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1: 日本@名無史さん 02/06/14 23:00
鎌倉幕府の復活萌え。







中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。





5: 日本@名無史さん 02/06/17 19:23
一旦鎌倉は陥落しちゃうんだっけ?
逃げてきた直義と京から来た尊氏と合流後に奪回すると思ったけど、難攻不落のはずの鎌倉もこのあたりになるとコロコロ落ちるね。

6: 日本@名無史さん 02/06/17 20:06
>>5
「切通し」だっけ?鎌倉は大軍が一度に攻めて来れない様に鎌倉に通じる道は全部細くしてるというやつ。
鎌倉一回逝った事あるけど、海からなら簡単に攻めれそうな感じが・・・・・。

12: 日本@名無史さん 02/06/17 23:31
>>6
いや実際新田義貞は大苦戦して、海側の潮がひいたところを渡って攻めたのよ。
切通し自体は残っていたはずなので要塞都市としての鎌倉は まだ残っていたはずなのだが、みんな海から攻めるようになったのか?

10: 日本@名無史さん 02/06/17 22:06
成功してれば南北朝の動乱とかはなかったかもしれんな。

16: 日本@名無史さん 02/06/19 01:10
で、

結 局 北 条 時 行 は 何 が し た か っ た の ? 

北条 時行

北条 時行(ほうじょう ときゆき)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児。北条氏復興のため、鎌倉幕府の残党を糾合して中先代の乱を引き起こし、一時鎌倉を奪還した。その後、後醍醐天皇から朝敵を赦免されて南朝方の武将として戦い、武蔵野合戦で再び鎌倉を奪還したが、遂には足利方に捕らえられ処刑されたと伝わる。


17: 日本@名無史さん 02/06/19 01:13
そりゃあんた、幕府復興じゃろが

18: 日本@名無史さん 02/06/19 01:56
北条時行も数奇な運命だな。
滅ぼされた鎌倉幕府執権の遺児。
それがいつしか南朝方に。

23: 日本@名無史さん 02/06/19 18:25
信濃のどの辺で挙兵したのかが気になる

30: 日本@名無史さん 02/06/20 11:22
>>23
諏訪あたりでは?

24: 日本@名無史さん 02/06/19 21:21
時行の子孫はどうなったの?

26: 日本@名無史さん 02/06/20 02:18
>>24
横井氏や平野氏などが時行の子孫らしいけど本当かな?

36: 日本@名無史さん 02/06/21 00:29
成功してたら楽しかったろうな。
南北朝と東西幕府の四つ巴の戦い。
萌え過ぎて損はない。

42: 日本@名無史さん 02/07/21 07:22
時行萌え~~
厨房時代は中先代で死んだものとおもてたよ。長生きしているのを知ったときは正直ショックですた。

43: 日本@名無史さん 02/07/21 17:00
時行ほど数奇な運命をたどった人物はいないのでは・・・・
最後には南朝に属し、父を討った新田氏とともに足利と戦うことになるとは・・・

47: 日本@名無史さん 02/07/26 17:40
北条時行と北条泰家の人生は波乱に満ちているよ。面白い。

59: 日本@名無史さん 02/08/29 00:54
北条時行は南朝に加わったが、結局これが南朝の命取りになった。
というのは北畠顕家と北条時行が青野原(関が原)で足利軍に対象し、もしここで福井の新田義貞と合流していれば、歴史は変わったかも知れない。
なにしろ天武天皇も徳川家康も関が原で勝って天下を取っているんだから。
しかし、北条時行は新田と合流することを頑強に拒否(まさに親の敵だからな)。
で、北畠軍は伊勢に向かい、新田と合流できず、足利軍に個別に撃破されてしまった。
うーん、歴史ってホントに面白いですねえ。

60: 日本@名無史さん 02/08/29 08:50
北畠顕家の転進を時行が原因というのはあまり支持する人は多くないのでは。
時行はそれほど重要な決定に影響できるほどの勢力ではなかったというのが根拠。

顕家自身が義貞との対抗意識から合流しなかったという方が説得力があるような。

64: 日本@名無史さん 02/09/01 03:16
自分も、新田がいやだからと時行が反対して伊勢に向かったというのはどーも納得しきれないものがある。
いくら南朝にくだったとはいえ元朝敵だし、そんな発言力なさそうな気がする。
しかし、ほんとにもったいないことをしたとは思う>顕家の転進

65: 日本@名無史さん 02/09/01 21:32
青野原で、足利方の援軍と激突した時点で、顕家軍は甚大な損害を受け、新田軍と合流しても足利方に対抗すべくもなかったと、その時の事情を分析している人もいるね。

67: 日本@名無史さん 02/09/16 05:59
中先代には諏訪氏だけが味方したの?

69: 日本@名無史さん 02/09/25 23:45
>>67
名越とか北関東の小山氏とかいろいろ参戦してるよね。

70: 日本@名無史さん 02/09/30 02:25
>>69
小山って、後醍醐が兵を上げたとき呼応してなかったっけ。
藤氏一揆とかけっこう複雑な動きをしてる気が。

72: 日本@名無史さん 02/10/17 18:47
>>67
会津の葦名も参戦してるぞよ

75: 日本@名無史さん 02/12/02 03:17
そのまえの足利高氏と新田が挙兵したのはどうして同じときなの?

76: 日本@名無史さん 02/12/02 10:31
同じときというより、六波羅での高氏の勝利を知って、高氏が西にいる間に自分のチャンスあり、と鎌倉に突進したんじゃないの。

77: 日本@名無史さん 02/12/02 12:27
>六波羅での高氏の勝利を知って

知ってはいないと思う。
当時の情報伝達の手段からして、日付的にかなり無理ないですか?

しかし、六波羅陥落のほうが先だったため、やっぱそういう風に思っちゃうんだろうね、ただでさえ新田<足利という実力・世間評価だったのが、益々差が付く結果に・・・


せめて一日でも早く、鎌倉が先に落ちていれば、世間・親政政府は・・・
新田=足利ぐらいの評価はしてくれたかもしれない・・・

79: 日本@名無史さん 02/12/02 13:03
>知ってはいないと思う。
>当時の情報伝達の手段からして、日付的にかなり無理ないですか?


そのつっこみは来るかなとおもったんだけど。確かに正論。
翌日だからね。ただ、高氏が軍事行動に入って既に一週間すぎているので、西の縁者からの情報通報などの段取りを既につけてれば、のろしによるネットワークとか、1日での急報は可能なんじゃないかな。
まあ、貧乏武家の新田にそこまでのネットワークがあったかどうかはあやしいけど。

80: 日本@名無史さん 02/12/02 20:02
>>79
あんまりにも日付が近いし、千寿王が最初から加わってる点からして
「○月○日ごろ、せーのーで、でやるよ!?」
という予定のようなものはあったのかも、と妄想。

130: 日本@名無史さん 03/05/02 21:51
本題に戻そう。
北陸で呼応し挙兵した名越時章についてはどうだろうか?

131: 日本@名無史さん 03/05/11 03:21
北陸も、坊さんになってた息子を親王にもどしたからこそ。

133: 日本@名無史さん 03/05/25 05:56
還俗して親王いっぱい乱立ってのが痛い

136: 日本@名無史さん 03/06/05 11:58
反足利&北条再興勢力は
葦名盛員・葦名高盛・北条時行・諏訪頼重・三浦時継・名越時兼・西園寺公宗・北条泰家・諏訪時継・曾我道性・名越時如・安東師季・安達高景など(おもに東北・甲信越地方)

172: 日本@名無史さん 03/08/02 18:14
なんで信州の諏訪氏が時行に加担したの?

173: 日本@名無史さん 03/08/03 18:36
諏訪氏は得宗身内人の家柄

150: 日本@名無史さん 03/07/01 21:59
北条泰家は 西園寺と計って後醍醐天皇の暗殺を計画して失敗したときいていますがそのあと西園寺や泰家はどうなってんでしょうか?

151: 日本@名無史さん 03/07/01 22:35
>>150
西園寺公宗は出雲に流罪のはずだったが護送役の名和長年が切ってしまう。
が奥様が妊娠中で死後生まれた実俊がのち右大臣。
北条泰家は行方不明。

175: 日本@名無史さん 03/08/03 21:59
北条氏は、傍流でも生き残った一族はいないの?
名越とか大仏とか赤橋とか、その他なんでもいいので、誰か戦国・江戸・明治まで残っている一族はいないの?

176: 日本@名無史さん 03/08/03 22:08
>175
信憑性は?だけど
飛騨の江馬氏は北条の子孫と称している。

178: 日本@名無史さん 03/08/03 22:42
幕臣にもなった横田氏とか後北条家臣の田中氏は板部岡江雪斎の子孫岡部氏もそうでは?

そうそう後北条氏も系図には子孫としている。

179: 175 03/08/03 23:01
>>178
横田氏なだ、結構有力な家がのこってるんですね。
これは調べがいが出てきました。
あれだけ強大な一族が、全く跡形も無く消えてしまうとは、どうしても思えませんでした。
たださすがにこれらの分家の末裔では、北条を再び名乗るほどの力は無かったんでしょうね。

ただ、伊勢氏はちょっと(w)、明らかに末裔では無いでしょうね。

186: 175 03/08/17 19:34
江馬氏は、北条家一門だったが、三浦泰村の乱で三浦方に加担した疑いを持たれて、遠江に流されたそうです。その後復活して、飛騨に移ったのでしょうか?

194: 日本@名無史さん 03/08/31 22:09
>>186
金沢貞将,忠時は鎌倉と運命を共にしたけど伊勢にいた敦時や、九州にいた実政流金沢氏の高政、貞義兄弟は翌年九州で反乱を起こしてるし関東でも北上させた金沢軍の別働部隊が鎌倉から隔絶され、偶然生き残ってしまったため、かなりの数の金沢氏所属の文官が室町幕府に使えていますが。この中に金沢の傍系がいた可能性は否定できないと思うのだが

298: 日本@名無史さん 04/05/10 01:53
中先代の乱の直前に、登子の甥・重時(宗時の子)が挙兵して死んでるけど・・・
いったいこの時登子はどう思ってたんだろ??
直後に中先代の乱が起こるわけだけれども・・・
もしかして、裏で糸ひいてたりして、登子


なんか、ナゾだらけだよな、赤橋家。

なんで通盛尼(守時室)は恩賞もらってんの?
なんで登子の姉妹は名門公家の奥様なの?姪は光厳院の妃だし。
なんで守時女は叔父の英時と一緒に九州について行ったんだ??

299: 日本@名無史さん 04/05/10 02:50
>>298
>なんで通盛尼(守時室)は恩賞もらってんの?

尊氏の功績に免じて、夫の遺領の一部を安堵されたってだけじゃなかったっけ?

300: 日本@名無史さん 04/05/10 03:08
まあ、赤橋家の遺領の大半は、建武政権期の段階で足利一門に相続されているわけだが。

324: 日本@名無史さん 04/05/16 19:20
この乱は面白いんだよな。
分倍河原がまた戦場になっているんだから。
鎌倉幕府滅亡も分倍河原が結構主流の戦場。
中先代もまたここ。

327: 日本@名無史さん 04/05/18 00:24
>>324
更にその後、戦国時代にも戦場になっている(古河公方軍vs上杉軍だったか?)
川を防衛線として考えるのは当時としてはよくある戦術だし、上野方面から鎌倉街道を南下して鎌倉に迫る時の通り道になるから。

325: 日本@名無史さん 04/05/17 22:02
時行は若いが、武将としての才覚が非常に高い。
鎌倉幕府滅亡前に執権に就任して倒幕派鎮圧の陣頭指揮を取っていたら、鎌倉幕府は存続していたかもな。

引用元: ・中先代の乱に萌えるスレ



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