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1: ヌルハチ 2001/03/20(火) 22:55
ほんとに彼らの時代は良い時代だったのでしょうか?






375px-清_佚名_《清圣祖康熙皇帝朝服像》

康熙帝

康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝聖宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。



375px-Emperor_Yongzheng

雍正帝


中国、清の第五代皇帝(在位1722~1735)。康熙帝の第四子。廟号びようごうは世宗、諱いみなは胤禛いんしん。独裁政治を行い、官吏の綱紀を正し、軍機処を設置。地丁銀制を普及させ財政を充実。青海・チベットを討ち、清朝の基礎を築いた。


清_郎世宁绘《清高宗乾隆帝朝服像》


乾隆帝

[1711~1799]中国、清の第6代皇帝。名は弘暦。廟号は高宗。雍正帝の第4子。在位1735~1795。康熙帝・雍正帝に続く清朝の最盛期。外征を行い、西域を国土化したほか、チベットにまで帝国の版図を広げた。また、学術を奨励し、「明史」「四庫全書」など多くの欽定書を編纂させた。


3: 名無しのオプ 2001/03/22(木) 22:17
まあ、清朝の最盛期っていうのには間違いないと思うよ。
ただし康煕前半と乾隆末期は除く。

4: 世界@名無史さん 2001/03/22(木) 22:27
個人的には康煕帝の父で、愛情の深かった順治帝が好き。
顎皇貴妃との悲恋は胸をうつ。

5: 名無しのオプ 2001/03/22(木) 22:29
>>4
ちなみに董顎皇貴妃な。

11: あやめ 2001/03/24(土) 20:08
>>5
ちなみに「董顎」は「董鄂」が正しい字です。
なお「清史稿」では「棟鄂」に作っていますが、一般的には董小宛と混同されるくらいだから「董鄂」の方が通用してますけど。

6: 世界@名無史さん 2001/03/23(金) 01:12
中国の人たちにとって、いい時代だったと言えるでしょう。
少し前の、明朝末期がひどすぎたので、特に。

13: 名無し 2001/03/25(日) 03:17
雍正帝の帝位継承にも風聞があるよね。
康熙帝の遺言を改竄したとか。

14: あやめ 2001/03/25(日) 12:02
康熙帝の遺言を改竄したというのは原文に「皇位傳十四子胤禎」とあったのを「十」字を「于」に、「禎」字を「禛」に筆画を書き加えてしまったという話です。
しかし当時の書式では皇子をいきなり「十四子」と称することはなく、必ず「皇十四子」のように表記するはずなので「十」字だけ改竄しても意味をなさず、また当時の雍正帝の名は「胤禛」ではなかったので全く根拠のない妄説なんだそうです。

因みにこの康煕帝の遺詔の原件は北京の第一歴史トウ(木偏に當)案館に保存されてるそうです。序でながら雍正帝は衛某の妾が康煕帝に幸されて生んだのだとか、実父は年羹堯だとかいった怪しげな噂も伝えられています。

19: 名無しのオプ 2001/03/25(日) 17:09
>>14
ちなみに年羹尭の方が雍正帝より年下なので
年=雍正帝の父親説は成立しない。

20: あやめ 2001/03/25(日) 17:54
雍正帝の方が一つ上だったと思います。
因みに年羹堯は「児女英雄傳」の仇役の紀献唐のモデルとされている人物です。
紀=年・獻=羹・唐=堯という謎解きになってますが詳細は省略します。

18: 名無しのオプ 2001/03/25(日) 16:56
つーか、康熙帝の遺言は漢文なのか?
漢文じゃなく満州語で書かれていたなら、「皇十四子」云々は意味を為さないのでは?
そもそも康煕帝が遺言を文章で残すヒマあったの?
急死したんじゃなかたっけ?

23: あやめ 2001/03/25(日) 18:51
「聖祖實録」によれば康煕帝は康煕六十一年十一月七日に違和を覚え十三日戌刻に升遐されたので、暴崩の事態ではありません。十三日の崩御の直前くらいに皇子たちが呼び集められました。雍正帝が駆けつけた時点では誠親王・淳親王・アキナ(第八皇子)・サスヘ(第九皇子)・怡親王など7人と、理藩院尚書のロンゴドがいました。
その場で病床の康熙帝は皇四子つまり雍正帝が大統を継ぐべきことを一同に宣明したということです。このことは雍正帝本人が語っていることだそうですが、同席者が大勢立ち会ってるの上ですから満更うそは言ってないでしょう。
崩御の翌日にこのことは公にされたのですが、遺詔として頒布されたのは十六日です。もちろん王言ですから然るべき詞臣が苦心して立派な文章に作るので、満語の副本も作られるんでしょうが基本的に漢文であって、作文上のいろいろな制約というか書式に従わなくてはなりません。
その一つが「皇*子」という表現というわけです。言うまでもなく天子が親筆で遺詔を書くなんてことはあり得ません。

27: 名無しのオプ 2001/03/25(日) 21:04
>紀=年・獻=羹・唐=堯という謎解きになってますが

これは知らなかった。
あやめ、詳しいね。あと、アキナ・サスヘというのは宮崎先生の本ではたしか満洲語で犬・豚の意味だと思ったんだが、先生が何を根拠にしたのかが不明だったような。 ご存知?

34: あやめ 2001/03/26(月) 18:42
>>27
「清史稿」の「聖祖諸子傳」によると聖祖の皇八子は本名を允イ(示偏に異)と言い、雍正帝の即位直後に廉親王に封ぜられましたが、帝に疑われ雍正四年二月に王爵を削られ名を「阿其那」と改めさせられました。そして九月に病死しています皇九子は本名を允トウ(示偏に唐)と言い貝子に封じられていましたが、雍正三年に爵を奪われ翌年五月に「塞思黒」と改名させられ、八月に腹疾で死亡しています。
この阿其那と塞思黒が犬だ豚だというのですが、満語で犬はインダフンで豚はウルギヤンなので宮崎さんが何を根拠にしたか不明です。なお2人とも乾隆年間に原名と宗籍を復されました。

26: 世界@名無史さん 2001/03/25(日) 20:51
雍正帝って三人の皇帝の中では一番マイナーなんですよね。
乾隆帝の功績はほとんど父親が一生懸命国力を蓄えてくれたからですよ。
でも乾隆帝の方が世界史的に影響力を行使したのでそっちの方が持て囃される。
宮崎市定先生の本をよく読んだからですけど、私的に中国で一番えらい皇帝だと思います。

64: 名無しさん 2001/04/03(火) 02:46
乾隆帝が位を譲って上皇(?)になったのはなぜなの? 中国の歴代皇帝でも珍しくない?皇帝家業に嫌気がさした徽宗みたいなものかね?

65: 名無しのオプ 2001/04/04(水) 01:07
>>64
尊敬する祖父康熙帝の在位61年を越すのはおそれおおいとおもったのです。

66: 名無しのオプ 2001/04/04(水) 09:24
しかしながらそれを名目に、皇帝稼業にイヤケがさしたともおもわれ。

67: 名無し 2001/04/04(水) 20:55
>>64 
乾隆帝は自らの出自の秘密を知ったから。

68: 名無しのオプ 2001/04/05(木) 23:14
>>67
書剣恩仇録だっけ? 
書剣恩仇録

書剣恩仇録(しょけんおんきゅうろく)は、中国および中華圏で著名な小説家金庸の武俠小説の1つ。

物語は、18世紀、清朝が最盛期を迎えた乾隆年間の中国大陸を舞台に、満州族の清朝の乾隆帝が実は漢族であったという民間伝承(乾隆帝漢人説)と、伝説の美女香妃の逸話を絡めながら、滅満興漢を掲げて清朝に敵対する幇会紅花会と、ウイグル族による反清の悲壮な闘いを描いている。


72: 世界@名無史さん 2001/04/11(水) 11:37
乾隆帝が実は漢族だったってこと?
すごく漢族の思い上がりを感じる。

73: 世界@名無史さん 2001/04/11(水) 16:21
「書剣恩仇録」、おもしろいけど小説としてのスタイルが古いなあ。
水滸伝みたい。

74: かきつばた 2001/04/11(水) 22:31
乾隆帝70才の万寿盛典の折に、祝賀におとずれたパンチェンラマをチベット仏教の儀礼に基づき阿弥陀仏の化身として扱い、自身は文殊の化身として演出し、諸仏は「仏法」という真理の前には上下の関係はない、という理念を示すために同じ高さの座に座り、群臣や諸国の使臣に臣礼をとらせた。

「中華思想」からみれば大きな逸脱に該当する上記の次第は、儒教理念に脊髄まで染まっていた朝鮮使節の随員の一人が、悔しさのあまり明末の崇禎年号を用いて書いた『熱河日記』の「班禅始末」の一章に詳しい記事がある。

ふるまいからみれば乾隆帝は非常に「漢族」離れしてるね。

75: 名無しさん 2001/04/12(木) 08:04
>>74
石浜裕美子でも読んどけ。

76: かきつばた 2001/04/12(木) 20:11
>>75
元ネタが石浜裕美子さんです。

79: かきつばた 2001/04/13(金) 15:54
※出典の内容紹介
http://www.interq.or.jp/neptune/amba-omo/nlisihama.html#i-06-01

※著者本人による自著解説
 http://webclub.kcom.ne.jp/ma/yfukuda/ishihama/OurPublication5.html
>本書は、中国と関係を、チベット語、モンゴル語、満洲語の一次資料を縦横に駆使して描き出したものであり、これによって提示された関係像は従来の、「チベットは古から中国の一部であった」という例の珍説を論外なものとして斥け、一方「近代以前の中国とチベット・モンゴル・満洲の関係にはチベット仏教的価値観がベースにあった」という少数ながらも存在する良識派の「隔靴掻痒」の説をきちんと民族側の価値観にのっとって解析したものである。

88: 名無し 2001/04/15(日) 01:57
とりあえず文殊皇帝ってどういう意味?

90: ダライバートル 2001/04/15(日) 02:19
清朝の皇帝は満洲語では「マンジュシュリー・デルギ・アムバ・エジェン」、チベット語では「ジャムヤン・コンマ・タクポ・チェンボ」、モンゴル語でもこれらとパラレルに翻訳できる称号をなのりました。この略称「ジャムヤン・コンマ」を訳して「文殊皇帝」。

89: ダライバートル 2001/04/15(日) 02:15
1654-58に編纂されたダライラマ政権の法典では、清朝の皇帝は一つの時代ごとに出現する仏と一対になり、仏法によって世界を安寧に導く「転輪聖王」として描かれています。

儒教理念では「天子」は全人類の君主ですが、「転輪聖王」といえば経典でも君主の中の君主とされているので、チベット仏教思想を背景にした国際関係においても、清朝皇帝の地位は格別のものがあったといえます。

ただし「転輪聖王」は「仏」に奉仕して仏法を授けてもらうという立場なので、チベット仏教思想からみれば、ダライラマのほうが清朝皇帝よりも上位にくることになります。

93: 名無しのオプ 2001/04/15(日) 02:32
>>90
雲南・四川省あたりでは清朝皇帝のことをチベット語で呼んでいたのは本当ですか?

94: ダライバートル 2001/04/15(日) 17:24
>>93
雍正帝は1723-24年にグシハン一族を征服してチベットに対する支配権を接収し、支配民族のオイラト系モンゴル人と、彼らに貢納して所領を安堵されていたチベット人諸侯を、1725年に、ダライラマ領と、シナの「内地」各省に分属させました。

ダライラマ領は1642年にグシハンがヤルンツァンポ河流域を寄進したことによって成立しましが、この本来の領域に雍正帝による加増分を併せた範囲が「西藏」と呼ばれる地域です。「西藏」とは、チベットの西南部の3分の1ほどの面積をしめるダライラマ領に対する漢語の呼称です。

チベットの再編は次のように行われました。

旧ダライラマ領 + ホル三十九部 + カム西部 →→ 西藏

アムド地方 →→ 青海 * 甘粛南部 + 四川西北部
カム地方 →→ 四川西部 + 雲南西北部 + 西藏東部

チベットに対する中国の現行の行政区画は1725年のチベット再編の際の区画をほぼ踏襲したものになっています。

1725年以降の「雲南省・四川省」にはチベットの東南部が含まれており、そこのチベット人住民は、当然、清朝皇帝をチベット語で呼んだと思います。

95: 名無し 2001/04/15(日) 18:48
雍正帝って外征せずに内政ばかりしてたと思ったが、ちがうのね。
かれ自身は避暑山荘に行かず宮中内で政治に励んでいたらしい。まったくの中華皇帝。

96: 海勇者 2001/04/16(月) 16:33
>>まったくの中華皇帝。
漢人や、礼部を介して清朝とつき合っていた儒教圏の諸国にとってはね。

モンゴル人やチベット人からみれば、シナにかぶれた「転輪聖王」「文殊皇帝」。

98: 名無しさん 2001/04/17(火) 01:30
>>96
モンゴルやチベットは理藩院だっけ?

100: 海勇者 2001/04/17(火) 07:38
モンゴルは全面的に、そのとおりだけど、1725年以降のチベットは、ダライラマ領と青海三十旗が理藩院で、その他のチベット人諸侯は兵部です。

107: 名無しさん 2001/04/26(木) 03:39
康熙帝は若くして即位して、重臣の専横を経て、治世を行うようになった。そして三藩の乱・台湾征服・モンゴル遠征を経て、屈指の名君と呼ばれるようになった。
……本当ですか?

108: 名無し 2001/04/26(木) 04:03
>>107
台湾征服って、なんかヘン。要するに当時そこに立てこもって清朝に反抗していた鄭成功が降伏しただけでは。

109: 名無しさん 2001/04/26(木) 04:07
↑ いえ、康熙帝がやたら名君だって言われてる理由が知りたいのです。若くして即位した人間が簡単に偉業をいくつも成し遂げられますか?

110: 名無し 2001/04/26(木) 04:09
>>109
あなたの挙げた康熙帝の事跡は即位直後に達成したものではなく、
即位後数十年にわたって成し遂げたものです。べつに幼少で即位しても問題ないのでは。

111: 名無しさん 2001/04/26(木) 04:10
しかし、若くして即位した場合、重臣たちの傀儡とされて、成年後も重臣の影響から脱出できないのが世界史の法則なのではないでしょうか?

112: 名無し 2001/04/26(木) 04:13
>>107であなたが言ってるように、康熙帝は即位後に幅を利かせていた大臣クラスを粛清したんだよ。だから、みんなびびって康熙帝の言うことを聞くようになったの!

119: 名無しさん 2001/05/01(火) 22:55
康熙帝って、吉宗と同時代なんだね。

120: 世界@名無史さん 2001/05/02(水) 03:25
康熙帝 在位 1661-1722
徳川吉宗 将軍在職 1716-1745

ちょっとずれてる。
雍正期は吉宗の治世にすっぽりかぶってるけど。

123: 名無しさん 2001/05/17(木) 18:08
康熙帝と在位年代がほぼ重なるのは、フランスのルイ14世。

124: 名無しさん 2001/05/18(金) 18:36
この時代って、西南の少数民族にとってはどういう時代だったんだろう。

126: 名無しさん 2001/05/19(土) 01:35
>>124
雍正帝の時には貴州省や雲南省の少数民族の土司に対する改土帰流が行われているよね。
乾隆帝の時には四川省のチベット族の土司の一部が廃絶されているし、彼等の居住地には漢族の屯田兵が送りこまれている。

近年明清時代の西南の少数民族史に関する研究が日本でも盛んになってきており、その際にポイントとして改土帰流や漢族移民との関係があげられている。

個々の地域差を無視しておおざっぱな言い方をすれば、中華王朝や漢族の圧力が一段と強まっていく時代、ととらえられるかもしれない。

127: 124 2001/05/19(土) 02:48
>>126
レスどうもです。でも土司とか改土帰流って何ですか。

128: ダライバートル 2001/05/19(土) 04:22
「土司」
雍正帝が1725年にチベットのグシハン王朝を取りつぶしてチベット東部を「内地」に組み込んで隣接する各省に分配した(現在の青海全域・四川西半部・雲南西北部・甘粛西南部)とき、兵部を介して武官職の称号を授かって所領を安堵されることになった土着領主の総称。

貴州・雲南・湖南・広西・広東などに分布するタイ系民族の土着領主達も「土司」と呼ばれることがあるが、清朝の制度下では、正確には、吏部を介して文官職の称号を授かる「土官」という範疇に属し、「土司」とは別個である。

「改土帰流」
六部官制のオーソドックスな雇用形態は、官僚は、中央の命ずるまま数年置きに任地を転々とする。とりわけ出身地で地位につけない 「廻避」という原則があり、彼らを総称して「流官」と称する。これに対し、「少数」民族地区で中華王朝から文武官の称号を授かり世襲的に伝来の所領を統治する領主たちを「土司・土官」という。

「改土帰流」とは、土司・土官の所領を没収して流官を配置すること。漢人の移住がすすんで一定比率に達すると行われることが多かった。

129: 126 2001/05/19(土) 04:35
>>127
説明が足りなくてすみません。

土司というのは中華王朝の官職の一種です。中華王朝の官制には流官と土官の二つの種類があります。流官というのは科挙に合格した人間が就く官で、本籍地には任官できない、官職の世襲を許されない、というきまりがあります。これに対して土官の場合は本籍地での任官や、官職の世襲が認められました。土官は吏部に管轄される文官ですが、兵部に管轄される武官にも同じタイプの官がありましてこれを土司といいます。主に西南や西北の少数民族の有力者が任じられました。
これを東洋史では土司土官制度と呼びます。この制度が初めてできたのは元代で、明代に完成しました。

この土司や土官の支配地域では、王朝の律令は適用されず独自の法律の適用が認められるなど、土司土官による事実上の自治が行われていました。

まあ、独自の文化や政治制度を持ち、漢族地域と同じやりかたでは統治を受け入れ難い少数民族を上手く支配するためには都合の良い制度だったのです。

ところが、土司土官の支配地域が戦略的に重要になったとか、その地域で産する鉱物資源を開発する必要が生じたとか、その地域に対する支配を強化しなければならない場合には、土司土官を廃して中央から派遣した流官に交代させる事もありました。これが「改土帰流(土官を改め流官に帰す)」です。

130: 126 2001/05/19(土) 06:05
>>128
あっ、かぶってしまいました。
でもダライ・バートルさんの解説の方がより専門的で、そちらの方が良いですね。

ただ、細かい話になりますが、
>>貴州・雲南・湖南・広西・広東などに分布するタイ系民族の土着領主達も「土司」と呼ばれることがあるが、清朝の制度下では、正確には、吏部を介して文官職の称号を授かる「土官」という範疇に属し、「土司」とは別個である。

という箇所は疑問です。今、手元には光緒『清会典』しかありませんが、それを参照したところ、巻四十五に記載されている兵部管轄の土司の中に、雲南のタイ族系の土司が含まれていました。また同書の吏部に関する部分を見てみたところ、土司を管轄するという記事はありませんでした。土司土官の分布ははっきりと区分できるものではないと思います。

また、
>>「土司」
雍正帝が1725年にチベットのグシハン王朝を取りつぶしてチベット東部を「内地」に組み込んで隣接する各省に分配した(現在の青海全域・四川西半部・雲南西北部・甘粛西南部)とき、兵部を介して武官職の称号を授かって所領を安堵されることになった土着領主の総称。


という説明も、その通りとは思いますが、少し不十分だと思います。これでは土司職が1725年以後のチベット族という限られた対象にしか与えられなかった印象があります。実際は土司土官制度は元代に始まり明代に完成したもので、土司職も1725年以前から様々な民族に与えられています。例えば、井上祐美子さんの小説「女将軍伝」の主人公で、明末に土家族兵を率いて北京の警備等を行ったりした秦良玉は、土司職である石チュウ(石+主)宣撫使の職務を代行していました。

132: ダライバートル 2001/05/20(日) 11:05
>>130 =126
>今、手元には光緒『清会典』しかありませんが、それを参照したところ、 巻四十五に記載されている兵部管轄の土司の中に、雲南のタイ族系の土司が含まれていました。また同書の>吏部に関する部分を見てみたところ、土司を管轄するという記事はありませんでした。

私の情報源と、その記載内容を紹介します。

『清国行政法』巻1-下のpp.63-64より、まず土官の解説です(ただし漢字は常用漢字に改め、適宜句読点や読み仮名をおぎなった)。

************
広西・四川・雲南ノ諸省ノ或部分ニハ古昔ヨリ苗子及其他ノ原始種族の棲息スルモノ甚多ク到底一般行政制度ヲ此地ニ行フヘカラザルヲ以テ明ノ遺制ニ沿ヒ分チテ土州県ト為シ該族中ノ酋長タリシ者ノ子孫ヲシテ知府州県ノ職ヲ世襲セシメ名付ケテ土知州・土知県ト為ス。茲(ここ)ニ土官ト云フハ即チ是レナリ。而シテ土官モ亦文官タルノ故ヲ以テ其襲職ノ事ハ吏部験封清吏司ノ管轄ニ帰シ該官死亡シタルトキハ督撫ヨリ其嫡子ニ命ジテ権(かり)ニ事務ヲ摂セシメ半年内ニ宗族及隣境土官ノ証明書ニ吏部ヨリ予(あらかじ)メ下付セラレタル号紙即チ職銜世系及承襲ノ年月ヲ記入スルモノヲ添ヘテ差出サシメ督撫之ヲ吏部ニ転送シ吏部ニ於テ審議ノ上該摂事者ニ承襲ヲ命スルモノトス。若(も)シ一族中ニ相続スベキ者ナキトキハ妻若シクハ女婿ニシテ土地ノ信用ヲ得タル者ヲシテ之ヲ襲(つ)カシメ又相続者尚ホ幼ナルトキハ督撫ヨリ部ニ照会シ本族中ヨリ人ヲ選ヒテ一時代理セシメ其十五歳ニ達スルヲ待チテ承襲セシムルモノトス。又土官ニハ州同県丞等ノ補助官アリテ其所管事務ヲ補助ス。此等補助官ノ任免ハ一般官吏銓叙ノ規定ニ依ルモノヽ如シ。(後略)

133: ダライバートル 2001/05/20(日) 11:07
同じく土司の解説(前掲書pp.64-65)
**********************
甘粛・四川・広西・雲南・貴州等ニ於ケル蛮族ノ酋長ニシテ国初ヨリ部族ヲ率ヰテ降リ戦陣ニ従ヒテ功アリシ者ニハ世襲シテ其ノ部落ヲ治メシメ称シテ土司ト云ヘリ。畢竟懐柔ノ方便ニ出ツルモノトス。其世襲タル点ニ於テハ土官ト異ナルコトナシト雖モ土官ハ文官タルニ反シ土司ハ武官として取扱ハル。故ニ会典其他ノ書ニモ兵部ノ條項中ニ入レ襲職ノ手続モ兵部武選司ノ掌ル所ト為レリ。又土官ハ一ノ行政官庁タルニ反シ土司ハ自ラ其ノ蕃民ヲ治ムルニ止マリ或ル地方ニ在リテハ銭糧及貢者ヲ上(たてまつ)ルノ外其他ノ事務ハ所在ノ府若クハ州県庁ノ管轄ヲ受クルヲ以テ一ノ官庁トシテ記述スヘキ価値殆ト之ナシ。唯其品秩ヨリ云フトキハ土官ノ官位低キカ如クナラス、指揮使、宣慰司等ノ大名ヲ有シ三品乃至五品ノ官位ヲ受クルコトヲ得。其ノ補助官トシテハ同知、せん(験から馬を取る)使、せん(同)事アリ。又品秩ノ稍下リ一部落ノ長トシテ蕃民ヲ治ムルニ過ギサル者ニハ千戸、副千戸、長官司長官、副長、長官司吏目等アリ。

********

清国官制の入門書としてありふれた本ですから、県立図書館クラスの公立図書館または中国文学や東洋史の専攻が設置されている大学の図書館なら、まず備え付けていると思います。会典のほうが典拠として上ではありますが、簡潔に清制を概観できるのが、便利です。
>>130 =126
> これでは土司職が1725年以後のチベット族という限られた対象にしか与えられなかった印象があります。実際は土司土官制度元代に始まり明代に完成したもので、土司職も1725年以前から様々な民族に与えられています。

私の視点がチベットから周囲を見渡すので、>>128 のような記述になりましたが、ご指摘のとおりです(チベット人諸侯に限っていえば、清のもとではみな「土司」を受け、「土官」職はうけなかった、ということです)。

131: 名無しさん 2001/05/20(日) 03:43
少しずれた質問ですみません。

グシハン王朝を雍正帝が滅ぼしたことはわかりましたが、康煕帝との関係はどのようだったのでしょうか。

康煕帝はジュンガル遠征を行いましたが、その時に青海・西藏・西康を支配しているグシハン王朝って結構重要になってきますよね?

中国史に興味のある方にはあまり関係無い話題ですみませんが、周辺諸民族からみた清朝っていうのも面白いテーマじゃないかと思いまして。

134: 世界@名無史さん 2001/05/20(日) 11:08
>>131
> グシハン王朝を雍正帝が滅ぼしたことはわかりましたが、康煕帝との関係はどのようだったのでしょうか。


グシハン王朝に対する康煕帝の姿勢は、「危機に陥った朝貢国を救援する」というもので一貫していました。近世チベット史の専門家(石濱裕美子・手塚利彰)の研究によれば、ダライラマ六世の廃位(1706)を巡ってグシハン一族は分裂、チベット=ハンのラサンに反発する一派はジュンガルと同盟し、1717年にラサを奇襲させます。ラサンは戦死、皇子たちは捕虜としてイリへ拉致され、グシハンの嫡系はチベットから消え去りました。

ラサンの要請によって清朝が介入すると、反ラサン派はジュンガルを裏切って清朝軍とともに中央チベットに進撃、ジュンガル軍は6000の兵力の半数を失って中央チベットから撤退しました。

1720年秋、康煕帝は、ラサに参集したグシハン朝の傍系皇族たちに、ハン位の継承候補者を選出するよう要請、傍系皇族はロブサンダンジン(グシハンの十子タシバートルの子d)を選出しました。ただしこの候補選出をしきったのは反ラサン派の連中で、嫡系一族のアラブタンワンボ(ラサンの父・第3代ダライハンの兄弟)を脅迫して辞退させるなど、無理な工作を行ったので、ロブサンダンジンのハン位継承には、カンチェンネー(ラサンの重臣で、捕虜としてイリに護送される途中で脱走し、3000人のゲリラ軍を組織してガリ地方からツァン地方にかけてのジュンガル軍を一層)らラサンの遺臣たちから激烈な反対運動がおこりました。

康煕帝はこの様子をみて、ロブサンダンジンを新たなチベット=ハンに冊封することなく、チベットに派遣した軍隊や官僚を撤退させました。ロブサンダンジンはそのままラサで放置され、なにも得るものないまま1722年に青海へひきあげました。

反ラサン派内部の密約では、青海における一族の旗頭だったロブサンダンジンが、ハン位の継承にともない、その地位をチャガンダンジン(これも反ラサン派)に譲ることになってしまいましたが、あてが外れて帰還したロブサンダンジンはチャガンダンジンと衝突しはじめます。

雍正帝は、この衝突を「清朝に対する反乱」だときめつけ、グシハン一族のチベット支配の排除に乗り出す口実としたわけです。


引用元: ・★★★★康煕帝・雍正帝・乾隆帝★★★★



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