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1: 日本@名無史さん 2008/03/30(日) 11:26:14
南北朝時代、南朝に使えた武将、楠正成。
忠臣の鑑であり悪党と言う説もある、彼について考察してみましょう。
個人的には大好きな武将ですが皆様はどうですか?







8: 日本@名無史さん 2008/04/05(土) 16:02:03
新田義貞に並ぶ名将

10: 日本@名無史さん 2008/04/05(土) 19:59:26
だけど公卿には成れなかった。

11: 日本@名無史さん 2008/04/05(土) 20:09:27
登場が早過ぎた。
個人的には日本史上最大のパラダイムシフトが起こったのは室町中期(応仁の乱前後)だと思う。それ以前と以後では全く別の国と思えるくらい身分間の縦の流動性が起こった。


15: 日本@名無史さん 2008/04/05(土) 22:11:47
赤坂城・千早城での戦術の天才楠正成が湊川ではまるで別人。
新田軍との連携が成功していたとしても迎え撃つ謂わば防御の布陣としてはおかしい。
水軍が無力であれば上陸部隊の奇襲を想定して宇治ぐらいの内陸に誘い込んでお得意のゲリラ戦で長く伸びた兵站を絶つとか大和方面の北畠軍に時間稼ぎをさせるとかあったと思うがまるでミッドウェーで空母四隻を失ったような致命的な負け方だ。

24: 日本@名無史さん 2008/04/06(日) 21:54:04
>>15
野戦は不得意なのかも。

25: 日本@名無史さん 2008/04/11(金) 02:27:20
>>24
可能性はあるね。
それと兵員の性質と装備。
尊氏側は戦上手の斯波と高兄弟それに細川の水軍・強襲部隊の存在。

16: 日本@名無史さん 2008/04/05(土) 22:37:37
楠正成は湊川では勝つつもりは無かったのだろう。
すでに南朝側の敗北は決定的なことを知り玉砕による武士としての気概を示したうえで死んでいったと思われる。

20: 日本@名無史さん 2008/04/06(日) 01:11:53
湊川の布陣は水軍戦力が拮抗していることが前提条件である。

後年語られている死を覚悟しての正行との別れ、玉砕して武人の誇りを全うしたというのは信じ難い。誤算があったのではないか?
可能性としては瀬戸内・熊野水軍の切り崩し裏切り。
足利軍は源平合戦を参考にしていたのだと思う。

201: 日本@名無史さん 2009/04/18(土) 04:41:32
ただの河内のおっさん。
たまたま時の人になっただけで現代でいうとホリエモン。
飽きられるのも早く、人は離れていった。

湊川の頃には以前のような周囲の協力もなく、正確な情報収集が出来ないようになっていたんだろう。すべてを察していたとか討ち死に覚悟の出陣とかは、後世の創作だろう。

本人は勝つ気 満々で出陣してたと思うよ。

203: 日本@名無史さん 2009/04/18(土) 15:07:19
>>201
息子を帰してるぞ

まぁ河内のオッサンが時流に乗って時の人になったのはわかるが
千早赤坂の篭城とか、けっこうの覚悟がないとできなかっただろうし
湊川の合戦前には人心が帝方から離れてしまっているのは感じてただろう
南北朝動乱の際、関東武士は有利な方にゴロゴロ寝返りまくりだった時代だ

近畿の田舎武士は初心だったんだろう
楠木、新田、名和
後醍醐天皇の親衛隊は全員裏切らず死んでいったからなぁ~
赤松はムカついて去ったけどね
篤く遇された人は死ぬまで戦ったな

まぁ後醍醐帝を離れると力なくすからだろうけどな

208: 日本@名無史さん 2009/04/18(土) 23:52:56
>>203
その息子を返したというのも疑問。
いつのまにやら後世に有名な「桜井の別れ」がねつ造されたのではないか?

古典文学『太平記』に登場する代表的なエピソードのひとつでもあるが史実であるかどうかは別。正行の当時の年齢は既に青年というべき20歳前後だったいう見解もあり、桜井の別れそのものを疑問視する向きもある。

209: 日本@名無史さん 2009/04/19(日) 00:14:49
>>208
少なくとも連れて行かなかったのは事実なんじゃないかな。
息子たちが討ち死にしたのはかなり後のことなんだから。

257: 日本@名無史さん 2009/04/24(金) 09:25:37
>>208
正行が20前後の青年だったら有力な武将としてなおさら連れて行くだろうに

259: 日本@名無史さん 2009/04/24(金) 17:21:14
>>257
必ずしもそうとは限らんよ。
事実は「何らかの理由があって息子とは別行動を取った」というだけであり、桜井の別れがあったかどうかは解らない。

桜井の別れは、後世創られた物語の太平記に書いてるだけであり100%史実とは言えない。

260: 日本@名無史さん 2009/04/25(土) 09:00:36
>>208>>259
後世って言ってもほぼ同時代でしょ太平記は。
義経記なんかとはわけが違う。
関係者が大勢生きている時代に書かれているんだからあからさまな捏造はなかなか載せられないよ。

ところで正行が湊川のときにすでに二十歳前後だったというのはどの史料にある話なの?
261: 日本@名無史さん 2009/04/25(土) 16:14:30
>関係者が大勢生きている時代に書かれているんだから あからさまな捏造はなかなか載せられないよ。 

願望で語るな。関係者が生きていたって話に尾ひれがつくことは掃いて捨てるほどある。現在と違って、関係者が弁明する機会などないから、一度尾ひれがつくと止めどなくなる。 
時代は下るが、荒木又衛門だってたちまち尾ひれがついて一人で数十人斬ったとされた。 
太平記は史書ではなくてあくまでも物語。潤色、誇張が多いことも昔から知られている。 


>正行が湊川のときにすでに二十歳前後だったというのはどの史料にある話なの? 

年齢がわかる史料は存在しない。ただし、湊川合戦の時に、正行が左衛門少尉であったので成年に達してただろうといわれるんだよ。

271: 國學院大學卒 2009/04/26(日) 17:33:20
>>261>>270 
たわけ! 
当時の成人は二十歳ではない。 
287: 日本@名無史さん 2009/04/27(月) 06:12:51
>>261 
> 関係者が生きていたって話に尾ひれがつくことは掃いて捨てるほどある。現在と違って、関係者が弁明する機会などないから、一度尾ひれがつくと止めどなくなる。 

そりゃそうだ。でもだからといって全否定するのは違うだろう。 
それと、下に従軍記者がいないからとかいう人がいたけれど当時はどちらの軍にも時宗の僧侶が従軍しているよ。 


> 時代は下るが、荒木又衛門だってたちまち尾ひれがついて一人で数十人斬ったとされた。 

それは明確に否定出来る材料が別にあるだろ? 
でも桜井の別れは否定する材料自体が乏しいわけで‥‥ 
美談は全部創作にしたい、というのもあんたの願望じゃないの? 

> 太平記は史書ではなくてあくまでも物語。潤色、誇張が多いことも昔から知られている。 

全部信じろなどとは俺は言ってないつもりだが‥‥ 
ちなみにおれは國學院卒じゃないよ。 

> 年齢がわかる史料は存在しない。ただし、湊川合戦の時に、正行が左衛門少尉であったので成年に達してただろうといわれるんだよ。 

1336年時点で正行が左衛門少尉だったというのは確実な史料にあるの? 
それに國學院のいう「当時の成年は二十歳ではない」というのは 
その通りだろうし。

264: 日本@名無史さん 2009/04/26(日) 09:22:07
軍記物が創作であるという事実を忘れていないか? 
軍記物に書かれた事が全て誤りだと主張する奴もアレだが、日記とか古文書とかの他の記録との照合なくして無批判に軍記物の内容を信じることは少なくても現在の歴史学じゃ歓迎されていない

265: 國學院大學卒 2009/04/26(日) 10:46:15
軍記物は歴史的事実に基づいた作品で 全な創作ではありません。 
とくに太平記については の歴史資料的価値は広く知られているものです。 

個々のエピソードについては太平記の史料価値の高さからすると詳細な検討は別にして当時語られていたエピソードと見てほぼ間違いないと思われます。

266: 日本@名無史さん 2009/04/26(日) 11:51:04
楠木正成に関する記述は創作が多い 
京都での武家方との戦いでも、泣き男を使って尊氏を油断させた話は明らかに創作 
そもそも日本には従軍史家が存在しない。 
伝聞だけで、軍記は書けないから創作は当たり前 

269: 日本@名無史さん 2009/04/26(日) 12:49:59
ある程度の事実が元になっているにしても創作という手が加えられた時点で史実ではない。 

280: 日本@名無史さん 2009/04/26(日) 18:04:53
まあ、まともな思考回路の持ち主なら「七生報国」のエピソードにしろ、その場に居合わせたものは全員死んでいるのに誰が伝えたのだとという素朴な疑問が湧いてくるものだ。 
また、新田義貞と絡んでくる勾当内侍も太平記の創作というのは有名な話で、自分たちに心地よいところだけ無批判に信仰するのは馬鹿なカルト信者と同じ。

300: 日本@名無史さん 2009/04/27(月) 22:17:44
楠木正成が湊川出陣の時に子の正行を河内に戻らせたのが事実だとしても桜井の別れはやはりフィクションなんだよ。 
なぜなら國學院が言うとおり、書いた人間の意識を投影された話なのだ。 
あれは親子の愛情の話ではないんだよ。 
正成は正行に、「君に忠義を尽くし足利には絶対に従うな。」と命じるのだ。 
そして、12年後に正行は四条畷で戦死するのだ。 
正行のその後の運命を暗示すると共に悲劇性を濃くする為の創作だと考えた方が自然だろう。 
桜井の別れは有ったとも言えないが、無いとも言えないというのは「悪魔の論理」に近いね

303: 日本@名無史さん 2009/04/28(火) 00:26:18
太平記によれば「桜井の別れ」の時、正行はもうすでに正行となっており、元服後と見られる。 
また、後醍醐が義貞を見捨てて尊氏に投稿した後、吉野に脱出した時「楠帯刀正行」が後醍醐を出迎えたとなっている。太平記では以降正行のことを、「帯刀正行」、「帯刀左衛門正行」のどちらかで記している。 
さらに巻第二十五「藤井寺合戦事」では「光陰過安ければ、年積て正行已に二十五、今年は殊更父が十三年の遠忌に当りしかば、」とある。 
しかし、巻第二十六「正行参吉野事」では「父正成(中略)遂に摂州湊河にして討死仕候了。其時正行十三歳に罷成候しを、合戦の場へは伴はで河内へ帰し死残候はんずる一族を扶持し、朝敵を亡し君を御代に即進せよと申置て死て候」とあり、太平記の中でも年齢記述はバラバラ。 
千坂赤坂村の建水分神社に正行の自筆と見られる扁額が残っているが、 
『延元貮年丁丑四月廿七日被奉授御位記 同五年庚辰卯月八日題額草創之 左衛門少尉橘正行』 
と記されている。これが正行初出の史料といわれている。延元2年は1337年、延元5年は1340年。 

以上から、 
*倒幕時にはまだ正行は元服前だった。 
*1336年、湊川合戦以前に元服か 
*1337年、後醍醐吉野脱出時には帯刀左衛門少尉に任ぜられた 

おそらく帯刀左衛門少尉に任ぜられたのは、正成の死後、後醍醐が比叡山に籠もっていた時に、宮方結集のために各地の武士に乱発したであろう恩賞の一つであろう。 
やはり正行は湊川合戦時には元服をすませた13~18くらいの年齢が妥当だろう。いくらなんでも常識的に元服前の子供を軍に加える事は考えにくい。「桜井の別れ」に類似する事象があったとすると、正行は元服後の従軍で途中で返したのであろう。 

「太平記は潤色として正行の年齢を詐称した」 
桜井の別れはあったかもしれないがあったと断定するにはあまりにも根拠が薄弱 

が結論。

204: 日本@名無史さん 2009/04/18(土) 15:20:06
たぶん、バカではなかっただろう
ただ忠義心だけでもなかっただろう

自分を引き立ててくれた人を見捨てるなんて武家としてのメンツや名誉が許さなかったというのが大きいんじゃないか?
楠木、名和なんて特にただの土豪だったんだから後醍醐帝を見捨てたら、立場がなかっただろう

新田はもぉ足利の下にはつきたくなかっただろうし

205: 日本@名無史さん 2009/04/18(土) 17:15:44
赤松も弱小土豪に過ぎなかったし、しかも元々護良親王シンパだったのにも拘わらず、足利側について活躍したお陰で地位を築いたわけだから、もし正成が南朝を見限ってたら、楠木氏は室町幕府で赤松氏レベルの遇され方をしたのかねぇ。
まぁ赤松も嘉吉の乱以降尻すぼみになっちゃったけどさ。

もし室町幕府内で、楠木氏が河内を握ってたら、相当な有力守護大名になってんじゃないかと妄想は膨らむw

218: 日本@名無史さん 2009/04/19(日) 10:11:13
>>205
そうだろう。が、建武の新政に余りにも深く関わってしまったために後醍醐天皇から離れられなくなってしまった。これは忠義云々の話ではない。
それと赤松円心は、基本的に楠木とは「商売敵」。同じ側には互いにいられないのではないか? 逆に言えば、赤松が足利側につくという選択が出来たのも、また九州へ落ちて行く状況の際にもその選択肢を変えなかった(これは、一見先見の明があるように見える)のは、楠木と同じ側にいても自分の為にならないという計算があったからだろう。
朝廷内の信任は赤松と楠木では比べものにならない。それに天皇親政はうまくいっていない。
だったらどうなろうが足利についた方がいいというのが、ビジネスとしての赤松の選択だった。

228: 日本@名無史さん 2009/04/19(日) 21:38:38
独裁者北条一族を倒した楠木は英雄

231: 日本@名無史さん 2009/04/19(日) 22:45:59
>>228
北条滅ぼしたのは新田義貞でしょうが。

229: 日本@名無史さん 2009/04/19(日) 21:43:51
後醍醐の方がよっぽど独裁者だ。

235: 日本@名無史さん 2009/04/19(日) 23:10:46
正成が北条氏から領地まで貰って裏切った事については?

244: 日本@名無史さん 2009/04/20(月) 00:15:20
しかし正成と世阿弥が近い親類ってのは本当かなぁ
嶋野家文書が唯一の記録だからね。
世阿弥のパトロンだった二条良基あたりが日記に書きそうな気がするが…

252: 國學院大學卒 2009/04/21(火) 21:11:12
建武中興の論功の際、正成公は自分の手柄の前に
「一番の手柄は戦死した菊地武時です。」
と言われたと謂う。

己の利益のためで動くものにできることではないと思います。

253: 日本@名無史さん 2009/04/21(火) 21:45:15
正成がイタリアのガルバリディみたいに建武新政の後に全ての褒賞を辞退して野に下ったら本当の賢者だっただろうな。

255: 日本@名無史さん 2009/04/22(水) 07:17:55
下野は中立でなく、敵対行為と看做される


306: 日本@名無史さん 2009/04/28(火) 12:28:12
菊水の家紋は後醍醐帝から賜ったもんなんだろ?
それだけで楠木正成の人柄がわかろうもん

307: 日本@名無史さん 2009/04/28(火) 14:35:41
秀吉も足利義満も天皇から桐紋を貰ってるが?
地位が上の人から物を貰うだけで人柄が分かるのかね?

308: 日本@名無史さん 2009/04/28(火) 15:09:32
>>307
権力を極めた人と、パッと出の土豪ではえらい違いだわな?

あと、菊水は遠慮して菊の御紋の半分だけもらったんだよ

309: 日本@名無史さん 2009/04/28(火) 15:34:18
足利尊氏も名乗りの一部を貰ってるぞ。
後醍醐はそういう事をよくするんだよ。
それから菊紋が後醍醐から賜ったというのもハッキリしないんだよ。
菊水は中国の伝説にちなんだという説もある。

菊=天皇という考え方はこの時代そこまで浸透してない。

313: 日本@名無史さん 2009/04/28(火) 16:14:18
菊は公家も武家もかなりの家が使ってる。
規制されたのは明治になってから

318: 日本@名無史さん 2009/04/30(木) 11:18:30
後鳥羽上皇が刀を打たせたとき、菊のマークを入れさせた。
それが皇室と菊印のつながりの始まり、と聞いたが。

324: 日本@名無史さん 2009/05/02(土) 03:36:36
楠公の血をひくものはこのスレに居るだろうか?
自分がそうだというおかたはレスしてくだされ

326: 日本@名無史さん 2009/05/02(土) 07:37:19
楠公の血をひくものは、基本的に女系子孫である甲斐荘氏のみだろう。
それ以外の自称子孫は、残念ながら捏造。

420: 日本@名無史さん 2009/06/28(日) 03:44:01
戦国時代に朝廷から楠木氏の子孫として認められた楠木正虎ってのもいる。
一説によるとこの人の子が由比正雪の養父だとか

421: 日本@名無史さん 2009/06/28(日) 13:49:22
楠木正虎は、楠木の血を引いているかあやしいよ。
学会とかでもそういう見方が主流だと思ったけど。
朝敵から解除した功績は認めるけど、彼は楠木氏ではなく大饗(おあい)氏。

室町後期から戦国時代にかけて、武士の間で「太平記」が多く読まれるようになり、人気を博したため、楠木正成の人気・崇拝の念が高まった。そこで自分は正成の子孫であると自称する者が続々と現れてきた。
 
その一人で、最も自己演出が巧みだった人物がこの正虎だった。
正虎は河内国大饗(おあい)の出身で、文化的教養があったため、天文十五年(1546)に上洛して時の将軍、足利義輝に仕えたという。
その頃、正虎は大和国の信貴山多聞天に参り、自筆の願文を捧げたが、その書に「我こそは、楠木正成朝臣十一代の嫡系、大饗左衛門正虎」と署名して、武運長久の祈願をし、自分が楠木家系の後裔であると宣言した。
たまたまこの頃、大和信貴山を本拠に勢力を伸ばしていた松永久秀に近づき、彼を介して正虎は宮中に入り込み、正親町天皇やその親王に筆跡を授けている。
この時、楠木正成はまだ朝敵の汚名を着たままだったが、正虎はその名誉回復を申し出て、天皇から朝敵恩免の綸旨をもらうことに成功している。さらに自分も正成の子孫として、河内守の地位につくことができた。
正虎はその後も政界をうまく飛び回り、織田信長の右筆になり、さらに豊臣秀吉の右筆にもなって、多くの文書記録を残して七十七歳で亡くなっている。

さて、この正虎についてだが、血縁的には彼が正成の子孫であるという確証は少ない。
正虎はたまたま自分が正成と同じ河内国の出身であることに着目して、正成が英雄視されている時流を見て、楠木の家系を最大限に利用して政界での自分の地位を確保したと見ることができる。
こうして見ると、正虎という人物は楠木の名を騙るペテン師のようにも見えてしまうが、彼の尽力のお陰で、それまで朝敵とされていた楠木正成とその一族も赦免されたのであるから、彼が果たした歴史的意義は大きいと言える。


331: 日本@名無史さん 2009/05/04(月) 12:32:37
それより楠正成と楠木正成
どちらが正しいんだろ?

333: 日本@名無史さん 2009/05/06(水) 11:53:24
>>331
楠木正成と表記する方が多いようですね。
楠で検索して楠木に訂正される。

334: 日本@名無史さん 2009/05/06(水) 15:52:05
戦後は「楠木」説が圧倒的に有利ですが「「太平記(読み)の可能性」の著者の兵藤裕巳氏は当時の記録から見て「楠」説を取っていますね。

引用元: ・【悪党】楠正成とを語ろう【忠臣】



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