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1: 日本@名無史さん 2016/04/29(金) 02:00:43.67
仮に九州北部を落とされても南部まで元軍が攻め込めるとは思えないし、ましてや京都や鎌倉まで進撃して落とせるとは到底思えないんだが…








3: 日本@名無史さん 2016/04/29(金) 16:09:30.95
中東やヨーロッパの連中もそう思ってたじゃないかな

5: 日本@名無史さん 2016/05/01(日) 20:12:06.10
当時の技術で日本海超えて数万の大軍を運用するのは、正直厳しかったと思うよ
皆が喧伝するほどヤバい脅威ではなかったと俺も思う
でも、戦いはやってみないと分からないからねー
北九州に上手く橋頭保を築いて、本土を侵略できた可能性もゼロではなかったと思う
ただ、それにはもっと入念な準備と離反工作が必要だっただろうね

7: 名無しの権兵衛 2016/05/01(日) 23:34:41.64
半分以上が高麗人じゃし、言葉が通じんかったやろうのう。

8: 日本@名無史さん 2016/05/04(水) 18:58:02.93
近代以前の国家は国民同士全然言葉が通じないのが普通だが
中国とか未だに省が違えば通訳がいるし文法すら違う

10: 日本@名無史さん 2016/05/05(木) 20:18:21.51
少なくとも対馬、壱岐、伊万里、博多方面はこっぴどくやられているようだが

11: 日本@名無史さん 2016/05/07(土) 13:07:38.77
正規のモンゴル軍(モンゴル人による騎馬軍)は当時ユーラシア大陸最強だったけど、完全に陸軍だしな
どのくらいの規模の正規軍が船に乗ってたのか知らないけど、海を渡っての上陸作戦に対応できる軍隊だったか疑問
仮に上陸地を占領できて陸戦用に兵を整えても、平原などほとんど無い日本の地形で、モンゴル流の騎馬集団戦法が可能だったかも疑問

結局日本側が過剰にビビって講和などしない限り、モンゴル側は占領地を拡大できずあきらめて帰るしかなかったんじゃないのか

12: 日本@名無史さん 2016/05/08(日) 23:46:56.96
馬を船で運ぶのも大変だろうな。
得意の騎馬戦術は無理じゃない?
そもそも海を渡ってきた兵士は、モンゴル族ではなく、漢民族とか朝鮮族じゃないの?

14: 日本@名無史さん 2016/05/09(月) 14:20:23.93
船で山陰の港につけられたら京なんか目前だろ

15: 日本@名無史さん 2016/05/09(月) 15:00:51.68
元がなぜ博多以外に上陸して来なかったか知らんが、日本側も博多に再度来ると確信して防塁を築いた
確信にたる合理的な理由があったのだろう

たとえば元側は博多以外の海図や地理の情報を持ってなかったとか
元側は5000艘の、いい加減な船の大群
暗礁とかの情報が無い海域は怖くて通行できないだろう
上陸できても5000艘停泊できるのか
補給線の問題も
持って来た食料が尽きたら、15万の将兵の食料だけで毎日大陸と日本列島の間に運搬船を走らす必要があり、よく知らない海域で可能なのか

16: 日本@名無史さん 2016/05/09(月) 15:53:36.79
鋤釜も積んで移民も居たらしいし

17: 日本@名無史さん 2016/05/09(月) 16:43:14.95
移民がいたって自給できるようになるのに最低1年はかかるだろ
常識的に考えれば数年以上かかる

略奪はモンゴルの常套手段だが、15万人の胃袋を満たすためには略奪だけでは不足する

どっちにしても本国からの補給は必要

大軍勢がどこでも上陸して制圧できるなら、元以前に日本は中国に侵略されてとっくに属国化していたろうな

21: 日本@名無史さん 2016/05/11(水) 10:00:39.54
>鋤釜も積んで移民も居たらしいし

そりゃ飯炊きの道具くらいは積むわ
それに鋤なら文禄慶長の役の日本側も築城の道具に使ってるから
何も農具として使うためだったかは実のところわからないんじゃないか

20: 日本@名無史さん 2016/05/11(水) 03:21:23.62
>>1
先日読んだ本 「兵器と戦術の日本史」金子常規著 中公文庫
第四章 突撃騎兵と矛歩兵衝突す-元寇

著者は陸軍士官学校卒 元自衛隊幹部学校戦術教官、特科群長、富士特科副部長
参考になると思われ、横入りゴメン

22: 日本@名無史さん 2016/05/11(水) 11:07:29.71
金子氏の結論から言うと元軍は鷹島を陸上基地として伊万里湾から上陸
西進して佐賀平野を横切り背後から大宰府へ突入、博多湾に面して構える
日本武士団を背後から襲う奇襲作戦を計画していただろうというからまじでやばかった
元側の糧食はあと2箇月分しかないので当然住民を皆殺しにして秋の稲の収穫期に間に合わせるしかなかったと思われ
平戸、伊万里方面の武士は皆博多方面に出撃していて手薄だったそうな 

19: 日本@名無史さん 2016/05/10(火) 14:44:29.11
北条氏という強力な政権が無かったら、元軍に対抗できなかったんじゃないかな

24: 日本@名無史さん 2016/05/11(水) 22:25:35.07
元軍がまともに上陸もできず大苦戦していた時に、日本側はさらなる援軍6万が本州から九州へ向かっていた
幕府の、御家人運用能力は見事としか言いようがない

25: 日本@名無史さん 2016/05/20(金) 22:40:28.43
元寇で渡ってきて台風で帰れんくなって日の本に定住した渡来人っておったん?
なんかの先端技術を伝えてくれたんかな?(・ω・)

29: 日本@名無史さん 2016/05/24(火) 21:43:13.45
>>25
そういう人の墓が結構意外なところに残っていたりするんだぜ
地元の歴史の本で石碑なんか調べてみると発見があるかもよ

26: 日本@名無史さん 2016/05/23(月) 07:24:35.73
普通に考えたら、福岡に上陸して砦と補給港を建設して東へ侵攻する。
山陽道・瀬戸内海を通って京を攻略、ついで東海道を進軍して鎌倉攻めになるだろうが、
進軍してる間に東国の武士団が十分な迎撃体制を整えてくる。
それでも兵の数は元が上だろうが、日本は地の利でゲリラやり放題。10万の兵もボロボロになるはず。
兵站も問題で鎌倉まで行ってたら本国(海上輸送)どころか博多からの補給線も維持が難しい。
本国も多方面作戦で簡単には増援を送れない。結局大軍は孤立していずれ掃討される。
日本は負けることは無いだろうが、国土ボロボロになって鎌倉幕府の滅亡は早まるかも。

27: 日本@名無史さん 2016/05/24(火) 17:23:52.37
福岡に橋頭堡築かれたら、九州、中国地方の武士団と住民が逐次虐殺され、日本側は京や鎌倉を奪われずとも幕府の求心力は低下、不利な条件で講和を結んでしまうかも

28: 日本@名無史さん 2016/05/24(火) 18:38:23.01
おそらく元が安全な輸送ルートを確立したら勝てないだろう。
開けた土地なら元の本来の戦いが出来る。日本の地形自体は多少は元に不利に働くだろうけど水際で後退余地のない、さらに防塁すらあるところでの上陸戦は元軍が最も苦手な戦いだからね。
史実の戦い方で日本が敗北したら後は無かったと思うよ。

モンゴル軍がボロ負けするのは大体逃げられない状態に置かれてすり潰すように猛攻を受けたとき。
軽装騎兵だから機動力を生かせない状態だと結構押し負けるんだよね。

33: 日本@名無史さん 2016/05/28(土) 16:55:03.32
元に海上補給能力があるなら、弘安の役の東路軍が
「三か月分持ってきた食糧があと一か月分・・」
なんて悩まなかっただろうよ。

34: 日本@名無史さん 2016/05/28(土) 21:54:46.75
とは言っても、5000艘の船で襲来できるんだから、食料だって運べるだろう

36: 日本@名無史さん 2016/05/29(日) 17:36:44.61
>>34
船を使う必要のない日本国内の戦だって兵糧が尽きることはしょっちゅうだったんだが

35: 日本@名無史さん 2016/05/29(日) 09:54:19.45
その南宋から来る船団が、東路軍の食糧の目当てだったわけだ。
つまり、朝鮮半島経由の補給能力はなかった。

このことは文永の役にもあてはまる。

38: 日本@名無史さん 2016/05/30(月) 14:30:59.43
そもそも
ノルマンディー上陸時の徹底調査どころか、まともな地図や海図も無い時代
無線もGPSもない
土地の海賊に道案内させるどころか恨みをかってしまった

未知の土地に漂着したら味方と連絡もとれないし向かう方向も不明
まして背後から奇襲云々など無理過ぎ

既知の確立したルートから押すしかない

40: 日本@名無史さん 2016/05/30(月) 14:59:11.01
なぜ、朝鮮半島経由の補給能力がないか。
舟の建造も、食糧の蓄積も、遠征軍に持たせてやるだけでいっぱいいっぱいだったからだ。

弘安の役で東路軍が早めに出発してしまったのも、住民と食糧の取りあいになるのを恐れたからだという説もある。

39: 日本@名無史さん 2016/05/30(月) 14:56:46.98
元の渡海侵攻といえば、ジャワ島、三別抄の他に
アイヌが渡海して、大陸のニヴフを侵略し、略奪や拉致などしてたから被害者ニヴフのケツ持ちである大元皇帝がアイヌの侵略行為に対して何回か懲罰的遠征を行った、北からの元寇もある

(好戦的なアイヌ諸民族相手には元も結構苦戦)

そこらより格段に大規模な侵攻だし、「鎌倉軍事政権」でなければ長引いたかも
例は、刀伊の入冦の略奪軍約50隻(約3,000名)に苦戦した平安時代の体制などね

ただ実際は、戦略的にも戦術的にも日本が圧倒的優位の戦だった
主力の弓でも鎧でも日本の武士が勝っていた
no title

42: 日本@名無史さん 2016/05/31(火) 21:07:08.92
>>39
この絵は現在の絵詞のなかの配置がおかしいと思う。
これは竹崎季長勢が、赤坂から敗走する大勢と小勢の敵軍のうち小勢のほうを追いかけたけど取り逃がした、という記述に対応する絵だ。
その証拠に、背景に赤坂の松山が描いてある。

だからこの蒙古軍の一隊は三井資長ただ一騎にやられて敗走しているのではなく、もともと菊池勢にやられて赤坂から撤退しているところだ。それを三井資長が一騎で追いかけている。このとき季長は馬を干潟にはせ倒しているから追撃に加わっていない。

44: 日本@名無史さん 2016/06/01(水) 05:53:21.55
>>42
竹崎季長って、領地持ってないと聞くが、軍勢なんか養えるの?

46: 日本@名無史さん 2016/06/01(水) 09:40:40.79
>>44
軍勢と言ったって、たった郎党3人だからね。
三井資長は親戚からの加勢。

58: 日本@名無史さん 2016/06/04(土) 16:44:14.99
「太平記」より、当時の国際港である敦賀も武士で固めていた

> 此企兼てより吾朝に聞へしかば、其用意を致せとて、 四国・九州の兵は筑紫の博多に馳集り、 山陽・山陰の勢は帝都に馳参る。  東山道・北陸道の兵は、越前敦賀の津をぞ堅めける。

ただ当時の操船技術では、偏西風と海流に逆らう帰路が非常に困難だし海のプロの海賊ですら敦賀などあまり攻めないのに

大軍勢を片道切符の長期航海で放り込む、なんてアホ作戦はしなかった
某記事

> 越前国敦賀港も国際貿易港でしたが、敦賀への往路は対馬海流に乗って楽に行けるのですが、復路が逆流になるので陸沿いを進まねばならず大変でした。

59: 日本@名無史さん 2016/06/12(日) 23:33:46.65
海賊は水が腐らないよう酒飲んでたって話だが
東アジアではどんな工夫してたのか

61: 日本@名無史さん 2016/06/16(木) 21:48:22.28
だから汲水小舟三百てのがあるんだろ

62: 日本@名無史さん 2016/06/19(日) 18:50:47.72
アルコールは水の代用にならないけどな

酒飲むと、逆に脱水状態になる

66: 日本@名無史さん 2016/09/01(木) 14:39:18.29
モンゴル軍の馬 VS 日本軍の馬

タブン・トルゴイ遺跡、ツァガーン・チュルト遺跡から出土したモンゴル帝国時代の馬(9例)の推定体高
最小120.2cm 最大134.0cm 平均127.7cm

材木座遺跡から出土した鎌倉時代の馬(38例)の推定体高
最小109cm 最大140cm 平均129.5cm

72: 日本@名無史さん 2017/09/23(土) 17:10:44.31
何でフビライは博多に固執したのか

73: 日本@名無史さん 2017/09/23(土) 22:34:14.87
時間かかっても戦略的要所を攻略するのがモンゴルのやり方なんだろ。
南宋戦での襄陽・樊城に対する固執ぶりだって凄いし。

引用元: ・元冦って言うほどヤバかったの?



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