51XKn-Pto4L


1: 人間七七四年 2007/02/22(木) 15:32:44 ID:K+Bk7TU0
北条氏康が上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏連合軍を破った戦い。
戦国三大夜戦の一つ(と後世言われている)。

記録が少なく、合戦の具体的な部分が不明瞭で史料によって合戦のあった年代が一致せず、上杉方の兵力に明らかな誇張が見られるため最近では「無かった」「数年間の争いの結果が後世一つの合戦になった」などこの合戦を否定する動きもあるが、関東の勢力図が一変したのは事実であり、短期間で多くの武将が死亡したり追い出されたりしているため小競り合いではない何らかの決戦はあっただろう。
前後の関東情勢を含め、この謎に包まれた合戦の真実を探ってみよう。







河越城の戦い

河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、戦国時代に、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦いをいう。北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年(大永4年)から4度にわたる争奪戦が展開された。

「河越城の戦い」で特に有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の天文15年(1546年)の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」(かわごえよいくさ)である。

河越夜戦は、北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。




4: 人間七七四年 2007/02/22(木) 15:53:06 ID:s38pT0oT
『甲陽軍鑑』では信長の桶狭間に並ぶ名誉ある戦いであったと評している。
上杉軍8万はオーバーにしても、相当に兵力差のある戦いだったのだろう。

6: 人間七七四年 2007/02/22(木) 15:57:59 ID:K+Bk7TU0
日本三代夜戦(河越、厳島、桶狭間)のひとつと言われるが、いまいちその輪郭がはっきりしない。
北条氏関東制覇の鍵となった戦で、八千騎で敵八万を討ち破ったといわれる。

川越は扇谷家上杉氏の要衝だった。
北条二代目氏綱により江戸城を追い落とされた扇谷上杉朝興はこの城で陣没した。
跡を継いだ朝定ははじめこの城にいたが氏綱の計により松山城に逃れる。
氏綱は剛勇の誉れの高い福島綱成(のち、北条綱成)に城の守備を任せ小田原に退く。
扇谷上杉家の宿怨、山内家の上杉憲政は扇谷や駿河国今川義元、古河公方足利晴氏と結び
北条家に立ち向かった。

北条綱成は小田原北条氏康の援軍もあり、見事上杉氏を打ち破り、上杉朝定戦死、上杉憲政越後に敗走――――――となるが

川越周辺に、上杉及び北条(つまり合戦当時)の塚などが殆ど見られない。
八万vsハ千という規模が果たして誠であったかどうなのか。
そのあたりも含めて検証したいと思う。

7: 人間七七四年 2007/02/22(木) 16:00:46 ID:/MQJbNYv
川中島合戦みたいなもん?
後世やたら創作がなされてるが、当時の本人達の書状を見ると地味な戦いだったと

9: 人間七七四年 2007/02/22(木) 16:05:10 ID:DFbOxH4O
>>7
川中島で大規模な戦があり、双方の多くの武将が戦死している事は事実だし、手取川合戦や松川合戦が近いと思う。
同じ北条関連だと生野山合戦か。

8: 人間七七四年 2007/02/22(木) 16:01:44 ID:DFbOxH4O
複数の合戦を纏めたものであろうといわれるが
しかしそれは北条が地道に勝ちを拾い続けたことを意味する
どちらにしろ北条氏康・綱成の戦術・戦略の凄さは認めなければならないな

12: 人間七七四年 2007/02/22(木) 16:45:16 ID:D2sBAY0o
第二次国府台合戦も一年余の戦役を纏めたもの、という話もあるくらいだし

まあ北条は、戦略・組織力で圧倒する地味なタイプの大名(褒め言葉)だからな
仮に>>8の様な流れであっても、北条の価値を下げる事にはならん

13: 人間七七四年 2007/02/22(木) 17:11:58 ID:Pt2CB0H1
でも総大将格の小田や上杉の重臣が死んでるわけだろ
こいつらが代わりに○○で死んだ というのが出てこない限り河越城の戦いは覆せないだろう

15: 人間七七四年 2007/02/22(木) 23:28:51 ID:cTkkX8CQ
>>13
ついでに言うと氏綱が死ぬ直前に河越城を奪って、綱成が入り、そこに向かって両上杉・関東勢が軍事行動を展開していたというところまでは記録が残っている。

この合戦で曖昧なのはそこから「どうやって勝ったのか?」という事であって、氏康がフェイントかけて云々は眉唾だがまともに突撃して勝てる勢力差ではないのも事実だ、しかも同じ時期に北条家は駿河で今川にも喧嘩売ってるので、兵力的には相当厳しいはず。
継いだばかりの氏康&綱成は20代。

にもかかわらず言ってるように明らかな結果も出てる以上は河越の合戦での勝者は疑いようが無い
重臣どころか扇谷上杉に至っては大将が死んどる。

17: 人間七七四年 2007/02/23(金) 00:09:06 ID:yohSfNwM
和議を申し入れて、安堵させた敵を撤退寸前に後ろから追撃するという戦いだっけ?
だとしたら俺はこの戦がなんでここまで褒め称えられているのか解らない。

こんなのは戦でも何でもなく、ただの騙まし討ちの人殺しであり、「優れた軍略」ではなく、「卑劣な真似」でしかない。
これは戦国史上もっとも汚い戦史ではないのだろうか。

18: 人間七七四年 2007/02/23(金) 00:47:10 ID:vfYkdSse
例え犬畜生と言われ様とも勝つことが大事です

正確には、和議を申し入れはしたけど両上杉側は一蹴してるから無問題
もっといえば、そこらへんは眉唾

19: 人間七七四年 2007/02/23(金) 01:02:50 ID:wBg/m2Ex
>>18
> 例え犬畜生と言われ様とも勝つことが大事です

朝倉宗滴、乙。

20: 人間七七四年 2007/02/23(金) 08:38:39 ID:PYQsqAV0
感状が残ってない理由を北条記とかでは氏康の「首は取るな、捨てよ」という命令によるものだとする意見があるね
織田信長の桶狭間合戦でも同様の命令が出され、そしてこの合戦でも感状はろくに出ていない
戦国の慣例を無視した攻撃専念令の成果が一つにあったのかも

21: 人間七七四年 2007/02/23(金) 08:49:41 ID:sc2bxvkg
>>20
だからこそ数度の合戦ではなく一度の大きな合戦だった可能性が高いんだよね。

22: 人間七七四年 2007/02/23(金) 08:53:58 ID:PYQsqAV0
>>21
何が「だからこそ」なのかさっぱりわからん
数度の合戦に渡って慣例違反の命令を徹底させたというほうが非現実的じゃないか?

24: 人間七七四年 2007/02/23(金) 09:02:50 ID:sc2bxvkg
>>22
もし数度の小規模な合戦だったとしたら、一度くらいは通常の感状の出るような合戦があってもおかしくないという意味で。

25: 人間七七四年 2007/02/23(金) 23:44:02 ID:+yaJlbVR
まあ川中島とかでも本当はどんな戦いだったか不明だしね。
ぶっちゃけあの時期に各地方で起こった戦の詳細など当時の人間でもよくわからんだろう。

26: 人間七七四年 2007/02/24(土) 00:05:29 ID:9P41czKY
基本的に侍大将級が何人も戦死するような損害が出るのは敗走時の追撃戦時。そして、それだけの被害が出たら踏みとどまらずに撤収して体制立て直すのが普通。いくらか戦力が残存していても崩れた部隊でわざわざ不利な戦闘を継続する武将はいない。

したがって仮に長期間小競り合いが続いてたにしても決定的なのは最後の一戦。それは戦国期のほとんどの戦例に照らしてほぼ間違いない。で、どういう戦闘だったかというと上杉方の数が多いと言っても上杉方は基本的に利害の一致が少ない連合軍編成だったわけでそこを政治的に崩した上での合戦だったと考えるのが合理的だな。
本当に絶望的なほどの戦力差なら後に景虎に対してそうしたように小田原まで防衛線を下げたはずで、それよりもリスクの少ない状況を作れたから攻撃に出たと見るべき。
基本的に関ヶ原と似た形の合戦だったと思うぞ。
関ヶ原は全国規模だからいろいろ史料が残ってて実態がわかっているがあれも対陣図と兵力だけしか記録が無かったら謎の合戦になってただろうな。

28: 人間七七四年 2007/02/24(土) 03:10:18 ID:GrxFBygx
>>26
もしも河越夜戦の相手が氏綱だったらまだそれもあると思うが、家督継いだばかりの氏康が自分の国をまとめるのはともかく、敵国にそこまで影響出せるかね。

関ヶ原で家康が政治的に動けたのは信長との長い同盟による旧織田系とのつながりと、小牧後の15年以上にも及ぶ豊臣政権内での地盤あってのものであって、侵略者と言う以上でも以下でもない氏康が同じよな事が出来るとは思えんのだけども。

まず武力ありきじゃないと余程の事でもなければどうにもならんだろう、あと小田原城が堅城になるのはもっとずっと後。また基本の態勢は同じ、長尾輝虎は主要な支城一つ取れずに、戦線を無視して軍を崩壊させつつ無理矢理進んで小田原で撃退されただけ。
そうではなく両上杉・関東勢は先に奪われた河越城の奪取を優先したというだけの事。

30: 人間七七四年 2007/02/24(土) 15:40:17 ID:uUnjEKkA
>>28
氏康の信用はこの際あまり関係ない。
この戦役と関ヶ原の最大の相違点は

・ほぼ同格の大名同士の連合の為に誰も明確な統帥者足りえない。
・故に勝ったところで誰も合戦のリスクに見合う見返りを保証できない。

という点。
仮に北条後詰を撃破して川越城奪取に成功しても得をするのは上杉朝定だけ。他の諸勢力は果敢に戦って氏康の首を挙げられたとしても城が増えるわけでも無い。となればいくら北条の脅威を除きたいとしても他の勢力としてはできるだけ自軍の交戦を避けて他軍に戦わせるのが合理的になる。

実際のところやる気があったのは朝定直率の部隊だけで他は政治的立場からただ出てきただけというところだっただろう。
何もしなくても容易に瓦解するような連合なら個別和平の空気を匂わせただけで足止めするぐらいのことは可能だっただろうよ。
本気でやれば勝てる戦だとしても、勝っても見返りがろくに期待できないとなれば皆無駄な消耗は避けたいからな。

最終的には朝定隊 対 北条後詰+川越部隊という構図になり、他の諸将は朝定が討たれたのを幸い、損害が拡大しないうちに本格的交戦を避けてとっとと引き揚げたというのが実態だろう。

35: 人間七七四年 2007/02/25(日) 01:27:33 ID:LVHPQUrg
>>30
たまたま主戦場になった河越を奪われたのが 扇谷上杉だっただけで、他の連合も大なり小なり奪われてる上に猛将氏綱が死んだという千載一遇のチャンス、河越で北条家が負けてたらまず相模・伊豆は今川に潰されただろうし、そうなれば武蔵等の領土を山内上杉や公方らで奪い返す事も容易い。

そもそも朝定は既に河越を奪われた時点でほとんど勢力を失っていた、やる気があるのが彼だけだったならそもそも合戦自体起こりえない、そんな発言力はとうに無い。

あの合戦で勝ったら手に入るのが河越だけと思ってるなら認識が甘すぎる。

37: 人間七七四年 2007/02/25(日) 18:20:40 ID:DR7yBv/t
>>35
じゃ、河越奪回を超えて北条撃滅自体が戦役の目的だったとしよう。たしかに北条を滅亡させれば脅威は除かれるし、その旧領を奪うことはできる。だが、その場合でも一番利益を得られるのは北条主力軍撃滅後に諸城を奪っていった者だ。

問題なのは北条を破るにはまずその野戦軍に当たる必要があり、一番損をするのはこの野戦段階で戦力を消耗する者という構造になっていることだ。全体を掌握している強力な統帥者がいれば、たとえ初戦で消耗してろくに動けなくなっても戦後の再配分で功績に応じる充分な報償が得られるだろう。

しかし、誰も統帥できないとなれば、戦役に参加した諸将からすれば一番良いのは他家が北条野戦軍と戦って消耗し、ろくに動けないうちに孤立した諸城を奪っていくことだ。最も重要なのはもちろん北条野戦軍撃破なんだが、一番働いた者が一番損をする構造になっている。
個々の合理性追求が全体の合理性を損なうこの構造は対等の同盟関係ではしばしば生じるデメリットなわけで、台頭する強者に対して即席的につくられる弱者連合がろくに機能せず崩壊する例が史上数多いのもこのせい。
だからこそ国人一揆から強力な戦国大名を頂いた統帥構造へと移行することになる。
河越戦は詳細はともかく、基本的な構造段階で連合側に致命的な脆弱性が内包されていたのは間違いないわけで、実際のところはそれ程希有な戦例とは思われない。
同時代人の関心をあまり引かなかったのも同時代には実態がよくわかっていたからだろう。
決して奇策の類や希有な偶然によって勝ったわけでは無いということが。

27: 人間七七四年 2007/02/24(土) 01:50:03 ID:vDyTKZEy
5年くらい前、歴史読本だかの記事で、足利晴氏についていた簗田晴助が氏康に籠絡されていたというのがあったな。
どうあれ、結果として上杉朝定が討たれて、古河公方は事実上北条に握られた上、憲政は逃走したから、1545~1550くらいの間に決定的な動きがあったのはたしかだろうな。

40: 人間七七四年 2007/02/26(月) 14:28:54 ID:jVuO2f4K
福島勝広
北条綱成の弟。河越城の包囲軍を突破し、城内の兄に氏康の作戦を伝えて夜襲を成功させるのに貢献した。


この人、その以後はどうなったのでしょう?
北条五代記に「福島伊賀守河鯰を捕手柄の事」という項があるのですが
この福島伊賀守は綱成の弟でよろしいのでしょうか?

41: 人間七七四年 2007/02/26(月) 15:14:51 ID:UQ4IA1Hb
後に北条綱房と名前を変えてなかったっけ

42: 人間七七四年 2007/02/28(水) 14:14:40 ID:HVgNktyb
実際のところ、上杉方の兵力はどの程度だったと思いますか?

兵数80000の食料を補うのは難しいでしょうね

43: 人間七七四年 2007/02/28(水) 16:40:40 ID:7ytjkP95
>>42
食料以前にそんなに関東には石高がありません><
北条が身内からも裏切りが発生し最大兵力で15000程度になった(そのうち4000は里見などへの当て)としても60万石
関東全部+αの国人が集まったとしても300万石(=75000)
6万というのが一番妥当だと思う 関東だけからしか集まらなかったなら5万ぐらいか

44: 人間七七四年 2007/02/28(水) 23:52:24 ID:o1SfqFh4
神流川の戦いで北条は上野下野常陸安房の兵抜きで5万動員したよね。
極短期の動員令ならば北関東+αだけでも6万近くいけるかも。

45: 人間七七四年 2007/03/01(木) 20:58:30 ID:alOCob7Y
>>42
この時期の関東管領上杉氏が動員できたのは石高からしても3万人くらいではないの。


合戦はあったんだろうけど

46: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/03/01(木) 22:24:14 ID:wquikL0r
検地もない統制も取れない時期に3万も動員できるかいな。

48: 人間七七四年 2007/03/02(金) 00:45:28 ID:oGi/T4Zk
>>46
本当はもっと少ない可能性もあるけど。そもそも夜戦であったかどうかも疑わしい。。不明な点が多すぎるから「桶狭間の戦い」のようにあまり人に知られることはなかったんだろう。

55: 人間七七四年 2007/03/20(火) 10:00:50 ID:RNu7Ons7
史料によっては、合戦のあった年および月日に相違があり、果たして天文15年4月20日に、このような戦いがあったかどうか疑問が提起されるようになり、最近では、前後におこった何回かの戦いが、天文15年4月20日の一日の戦いに集約されたのではないかとする考え方が有力である。

no title

60: 人間七七四年 2007/03/21(水) 13:35:56 ID:4nF+Aliy
>>55
これだけ何回も衝突があったのならこの中の一つくらいは実際に夜戦だったかもしれないな。

56: 人間七七四年 2007/03/20(火) 19:14:34 ID:DhvVR+Mm
結局は記録が少なすぎてどちらか断定はできないって事だろ?
しかし、僅かの間に関東の力関係が完全に逆転してるというのに何故記録が少ないのかね。

57: 人間七七四年 2007/03/20(火) 20:46:15 ID:tqpUortm
扇谷・山内両家が衰退していく一過程だからじゃね?
扇谷上杉は氏綱の代で散々に勢力後退させられているし、その上、氏綱が死んだ半年後には扇谷上杉は河越を攻めるも、氏康に追い散らされている。この時点でもう、大した力は残ってなかったように思う。
僅かの間、というが氏綱が死んでから十年、氏綱が生きていた頃を考えればもっと昔から、徐々に徐々に両上杉や公方勢力を切り崩していった結果だと考える。
河越夜戦(夜戦であったとは思わないが、一般的な呼称として用いる)が決定打になったにせよ、いきなり激変した、という訳でもないかと。

58: 人間七七四年 2007/03/21(水) 01:01:01 ID:txMsqAmS
扇谷上杉の一点に絞ればわかるけど、山内上杉や公方に加え周辺の大名家も含めて考えると激変しているようにしか見えんよ。

完全に関東の勢力が激変するのに10年は決して長い期間じゃない、それまでの長い年月この地域は争い続けてきたわけで。
夜戦ってのは眉唾にしてもなんらかの大規模な激突があったのでないとちょっと考えられない、政治的な切り崩しでこうまでひっくり返せるのだとすれば、そっちの方が神業だが、あまり現実的じゃない。

59: 人間七七四年 2007/03/21(水) 07:47:37 ID:ScFHHnca
いやいや、それも含めてだよ
山内上杉が河越夜戦にだけしか対北条戦に関わらなかった、というのならばそうだろう
しかしそういう訳でもないし、公方勢力だって衰退している

>>55の言うように複数の戦いが一つの戦いとして伝承されていた(むしろそれを支持する)としても、山内上杉にとっての分水嶺となった戦いがあった事は否定しないよ
ただ、そこに至るまでに北条がジリジリと積み上げていたもの、両上杉・古河公方がすり減らしていたもの、その流れがあってこそと言いたいわけで

95: 人間七七四年 2007/08/05(日) 21:10:46 ID:aTVRh6O9
里見はこの戦の頃何してたんですか

96: 人間七七四年 2007/08/07(火) 00:04:19 ID:zqOMFWwV
氏綱存命の頃は、小弓公方との関係と家督相続問題で里見氏もちょっとゴタゴタしてて、そのお家騒動を抑えるために里見と北条は割と友好関係にあった、その関係で里見も上杉と戦ったりしてた。

だけど次第に小弓公方と氏綱がぶつかるようになっていき、第一次国府台合戦で窮地へ追い込まれるのだがここで氏綱が死に情勢が一変、西では武田・今川が蠢動を始め、古河公方と両上杉氏が手を組み、一気に反北条勢力が膨らんでいく中里見家もこの中に参加していった。

状勢は北条家にとって最悪の状況、これが河越合戦の序章という感じ。

引用元: ・河越夜戦の真相を探る