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1: 世界@名無史さん 2018/04/14(土) 03:44:25.26 0
日本が朝鮮を支配していた時期は、歴史上に2度ある。

古代と近代だ。








4: 世界@名無史さん 2018/04/14(土) 17:38:54.63 0
朝鮮を倭が支配してたんじゃなくて
朝鮮の一部が倭の国土だったんだぞ

6: 世界@名無史さん 2018/04/15(日) 19:14:44.45 0
渡来系氏族の高向玄理、旻らの百済の評制をモデルにした改革が行われるまで酋長の寄り合い世帯どまりで大陸的な「国」はまだなかった
当然「国土」という概念もなく緩やかな人的関係でつながっていたというのが通説

24: 世界@名無史さん 2018/04/16(月) 20:39:05.26 0
朝鮮半島の歴史を、高句麗・百済・新羅の三国時代から、巷では語っているけど、本当はそれ以前の歴史があった、檀君w朝鮮、箕氏朝鮮、衛氏朝鮮だ
檀君は神話だから置くとしても、歴史地図を見るに箕氏朝鮮、漢四郡のころからすでに半島南部は朝鮮領ではなかった
統一されていたのではなくても、倭人=日本人がすでに住み着いていたということだろう
つまり、日本も朝鮮もその歴史を紀元前1000年あたりにまでさかのぼることができるということだろう
ただ、いまの新羅末裔の朝鮮人がそのときにいたかどうかは怪しいと思う
やはり、新羅が日本系から新羅系に奪われたころあたりをいまの朝鮮人の起源とするのが歴史的事実に近いんだと思う

26: 世界@名無史さん 2018/04/16(月) 22:35:50.35 0
半島南部に倭人がいた可能性は限りなく低い
何故かというと環濠集落や高床倉庫、水稲、青銅器の普及は半島南部のほうがずっと早いから
厳密に言うと日本には青銅器時代はないけどな
半島から青銅器と鉄器がほぼ同時に伝わったため

28: 世界@名無史さん 2018/04/17(火) 01:47:40.16 0
半島の方が一時期農業が盛んだった話に倭人の有無なんて関係ないだろう
半島支配は弥生でなく古墳じだいとかなんで時代が違う

29: 世界@名無史さん 2018/04/17(火) 05:41:34.49 0
隋書  

「新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來」

「新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している」

30: 世界@名無史さん 2018/04/17(火) 10:30:43.75 0
>>29
この珍品が気になる
あわびとかは豊富だけど韓国にもあるが

32: 世界@名無史さん 2018/04/17(火) 12:16:52.48 0
やはり、翡翠か

34: 世界@名無史さん 2018/04/17(火) 13:02:02.05 0
>>32
硬玉がそれと認識されたのはもっと後だから当時珍品だったのかねぇ

33: 世界@名無史さん 2018/04/17(火) 12:29:25.06 0
 
旧石器時代なら、黒曜石とか翡翠とかだったんだろうけど
おカイコさんから作る<絹>とか?ああ、琥珀もあるみたいだな
扇子が隋唐の頃かな

34: 世界@名無史さん 2018/04/17(火) 13:02:02.05 0
>>33
黒曜石かどうかは別にして火山性の石や、その組成物は珍品かな

35: 世界@名無史さん 2018/04/17(火) 13:51:41.45 0
随書

「有如意寶珠其色靑大如?卵 夜則有光云魚眼精」

「如意宝珠というものがある。その色は青で、大きさはニワトリの卵くらい。夜になると光る。魚のひとみだと言っている。新羅と百済は、どちらも、倭は大国で珍しい物が多いと考え、敬い見上げている。常に使者を通わせて往来している。」


この青い宝石が珍品か
光る青い石で日本産を探せばベニトアイトというのが見つかったw

37: 世界@名無史さん 2018/04/17(火) 18:35:27.10 0
4世紀末の朝鮮半島南部では、百済、新羅、と小国の連合から成る任那伽耶が勃興していた。このうち百済が最も精強を誇り、371年には高句麗の平壌を落し、故国原王を敗死させている。
しかし、高句麗最大の名君とされる広開土王による攻勢が始まってからは漢江以北の地を奪われるなど勢力に陰りが見え始め、新羅と共に臣下の礼を取るまでになった。(百済が高句麗と同源という説は、この時に出来たものかもしれない。)

そこで時の百済王は、太子・腆支を以前から通好のあった倭に人質に出すことを、引き換えに援軍を得るも404年に帯方地方で倭軍は、全滅してしまい(広開土王碑文)、漢江以北奪還の試みは破綻する。
また高句麗は従順であり続けた新羅に対しても、国内に高句麗兵に常駐させ、国王の尼師今(新羅王)の任命や兵の徴発、また監視用の拠点として国原城を築くなど、圧迫を加えた。(中原高句麗碑)

一方、新羅ほどの被害を免れた百済は北朝、南朝、倭と通行可能な大国すべてに臣下の礼を取る土下座外交で、高句麗に徹底抗戦する
姿勢を見せつつ、とくに倭に対しては任那伽耶と共にテクラノート集団「才伎」の派遣を約束し、倭の文明化を支援するなど、親密な関係を維持した。

39: 世界@名無史さん 2018/04/18(水) 18:27:51.25 0
まあこれは日本の史学界だけじゃなくて欧米でも普通に認められてる事実だからな。
これはあるソウル大名誉教授による百済がヤマトを建国したというファンタジー論文からの引用だが
当の筆者も日本と欧米の歴史家の間で常識だというこの認識に怒り心頭だし。

>Jonathan W. Best may be regarded as representing the great majority of Japanese and Western historians when he states,
as recently as 2006 CE (through the publication by the Harvard University Asia Center), that “it is clear that neither Paekche
nor Silla ceased to function as independent states,” but “it is evident that the Yamato exercised significant influence in southern
Korea from late in the fourth century to the end of the fifth” [26].
(ハーバード大アジアセンターの出版物を通じてなされた)2006年のジョナサン・ベスト教授の言は大多数の日本・欧米の歴史家の認識の
代表といえるかもしれない。曰く、「百済と新羅が独立国としての機能を失ったわけではないのは明らか」だが「ヤマトが4世紀後半から5世紀末まで朝鮮半島南部に相当の影響力を行使したのは明白である。」

49: 世界@名無史さん 2018/04/18(水) 23:57:21.96 0
日本と唐が同盟国を使って朝鮮の覇権を握ろうとした結果
日本が負けて朝鮮から手を引き唐の文化や制度を受容したのはどこか20世紀の日米関係を想起させる

51: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 00:17:18.64 0
>>49
アメの文化は昔から受け入れてたようなw
第二次は中国市場の争いから生まれたが古代の日本にとって朝鮮はナンだったのかね
貴重な鉄などの資源調達先かな

52: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 01:00:59.46 0
鉄もあったし何よりも唐に隣に来られて欲しくなかった
そもそもあまり倭は半島の覇権争いに加わろうなんて気はまるで皆無で512年に任那の四県を百済が併呑したときも532年に金官伽耶が新羅に滅ぼされたときもほとんど何ら行動を移していない

53: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 01:26:43.19 0
朝鮮三国の中でも最も特異なのが新羅
その時代の遺跡からは遠く離れたローマのガラス製品やガリア地方で作られたケルト剣の柄、ギリシャの装身具など 百済、高句麗ではほとんど見られない品物が見つかっている
これらの品々は恐らく中央アジアとの交易で入って来たものと見られ7世紀末8世紀初頭のサマルカンドのアフラシアブ遺跡の壁画には新羅人の姿が描かれている
中国を重視した高句麗、倭、百済とは違い、西域諸国との交流を持っていたようだ

軍事面でも550年に竹嶺に進出(丹陽赤城碑文)その18年後には咸鏡南道利原郡にまで進出して高句麗の首都平壌を脅かすまでになる(磨雲嶺碑)
不思議なことにこれらの事績は三国史記では触れられておらず謎が多い

54: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 01:39:10.03 0
法興王は如何にして新羅の大躍進せしめたのか?
もしかすれば倭人側に新羅を積極的に支援する勢力がいた可能性はないだろうか

55: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 07:09:23.66 0
まあ、「倭からやってきた瓢公が、金閼智を発見して、新羅の王位につけた」という三国史記の記述を見れば、新羅王朝の発足に当たって、倭がなんらかの大きな役割を果たしたという暗示をそこに見いだすのが不自然な解釈とは思えないが。

56: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 07:25:04.27 0
従属部族の神の集合体であろう、どこにでも現れるスサノオさんが新羅にも行ってるので 
普通に新羅系の有力者が大和政権にいたであろう。 
そいつが新羅王家と関係あるかは不明だが、状況的に新羅王家の人質の子とかでもおかしくない

58: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 18:50:01.24 0
「姓氏録」では新羅系氏族として橘守、三宅連、豊原連、海原造、真城史、糸井造、 三宅連、伏丸、日根造が挙げられている 
ほか秦氏もおそらくは新羅系だと考えられる

59: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 19:17:28.83 0
秦氏は中国系だろ

60: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 19:45:05.39 0
秦氏の氏寺が新羅式の瓦を使っていること秦氏の居住地の古墳(大覚寺古墳群)からは新羅式土器が見つかっている事から考えて恐らく新羅系 
秦氏が始皇帝の末裔を名乗っているのは新羅の前身の辰韓がかつて秦人の末裔だと称していたころの名残

61: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 23:28:34.05 0
まあ新羅も多民族国家だから新羅系且つ中華系の可能性はゼロではないがな

62: 世界@名無史さん 2018/04/19(木) 23:33:49.59 0
ソフトバンクの孫正義は在日朝鮮人系の人間だが、元々中国から朝鮮へ 
そっから日本と自称してるな。 
現実は不明だが、そういうアイデンティをもつ人間が現代にさえいるってことは古代にもいてもおかしくない

67: 世界@名無史さん 2018/04/30(月) 14:07:20.40 0
よく百済との関係を云々する人がいるが、新羅との関係の方が遥かに興味深い。 
中国の史書では百済に関し、その元来の住民については倭人が頗る多いと記されているが、王族はツングース系の扶余であったという。 
しかし新羅の場合、なんと日本列島から渡来した倭人が王になって王統をも伝え、のべ八代の王を輩出したとされる。 

初代 赫居世居西干(朴氏) 
*2代 南解次次雄(朴氏) 
*3代 儒理尼叱今(朴氏) 
*4代 脱解尼叱今(昔氏) ←倭人。丹波の国出身説が有力。 
*5代 娑婆尼叱今(朴氏) 
*6代 祗摩尼叱今(朴氏) 
*7代 逸聖尼叱今(朴氏) 
*8代 阿達羅尼叱今(朴氏) 
*9代 伐休尼叱今(昔氏) 13代 味鄒尼叱今(金氏) 
10代 奈解尼叱今(昔氏) 14代 儒礼尼叱今(昔氏) 
11代 助賁尼叱今(昔氏) 15代 基臨尼叱今(昔氏) 
12代 沾解尼叱今(昔氏) 16代 訖解尼叱今(昔氏) 
..                17代 奈勿尼叱今(金氏) 

そしてさらに、それ以上に興味深いのが新羅建国時に宰相となって影の王のように振る舞い活躍した、瓢箪を腰につけて船で渡来したことから「瓢公」と称された倭人で、実はこの人物が、現代の朝鮮人のアイデンティティの根幹を揺るがしかねない問題を孕んでいる。 
現代の朝鮮人の姓名は"中華"への服属意識を如実に表す、漢字/漢字音を用いた姓=一字、名=二字という漢族式で、実際の姓自体も漢族が使用するものの借用が殆どという有様だが、新羅初代王の朴赫居世に始まる「朴」という姓だけは、辰韓の語の「バク」という単語を借字で音写した独自の姓とされ、特殊な姓といえる。 
ではこの「バク」という辰韓の語が何を意味するかというと、「瓢」。宰相として影の王のように振る舞った倭人の"瓢"公となんと同じ。このことから、瓢公と朴赫居世は共に倭国から渡来した同族、あるいは同一人物であるともいわれている。 
ちなみに金氏の祖は、件の、倭人である昔氏初代にして第四代新羅王脱解の治世時に、これまた件の倭人宰相瓢公が拾って来たとされている。 
瓢公(あるいは朴氏も)や昔氏一族といった倭人たちが新羅建国に深く関わり、王、宰相として支えたわけです。非常に興味深いですね。 
(参考文献:「三国史記」、「三国遺事」、金素雲「三韓昔がたり」)

69: 世界@名無史さん 2018/04/30(月) 14:16:33.61 0
歴代百済王概説 

■近肖古 在位345~375 
姓は余。名は句。日本書紀では速古。日本と手を結び新羅に対抗。謝礼に日本へ七支刀を献上。 
■近仇首 在位375~384 
姓は余。名は須。日本書紀には貴首と表記される。近肖古の息子。 
■枕流 在位384~385 
姓は余。近仇首の息子。東晋から来た僧侶が仏教を伝えた。 
■辰斯 在位385~392 
姓は余。名は暉。しんしおう。近仇首の息子。日本書紀には、「(辰斯が)仁徳天皇に対し無礼な振る舞いがあったので、 
紀角宿禰らを遣わし譴責した。百済国は、辰斯を殺して謝罪した。紀角宿禰らは阿花(阿華)を王位につけて帰国した」とある。 
■阿華 在位392~405 
姓は余。名は阿芳。枕流王の息子。国情安定のため日本へ助力を求め息子(のちの腆支)を人質として献上。 
■腆支 在位405~420 
姓は余。名は腆。阿華の息子。直支とも。人質として日本で生活。日本の援軍を得て高句麗との戦争中阿華が死去。帰国して即位。 
■久爾辛 在位420~427 
腆支の息子。日本書紀によると幼少だったため権臣・木満致が権力をふるったという。 
■斐有 在位427~455 
姓は余。名は斐。久爾辛の息子。眉目秀麗。弁が立つ王であったと言われる。 
■蓋鹵 在位455~475 
姓は余。名は慶。斐有の息子。近蓋鹵ともいう。人質として弟・昆支を日本へ献上。高句麗により百済は一時滅亡。 
■文周 在位475~477 
姓は余。名は牟都。あるいは都。蓋鹵の息子。百済滅亡時、新羅へ援軍要請に出たが到着時には王は捕縛殺害されていた。 
やむなく木満致らと共に逃亡して半島南部に新たな地盤を堅め、百済を再興した。重臣・昆支の死後、解仇により殺害された。 
■三斤 在位477~479 
姓は余。名は壬乞。文周の息子。父を殺した解仇の傀儡として即位した。反乱をおこした解仇を倒す。

70: 世界@名無史さん 2018/04/30(月) 14:17:50.11 0
■東城 在位479~501 
姓は余。名は牟大。昆支の息子。日本生まれとされる。日本書紀では末多と記述。幼少時より優秀で雄略天皇に寵愛される。 
三斤急死により、日本から帰国し即位。中国・南斉や新羅との同盟政策で安定をはかった。臣下の恨みを買い、暗殺された。 
■武寧 在位501~523 
姓は余。名は隆。東城の息子。日本生まれのため斯麻(しま)王と大和言葉の号で呼ばれる。日本書紀では蓋鹵の息子。 
また「嶋王」と表記。東城を殺した臣下を斬る。中国南朝・梁の武帝や日本・継体天皇との関係を維持。高句麗と戦う。 
■聖 在位523~554 
姓は余。名は明。聖明ともいう。武寧の息子。日本の支援を得て高句麗からの攻撃を撃退。 
一時は百済の旧領地・漢江流域を回復。日本に仏教教典を献上。 
■威徳 在位554~598 
姓は余。名は昌。聖の息子。戦死した聖のあとをうけ即位。王子(恵)を日本に人質として献上。 
■恵 在位598~599 
姓は余。名は季。聖の息子。554年、聖が戦死。555年、人質として日本へ渡る。556年、帰国(562年日本は高句麗へ出兵)。 
■法 在位599~600 
姓は余。名は宣。孝順ともいう。恵の息子。 
■武 在位600~641 
姓は余。名は璋。法の息子。隋・唐に対し高句麗征討の要請を続けた。 
■義慈 在位641~660 
武王の息子。唐の侵攻に備え非主流派の貴族や王族を追放。追放された貴族や王族は日本に亡命した。 
この時代、新羅に金春秋や金捨信が現れ、新羅と盛んに戦う。最終的に唐と新羅に両面攻撃を受け滅亡。王族のほとんどが唐に連れ去られた。 
■豊璋 在位***~*** 
姓は余。名は豊璋。義慈の子。唐の圧迫が強まる情勢の中、631年、人質として日本へ。以後30年間日本で生活。 
660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈は捕虜となる。亡国の王子となった豊璋は亡命政府の主となるが、 
白村江の戦いで敗北。豊璋は高句麗に逃亡。百済は完全に消滅した。

71: 世界@名無史さん 2018/04/30(月) 14:20:55.60 0
※ 善光 
義慈の息子。豊璋の弟。百済滅亡後日本にて大和朝廷に臣従。 
持統天皇より従五位下の下級貴族として「百済王(クダラノコニキシ)」の姓を賜る。

72: 世界@名無史さん 2018/05/02(水) 20:09:20.25 0
>■聖 在位523~554 
>姓は余。名は明。聖明ともいう。武寧の息子。日本の支援を得て高句麗からの攻撃を撃退。 
>一時は百済の旧領地・漢江流域を回復。日本に仏教教典を献上。 

これ全然違うぞ 
最初は倭の欽明と組んで新羅を攻撃するつもりだったが一向に援軍が来ないので倭に見切りをつけて 仇敵である新羅と同盟を結び現ソウルあたりまでともに進出するも領土の取り分を巡って対立 
新羅との戦いで自身が戦死するのみならず佐平4人と3万人も共に失うなど百済衰退の原因を作った人やな

73: 世界@名無史さん 2018/05/02(水) 20:47:29.08 0
>一向に援軍が来ないので倭に見切りをつけて 

援軍が来なかったのってなんでだろうなあ 
やっぱり倭が新羅の方に肩入れして百済を見捨てる風潮が当時あったんかねえ

74: 世界@名無史さん 2018/05/02(水) 21:23:32.05 0
当時の新羅は高句麗を圧倒するほどの絶頂期でなるべく敵に回したくなかったから 
結局562年には今度は安羅や加羅の倭人たちも攻め滅ぼされて伽耶諸国も併呑されちゃうんだけどね

75: 世界@名無史さん 2018/05/03(木) 11:24:55.11 0
【三国史記新羅本記】より 
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。 
*14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。 
*73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。 
121年 夏四月に倭人が東の辺境を侵した。 
123年 春三年に倭国と講和した。 
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。 
233年 五月 倭兵が東辺を侵した。 
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。 
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。 
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。 
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。 
295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」と聞いた。 
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。 
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。 
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。 
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。 
393年 倭人が来て金城を包囲する。

76: 世界@名無史さん 2018/05/03(木) 11:25:37.15 0
【三国史記新羅本記】より 
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。 
405年 倭兵が明活城を攻める。 
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を侵す。 
418年 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰った。 
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。 
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を侵した。 
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。 
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。 
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。 
463年 倭人が歃良城(梁山)を侵して勝てずして去った。 
476年 倭人が東辺を侵す。 
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。 
482年 五月に倭人が辺境を侵した。 
486年 夏四月に倭人が辺境を侵した。 
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。 
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。 
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。 
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼なので、王は接見を許さず、すぐ追い返した。 
802年 冬十二月、均貞に大阿ン食の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。

97: 世界@名無史さん 2018/05/04(金) 13:44:45.09 0
というか秩序については双方の認識が一致しないと機能しない 
だから実際のパワーバランスだけを見ればいいんだよ 

人口や農工業生産力、地勢等全く物理的な理由で 
ヤマト>>>>>>>新羅百済 
ってこと

99: 世界@名無史さん 2018/05/04(金) 18:05:50.32 0
>>97 
高句麗はどうだったんだろ 
白村江で大和、百済軍を撃退したほどだからめっちゃヤバい奴らのイメージ

100: 世界@名無史さん 2018/05/04(金) 19:11:40.04 0
>>99 
歴史の授業の時寝てたのか?それともパラレルワールドから来たのか? 
白村江で倭と百済が戦って負けたのは唐と新羅だろ

102: 世界@名無史さん 2018/05/04(金) 19:48:46.70 0
白村江の戦いで倭では唐と新羅に対抗できないと知った扶余豊璋は高句麗に亡命 
しかし高句麗もその数年後に唐新羅軍によって滅ぼされる 

唐は同盟の報償として大同江以南の土地を新羅に与えるという約束をしていたのだがそれを反故にして唐は百済を熊津都督府として直轄統治 
更には新羅も鶏林都督府として版図に組み込もうとする 
これを知った新羅は激怒して熊津都督府に攻め込み長官として赴任していた豊璋の兄弟である隆と唐兵を追っ払う 
この勢いに乗って高句麗領もすべて手中にしようと目論むも唐軍は手ごわく負け戦が相次ぎ持久戦に転換 
唐側も李謹行と薛仁貴を送り込むもが伎伐浦の戦いで20万の将兵を失って撤退 
結局当初の約束通り大同江以南は新羅そっから北は唐ってことで手打ち 
ちなみに伎伐浦と白村江は同じ場所だったりする

107: 世界@名無史さん 2018/05/04(金) 20:55:54.94 0
この戦いはあくまで唐新羅と高句麗との戦い 
百済が先ず狙われたのは高句麗の同盟国で新羅側が南部から北上する際に後ろを突かれないため 
そもそも倭は「兵有りと雖も征戦なし」(隋書)というぐらい平穏な国で 
熾烈な争いを四六時中している大陸や半島勢力の争いに介入できるほどの実戦経験がない

109: 世界@名無史さん 2018/05/04(金) 22:05:52.61 0
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡海破百殘■■新羅以爲臣民 

<訳> そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯の年(391年)に海を渡り、百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。

114: 世界@名無史さん 2018/05/04(金) 22:35:55.04 0
>>109 
都合の良い所だけ抜粋してる様だが碑文では最後に倭が蹴散らされて終わりだよな 
しかも時代が全然違うし 

王巡下平穰而新羅遣使白王云倭人満其國境潰破城池以奴客爲民歸王請命太王恩後稱其忠□ 
時違使還告以□訴時違使還告以□訴十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退 

王が平壌まで巡行した時、新羅の使節が来てこういった「倭人が新羅の国内に満ちて、城を壊し高句麗の下僕である 新羅を自らの民としております。そこで新羅王は太王に帰服して命令を受けようと思います。」 
王は新羅の忠誠を評して使節を帰らせて、計画を新羅王に告げさせた。 

時違使還告以□訴十年庚子敎遣歩騎五萬住救新羅從男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退 

永楽十(400)年庚子に王は歩兵騎兵五万を派遣し、新羅を救わせた。 
男居城より新羅城まで倭が満ちていたが高句麗の官軍が至ると倭は退いた。 

十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界□□□□至石城□連船□□□王自率□□従平穰 
□□□鋒相遇王要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數 

永楽十四(404)年甲辰、倭は道を違えて帯方郡に侵入してきた。・・・石城に至るまで・・船を連ね・・ 
王自ら・・を率いて、平壌から・・・(敵の先)鋒と遭遇した。王の親衛隊は、要撃切断し、 縦横無尽に斬りつくした。倭軍は一人残らず切り殺された。 

121: 世界@名無史さん 2018/05/04(金) 22:56:16.86 0
なぜ新羅と百済は王族をヤマトへ人質として供出したのか 
なぜその逆がなかったのか

122: 世界@名無史さん 2018/05/04(金) 23:07:19.83 0
>>121 
元々百済は小国で真っ向から高句麗と戦うだけの体力はない(まぁ近肖古王は高句麗王を討ち取ったりしたこともあるけどな) 
物理的な援助を期待できるのは倭国だけだから下手にでるしかなかった 

新羅は人質を出したのは2回あるのだがいづれも高句麗の勢力がすぐそばまで迫っていてにっちもさっちもいかなくなった時期だ

135: 世界@名無史さん 2018/05/05(土) 22:30:36.43 0
大和朝廷は時代が下るに連れて半島への介入に消極的になっていってる印象がある

136: 世界@名無史さん 2018/05/05(土) 22:46:13.25 0
鉄が国内で取れるならあそこに軍を送るコストが。。 

古代船で人力で対馬海峡をわたる実験やってたがとんでもない労力 
切り上げができない古代の帆船で行くしかないけどこれでは緊急に軍なんて送れないし 

正直大変すぎる

137: 世界@名無史さん 2018/05/05(土) 23:25:07.65 0
新羅と倭国のナゾ 

600~603年と623年に何度も任那復興を目的として新羅征討が計画されるも理由をつけて辞退もしくは新羅軍は戦わずして退いたとして交戦せずに戻ってくる 
境部摩理勢だけは真っ向から新羅と対決したがその後ハッキリとしない理由で誅殺される 
8世紀にも藤原仲麻呂がやはり渤海と組んで新羅征討を企てるがこれもよくわからない理由で中止されたうえに仲麻呂も数年後に誅殺されている 

「新撰姓氏録」には在京の新羅系氏族として新良貴氏が挙げられているが皇別という破格の待遇を受けている 
もともと山城地方の大覚寺古墳などからは新羅土器が出土しており新羅系豪族のテリトリーだった 
新良貴氏も平安京以前から山城盆地に割拠していた氏族であろうが不思議なことに一度も史書には出てこない

138: 世界@名無史さん 2018/05/06(日) 00:34:37.58 0
>>137 
奈良時代は、日本史の中でも、権力闘争が熾烈だった時代。 

藤原仲麻呂は、誅殺されたというより、内戦に敗れたというべき。

139: 世界@名無史さん 2018/05/06(日) 00:59:14.86 0
「続日本紀」を読むと分るがかなり唐突に仲麻呂は粛清される 
しかも新羅征討軍の教練がおわりよいよ計画が実行に移される矢先だ 
何かあるのではないかと勘繰ってしまう


142: 世界@名無史さん 2018/05/09(水) 22:31:10.20 0
白村江の戦いで倭と新羅の軍勢は戦わなかったのかも知れんなあ 
唐vs倭の半島の宗主権争いと新羅vs百済の半島統一戦争は別々のものと考えるとどうだろう

143: 世界@名無史さん 2018/05/10(木) 00:33:16.63 0
そもそも倭は半島の勢力争いにはまるで関心がない 
一方高句麗は新羅を抑えつつ中原に進出したい 
百済は聖王の仇をとり故地である漢江の地を奪還したい 
新羅は麗済同盟の侵攻を防ぎたい 
唐は目の上のたん瘤である高句麗を滅ぼしたい 

これら様々な勢力の思惑が入り混じった結果起こったのが7世紀末の動乱だが倭国は基本的に外野 
唐とも新羅ともそもそも敵対する理由がない 
白村江の戦いも百済の亡民の受け入れ中に送った事故みたいなものだと思う 
羅唐戦争という

145: 世界@名無史さん 2018/05/10(木) 07:03:59.70 0
まあ、倭の立場は、欧州におけるイギリスみたいなものだろうな 

勢力均衡が望ましい

引用元: ・古代の倭国による朝鮮半島支配




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