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1: 日本@名無史さん 2015/08/10(月) 11:31:54.96
御家人は、従っただろうし、義時の権威を頼朝を完全に超えたのではないだろうか?








2: 日本@名無史さん 2015/08/22(土) 18:36:01.87
朝廷を滅ぼすというのは、後鳥羽院たちを配流して今上を退位させるだけでなく、次の帝を即位させず、廷臣たちを都から駆逐してしまうということか?
だが、そんなことをしても、神器を持って都を脱出した廷臣が西国に逃れて誰か皇子を擁立して即位させるのではないか?

3: 日本@名無史さん 2015/08/22(土) 18:42:50.01
そんなことしたら「俺たちもトップを倒していいんだ!」と下剋上の嵐だろ

4: 日本@名無史さん 2015/08/22(土) 21:38:04.67
義満が天皇になろうとしたのと大差ないと思う。
義時だって桓武天皇の男系の子孫だし。
皇位簒奪と暗殺説

田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えており、これを受けて作家の海音寺潮五郎、井沢元彦らは義満の死は皇位簒奪を阻止するため暗殺されたのではないかとの意見を提示している。


10: 日本@名無史さん 2015/08/23(日) 16:19:31.31
そんな事したら西国武士団に、北条氏打倒させる絶好の口実を与える事となる
義時はそんな馬鹿じゃない

13: 日本@名無史さん 2015/08/23(日) 20:51:21.15
>>10
鎌倉じゃ毎度毎度、御家人のクーデターが起こってたしな
義時の行動の正当性に疑問符が付いたら、幕府勢はたちまち分裂するわ

14: 日本@名無史さん 2015/08/23(日) 23:35:00.34
当時の有力御家人なんて三浦くらいで他は北条の犬みたいな御家人しか残ってない

17: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 15:16:19.25
>>14
安達もだな
後にはやられたけど

15: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 14:21:46.19
三浦と言っても義村は義時の忠実なパートナーじゃんw
義時の方に気をとられていたら後ろから義村が、とかいうのが定番だぞw

これ、全てが終わった今だからわかるけど、同時代の人たちは2人がつるんでる事に気づいてなかったのかな?
関連記事【相模】三浦氏


16: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 14:55:35.48
鎌倉は朝廷に公認されることで存在が保証されていたわけだから根拠となる朝廷を滅ぼしたら秩序の空白期間が出来る
その間に各地で新皇が乱立して戦国時代にでもなったんじゃね

26: 日本@名無史さん 2015/08/25(火) 16:20:18.79
>>16
各地に新皇が乱立

いいねえそれw。日本史も興味豊かな歴史になってたことだろう。
はっきり言ってローマ帝国だって5人ぐらい皇帝が並び立ったこともあったし、日本だってそんな歴史が展開したとしても全く驚かないw

28: 日本@名無史さん 2015/08/25(火) 16:57:21.43
>>26
奥羽に義経、関東東海の鎌倉政権、北陸山陰の木曽
近畿関西の院(朝廷)、山陽四国九州の平家
の分裂が固定化してれば今頃日本列島は5ヶ国だった

18: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 15:20:09.21
頼朝正室の北条政子がいなかったら、負けていたと思うよ
政子の下には結集するけど、御家人の筆頭北条義時の下には結集しないだろう

27: 日本@名無史さん 2015/08/25(火) 16:34:09.76
>>18
さあ。どうかな。
当時の板東の氏族意識はやっぱり男系を中心とした血族を中心としてるんじゃないかな。政子だって、あくまで平政子だからね。本質的に北条一門の人なんじゃないかな。
倒幕の詔勅だって義時が相手だし、承久の乱は本質的に上皇が北条一門を討とうとして、返り討ちにあったってことだろう。

19: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 15:53:38.73
政子の存在は大きいな
旗揚げ前からの頼朝の嫁だから、彼女の存在そのものが頼朝に近いんだよな。
しかも根っからの坂東の女だから御家人と同根だし。

20: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 19:26:31.02
後鳥羽院系の皇統断絶、新天皇も擁立せず三種の神器を鎌倉に接収とか過激な事やれば延暦寺・興福寺とかの寺社勢力が一斉に反乱起こすよ
似たような状況を強いてあげれば清盛の福原遷都だと思うがあの時もそれまで平氏と仲の良かった延暦寺との関係が悪化してそれが平氏政権崩壊の一因になってる
公家や西国武士団が誰か天皇家の縁者を新天皇に擁立して結局朝廷が復活するだけと思うね
つまり実際に幕府が朝廷に対して取った処置は概ね妥当で、あれが幕府の力の限界だった

21: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 19:37:16.85
三種の神器が絡むと、三河に陣を張って足利氏をはじめてとした源氏や安達氏は、天皇方に付くだろう
三河を突破出来るわけない

22: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 20:24:23.29
足利と安達が手を結んで敵対するなら、北条にとってはやっかいだな
いくさもゆるくないよ
ひょっとして負けるんじゃないの

25: 日本@名無史さん 2015/08/24(月) 23:55:20.90
朝廷の中にも西園寺公経など鎌倉支持の公家もいたし、北条氏と親戚関係の公家もいた。鎌倉方は朝廷のすべてと敵対していたわけではない。
また、摂関家出身の九条頼経を主君としていただいていた。朝廷の持つ価値のすべてを否定していたわけではない。
朝廷そのものを打倒するという発想はなかったのではないか?

51: 日本@名無史さん 2015/08/29(土) 10:35:50.30
それよりさ、信頼が二条天皇を手放さなかったら、歴史はどう変わっていただろう

52: 日本@名無史さん 2015/08/30(日) 03:01:07.17
天皇は地面の上を歩かず筵の上を歩く(筵道という)が二条天皇が内裏から脱出する時は長い筵がなく、短い筵を2枚用意して1枚ぶん歩いたらそれを前に持ってきて、という事を繰り返してようやく脱出した
短い筵さえなければ、確かに歴史が変わっていたかも知れん

53: 日本@名無史さん 2015/09/01(火) 15:56:45.86
三条殿を大勢の血で穢したという事績が残る限り必ず糾弾の対象になりそう
信頼はいずれ排除されたんじゃないの

54: 日本@名無史さん 2015/09/01(火) 21:03:23.53
そんなことをしたら執権たる自分の権威の大本の将軍職を任命する人がいなくなるから、結果的に自分の首を絞めることになるだろ

55: 日本@名無史さん 2015/09/02(水) 10:00:33.00
御家人が同意できるのは上皇配流まで。朝廷廃止まではついていけない。
そこまで暴走する北条は御家人からみれば王莽や童卓と映る。南北朝時代と戦国時代が
同時に起こるとんでもないカオスになるだろう。

56: 活け神アキラ 2015/09/07(月) 13:27:55.80
IkegamiAkiraDyor


◆まず中学校レベルの基礎知識を思い出しましょう。鎌倉期の封建社会は鎌倉殿と武士たちの御恩と奉公の関係で成り立っている。鎌倉殿に所領安堵を受けるために主従関係を結び、鎌倉殿の家人を「御家人」と呼ぶ。九条頼経と御家人たちは主従関係にある。
得宗家と御家人は主従関係にはない。ここまではわかりますよね。宮騒動(1146年)宝治合戦(1147年)を経て、北条氏の幕府内の権力が固まってきますが、北条一門内での得宗家の優位性が確立できず、摂家将軍を廃した後は皇子を鎌倉殿に迎えます。三浦氏を討滅した後でも、得宗家は他の御家人たちとは同輩・横の関係であり、これを縦の関係、つまり主従関係にまで変えるのはまだ政治力不足であったわけです。

ーーー(このあとも活け神解説は続きます。)ーーー

57: 活け神アキラ 2015/09/07(月) 13:37:05.40
ーーーどうして、北条氏は鎌倉殿になれなかったのですか?---

◆御家人たちの身分意識の中では、自分たちの主君とは京都からやってくる軍事貴族でなければならないのです。戦国時代になると少し事情が変わりますが鎌倉時代にはまだ平安時代の身分観が残っていたと考えられます。関東の大豪族たちの主君には源氏もしくはそれと同等以上の家柄でないと彼らは心服できません。
また、4代以降 鎌倉殿は名目上の存在となり、実力ある者が自分たちの上に来て独裁者になることを忌避したのもあるでしょう。いずれにせよ、得宗家が自分たちの主君にあるというのはちょっと考えられないことです。
 
この中世の身分意識は、朝廷(天皇)との血統的な距離を基準にしています。
摂家将軍・皇族将軍はもちろん、先祖の功徳と自らの手腕で鎌倉殿に就いた源頼朝も例外ではありません。北条氏はこの貴種のハードルを越えられなかった、と結論付けてよいでしょうね。

58: 活け神アキラ 2015/09/07(月) 13:47:27.72
――――承久の乱のときに朝廷をつぶせばよかったのでは?――――

◆いい質問ですねえ。日本の身分意識は全て天皇に帰着しますので、こことの関係を上手く清算できれば、得宗家は東国武士たちの主君になれたかもしれません。結果論から行くと朝廷をつぶせなかった。そもそも承久の乱と言うのは後鳥羽上皇周辺の貴族たちが中心で、五摂家や西園寺などの有力貴族・寺社勢力はこれに反対でした。動員された兵力も畿内を中心とする西国御家人で朝廷と幕府の一部不満分子の決起に留まり、朝廷全体の総力を挙げての討幕戦争ではなかったんですね。
つまり公武の全面戦争・総力戦ではなかったために、北条氏は朝廷勢力の解体が図れませんでした。国衙領は依然朝廷の支配地であり、一旦没収された長講堂領(上皇領)も返還されています。
得宗専制が確立する霜月騒動以前の鎌倉幕府は有力御家人による合議制で運営され、北条氏の覇権が完全とは言い切れません。こんな状況で北条氏が朝廷をつぶすなどというのは難しかったと思われます。
 

59: 日本@名無史さん 2015/09/07(月) 13:53:06.23
活け神さん、よく解りました。
ということで、スレッドを終了します。

71: 日本@名無史さん 2018/05/08(火) 00:01:00.45
織田信長なんか小物
北条義時こそ大魔王

73: 日本@名無史さん 2018/05/08(火) 00:14:48.75
ただ北条一族というのは徳川一族や足利一族や藤原一族より異質すぎる。
やはり承久の乱が影響してるのかな

引用元: ・北条家が承久の乱で朝廷を滅ぼしたら




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