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1: 1 2006/07/01(土) 12:20:55 ID:AQAlMBKL
このところ、日本史板、戦国板などで何かと話題に上る勝長。
その不自然な厚遇ぶりの理由はどこに?
犬山城主、信忠与力。
義兄である、信雄や信孝よりも明らかに上の扱い。
安土城で、栄華の中での元服とはいえ、兄達のそれとはあまりにも違う華やかさ。
どうしても判明しない生母を考えると、そこまで厚遇する理由が分からない。
そして、武田家での人質時代には、勝頼の秘蔵っ子と言われた逸話まであり。
本能寺の変の時に二条城で亡くなった、この謎の武将について語りましょう。







織田 勝長

織田 勝長(おだ かつなが)は、安土桃山時代の武将。織田信長の四男(もしくは五男)。生母は不明。幼名は坊丸。「勝長」は『甲陽軍鑑』において見られる名で、文書上から確認される実名では津田源三郎、織田源三郎信房。

名乗りや待遇などから、信忠生母の生駒夫人より上位の女性の所生という説がある。岩村城主遠山景任の未亡人おつやの方の養子となる。おつやの方は信長の叔母であり、景任は嗣子なくして死去したため、遠山家を嗣がせるために、おつやの方のたっての頼みで送り込まれた。
元亀3年(1572年)11月、甲斐国の武田信玄の美濃国侵攻において、武田家臣秋山虎繁(信友)による攻勢で岩村城が降伏し武田方の居城となると、おつやの方は岩村城代となった秋山虎繁を夫として迎え入れることで武田方との和議が結ばれた。その際、坊丸は甲斐国に送られ、信玄の養子(人質)となった。信長は、この身内からの裏切りとも言える行為に、周囲の者が驚くほど激怒したと伝えられている。

天正9年(1581年)11月、武田勝頼によって坊丸は送還され、安土城で信長と対面する。同年、坊丸は元服して勝長と名乗り、尾張国犬山城主となる。
甲州征伐には兄・信忠の与力として参陣し、信濃国・上野国を攻略して、武田側の武将小幡氏を降伏させるという活躍を見せる。しかし、本能寺の変において信忠と共に、明智光秀の軍勢に攻められて二条御所で奮戦ののちに討ち死にした。




178: バロン曽志崎 2006/08/21(月) 11:35:17 ID:jI7HtP83
基本的な事で申し訳無いんですが、勝長が「織田」を名乗ったのいうのは何に拠るのでしょうか?
「信房」とあるのは瑞泉寺文書の禁制写の事だと思うのですが、その禁制は信房と署名があるだけで「織田」とも「津田」とも「源三郎」とも書かれてなかったと記憶しています(つまり比定文書です)。他に何か文書が残ってるのでしょうか?

179: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/21(月) 12:43:59 ID:sMbj4mDA
確か写しの欄外に織田信房、制礼ヲ下スという注意書きがあったのは覚えているがそれ以外だと自分は知らない。
犬山市史には「織田源三郎勝長が戻って信房になったと考えられる」という意味の事が書かれてあるから、何か確定する文献でもあるのかな?
犬山関連の文献では、津田姓は見た事がないので、よく分からないが。

183: バロン曽志崎 2006/08/21(月) 20:56:35 ID:jI7HtP83
勝長は法名から見ても異質だよね。
信長の子の中でも末子で法名が不詳な長次を除けば、唯一、織田勝幡家流の法名で慣習として用いられる「岩(巌)」の字が入ってないんですよね。

信忠:仙岩
信雄:実岩真公
信孝:高岩徳公
秀勝:賢岩才公
勝長:林庭宗松
信秀:高岩照公
信高:性岩心公
信吉:雲岩道卜
信貞:法岩日恵、又は宗恵
信好:清岩円公
長次:不詳

勝長の法名は阿弥陀寺の清玉上人がつけたものだけど、清玉上人はこの慣習を知っていた様で、ちゃんと、一緒に戦死した信長の義理の甥・津田信弌には「雄岩宗英」、一族にあたると思われる菅谷長頼にも「高岩幼順」とつけてるんだよね。近親で入っていないのは信長の末弟・長利「心伝宗正」くらいです。
ちなみに勝長の法名に院殿号はついてません。院殿号は本来、当主や高位の人物のつけられるもので、清玉上人が法名をつけた百数名の中でも、院殿号がつけられたのは信長・信忠・村井貞勝の三人だけで、勝長は確実に信忠(家督)よりランク下に置かれています。

189: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/22(火) 02:24:50 ID:9HhyeiPh
>>183
その院号がついていない事が不思議に思っている。
それこそ、全く武将としても全然存在感がなかったのならともかく、犬山城主で信忠与力であるのにも関わらずというのがね。
秀吉が編纂を指示した総見院殿追善記には勝長の存在すらなかった事になっている。
大徳寺系の法名がついているという指摘が前の方であったが、信長と信忠の、総見院、大雲院は天皇から勅命まで出さして変更させているけど、意外と勝長はこっそり変更させられたのではないかという気がするよ。

187: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/22(火) 01:36:34 ID:mYrwNTws
変わったほうの法名は?知っていたら教えてくれ。
 
俺の知っているのは 
信長→総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀
信忠→大雲院殿三品羽林仙岩大禅定門
          
要は上と同じだな~

188: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/22(火) 02:14:13 ID:9HhyeiPh
>>187
総見院と大雲院になる前?
最初の法名はおそらく阿弥陀寺の清玉上人が付けたものと思われるけど

信長:
阿弥陀寺では天徳院殿
妙心寺では天徳院殿龍嚴雲公大居士、
三河の長興寺では天徳院殿一品前有相府泰岩淨安大禪定門

信忠:
阿弥陀寺では景徳院殿

190: バロン曽志崎 2006/08/22(火) 02:24:52 ID:fJIQJ4WE
「言経卿記」によれば、はじめ、院号が信長は「天徳院」、信忠が「景徳院」だった事が伺われますが法名が何だったのかまではわかりません。
「阿弥陀寺由緒之記録」によれば秀吉と阿弥陀寺の清玉上人との間で確執があり、
「秀吉公仰せいだされ大徳寺塔頭に新寺一宇御建立なされ、御法名をもちい 総見院と寺号なさる。」
とあり、どうも寺号(院号)を変えただけで法名までは変えていない様なのですがどうでしょうか?

191: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/22(火) 02:37:06 ID:9HhyeiPh
うん、法名までは変えていないかもしれないね。
ただ、その辺はちょっと分からない。
阿弥陀寺にでも直接行って聞いてみて分かるかどうかってところかも。
それに、他の寺院での法名は天徳院という院号は一緒でもまた違うものだし。

勝長の院号に関しては、信長の息子であるのについていない事を考えるとかなり不自然だと思う。法名も、浄土宗の阿弥陀寺が付けた法名としてはおかしいみたいだし、大徳寺系の総見院で付けた法名と考えるとしっくりくるとすると、その辺り不思議だね。
とにかく、死後の扱いで、秀吉絡みでは、不自然な事がある気がするよ。

196: バロン曽志崎 2006/08/22(火) 19:22:25 ID:oVdvw6BL
>>189、191
院号がつかなかったのは、
・嫡子(当主)でなく、まだ一家臣扱いだった
・年少であった
・戦死者として集団で供養された
事が大きいでしょうね。大名の子息でも次男以下で分家を立てなければ、親と同じ墓所に入る事が多いため院号がつかない事はよくあります。
勝長の子孫や一族の有力者が菩提寺を改めるなりして再供養したりしてれば、ついてたりするかもしれませんね。
森乱丸の法名は阿弥陀寺では院号はついてませんが、後に大名家となった森家の菩提寺で供養する際に院殿号を与えられています。

193: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/22(火) 11:39:36 ID:14NbG7JO
別に信長の息子だからといって全員に院号がついてるわけじゃないんだろ。
こんなダラダラ長い法名は信長・信忠だけみたいだし。

織田家に天正9年の11月に戻ってきて天正10年の6月に死んじゃってるんだからあまり重要視されてなかったんじゃない?

195: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/22(火) 14:24:14 ID:9HhyeiPh
>>193
信長の正式に分かっている息子、娘で院号がついていないのは勝長だけ。
末子の長次は法名自体が不明だけどね。
ちなみに、信正は見性寺正誉英厳了盛で院号付いていないけど、正式な庶長子かどうかは、実際の所不明。江戸末期の資料と、菩提寺火事後に出来た位牌が信長の子供の根拠。
公的記録には、一切載っていない。

197: バロン曽志崎 2006/08/22(火) 19:27:27 ID:oVdvw6BL
>>195
院号と寺号は同じものです。

信忠:大雲院殿仙岩大禅定門、又は大居士
信雄:徳源院殿実岩真公大居士
信孝:照雲院殿高岩徳公大禅定門
秀勝:瑞林院殿賢岩才公大禅定門
勝長:林庭宗松大禅定門
信秀:芳徳院殿高岩照公(位号が解りません)
信高:松雲院殿性岩心公大禅定門
信吉:省花院殿雲岩道卜大禅定門
信貞:常照院殿法岩日恵大居士、又は宗恵
信好:徳林院殿清岩円公大禅定門
長次:不詳
信正:見性寺殿正誉英岩了盛大居士

202: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/24(木) 02:53:14 ID:eGCiAZiD
院号ってのはもともと、その寺院や宗派の旦那として寺門隆盛に貢献した人物に対して送られるものではあるけど(名のある武士なら菩提寺への寄進や建立など普通に行うし)
年若い子息子女でも法要や回向の機会に贈られるものだよね。

だから勝長の場合はやはり疑問として出てくるよな。
学者が研究してくれれば、各寺院の資料も検証されるんだろうけど。

205: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 18:53:59 ID:qLYrMgGD
ブログで勝長や濃姫のこと書いてる女性(?)は阿弥陀寺(浄土宗)や本能寺(法華宗」にいったことが無いのかな。
他の津田姓の人物らの法名と、勝長(津田源三郎)のものを眺めても字面的な格差は感じない。
院号を意図的に与えられなかった・・・という説はうがちすぎのような気が。

自分の希望的観測で勝長と濃姫を語っているような気配はこのスレの人々の一部にも感じるな。

207: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 20:29:42 ID:K7HgJ2qq
>>205
信長の他の正式に認められている子供にも院号がついていない者が1人でもいれば、勝長についていなくても気にする必要はないかもしれん。
だがそんな子供は分かっている限り他にいない。
信正が庶子だと言われ始めたのは幕末辺りからだから、真実かどうかさえ分からないので、信正の法名は参考にはならないし。

信長存命中に取り立てられ犬山城主にまでなっている子供が院号がついていないという事自体が、不可解だと思うのは普通の事だと思う。織田信房と伝えられている勝長の織田家復帰後の名前を考えると一概に津田姓と同列に考えるのはおかしいと思う。
自分は阿弥陀寺も本能寺も行った事がある。字面が格差がないという意見も分かる。
だがその事と、息子なのに院号ではないという疑問は全く別のものだと思っているよ。

208: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 21:49:05 ID:jbrE3Tg9
法名ってよく判らんけど>>183から

信忠:仙岩
信雄:実岩真公
信孝:高岩徳公
秀勝:賢岩才公
勝長:林庭宗松 ←公に間違えて木を付けちゃったとか?
信秀:高岩照公
信高:性岩心公
信吉:雲岩道卜
信貞:法岩日恵、又は宗恵
信好:清岩円公
長次:不詳

209: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2006/08/29(火) 22:00:02 ID:uJqtTGTW
>>208
あり得るとは思う。
ただ前の字が「宗」だけに判断しかねるね。

213: バロン曽志崎 2006/08/30(水) 02:45:21 ID:nEdtnN1l
>>208
法名をつけた清玉上人直筆と伝わる阿弥陀寺の過去帳の影印を見る限り、はっきりと「松」と書かれてますね。ただし変直後のモノでないので、そこらへんが気にはなりますが。

勝長が兄弟の中でも特別、厚遇されているかについては、犬山城主といっても、家督である兄・信忠の領地の一城主(つまり城代ですよね)である訳ですし、「信長公記」を見る限り、常に信忠の家臣(与力か)の扱いで武田攻めの際も信忠配下として森長可や団忠正とワンセットで行動をしており、独立した行動は見いだせません。
兄弟として見ても、兄の信雄・信孝は他家を継いだといえ、一領主ですし秀勝は養子、弟といえば、みな元服前(10歳前後以下)で比較対象にすらなりません。
結局、勝長は死ぬまで信忠の一配下であり、だからこそ本能寺で信忠にしたがって戦死する羽目になったのはないでしょうかね?ちなみに団忠正も一緒に本能寺で死んでます。

214: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 08:08:27 ID:lYR4yOJ8
>>213
勝長は信忠の与力だから、それはある意味当然だね。
大体、敵から戻ってきてすぐに、与力になっている事自体が厚遇なんだと思うが?

戻ってから死ぬまでに7ヶ月だから、安土での対面が想定外に目立つのか
武田攻め以降、折りをみて与力から別に取り立てるつもりが信長にあったのか
その辺は分からないね。
もう少し長く勝長が生きていれば、本能寺がなければ、はっきりしたのだろうけど。

210: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 00:43:57 ID:D+PD7WnI
>>205を読むと例えば勝長が本能寺の変のとき「津田 源三郎」で死んでいたのならもしかしたら院号がついていないのかも。(津田の姓ならありえるんだろ?)
あの時はきっと慌しくて信長と後継者の信忠以外は眼中に無かったかも知れない。

だいたい信長の息子といえど 次男 信雄・三男 信孝だって信長が死んでから織田姓に戻ってるし、その他の弟たちだって織田を名乗れるのは信長が死んでるからでしょ?
信長生きていたら次男三男は織田姓を名乗ることは無いだろうし、他の弟たちも養子行きのような気がする。

あの慌しさの中なら、そんな間違いもあるかもね。

211: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 01:18:41 ID:rfdMkD9I
逆に二男三男が呼ばれなかった場に、わざわざ信忠とともに上洛しているって時点で、そんな軽い扱いされているわけじゃないと思うんだが。

219: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 10:59:38 ID:UMLHvKxR
勝長の厚遇についての意見として、>>213>>214に共感するな。

城持ちとなり嫁を迎えてはいるけれど、織田家の幹部候補生として長兄のもとにあって見習い中(下世話な言い方ですまん)だった、
・・・という印象があるんだよね。

220: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 11:49:14 ID:ly0V5xeD
信長は勝長を信玄でいう信繁みたいな存在にしたかったのかもという書き込みをどこかのスレで読んだ時になるほどねと思った。
この頃の信忠の周りには家臣は育っていても肝心の支えるべき一門衆がまだ育つどころか候補すらいなかったからね。(信雄と信孝はあのとおりだし)

もし信忠に松姫が嫁いでくることになりそれに伴ってついてきた武田方と織田方で対立が起きたとしても、人質時代に顔見知りになっていたと思われる勝長ならうまく調整ができるだろうと見込んでいたとしても不思議ではないと思われ。

268: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/15(日) 02:30:05 ID:w08Ie/yU
勝長って、武田にいた時に戦で活躍したって逸話があるみたいだけど
普通に人質を戦に連れて行って、「すごいだろ~」なんて勝頼が北条の誰だかに自慢したりするような事なんてあるんですか?
あと、武田で武将として活躍したのに、織田に戻ったらそんな事忘れたみたいに武田攻めに加わってるけど、織田ではどうしてそんなに信用できたんでしょう?

269: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/15(日) 02:39:13 ID:K5MU8nmv
流石に帰って来たばかりだし信用はされてないだろう。
武田攻め参加は、武田と決別し織田に戻ったという証を見せるためじゃなかろうか。

270: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/15(日) 02:47:56 ID:z3/ehEC4
自分もそう思う。試した感はあるかなと。
それから人質時代に築いたであろう?人脈は攻略する上で何かと使える場合もあるから。

勝長の逸話については勝頼が自慢しにいったのではなく確かその戦いぶりを見ていた北條方の武将の感想みたいなもんじゃなかろうかと思う。武田と北條は同盟関係だったから、勝長が人質として来ていたということは北條も知っていただろうから。

271: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/15(日) 02:50:34 ID:EAsYTGDN
なるほど~試したと考えればいいんですね。
でも、試す前に城貰ってたって言うのはやっぱり信長の子供だからですか?

273: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/15(日) 03:03:19 ID:w2l3DA7t
謀反人の子に大溝城をやるくらいだから別段不思議じゃないと思う

274: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/15(日) 16:33:19 ID:eeqYXikW
謀反人の子って言っても、ほとんどの信長の庇護下で育ったようなもんだし
その謀反人=信勝を実弟なのに暗殺しちゃった訳で、甥にはそんなことでつらい思いさせたくなかった気がするなぁ。意外と親族には甘い信長ですからね。
信勝だって一度は許しているというのがあの時代にはとんでもない事で普通は最初の稲生の戦で負けたら責任とって殺されるものですよ。
むしろ、ずっと信長の元にいた信澄の方が、敵の武田で育った勝長より信用できるのは当たり前の事なんだよな。

281: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/10(水) 23:50:15 ID:IQAjyjdo
しかし、よく武田家も勝長を送り返してきたな。

282: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/11(木) 21:34:03 ID:Q2FxDCWF
留め置くほどの利用価値もないってこったろ
人質にとっておいたところで、それで進撃やめるわきゃないし
何だかんだで大人まで育てて、殺してしまうってのも後味悪いし

285: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/21(日) 17:10:44 ID:sI2LQpaY
武田氏の遺臣を治めるなら、武田信吉みたいに武田の名跡を継いだり出来たかな?

286: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/21(日) 21:04:44 ID:y70qhX0u
>>285
勝長が生きてたら、信忠も生きてるってことだから・・・
武田の名は、信忠と松姫の子供に継がせると思うな。

297: 人間七七四年 2007/05/24(木) 22:39:17 ID:ecXlbJZJ
>>286
仮に勝長が継ぐなら、名前はどうするんだろ?
織田家も武田家も通字は「信」の字だけど。

301: 人間七七四年 2007/05/25(金) 07:35:52 ID:B1j8VTIM
織田に戻った時点で「信房」になってるから、そのままの気も。
わざわざ、改名するだろうか?

302: 人間七七四年 2007/06/14(木) 15:13:01 ID:lES47Ddi
>>297
家康ほど信長は気を遣わないので、武田家は滅亡のままかも?

303: 人間七七四年 2007/06/14(木) 15:30:04 ID:2cXaCDlm
伊勢に何人も養子を送って名跡を奪った信長が、武田の人質だった我が子を使わない手はないだろう。
織田氏としては信房でも甲信が落ち着いたら武田勝長を名乗らせるつもりだったかもしれん。
穴山信君が武田の家督を預かっているのに武田を名乗らないのも不自然だし。

304: 人間七七四年 2007/06/14(木) 15:57:02 ID:BoWao8fa
>>303
勝長に織田・津田姓を与えたのは武田姓を与えるまでの繋ぎだったかもしれないね
(もちろん武田ではないかもしれないが)

305: 人間七七四年 2007/07/04(水) 19:49:55 ID:09E1WaR+
勝長が武田家でどういう暮らしをしていたのか知りたいな。
なかなかの武将だったって言われているし。
逸話のひとつぐらいなにかないのかな。

307: 人間七七四年 2007/07/05(木) 05:49:54 ID:BKWN3OXe
そりゃ、逸話が最も残ってたであろう武田は滅びて、その後戻った織田すらも、大して間も置かずドタバタだからなー
どっちにも残ってない・・・なんという薄幸。

308: 人間七七四年 2007/07/05(木) 08:05:58 ID:AdBVOn1A
一応、北条と上杉に、戦の時の逸話が残ってるらしい。

織田に戻ってからの書状も2~3通あったと思う。
自分が見た事あるのは2通。

309: 人間七七四年 2007/07/06(金) 21:52:38 ID:JgkAaGUT
そうなんだ・・・
濃姫以上に謎の多い人物なんだね。
でも本能寺の事件で死ななかったらどうなってたんだろ。
勝長がどういう位置の存在であったかとかもっとわかったかも知れないな。
光秀の謀叛のせいで、なにもかもが謎になってしまった。
まったく明智のバカヤロー

321: 人間七七四年 2007/10/10(水) 15:31:36 ID:oGz26LwK
本当に実在したの?

322: 人間七七四年 2007/10/10(水) 18:39:36 ID:th+ASZgv
実在はしているだろうな。
書状などが残っているし、勝長宛の書状も残っている。

323: 人間七七四年 2007/10/11(木) 16:25:02 ID:HzmBeWdw
この系統の子孫っているのかな?

324: 人間七七四年 2007/10/13(土) 01:20:44 ID:COHYgcve
確定では前田家に士官した息子がいるけど他に未確定ながら 鳥取の津田と福井にある寺の初代が勝長系統らしいよ。 
鳥取は池田つながり福井は甲斐武田→若狭武田と どちらも完全否定できない伏線はいちよある。

326: 人間七七四年 2007/10/14(日) 01:58:54 ID:N2v/gUOe
伊豆重須沖合戦に軍監として出陣してるな。
武田一門衆として重用されていたのは間違いない。

327: 人間七七四年 2007/10/14(日) 10:06:19 ID:a4ZQBkjG
信玄の養子?

329: 人間七七四年 2007/10/14(日) 16:39:57 ID:SQ3uSno1
>>327
岩村城から人質として甲斐に送られたあと、一応、信玄の養子となったんでなかったっけ。
信長より、武田側に入った叔母の下で育ったようなもんだし、意外と割り切っていたりしてな・・・

330: 人間七七四年 2007/10/14(日) 22:49:11 ID:lkUt6sHd
>>329
叔母の元にいたのは1年くらいだけどな。
勝長が養子として岩村城に行ったのが元亀2年。
4~7歳くらいと言われている。
4歳ならまだ物心もそれほどついていないが7歳だと、昔の武士の子息はかなり躾けられているからどうかな?

人質になったのが元亀3年11月。
戻ってきたのが最近出てきた説では天正8年春くらいかもしれないという説もある。
ただ、その説の元になる史料の信憑性が疑問視されていて、その史料の傍証として、その説を唱えた論文中で引用されていた史料では天正9年11月以前に織田に戻ってきていると、明確に分かる史料がない。しかし、どちらにしても8~9年は武田にいた事になるからな。武田で武将として育てられたようなものだというのは、真実だな。

328: 人間七七四年 2007/10/14(日) 16:23:28 ID:lkUt6sHd
一応養子扱いだな。
大大名の子供の人質だから、そんなものだろう。
反目していても、いつまた同盟を結ぶか分からない時勢だからな。
その時点で対立勢力でも、手荒には扱わないよ。
戦時の捕虜というよりも、騙して攫ってきたようなものだしな。

武田攻めの時も、武田勢の何人かが勝長宛に助命の助力を請う書状をだしている。
その書状があるおかげで、天正10年時点で信房が正式名だとわかる。

引用元: ・織田勝長総合スレ




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