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1: 日本@名無史さん 04/02/25 16:41
とりあえず、不輸・不入の権








3: 日本@名無史さん 04/02/25 19:35
今は「荘園公領制」といわれているね。

8: 暇人 04/02/28 12:45
荘園は元々別荘の意味

15: 日本@名無史さん 04/03/03 01:50
あのさ、源実朝が死んだあと、源家の財産(荘園とか)は誰が相続したの?

16: 日本@名無史さん 04/03/03 19:25
>>15
源家ってなに?
とかいう意地悪はいわないとして。

直接相続したのは「禅定二位家」すなわち北条政子と考えられます。

17: 日本@名無史さん 04/03/04 20:15
>>16
てことは、北条政子が死んだら北条氏のもちもんになったの。

源家でもっていたんでなくて、源実朝名義だったてこと?
参考書だと関東御領=源家相伝領+平家没官領+京都方没官領てなってたんで。
もうわけわからん。

なんか荘園に関してもっと詳しくて分かりやすい本おせーてください。
おねがいします。

18: 日本@名無史さん 04/03/04 21:49
>>17
専門書で良いのなら、、、
永原慶二『荘園』(吉川弘文館)
阿部猛編『荘園史用語辞典』(東京堂出版)
『講座日本荘園史』(吉川弘文館)
『日本荘園史大辞典』(吉川弘文館)など

19: 日本@名無史さん 04/03/04 22:20
>>17
>てことは、北条政子が死んだら北条氏のもちもんになったの。

北条政子は「北条氏の息女」ではなく、「故右大将家室」もしくは「故将軍家母」という立場に基づいて、実朝の地位と財産を相続したと考えられます。
よって、北条政子が死んだら、いわゆる摂家将軍であり、「鎌倉殿」の地位を継いだ藤原頼経(まだ幼児だから三寅と呼ぶべきか)のものとなったと考えられます。

>源家でもっていたんでなくて、源実朝名義だったてこと?

「源家」って言い方はしません。当時の「家」制度にかんがみてもっとも異論が少ないだろう、という言い方をすると「右大臣源実朝家」ですね。
これも実朝は右大臣になったその拝賀の際に殺されてますから、微妙です。

>参考書だと関東御領=源家相伝領+平家没官領+京都方没官領てなってたんで。

その参考書は『岩波日本史辞典』の「関東御領」の項を参考にしたと思われます。
つーか、そのまんまです。わかってる人間が見たら間違ってない文章ですが、確かにわかりにくいと思います。

>もうわけわからん。

ご心配なく。関東御領の全貌がわかってる人は世界中さがしてもいません。
(「俺はわかってるぞ」と主張する人はたくさんいますが)

荘園についての本ですか。とりあえず入手しやすいものとして、『新体系日本史 3 土地所有史』(山川出版社、2002)を挙げておきますが、「わかりやすさ」も「詳しさ」も中途半端な感がありますので、どなたか補完願えればありがたいです。

49: 日本@名無史さん 04/09/08 12:41
勉強不足ですいません。

関東平野の荘園の現況調査報告書で、今、入手できるものについてご存知のかた、教えていただけないでしょうか。

53: 141@名無史さん 04/09/30 16:38:37
>>50
関東でも、全体の半分近くは荘園だったはず
足利荘とか新田荘ってのは聞いたことある?

62: 日本@名無史さん 04/10/26 00:39:27
>>53
つか、関東最大の荘園は下河辺荘でしょ。

65: 日本@名無史さん 04/12/02 05:15:23
島津庄が大きい荘園だった、てのは学校でまなんだ。

94: 日本@名無史さん 2005/09/18(日) 23:05:50
最後の荘園って、検地までなの?

95: 日本@名無史さん 2005/09/19(月) 11:51:29
>>94
荘園の定義による。
東大寺領黒田荘なんかは、現在に至るまで、東大寺への奉仕(の一部だが)を欠かしていないし。

まぁ、しかし、太閤検地で消滅した、と答えてかまわないでせう。

98: 日本@名無史さん 2005/10/07(金) 10:55:00
荘園が欲しい

103: 日本@名無史さん 2005/12/03(土) 13:50:57
>>98
日本で荘園の景観を保存している所は豊後高田市の田染荘ぐらいなのかな?
個人的には福井県の太良荘や三重県の黒田荘がどうなってるのか気になるんだけど。



田染荘(たしぶのしょう)は、豊前国国東郡(現在の大分県豊後高田市)にあった宇佐神宮の荘園。田染荘の小崎地区には現在も、平安時代、鎌倉時代の集落や水田の位置がほとんど変わらずに残されているとされる。


107: 日本@名無史さん 2005/12/21(水) 12:47:19
律令制度の後、9世紀に入って郡司・郷司の力が衰えたんで受領が強大な力で香料を管理する制度が国衙領制度、その受領の横暴な取立てを嫌って開墾地を寄進してお偉いさんのものにして受領どもの税金取立て権と受領の手先の立ち入りを防いだのが荘園国衙領制度というのはちょっと乱暴でせうか?

108: 日本@名無史さん 2005/12/21(水) 12:55:38
学校では荘園は受領の横暴な取立てを避けるために寄進したと教わりましたが、最近、荘園は寄進を受ける天皇家の人々や大貴族の懐が公領制では潤わなくなったからだという説を耳にしました。
どうなんでしょうね。貴族が「はいみなさ~ん寄進してください」ってやったんですかね?

121: 日本@名無史さん 2006/02/06(月) 09:01:43
>>108
公営田や官田は天皇家の個人的所有物とはいえないし
初期荘園段階ではなんか違う気がするな。
領域型が出てくる院政期は知行国制とともにその性格はあるかも?

128: 日本@名無史さん 2006/03/20(月) 12:52:33
荘園領主は貴族だけど、管理していたのは、誰?

131: 日本@名無史さん 2006/04/04(火) 22:04:09
>>128
開発領主である荘官。貴族は名義だけかして、何かあった時に助ける

133: 日本@名無史さん 2006/05/01(月) 22:55:33
名主は領主警護とかの兵士役まで作人層にやらせていたのか?
まともな武装ができたと思えないんだけど。

136: 日本@名無史さん 2006/05/05(金) 17:45:36
今のような「自治会」のような仕組みができたのが、室町時代頃と聞いております。(惣村と言うんですよね。)
だから、何となく今も各地に残る田舎の様子から、当時の村の様子を想像しているんですが、ではそれより昔の村はどんな感じだったのでしょうか?
まえから、いろいろ考えているんですが、土地制度や税の流れがよく分かりません。具体的なイメージがわきません。
以下は私の考えているイメージです。

1.縄文時代のはじめ頃はまだ血縁関係のある2,3家族による移動生活。
(イメージとしては東南アジアや南米に今も残る狩猟採集民みたいな感じ?合っていますか?)

2.縄文時代の終わり頃には、栗やドングリの栽培も始まり、定住し、集落を形成。
(惣などの組織はないんですよね。どういう仕組みの村なんでしょう?わかりません。)

3.弥生時代。稲作が普及し、人口が増え、大きな集落ができてくる。
(血縁の者ばかりじゃなくなりますよね。)
大きな戦いも増えてくる。環濠集落。むらからくにへ。「村のリーダー」→「王様」。一般の者は「戸長」のような人に率いられていたのでしょうか?

4.古墳時代。大和王権による統一。村のイメージはよく分かりません。「氏」とか「部」とかもイメージできません。

5.律令のころ。貧窮問答歌のイメージが強いです。税や労役兵役などの負担が重い。なのに人々は反乱も起こせない。なぜ?どんな仕組みの村だったのでしょうか?みんなバラバラで諦めきっていて無気力だったのでしょうか?

6.荘園などが広まる。各荘園に庄屋さん(荘官と言うのですか?)のような人がいて、各家や人々を管理しているイメージ。荘官というのは地頭とか御家人とかいうのと重なるのですか?
税は荘官からさらに上の偉い人の所に何割か回される。それからさらに何割かは都の公家や寺社などに税が送られていく。

7.室町頃。惣というのができて自治を行うような村ができる。
「6」の頃の庄屋さんのような人はどうなったのですか?国人とか地侍というのになったのですか?

8.太閤検地以降。税はその土地の領主(大名など)に直接送られる。都の偉い人などの所にはほとんど届かなくなる。

とんちんかんなことばかり書いているんだと思いますが、優しくて詳しい方、 お考えをお聞かせ下さい。

138: 日本@名無史さん 2006/05/24(水) 23:35:45
領有権と租税収取権が分離したのが、10世紀末くらい。
この頃から収公という言葉は、領有権はそのままに租税収取権だけを国衙が取得する意味になった。

10世紀初めに基準国図が成立、これによって国内の不輸租田が固定。
10世紀末から11世紀初めくらいは、検田などの徴税関連作業は国司配下の国使が行い、郡司、郷司 はそのサポートをした。

145: 日本@名無史さん 2006/06/06(火) 02:54:11
別名って何?

146: 日本@名無史さん 2006/06/06(火) 07:10:15
個人が本名以外に名乗る名前です、ってゆう冗談はおいといて。

11世紀に郡郷制の改編にともない出現した国衙領の単位所領の一つです。
国衙に直接納税がなされる別府の一種で、官物の賦課率が一般の国衙領と異なり、雑公事が免除される場合もありました。荘園の増加に対抗して,国衙が未墾地の開発を促進するため、在地有力者などに所領形成の優遇措置をとって開発と収納を請負わせたことで成立したと考えられます。
多くは郡司・郷司や在庁官人などの開発所領として立てられましたが、買得・寄進による土地集積を契機とするものもありました。

152: 日本@名無史さん 2006/06/26(月) 00:04:48
初期荘園

公領の農民が請文を提出して一年契約で耕作を請け負っていた。
この時期の荘園では、荘園領主は荘民を支配しているわけではない。

153: 日本@名無史さん 2006/06/26(月) 00:56:49
国衙の文書行政の実務は、現地で雇われた在庁官人が担っていたらしいが、この人たちは
どういう形で、教育を受けてきたんだろうか。
中央の貴族の場合は、家庭教師を雇っていたとも聞くが、地方の場合は、どうしていたのだろう。
世襲で親から教わっていたとか、あるいは国衙に教育機関があったのか。

今昔物語では、くぐつが目代になって行政をこなしたという話もあるな。

尾張守元命を訴えた例の解の文章、あれも普段事務をこなしていた在庁官人が書き上げたものなのだろうか。あの文章、一介の事務官僚が書いたにしては、美辞麗句や引用など、高度な文章能力が伺える。

155: 日本@名無史さん 2006/06/26(月) 17:15:10
>>153
つ国学

158: 日本@名無史さん 2006/07/06(木) 02:17:15
寄進を受けた荘園領主が、寄進によって受ける特典とは具体的に何?
それほど、利益はなかったとか。

159: 日本@名無史さん 2006/07/06(木) 15:41:15
決められた割合の荘園からあがる年貢を得ることができるんだよ。
それより職の体系が全く分からん。

161: 日本@名無史さん 2006/07/07(金) 00:15:21
> 決められた割合の荘園からあがる年貢を得ることができるんだよ。

でも、その年貢の率は、公領に比較するとかなり低いってきいたが。
大庭の御厨から伊勢神宮に納められるものを何かで見た事あるけど、意外と少なかった印象がある。

公領から得る利益の方が多かったんじゃないのかな?
受領を介して得る利益とか、知行国主とか。

荘園って、荘園領主よりも、在地領主の方が得だったのかも。

166: 日本@名無史さん 2006/08/04(金) 20:47:38
本当の意味でわかって荘園をわかってる人って少ないよね…

168: 日本@名無史さん 2006/08/09(水) 00:15:39
>>166
学者の間でも、荘園の定義について意見が割れているのに、このスレで分かる奴など、いないだろ。

171: 日本@名無史さん 2006/08/13(日) 01:56:10
寺田や神田などの初期荘園
雑役免除系荘園
官省符荘
国免荘園
とか

179: 日本@名無史さん 2007/02/19(月) 02:21:55
平安期になってできた「並列的な郡・郷・保」(山川教科書)ってどんなの?
律令下の国-郡-郷(里)の郷はその場合どうなったの?

183: 日本@名無史さん 2007/03/02(金) 21:38:09
>>179
令制の郡郷制は10世紀から変化し始め、11世紀には郡を介さず国衙に直結する院・郷や別名成立するとともに、単独の郡司(一員郡司)や院司・郷司が出現し、郡・院・郷がその所領化となる。群も再編分割され、こうして国内は郡・院・郷・別名などの中世的な所領に編成され、中世的郡郷制が成立する。

184: 日本@名無史さん 2007/03/02(金) 21:54:04
念のため付け加えますと、地図ではありませんが大田文というものがあります。
中世において各国ごとの荘園と公領の水田面積を記載した文書で、図田帳・田数 目録などとも言います。鎌倉時代には、幕府の命令に基づいて各国の守護が中心となって作成し、荘園領主名や地頭の氏名を記したものと、国衙が一国平均の課役徴収の基礎資料とするために作成したものとがあります。その始源は院政期にありますが、鎌倉幕府は国内統治のために積極的に活用し、以降中世においては段銭賦課などの基本帳簿として重視され、長く使用されました。

建久8年の日向・薩摩・大隅、承久3年の能登、貞応2年の石見・淡路、文永2年の若狭、弘安2年の常陸、弘安8年の豊後、正応5年の肥前、徳治1年の常陸、そして室町中期の丹後のものが残っています。

187: 日本@名無史さん 2007/05/03(木) 03:21:00
そういや、郷とか里って、もともとは地域ではなくて、世帯で構成されていたんだっけ?
戸籍が形骸化して住民を把握できなくなって、領域化していったとか。


188: 日本@名無史さん 2007/05/03(木) 21:28:00
郷戸=今で言う世帯だけどまぁ全然違うもの。
50戸=里(郷)

9世紀末に個人への税賦課から田地への賦課に転換したため郷戸や郷は存在意味をなくした。

189: 日本@名無史さん 2007/05/05(土) 05:23:07
荘園とかあほくせ
だからなんだよ?そんなの1000年も昔の話よ

192: 日本@名無史さん 2007/06/06(水) 01:48:51
>>189
いや、場所にもよるがたいていの場合、戦国末期近くまで存続してたんだぞ。
いちおう、戦国時代の話にも関係してくる。

さすがに、「関ヶ原」の頃には、なくなってるけどな。

194: 日本@名無史さん 2007/08/13(月) 09:15:08
応仁の乱のころ、関白の一条氏が土佐国幡多荘に下向して戦国大名化ししばし隆盛を誇ったように、そのころが荘園の消滅期なんですね。

195: 日本@名無史さん 2007/08/15(水) 20:36:50
>>194
でも、土佐に入ってから、元の荘園の範囲を超えて広大な勢力範囲を制圧して、それなりに巨大な大名になっただろ。勢力下の武士たちが背反きわまりなかったとはいえ。

真の「荘園消滅期」は、じつは豊臣政権時代。
それ以前の大名らは、制限付き・限定的ながら、ある程度は荘園の保護もやってたよ。

196: 日本@名無史さん 2007/08/15(水) 21:48:37
土佐一条氏の時代が荘園の最後の輝きであり秀吉の検地が最後の止めをさしたということですね。
応仁の乱のあと、京の人々は荒れ果てた町を見て嘆き悲しんだと言われるけど単に町が焼かれただけではなく、荘園や国衙領の支配権が蚕食された経済力の失墜を嘆き悲しんだのでもありますね。

197: 日本@名無史さん 2007/08/15(水) 22:58:27
「荘園が太閤検地で消滅した」というのはどういう意味ですか?
公家・自社の所領は没収という意味ですか?

198: 日本@名無史さん 2007/08/17(金) 00:09:20
改めて知行したってことでしょ。

200: 日本@名無史さん 2007/08/17(金) 14:23:18
もう戦国末期には、ほとんどの荘園は有名無実になってたから、名前だけになってた領主権を廃止して、あらためて別の知行を与えた。


引用元: ・荘園について語ろう




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