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1: 人間七七四年 2018/04/11(水) 23:42:53.94 ID:hYXeEgKS
なかったので









3: 人間七七四年 2018/04/16(月) 23:56:40.61 ID:QNi++5G2
晴継が生まれなかったら島津みたいに地の利を生かして東北統一してたかも
一人の人間のせいで落ちぶれるいい例
南部 晴継

南部 晴継(なんぶ はるつぐ)は、陸奥の戦国大名。南部氏の第25代当主 元亀元年(1570年)、第24代当主・南部晴政の嫡男として生まれる。父・晴政は実子の誕生をあきらめて叔父・石川高信の長男・南部信直を養子に迎えていたが、晴継が生まれると次第に信直を疎むようになり、天正4年(1576年)には信直を廃嫡して晴継を世子にしている。

家督を相続した直後と思われる13歳で疱瘡を病んで死んだ(『南部根元記』)。父の葬儀を終わらせて三戸城に帰城する途上で、夜陰に乗じた暴漢に襲われて一命を落としたとも言われる。この暴漢は、家督を狙っていた南部信直が指揮していたものとも、九戸政実が指揮していたものとも言われ、いずれも暗殺の可能性が高い。


4: 人間七七四年 2018/04/19(木) 17:49:40.84 ID:fnEpwXRL
自称南部支族による連合体でしかなかった集団に統一とか冗談きつい
信直が野心をもって内訌を制して戦国大名化する道筋は晴継の有無な何も関係ない
三戸潰し九戸との対立大浦独立は既定路線

6: 人間七七四年 2018/05/27(日) 15:01:12.72 ID:6XyJXr87
「島津に暗君なし、南部に名君なし」というが
戦国時代の南部家当主で一番マシだったのは誰か?

7: 人間七七四年 2018/05/27(日) 22:05:37.95 ID:++q2l3/g
晴政の拡大路線の礎を築いた南部安信じゃね?

8: 人間七七四年 2018/05/28(月) 05:40:52.10 ID:2BWvz72d
>>7
安信は南部氏の戦国大名化を目指し、積極的に勢力拡大政策を推し進めた。
大永4年(1524年)石川高信ら3人の弟を動員して、津軽地方の諸城を抑えて津軽を平定させ、そこに高信を置いて統治を任せている。さらに弟の南長義には五戸地方を、同じく弟の石亀信房には石亀城を、同じく弟の毛馬内秀範には毛馬内城を任せて、南部氏の体制を固めている。

このように安信が築き上げた基盤は、次代の南部晴政時代の発展へとつながったと言われているが、上記の安信の事跡は後世の書籍に記されているもので、安信に関する一次資料は不足しており、実際の功績は定かでないと言われる。同様の理由から、安信以前の南部氏の素性には、疑問視する点が多いとも言われている。

(ウィキペディア)

9: 人間七七四年 2018/05/30(水) 20:29:23.40 ID:7EjLvAL/
名目上は浪岡北畠の家臣で、八戸が本家だったのに三戸が盟主になり
久慈と九戸は二階堂一族で、後に南部氏庶流を自称して乗っ取りを狙う
ライバルの安東は過去に南部との戦で津軽喪失して、名目上は浪岡家臣同士
斯波とは南北朝以来の不倶戴天の敵だが、大崎には臣下の礼をとっていたことがある

こんな感じだっけ

10: 人間七七四年 2018/06/01(金) 12:18:09.68 ID:3FTa6UJX
南部領は広大な上に人口が少なく村や町も点在していたので親類衆や家老級にある程度の給料を与えるには広大な土地を与え、それを管理するための独立国並みの自治権と兵力を持たせないとまともに統治できなかったと言われている
それゆえに何十年も経つと親類衆や家老級に独立志向が強くなり度々反乱や独立を起こした
南部の当主が無能というより北東北の環境がそうさせたとも言われている

11: 人間七七四年 2018/06/01(金) 13:41:09.66 ID:PjIBnI+T
>>10
とはいえ、南部家の当主で頭脳明晰な人はいそうにない。

14: 人間七七四年 2018/06/02(土) 00:51:04.35 ID:MbQse3it
>>11
そりゃ信直が出たおかげで戦国大名化できた家なんだから
とはいえ南部の統一作業中に為信の津軽統一まで対処できる余力はなかったけど
南部信直

1546‐99(天文15‐慶長4)戦国末期の武将。陸奥国三戸城主。南部氏一族高信の子。1582年(天正10)本家をつぎ三戸城主となる。

90年豊臣秀吉より南部の内7郡を安堵される。翌年,九戸政実の乱平定にさいして和賀,稗貫,志和3郡を加増され,都合10郡,10万石を領す。その後盛岡城(現,岩手県盛岡市)築城に着手するなど近世における盛岡藩の基礎を築く。

13: 人間七七四年 2018/06/01(金) 22:16:59.25 ID:Vp+JxthJ
南部信直とか資料にあるだけで4~5回は暗殺未遂にあったのに生き延びたからな
それが幕末までの盛岡藩に繋がった訳だし危機管理という点では名君と言えると思う

15: 人間七七四年 2018/06/03(日) 18:02:08.85 ID:tbkUkQHY
九戸政実の乱は南部領内での家臣の反乱なんで本来なら南部信直は切腹もしくは転封レベルの大事件
他の多くの大名がそれで領地を失っている
信直が機転を利かせて豊臣政権への反乱と話をすり替えたんで何もなくというかむしろ以前に奪われた津軽領分の代替として盛岡まで手に入れた
信直が無能とは言えない理由はそこにある

16: 人間七七四年 2018/06/03(日) 18:11:18.12 ID:g10Khz3b
>>15
伊達を背後から牽制するためには、南部が必要ってのはあったと思う。

17: 人間七七四年 2018/06/03(日) 18:30:56.29 ID:S800E60m
>>16
であれば豊臣系の大名を配置した方がいいからやはり南部は難癖つけて転封した方がいい

18: 人間七七四年 2018/06/03(日) 19:10:58.16 ID:Ebk9OYkH
>>17
寒冷地での戦闘や、荒れ地での戦闘を考えると南部は動かしたくない。
徳川幕府も最後まで南部は動かさなかった。
寒冷地での軍馬(奥州馬)の飼育ノウハウも南部家が保持していた。

20: 人間七七四年 2018/06/03(日) 23:51:04.29 ID:JwfZrccP
>>17
福島正則の津軽転封も流石にそれはあんまりだろう。と無くなったわけだし
あんな北国に移封とか罰ゲームにも程がある

19: 人間七七四年 2018/06/03(日) 20:00:45.78 ID:xkJlNj/q
木村吉清が葛西大崎一揆に瞬殺されて、豊臣の権威を傷つけたし
辺境は地元の連中に任せる方が安定する

23: 人間七七四年 2018/06/04(月) 06:23:29.96 ID:+8KJtWsD
>>19
木村家は豊後のマイナー大名として維新まで生き残ったんだっけ?

24: 人間七七四年 2018/06/04(月) 17:54:21.05 ID:YSFsAUGU
木村さんは西軍について、あぼんしました
個人的に阿曽沼さんのその後が気になる

26: 人間七七四年 2018/06/05(火) 06:30:20.06 ID:cq421OOA
>>24
> 木村さんは西軍について、あぼんしました

そのあと復旧しているはずだが。こじんまりと。

25: 人間七七四年 2018/06/04(月) 20:25:22.11 ID:lXmFkMDo
阿曽沼は絶滅したんじゃ

27: 人間七七四年 2018/06/05(火) 21:36:53.11 ID:SAc8xJ92
>>25
大名としては滅亡したけど荒廃した遠野に八戸氏が移封させられた際に阿曽沼の子孫を取り立てて、治世に参画させたことで漸く遠野も安定したというし八戸氏の家臣として生き延びたとも言われてる

21: 人間七七四年 2018/06/04(月) 00:35:36.16 ID:6EudPhvT
津軽と違って南部領は砂金と鷹と馬の産地なんで実は豊か
馬はともかく砂金と贈答用の鷹は見過ごされがちだけどかなりの収益を南部にもたらしてるし信直はそれを活用して前田や浅野をうまく取り込んだ
辺境だからといって侮ってはいけない土地だよ

22: 人間七七四年 2018/06/04(月) 01:40:12.44 ID:lXmFkMDo
交易路すら日本海岸ばかり注目されるけど
当然のように太平洋岸の交易路もあったので機を見るに敏なのは当然
久慈経由等で九戸ですらそのルートに乗って利益あげていた部類

28: 人間七七四年 2018/06/11(月) 15:07:02.01 ID:Ym/FaFV4
>>22
戦国時代の太平洋岸の交易路って大坂(堺)や京都(敦賀から琵琶湖経由)に通じてたのかな
そうでなければ大した利益上がらないような

29: 人間七七四年 2018/06/19(火) 22:55:46.92 ID:Sihtqjsk
太平洋側は志摩海岸、遠州灘、房総半島、三陸海岸といった難所が多く動力源を持つ船が主流になる明治時代以前は西廻り航路がメイン

32: 人間七七四年 2018/07/10(火) 12:34:27.70 ID:nGMbjHN/
南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。
南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。
日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。

33: 人間七七四年 2018/07/10(火) 22:08:27.92 ID:SEcPs/3y
父光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)を割譲され、地頭職を兼ねた。
嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経が上洛した際には、兄実光と共に随兵を務めた。
文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。

34: 人間七七四年 2018/07/10(火) 22:09:29.18 ID:SEcPs/3y
同11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。
弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。
弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養の為常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)。
10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。

35: 人間七七四年 2018/07/10(火) 22:09:55.82 ID:SEcPs/3y
後代、長男実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続し、本拠地である甲斐国波木井郷は四男(一説には長男とも)長義の家系が継承した。

41: 人間七七四年 2018/07/11(水) 08:40:08.83 ID:htVyH8wu
波木井氏と八戸南部氏は関係ないって現在ほぼ証明されてるけどな

43: 人間七七四年 2018/07/11(水) 21:31:15.89 ID:sOnsylIK
甲斐に残留した南部氏もいると思うが、その後どうなったの?

44: 人間七七四年 2018/07/12(木) 00:08:04.73 ID:tOxXKc/a
南部宗秀から笠井満秀 笠井慶秀につながる

45: 人間七七四年 2018/07/12(木) 09:46:44.34 ID:saKFahh7
>>44
甲斐を追放された南部宗秀は会津で餓死したという真偽不明の出来事があるが、奥州の南部氏のところに行こうとしていたと考えてもおかしくなさそう。

47: 人間七七四年 2018/07/13(金) 07:29:16.51 ID:bTAzYckh
>>45
それ、私も思った

南部宗秀と笠井定明について資料がもっとあれば南部と笠井と武田は元々繋がりが深かったみたい

引用元: ・【陸奥】 南部氏 【清和源氏】




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