51FjV6vVMPL



1: 人間七七四年 2015/07/10(金) 02:03:27.61 ID:39n4vZz9
織田 長益(おだ ながます、1547年~1621年)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。
長益系織田家嫡流初代。
織田信秀の十一男で織田信長の弟、有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では有楽、有楽斎と称される。
千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる。
後には自ら茶道有楽流を創始した。
また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。
東京都千代田区の有楽町(ゆうらくちょう)という町名は、長益の号「有楽斎」に由来している。








2: 人間七七四年 2015/07/10(金) 16:54:09.02 ID:39n4vZz9
織田有楽斎は織田信長の弟の中では一番長生きしたから偉いと思う

3: 人間七七四年 2015/07/14(火) 15:58:46.33 ID:SrslttgS
俺は有楽町の文字を見るといつも織田有楽斎を思い出してしまう

4: 人間七七四年 2015/07/15(水) 18:35:57.07 ID:J2aLSR0H
「人ではないよ」の人か

織田長益

『義残後覚』・『明良洪範』など後世の編纂書では本能寺の変の際に信忠に自害を進言したのは長益だとされ、その後の逃亡劇を、京の民衆たちに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉られたという。


5: 人間七七四年 2015/07/18(土) 02:37:39.52 ID:qx9L4oTw
織田有楽斎は本能寺の変の時、信忠に自害をうながしといて自分は逃げ出した卑怯者

83: 人間七七四年 2017/08/28(月) 07:40:54.56 ID:Yh2r9b6V
>>5
本人の身になって考えればそれが一番生き残る確立が高いじゃん。
大将首の信忠が籠城して派手に迎えうち引きつけて時間稼ぎしてくれたほうが逃走する自分の生存率が上がるもの。
もし信忠が逃走を決断(成功するかどうかは兎も角)なんてしたら時間稼ぎどころか大規模な捜索網や検問展開されて…

8: 人間七七四年 2015/07/28(火) 12:45:31.55 ID:HEwbufjY
織田有楽斎って大坂の陣の時どうして途中で大坂方から抜けたんですか?

9: 人間七七四年 2015/07/28(火) 18:59:39.42 ID:AVTlPziB
家康討つべしの超強硬派だった有楽の息子が秀頼を大坂から追放して信雄擁立し担ぐという主張をしたせいだと言われている。
当時の豊臣政権を実質的に運営していたのは織田一族だからね。
秀次が自刃した際は信雄が筆頭として誓詞に署名しており序列No1だし。
信包も一度は改易されたが復権したしな。

10: 人間七七四年 2015/07/29(水) 22:36:25.47 ID:C2HwSZlj
>>9
有楽の息子が秀頼を大坂から追放して信雄擁立し担ぐとか。
そんなことできる訳ないやん。
無謀な主張をして負け戦確定の大坂から逃げたかっただけなんじゃないか。

14: 人間七七四年 2015/07/30(木) 02:38:41.04 ID:HKHjxkfe
>>10
駿府記にそれちゃんと記されている話だぞ。

18: 人間七七四年 2015/08/01(土) 18:14:03.65 ID:4yJoOIxZ
秀吉はなんだかんだ言っても信雄や信包や有楽らに優しいんだよな。
まったく役に立たない無能なんだけど彼らを絶対に見捨てたりしない。
だから彼らも織田の血筋でもある淀と秀頼を盛り立てて秀頼政権は織田政権と言われていた。
家康にとって織田政権は潰すべき対象になっていたんだろうね。

21: 人間七七四年 2015/09/09(水) 22:21:23.05 ID:3fmOk+tc
戦国の世でも自分の長所を活かしたという点では有能な人だったと思う

22: 人間七七四年 2015/09/23(水) 06:29:32.21 ID:aRCiQVvs
茶人としての方が有名

23: 人間七七四年 2015/10/17(土) 15:46:08.18 ID:1WJm9cqg
織田家は鬼神の血が混入しているのだろうか?

織田有楽斎
     
織田信長の弟。
本能寺の変では、織田信長・信忠親子が相次ぎ戦死し大混乱に陥る中、狂騒の京からいち早く離脱に成功する。庶民は人離れしたこの活躍を絶賛し、「織田の源五は人ではないよ」と褒め称えたという。

関ヶ原の戦いでは西軍の武将蒲生郷舎を討ち取るなど大活躍を見せ、、大和3万石を授かった。茶道にも精通し、利休七哲の一人にも数えられるほどだった。

大阪冬の陣では豊臣側の中心人物となり奮戦し、将としての器を示す。
有楽斎は豊臣の未来のために、和平策を提案したが受け入れようとしない豊臣側に呆れ、有楽斎は大坂城を退去する。有楽斎の提案を受け入れなかった豊臣は予言どおり滅亡してしまう。
大坂城退去後は茶道に専念し、趣味に生きた。

文武両道兼ね備えた希有な武将であり、文化人でもあった有楽斎は有楽町という地名で現代に残り、人々の心に生き続けている。

24: 人間七七四年 2015/10/18(日) 00:13:03.42 ID:IfVjapdN
>>23
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/sengoku/1152432786/
の「6」参照(笑)
もしや、と思ってみて見たら、やはり。
バレていますよ(笑)

実は、このスレに、自分も、「名将長益」を幾度か書いた(笑笑)。
ただし「6」は自分ではない。

というおふざけはともかく、自分は、まじめな領域で、長益に大きい関心と共感をもっている。
長益については、二条御所から逃げ出したという悪評と結びついて、豊臣、徳川の間を無節操に渡り歩いたという印象なり評価が根強くある。
(次回、その一例=典型を紹介する)
二条御所から逃げたのは事実かもしれないが、その後の長益が無節操とは思えない。
また、当時の人も、骨も人情もある人物と捉えていた形跡もある。
追って、この点についてコメントを入れたい。、

25: 人間七七四年 2015/10/23(金) 01:28:58.67 ID:QNnMQt77
「その後〔本能寺の変で二条御所から逃げ出した後――引〕長益は織田信雄(信長の次男)にすり寄ったが、豊臣政権下で信雄が没落すると、秀吉の愛妾となっていた姪の淀殿に接近し、一万五千石の大名の地位を手に入れた。
関ヶ原の合戦の際には東軍に与したので、三万石に加増されている。
大坂冬の陣では豊臣方の幹部に就任したが、実際には徳川方の間諜となって情報を流し、豊臣家滅亡後も大名として存続した。
長益は有楽斎と号し、利休七哲の一人に数えられるほど高名な茶人である。
親族の生き血をすすりながらの世渡りと、茶人としての矜持が、長益という人物の中でどのように同居していたのか、筆者には不思議でならない」(『本能寺の変――光秀の野望と勝負』学研新書、樋口晴彦、P95)
 
これは、かなり極端とは言え、長益に対して、一般に広まっている認識の一典型と思われます。機を見て両派の間を泳ぎわたり、大坂の陣ではスパイを行った――このような長益のイメージです。
果たして、これが当たっているのかどうか。あるいは、少なくとも、長益の実像に近いものなのかどうか。

26: 人間七七四年 2015/10/23(金) 08:07:43.59 ID:CNOGFsCW
スパイはないっしょ

27: 人間七七四年 2015/10/23(金) 20:30:07.39 ID:n0AYkBIw
交渉用のチャンネル残してただけだわな

28: 人間七七四年 2015/11/18(水) 08:05:16.25 ID:xCXqH44y
この人意外と世渡り上手だよね

29: 人間七七四年 2015/11/18(水) 21:56:29.74 ID:iBCYueRW
意外なのか
信孝らとかあからさまなくらい対照的だと思うが

30: 人間七七四年 2015/11/18(水) 23:22:32.49 ID:I1PHkIDt
秀吉についたのも、徳川と同盟したのも先見の明がありすぎるわ

33: 人間七七四年 2015/12/23(水) 20:58:40.97 ID:LmeyFvYQ
信雄と有楽斎はのらりくらりとあの生き馬の目を抜く戦国の世を結果的に生き残ったんだからなんだかんだいって凄いよ

35: 人間七七四年 2015/12/24(木) 02:15:46.24 ID:5esFgscV
信雄と有楽斎は信長を目指しちゃいけない人だからな

36: 人間七七四年 2015/12/29(火) 01:22:32.14 ID:n1Locpp6
信雄と長益は、似たような存在と捉えられがちだが、かなり立場が違うと考えている。
史料がはっきりしないところもあって、別の解釈もあるなら教えて欲しいが、長益は、信長時代は信忠付き、本能寺の変後は信雄付き、北条を倒して秀吉が実質全国制覇し信雄が処分された以降は秀吉のお伽衆、秀吉死後は早い段階から徳川方――というのが、おおよその経緯と捉えて良いと思う。
この間、賤ヶ岳合戦ではお市やその娘救出のための交渉役、小牧の役での秀吉との交渉役、その後の秀吉、家康の交渉役などをやっているようだ。これらは、基本的には信雄の下での動きと思われる。
信雄は独立した大名として裁量の範囲が大きいが長益はそうではない。
>>25の引用では、信雄にすりより、淀殿に接近し、「親族の生き血をすすりながらの世渡り」などと書いているが、長益の上の経緯から、このような捉え方は疑問が大きい。
本能寺の変の後、信雄付きになった経緯は、それまで仕えていた信忠が死んだ後、序列上位の別の一問付きに移ったということ
(それも、どこまで自分の意志が働いたのかはっきりしない)、
これを非難めいて「すりより」などと言うのであれば、基本的に自分と家のためよりよいところに仕官を求める戦国時代の当たり前の行為全体が「すりより」と非難されれる対象になりかねない。そもそも、本能寺の変の後、信雄が特別優位だったわけでもない。

次に、今度は、死亡でこそ無いが、信雄が改易され、ふたたび同じように使える相手を失うが、このときは、秀吉が群を抜いた覇者になっている。ここで、秀吉に仕えることが無節操とも思えない(抵抗も悪いことでないとはいえ)。
秀吉死後は、あいまいな立場を採らず、早くから徳川側の旗幟をはっきりさせている。
大坂の陣でも、長益は、家康と親密であることが充分知られた上で和平交渉などを行っていると思われる。
一大都市のような大坂城は、中にいるだけで何か分かるというものでもない。長益の立場からして、スパイと考えるのは現実味がない(長益が「スパイ」の役を果たせるようでは、豊臣方は論外だ)。
長益の経緯を見れば、>>25の引用がイメージづけている「動揺」「日和見」「両陣営の間の渡り歩き」という点で、際だってひどい内容があるとは思えない。
ただ、本能寺の変で逃亡しているために、このイメージが持たれやすくなっているのではないかと感じている。長益の捉え方について、このような感じを持っている。
しかし、(>>25引用の内容はあまりに浅薄に思うが)、他の分析もあると思うので、異論も聞いて行きたい。
長益は興味深いところが多い。

71: 人間七七四年 2016/09/04(日) 23:17:21.68 ID:HjAtNyH4
>>36
長益は幅広い人脈を持っており交渉に重宝されたと思われる。
その反面、旗幟鮮明に自分の意見を言う人物では無かった様子。

だから、武将としては物足りないと見られやすい人物だったと思う。

43: 人間七七四年 2016/05/07(土) 05:45:44.24 ID:v+xk7FH/
>>36
現代でも『人情の無い都会』の発想で400年以上昔の人を長文で擁護するのはどうなんだろ?
今でも地縁血縁を大事にする業界だと裏臭いの生き方は唾棄されるもんだろ

44: 人間七七四年 2016/06/21(火) 05:05:39.85 ID:Rmmj3IuQ
大坂冬の陣までは大坂城にいたのに大坂夏の陣の前に大坂城から逃亡しちゃったのが武士として情けない

73: 人間七七四年 2016/11/15(火) 20:49:42.25 ID:WFpylA7E
晩年は古田織部と不思議なほど対照的だね。

80: 人間七七四年 2017/02/21(火) 08:25:51.68 ID:k5mG3Dce
最近なんとなく、有楽斎たちが豊臣家を小大名として残そうとしてたのに、喰いづめ浪人軍団が、豊家を無理心中させたように思えてきた 

81: 人間七七四年 2017/02/21(火) 08:42:06.53 ID:851uc4YR
牢人衆は戦やる為に大坂城来たんだから抑えられる訳ないだろ

82: 人間七七四年 2017/08/27(日) 23:12:09.35 ID:7ZRZmuRa
有楽斎の戦 単行本(ソフトカバー) 2017/8/23 天野 純希 (著) ¥1,728

信長、秀吉、家康だけじゃない――私だって、いるんだよっ!

戦国は、英雄だけで語れない。
戦国随一の「トリックスター」織田有楽斎は、「本能寺の変」「関ヶ原の戦い」「大坂の陣」でどう戦ったのか。
島井宗室、小早川秀秋、松平忠直も登場する、前代未聞の戦国小説集。

https://www.amazon.co.jp/dp/4062207117

85: 人間七七四年 2018/04/26(木) 12:12:19.04 ID:a4wbghjV
有楽研究の本って何があるのだろうか

引用元: ・【長益】織田有楽斎【如庵】




有楽斎の戦
有楽斎の戦
posted with amazlet at 18.06.26
天野 純希
講談社
売り上げランキング: 220,369