
どうしようもなかったね

30: 人間七七四年 2009/05/22(金) 09:07:13 ID:SfvTOsQo
>秀吉とその部下たちが凄すぎたね

というか、秀吉とその部下たちの「運」が凄すぎたのだと思う。

やはりいち早く京都に上って明智光秀を撃破したことが大きかった。
勝家にも光秀を撃破する力は充分にあったのだろうけど、越中から京都までの距離&上杉軍の猛抵抗があり、秀吉に比べ不利な状況だった。

あとは、今の時代もそうだと思うが、どんなに義理堅い人物も、いつだれに裏切られるか分からないということ。こればかりはどうしようもないし、信長もどれだけの人物に裏切られたことか。

最後まで勝家に味方した金森長近や佐久間盛政はもっと評価されるべきだね。

33: 人間七七四年 2009/05/22(金) 11:07:42 ID:5IW2j+em
いや、運 だけではないだろ。
なりふり構わずやれるだけやった秀吉軍団に運が味方したんだろ。
相当の行動力がなければあんなことできないだろ。
勝家には織田家で実権握るだけで天下取りなんて考えもしなかっただろう。

35: 人間七七四年 2009/05/22(金) 13:23:52 ID:hXGU2idy
運は大きいだろ。背後は人質とった宇喜多や南条がおさえ、毛利も運よく追撃しなかったし敵討ちの大義名分得る事ができたから多くの味方が集まったし

43: 人間七七四年 2009/05/23(土) 08:07:05 ID:gtWwpf81
でもあの時点で毛利はもうガタガタだからね。単独での勢力挽回は無理でしょ。
いまさら追激戦で秀吉の軍勢に打撃を与えたところで情勢が落ち着いた頃に織田軍が戻ってきたらやられるだけ。毛利家の威光に陰りが見えた以上は一旦秀吉を追い払っても、中国地方の豪族たちもすぐに又離反するだろうし。

もし小早川が信長と信忠の死去を知っていたら、織田家は混乱するだろうけど秀吉が纏め上げて戻ってくるだろう、だったら目の前の小さな勝利は放っといて、今のうちに恩を売っとけ、くらいに考えてもそこまで不思議じゃないと思うけど。

44: 仙台藩百姓 2009/05/23(土) 09:36:18 ID:qB2fSrz5
毛利が信長横死を知っていたら普通、宗治に腹切らせるような真似しないお┐ (´ω`) ┌
そもそも追撃追撃言うけど、宇喜多や秀吉の残した押さえの兵を無視して一体どうやって追撃するつもりなのだお
ましてあの異常な行軍速度だし
長躯追い縋るような真似したら逆に秀吉側に分断されて崩壊するのがオチだお┐ (´ω`) ┌

47: 人間七七四年 2009/05/23(土) 13:24:57 ID:VgAOAPU2
どっちにせよ明智ときちんと連絡の取れていない状況で動けるわけ無いだろ。

52: 人間七七四年 2009/05/28(木) 19:45:41 ID:sE9mEJPZ
勝家も若い頃ノブなんとかから信長に鞍替えしてるからな
前田達の秀吉への鞍替えも戦国のならわしとして納得済み
勝家みたいな武将は前田達を囲えなかった自分の不徳を責めるタイプ

53: 人間七七四年 2009/05/28(木) 21:43:03 ID:BQJIVy7R
責めるタイプもなにも府中城で詫びてんじゃん。
前田方が盛政のせいだとか、「秀吉軍を食い止めるから落ち延びよ」とか前田家譜で
ほざいてんのは見苦しいけど。

54: 人間七七四年 2009/05/29(金) 04:25:48 ID:iCcX+yzV
前田の資料ははっきり言って武功以上に信用できぬ
後世の物語だから仕方ないと言えばそれまでだが

55: 人間七七四年 2009/05/29(金) 17:46:34 ID:1seObxlw
勝家って実は戦で負けてばかりじゃね?

56: 人間七七四年 2009/05/29(金) 21:46:02 ID:2OHD7zDR
最高指揮権もって敗戦という意味じゃ賎ヶ岳くらいだろ
稲生やら伊勢長島攻めやらは負け戦に参加してるだけだし
手取川の責任を全部柴田に押し付けるのは無理がある。

58: 人間七七四年 2009/05/30(土) 05:37:07 ID:QH205xJv
なんか時代が秀吉に味方したように思えて仕方ない
古いタイプの武将の勝家より、新しいうねりを起こせる秀吉に時代が味方した
そんな気がしてならない。

59: 人間七七四年 2009/05/30(土) 10:28:38 ID:rEqSiNFW
勝家と秀吉の間に、新しい古いの差は無いだろ。

65: 人間七七四年 2009/06/09(火) 01:22:19 ID:IG8RzJ8y
しかし秀吉の死因がかっけだったとは・・・
野菜や果物食わずに魚ばっかり食ってたのかな
とんだ百姓の味方だなw

67: 人間七七四年 2009/06/11(木) 00:12:46 ID:uxQBrDF9
宣教師の記録からの推測らしいけど、どこまで信用できんのかね?
症例が合致しそうな病気って他にもありそうだし。

家康より長生きをっていう意思があっただろうから偏食はしなさそうだが。

68: 人間七七四年 2009/06/11(木) 11:03:14 ID:rVgoSG04
どうせなら、勝家の食生活を語ろうぜ。

69: 人間七七四年 2009/06/12(金) 01:08:29 ID:wi+r6JYF
宣教師の記録によると勝家の領地では
大殿といえば勝家
殿といえば勝家の子息
だったらしい。
それぐらい絶大な権力があったんだから食生活も豪勢だっただろ。
蟹食い放題

70: 人間七七四年 2009/07/02(木) 03:12:23 ID:yYwvaUDV
>>69
この場合の勝家の子息は誰のこと?

72: 人間七七四年 2009/07/25(土) 09:24:31 ID:edHUGr8X
>>70
柴田勝敏?

73: 人間七七四年 2009/07/25(土) 11:59:37 ID:m//qcf3L
嫡子、という意味なら勝豊でしょ。

98: 人間七七四年 2009/10/20(火) 15:07:44 ID:HnIDwfdJ
質問です。
柴田勝定という人物と柴田勝全という人物について調べているのですが
両者とも源左衛門を名乗っていた為、事績が混同している事が多くどちらが何を成したのか、よくわかりません。

たぶん、どちらかは明智光秀に属して山崎合戦で討ち死に。
どちらかは勝家の滅亡後は堀秀政に仕えて以後も堀家臣として名前が度々出てくると思うのですがどっちがどっちなんでしょうか?

花押が違うので同一人物ではないようなのですが

103: 人間七七四年 2009/10/23(金) 02:10:59 ID:uXI/5g0i
>>98
>両者とも源左衛門を名乗っていた為

他人が混同した為に、両者とも「源左衛門を名乗っていた」ことになったのでは?
花押が違うと言うことは両者が書いた書状が残ってると思うけど、その両方に「源左衛門」って書いてあったのかい??

104: 人間七七四年 2009/10/23(金) 02:59:36 ID:IJITKmmG
「織田信長家臣人名辞典」って本だと両者とも「源左衛門尉」って名乗りを使ったようで
一部、勝定を「次左衛門」とする資料もあるが、「源」の誤植であろう、と書いてあったです。で、明智に属した人物も「柴田源左衛門」を名乗ったと。

署名の現物は当然見たことないです。
ただ、上記の本では同一人物ではないとした上で勝定は柴田勝家の重臣で、柴田家の滅亡後に堀家に仕官した、とあり
山崎の合戦において明智勢の中に「柴田源左衛門」がいるので、一時何らかの理由で明智家に属したのか?と書いてありました。

105: 人間七七四年 2009/10/23(金) 04:47:09 ID:cw+gFcQW
同族で同じ通称ってことはあるよ。
柴田の親戚の佐久間家でも
久六盛重 - 久六, 久右衛門盛次 - 久六, 久右衛門安政
って父子3代にわたって通称を継承してる。
右衛門は信盛も使ってるし(右衛門尉)。

106: 人間七七四年 2009/10/27(火) 05:34:24 ID:TKhJXECm
ドラマなどで、秀吉に嫌がらせをする嫌な先輩のように描かれることが多いが
実のところ、どんな人だったのだろうか

109: 人間七七四年 2009/10/27(火) 11:31:57 ID:gMc5Hzox
>>106
織田家中では仲間たちからの信頼が厚く、尊敬されていたようだ。
戦場での働きで実績を挙げたタイプだから、調略で頭角を現した秀吉と比較されやすく、実績重視の織田家臣たちが反羽柴の代表として担ぎやすい対象だったのではないかと。

たとえばだけど、天下りでやってきた常務に反発する社員が、現場叩き上げの専務の元に結集する、みたいなのと似ているというか。

111: 人間七七四年 2009/10/27(火) 14:14:09 ID:d2UpbAgI
>>106
軍記物では頭の固い猪武者だが実際は若い頃から晩年まで武芸達者な策士
性格までは不明

107: 人間七七四年 2009/10/27(火) 06:54:54 ID:TrRRHZVz
一度信長に逆らったにも関わらず許されて重用されてんだから有能な人物であった事は確かだな。

115: 人間七七四年 2009/10/27(火) 17:17:53 ID:DGfC21fp
秀吉こそ現場で実績上げた男だろ

117: 人間七七四年 2009/10/27(火) 22:09:37 ID:DGfC21fp
むしろ勝家より戦争屋だよなあ、猿

121: 人間七七四年 2009/10/28(水) 23:07:59 ID:UuAtMJPJ
打倒光秀を果たしたのが秀吉であることを考慮しても、もう少し粘ることぐらいはできなかったのかとは思う。

157: 人間七七四年 2010/03/22(月) 16:18:04 ID:eKWyTycC
勝家は越前一向一揆の一部を穏健的な宗派に改宗させるとか政略もやってるな。
何百年経ってもそういう点は評価されないよなこの人。
ずっと直情径行で髭面で、融通が利かない門閥家老扱い。

161: 人間七七四年 2010/03/27(土) 13:50:37 ID:og9OueJI
>>157
でもそうやって、ごく一部の人だけでも勝家の仁政が認識されているだけましかも。
ちなみに、佐久間信盛は追放されて終わっているからもっとかわいそうかもね。

167: 人間七七四年 2010/04/11(日) 12:27:41 ID:x0yfgaTM
>>157
愚直な家老としてキャラが立ってるからな。勝家は。
そのストイックさがいいんだろう。

163: 人間七七四年 2010/03/31(水) 15:02:25 ID:O+JgGbIL
一番可哀想なのは盛政

165: す@死 2010/04/10(土) 04:23:54 ID:t7OUv74k
勝家が勝つにはやっぱり家康と組むしかないんじゃないのか?

家康は秀吉と小牧長久手で互角に渡り合った が
勝家はあっさり負けた

やっぱり天下人の器だよな家康は

168: 人間七七四年 2010/04/13(火) 00:39:15 ID:Tss4gTOU
>>165
動員兵力も地理も全然違う。
一概には比べられん

166: 人間七七四年 2010/04/11(日) 10:21:21 ID:fZfLF9aG
まあ家康の側に権六と組むメリットがなかった。
中央で争っている隙に信濃や甲斐を手に入れてしまおうということだろう

170: す@死 2010/04/14(水) 21:47:18 ID:GCw1eKqD
決戦を急ぎ過ぎたな、勝家は勝負に及ばなければ潰せなかった筈だぜ秀吉もさ
大人しく三法師の世継ぎ認めるべきだったのさ
時間稼いでる間に多数派工作してってやるべきだった

171: 人間七七四年 2010/04/15(木) 10:56:44 ID:JkgMOm4V
政治力では秀吉>>>>>>勝家

178: 人間七七四年 2010/04/28(水) 11:37:38 ID:1u1KwLHR
清洲会議以降、(大散財して築いた)北ノ庄城を拠点にせざるを得なくなって、雪国に閉じ込められたのが決定的だったが、、
勝家は譜代だけに、守るべきもの(お市や信孝など)が多すぎたんだろう。その点、秀吉は守るものが自分の家臣以外なかった。
だから、秀吉は自分の出世だけを考えて全力投球できた。香川照之の岩崎弥太郎みたいにw

その勝家の思いが詰まった北ノ庄城。
平野に建てた平城ゆえ天守閣単体では安土城より高く、階数としては日本一だった(?)勝家の北ノ庄城9重天守閣を復元して欲すぃな。
勝豊の丸岡城は北ノ庄城の望楼部を模したであろうから、こんな感じ↓
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/f5/de/myriver1020/folder/1577045/img_1577045_46502799_1?1233845753
だれか絵の上手い香具師、もっと美しく描いて、勝家公の御無念を晴らし、成仏させてあげてくれ。

179: 人間七七四年 2010/04/28(水) 11:52:20 ID:0HGlAwei
近江への出城である長浜を維持出来ていればな……。

183: 人間七七四年 2010/04/30(金) 14:36:50 ID:AZNq3gWh
結論は唯一つ「無理してでも賤ヶ岳に佐々を連れてくるべきだった」

まあ勝家は長期戦のつもりだった様だしまさか一気に勝負が付くなんて思ってないのだろうけどねえ

引用元: ・【権六】柴田勝家 その2



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