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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/05/31(火) 19:42:54.13 ID:eUor6Vhp0
語り合おうぜよ!!






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武市 瑞山


武市 瑞山(たけち ずいざん、文政12年9月27日(1829年10月24日) - 慶応元年閏5月11日(1865年7月3日))は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。

優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。





193: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/28(火) 16:25:54.43 ID:Jz3o2PZtO
あれだけの人望・カリスマ性を持った武市だからこそ、あれだけ多くの有志が武市の下に集結し、武市に感化されていった。武市の存在が無かったら、龍馬や中岡ら多くの土佐系志士の活躍と土佐藩の明治維新への貢献は無かったろう。
明治維新と言う結果から逆算して考えると、これが武市の果たした一番の歴史的役割。
戦後民主主義下のヒーローである坂本龍馬と勤王・攘夷思想の間に距離を置かせたがる者が現代には多いせいもあってか、こういった「土佐の吉田松陰」的な歴史的役割は、意外に周知されてない気がするが。

194: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/28(火) 17:24:30.51 ID:MdrJ+tvD0
松陰の影響力は長州藩に留まってないしなあ。
ちょっと武市さんを持ち上げすぎでしょ。
久坂レベルの人なのに。

214: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/29(水) 01:13:45.72 ID:AJHr2WDM0
>>194
というか武市は松蔭より上だよ
松蔭は思想家としては先進的だったけど、武市の様に実現に持っていく統率力や政治力はなかった
松蔭はあくまで先駆者ではあったが単騎駆けの志士として死んだ
久坂自体20代前半で長州尊攘派の若手リーダーになり長州の藩論を覆して尊攘論に持って行ってる
そもそも松蔭から久坂が若手のナンバー1といわれてますがな
松蔭ら先駆者の志士の単なる個人レベルの思想や志士活動レベルを藩外や藩レベル、大組織レベルまで実現化して持ってったのは武市や久坂ですがな

229: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/29(水) 22:19:07.80 ID:R3DZJOu90
攘夷の朝議を覆そうと目論んだ一橋慶喜の上洛計画を青蓮院宮を口説いて潰したり、江戸では勅使に対する幕府の返答を朝廷優位な内容に改めさせた事とかも武市の大きな働きだと思うが、あんまり語られないな。

232: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/29(水) 22:59:25.52 ID:U4sFBFee0
ここって勤王党のスレなのに武市と以蔵ばっかりだな。
もっと吉村虎太郎や海陸援隊、新おこぜ組、堺事件、迅衝隊なんかの幕末土佐全般の話もすればいいのに
中岡慎太郎のスレないからここでもいいよね
生まれ故郷の北川村はファンはもちろん、ファンじゃなくても中岡慎太郎が好きになる場所だな。
田野学館は結構な遠さなのに毎日徒歩で通っていたとは恐れ入る。
二十三士の墓や処刑場には胸が熱くなった。

237: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/30(木) 00:07:19.64 ID:HumxePHU0
>>232
吉村虎太郎は山本喜三之進・大石団蔵と一緒に瑞山の書簡を久坂に届けるため萩まで出向いてたな。
萩は今でも史跡を保存していて見事なもんだが、高知の方はあまり史跡を大事にしないらしいね。
坂本家代々の墓地も宅地開発業者の手が入ってかなり揉めたそうな。なんだかなあ…。
瑞山宅周辺は今でも当時の面影を残していると誉められていた。

大石団蔵は知ってる人は知ってると思うが、山本喜三之進も天誅に参加し、捕縛後拷問されるも耐え抜いて永牢処分、維新後まで生き抜いたクチだ。
勤王党関係者だけでもかなりの数がいるからなかなか研究が進まないのかもしれん。

238: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/30(木) 00:23:45.26 ID:01h8oLLG0
瑞山宅と言えば、どこの記事だったかは忘れたけど切腹した武市の遺体が葬儀のために吹井村に帰ってきた時、村人が一斉に列を作って出迎えたと言う話に感動した。
政治犯として葬られた武市にここまで敬意を表すなんて、なかなかやりにくい事だっただろうに。
人望を伺わせるエピソードに関しては事欠かないな、武市は。

240: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/30(木) 00:31:03.79 ID:OiE8igyv0
>>238 
吹井に葬るための葬式の列が何キロにもわたっていたという話だっけ?
大石団蔵は土佐の家老暗殺者から薩摩の英国留学生、その後は出世もせず、土佐にも帰らず
鹿児島で死ぬというかなり複雑な人生だとは思うけどな。

243: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/30(木) 12:24:54.15 ID:X4CJvJXRO
>>238
武市先生人望と人柄に関してはほぼ百点満点だよね。
まず投獄後牢番が全面協力ってのが凄いって思ったわ。牢番が番してないものw
非番でもわざわざお見舞い来たりしてたし。

土佐勤王党の行動をより的確に理解するためには関ヶ原の戦い以降の土佐藩独特の事情を知る必要があるよね。
土佐藩の本読んでみようかな。そういう書き方してるみたいだし。

242: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/30(木) 10:56:21.49 ID:PS8y9B7I0
土佐だけを取り上げているものを除いて、幕末を扱った学術書で、武市のことを大きく取り上げているものは皆無に近いよ。志士30人の中に入るかどうかというレベル。
優れた人間ではあったが、暗殺に絡んでしまって、身を持ち崩したという評価。

244: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/06/30(木) 15:11:37.00 ID:LNYUE2MrO
>>242
名将の決断だかなんだかで、頼朝と一緒に扱われていたみたいだけど、そこでも負け組として扱われてるようだし、やっぱり似たような評価しかされてないんだろうな
別な歴史系ムックでも、以蔵と一緒に天誅で京都を恐怖に染め上げたテロリスト的な書かれ方しかされてないみたいだし
本当は人柄が良く人望が有ったのにも関わらず、一般的なイメージは残念な人、危険思想の悪役でしかないってのがもうね…

249: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/01(金) 00:46:06.58 ID:uAG3bZbK0

久松喜代馬(武市瑞山らと同日に処刑)
五十嵐文吉(維新後もボチボチ長生き)
野老山吾吉郎(池田屋事件で負傷し逃亡するも長州藩邸前で力尽き切腹)
土居佐之助(大和義挙で捕縛・刑死)

田内衛吉らと同じ真宗寺山の墓所に眠る志士達だがこうしてまとめてみるとまるでバラバラな生き様だなあ。
当時も家によって宗派とか違ってたりするのかね?

251: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/01(金) 08:09:52.23 ID:bEWRuZfLO
バラバラに行動して次々に死んでいってしまう。
武市先生を筆頭に、彼らが志に掛けた気持ちの純粋さを思うと切ない。
命を惜しまず土壇場で潔く切腹しちゃったりするし。
池田屋事件で死んだ人は長州藩邸まで逃がれたのを桂小五郎の判断で締め出された、って説もあるんだっけ?
これは別の人だったかな

258: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/02(土) 22:33:30.65 ID:7wlcEmT70
瑞山の慰霊祭とか関連式典には県の偉いさんも出席してるそうだし、立派に顕彰されている。勤王党員多しといえども子孫が肩身が狭いと言っていたのは岡田以蔵くらいのもんだろう。
それにはまた別の事情もあるが…まあ以蔵の話はよしとこうか。

土佐の歴史研究といっても古代から近代までテーマは色々あるわけで、松岡司も自由民権運動から志士に興味を持ったといってたからなあ。この話は知らなかったので意外だった。個人的には大石円の人となりが気になるな…。
龍馬物は龍馬死亡で終わるからその後が扱われることはほぼ無いのが残念だ。
彼らの連携は繋がっている。そういう繋がりの連鎖こそがドラマティックだと思う。

268: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/04(月) 17:43:33.55 ID:QqLRjrpAO
>>258
歴史小説の岡田以蔵は性欲の権化だったり人斬って射精する変質者だったりと異常な快楽殺人鬼って描写が多かったからな。
またある種の「惨めさ」の象徴という扱い方でもあった。
子孫はそんな創作にいちいち目を通していないだろうが汚れたイメージは漠然とあったんだろう。
岡田のやらかした事はフォロー不可能だが子孫のイメージ挽回したい気持ちは分かる気がする。

269: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/04(月) 18:42:47.98 ID:mdXAbG3C0

「島村衛吉関係史料集」が南国市教育委員会事務局 生涯学習課から発売中。
http://www.city.nankoku.kochi.jp/life/life_dtl.php?hdnKey=1140
衛吉も立派な石碑が立ってるんだってね。
「確固たる信念のもと、度重なる拷問にも、口を緘して語らず遂に血を吐いて節に殉じた」という…。
中岡慎太郎も島村衛吉と交流あるんだっけ。
中岡が少年時代に通っていた塾の先生の島村策吾が、武市さんの方の島村家の親戚に当たるみたいだけど。

島村 衛吉

島村 衛吉(しまむら えきち、天保5年10月(1834年)[注釈 1] - 元治2年3月23日(1865年4月18日))は幕末の土佐藩士。文久元年(1861年)、武市瑞山の土佐勤王党結成に加わり、瑞山とともに各地を巡って土佐に帰国。

文久2年(1862年)には吉田東洋暗殺に関与し、同年に藩主・山内豊範に従って上京した後は、本間精一郎や目明し文吉の暗殺に加わったという。同年の勅使江戸下向では、三条実美の護衛を務めた。しかし文久3年(1863年)、八月十八日の政変によって土佐勤王党への弾圧が始まると間もなく捕えられて入獄。元治2年(1865年)、度重なる拷問によって死亡した。


274: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/06(水) 23:07:05.01 ID:8jfRiRtAO
>>269
衛吉の死に様は酷いとしか言いようがない。獄中死って…
衛吉も呻き声と断末魔を聞かされた武市さん達も本当に気の毒だよ。

島村衛吉も龍馬の親戚なんだよね。
武市さんと龍馬が親戚っていうより島村家が龍馬と血縁関係。

281: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/07(木) 19:54:06.24 ID:GN8AGV8IO
>>269
島村策吾でググッたらこの人も中岡を教育した人物という事で?顕彰碑があるみたい。
田中光顕達以外に高知県東部地方も顕彰に熱心なようだね。

以蔵のせいで島村衛吉はじめその他の仲間が死んだ以上、武市さんと同じく龍馬も以蔵の事許せなかったと思うけどね。身内なんだし。龍馬も厳しい所は厳しいよ。
海援隊士の回顧録に龍馬が違反者を斬り殺した話も伝わってる。
どうも以蔵オタには武市さんと正反対の龍馬なら以蔵を助けてくれる筈!みたいな幻想があるようだけど、実際に以蔵が身を持ち崩して借金しだすようになったのは武市さんの監督下を離れた後、時系列的に龍馬にも見捨てられてなきゃ浮浪者になってない。

275: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/07(木) 00:55:17.96 ID:+yEPWy3q0
島村衛吉は苛烈な最期で血の気の多いイメージがあるが学識はどんなもんだったのかね。
岡本寧浦と徳永千規に学んだとあるからそれなりの人物だったと思うが。
瑞山とは徳永千規と麻田勘吉道場で同門になるから縁戚関係抜いても相当親しかったと思われる。

277: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/07(木) 09:01:21.83 ID:nYaN6B4+O
領袖の武市が切腹、自白者4名が斬首になる中、他の勤王党員は永牢等の処置が下っているが、江戸時代の刑罰には永牢(今で言う無期懲役・禁錮か?)なんて正式には存在しなかったよな?

288: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/11(月) 02:00:06.21 ID:pKz7yiYl0
>>277
有名人でいうと高野長英なんかも永牢処分じゃなかったか。
たしかに永牢は政治犯とか特殊なケースの人が多いと思うけどね。
ちょっと前まで幕府を批判しただけで捕まったり処刑されたりする時代だったのに武市先生達はバリバリ批判してたからなー。
時勢の変化で簡単に殺されることは覚悟の上だったろう。
事実安政の大獄で志士が大弾圧受けた直後に活躍してた訳だし。
土佐の志士が殺気立ってた理由の一つに、この安政の大獄に絡んで水戸浪士達と似たような主君の境遇への義憤があったと思われる。

278: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/07(木) 09:36:53.13 ID:OSzGa3UHO
東洋暗殺で権力手に入れた味をしめて、京都で馬鹿みたいに暗殺繰り返した武市は信頼失って殺されても当たり前なのにここの連中は美化しすぎ。
武市なんて志士達から天誅されてもおかしくない権力しか頭に無いクズなのに(しかもそのためなら手段選ばない最低さという…救えない)

283: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/08(金) 23:59:17.10 ID:dQaX8uhh0
最初はそんなイメージなかったけど
調べていくうちに武市先生って純粋な人だったんだな~と史料に触れると感じさせられる。
土佐人自体素直な人が多いっていわれてるけどw
国学思想に関しては鹿持雅澄の薫陶を受けてるんだろうけど性格傾向は生まれついてのものだったのかねえ。

296: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/14(木) 13:45:58.75 ID:fL7mqO010
勤王・武市半平太、獄中の恨み漢詩に 掛け軸25日から公開
https://www.museum.or.jp/modules/topNews/index.php?page=article&storyid=1194
改革果たせず「恨無限」…半平太、切腹前の漢詩
http://masad5296.seesaa.net/article/215020405.html
唯一の史料 武市半平太の獄中詩発見「恨み限りなし」
http://bakumatu.blog.jp/archives/34010598.html
※リンクを差し替えました

297: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/14(木) 15:48:46.60 ID:Rmf0U4X3O
>>296
幕末土佐の政局前半は容堂対武市の闘いだったね。
既に関係文書に収録されてるのに現物が個人宅から出て来るのはどうしてなんだろ?
漢詩の写しは武市さんの手元に別にあったんだろうか。

314: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/15(金) 11:54:47.29 ID:Hjj4guwM0
>>297
半平太 切腹直前の漢詩 海越え代々伝わる
https://enokama.exblog.jp/16293560/

316: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/15(金) 20:34:33.49 ID:ZYdNAp7/0
>>315
幕末の土佐勤王党盟主・武市半平太(瑞山、1829~65)が、切腹直前に「恨(うらみ)無限(かぎりなし)」などと無念さをつづった漢詩の書。
獄中で記したとは思えないほど立派な書は、信頼していた牢番に贈られたものだった。
1世紀半を経て初めて世に出たことに、14日発表した高知市立龍馬の生まれたまち記念館や専門家らは「よくぞ残ってくれた」と驚きを隠さない。
武市は獄中で漢詩を詠み始め、約50首を「メモ書き」した雑記帳が残されているが、作品としての書は現存しないとさていた。
贈られた牢番・門谷貫助(1843~94)は武市に心酔し、武市も信頼していたと伝わる。
書を保管していた高知市の植田夏彦さん(故人)が残した由来書によると、門谷が「一生の記念、一家の宝に何か書きて給はらぬことを乞ふ」と武市に頼んだという。
夏彦さんの父、重治さんは、門谷と同じ同市春野町西分に住んだ富農で、門谷と交流があり、何らかの形で家蔵したらしい。
夏彦さんに受け継がれた後も、奇跡的に残った。戦前、単身で朝鮮半島に渡った際には書を持参し、日本人学校で教師を務めた。
終戦後の引き揚げで、食料や衣類を手放しても、この書だけは「危急の折といへども放棄するに忍びず、表装を外し一巻となしてリュックサックに負ひて帰るを得たり」と、辛うじて守り抜いたという。
書を鑑定した松岡司・前佐川町立青山文庫館長は
「改革を果たせなかった無念さは、武市が何よりも言いたかったこと。最も信頼した門谷だから託せたのだろう。海を越え、代々大切にされるに足りる、残すべき作品」
と感慨深げだった。(畑矢今日子)
(2011年7月15日 読売新聞)

良い話だ。
牢番は近隣の村から来る農民の仕事だった筈だが、こちらも記録が残ってたんだな。

298: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/14(木) 16:07:30.15 ID:/fBL/VMW0
前半は東洋対武市では?
武市は金の使い道までクレーム付けてる。

299: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/14(木) 19:47:27.42 ID:DR+xExPc0
容堂と武市は必ずしも対立してない
対立したのは尊攘派が落ち目になって容堂が佐幕よりを明確にし牢獄入れてから
土佐や武市に限らず諸藩の勤王家も弾圧されてる

300: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/14(木) 20:26:04.79 ID:T7LlgUFeO
今回現物が見つかった漢詩って、本当に容堂に対する恨みを綴ったものなのか?
ちょうど例の漢詩を作った時期のある日
「上洛して同志と謀り、賊を斬りまくる夢」を見たらしいが、「恨み」と言うのは、尊攘派冬の時代に権利を牛耳っていた連中に対する恨みでは無いのか?

303: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/14(木) 22:39:18.42 ID:ViWtC5w+0
>>300
今回のニュースに出た七言絶句の漢詩は夢上洛陽謀故人衝巨奸~と書いてあるもので多分それの事。
容堂ってより世の中の俗論派全体の事を指すと思われる。

304: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/15(金) 00:08:01.44 ID:fVcw1pCzO
>>303
俺も漢詩を書いた時の恨みの矛先は容堂と言うよりも当時の俗論派全体だと思った。
松岡氏は「容堂に対する恨み」と解釈してるみたいだが、この解釈にはどうもシックリと来ない。

322: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/16(土) 13:17:02.14 ID:GEFcNs3O0
容堂に老候としての君臣の敬意はあったろう。
斉彬の敵として憎み久光をジゴロ呼ばわりした西郷すら、島流しで殺されかけても生涯君臣の礼儀は失ってない。
弾圧された連中や龍馬も中岡も、容堂に復讐なんて誰も考えてないし。
もっとも当時正式な藩主は豊範だが。

301: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/14(木) 20:53:46.16 ID:DR+xExPc0
容堂も朝廷と幕府でかなり揺れて、酔えば勤王冷めれば佐幕だろう
8月の政変で長州派が一掃され、武市を牢獄に入れるがすぐ殺さず1年半も生かしてるし
その間長州は蛤で敗戦し朝敵になり、長州征伐が始まる
いよいよ勤王派は終わりと武市を殺した
その後第二次長州征伐で長州が幕府に勝った為、勤王派の生き残りだった龍馬や中岡に接触
その後もどっちに就くか踏み切れず、倒幕は大政奉還方式で容認するが徳川家は擁護してる
ギリギリの鳥羽伏見の戦いでも薩長と徳川の私戦で土佐兵は戦いに加わるなと指示、土佐は薩長より戦いに加わるのが一日遅れその後主流になれず
鳥羽伏見で薩長の勝ちが決まりようやく一藩勤王を決心した

320: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/16(土) 12:27:34.16 ID:yvywClNT0
>>301
> 容堂も朝廷と幕府でかなり揺れて、酔えば勤王冷めれば佐幕だろう

よくそう揶揄されるけど、容堂は最初から公武合体派なので、頓珍漢な批評だと思う。
公武合体ってのは勤皇佐幕なので。
佐幕じゃ勤皇にならないって尊攘派シンパの人は考えるのかもしれないけど、孝明天皇が公武合体派なんで、全く問題ないどころか、より勤皇的。
かなり時代が下らないと、倒幕は天皇の意志に背くこと。

306: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/15(金) 01:32:34.61 ID:ZYdNAp7/0
夢上洛陽謀故人
終衝巨奸亢逾振
覚来淕汗恨無限
只聴隣鶏報早晨

夢覚而得一絶
瑞山

三文字切腹からも十分無念の程は伺われる。
時勢によってコロコロ旗色を変える指導者を恨んでいたことだろう。
そんな生き方瑞山とは正反対だからな。
侍の信念に殉じた生涯であった。

317: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/15(金) 21:33:17.70 ID:fVcw1pCzO
武市が書簡等で露骨に容堂への批判を展開するようになったのはいつ頃からだっけ?
松岡氏が今回発見された漢詩の内容を「容堂に対する恨み」と解釈しているが、(個人的には、容堂のみに対する恨みを表現した詞には思えないが)武市が書簡等で容堂批判を展開し始めた時期と漢詩が作られた時期が符合するのかが気になった。
確か武市も投獄後しばらくは、まだ容堂に対する敬意を持ち続けていた筈だが。

319: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/16(土) 11:27:36.66 ID:+dN0y9+yO
>>317
尋問が本格化して同志の犠牲が増えだした後じゃないか?
逆さ瓢箪の初出ってどの手紙だろう。
坂本龍馬の盟友で、土佐勤王党を率いた武市半平太(1829~65)が、切腹直前に獄中でつづった手紙が、高知県北川村の民家で見つかり、3日、武市の研究家で同県佐川町立青山文庫の松岡司(まもる)・元館長が鑑定した。勤王党を弾圧した前土佐藩主の山内容堂の酒好きを皮肉って逆さのひょうたんの絵で表現し、後継藩主の豊範と比べており、松岡元館長は「容堂への反発を感じさせる」としている。

読売新聞

321: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/16(土) 12:33:13.86 ID:yvywClNT0
>>317
> 確か武市も投獄後しばらくは、まだ容堂に対する敬意を持ち続けていた筈だが。

武市の場合、この辺はよく分からない。
切羽詰まってからの罵詈雑言を見ると、結構裏表のあった人だと思う。
逆から見れば、常に自分を律していたから、表が整っていたと言えるのだろうけど。

318: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/16(土) 06:39:43.72 ID:gq327wqS0
「アア、けしからぬ世の中にて候。」 と 、しきりに憤慨してたし
たかが容堂一人どうこうで尊皇攘夷運動したわけでない

336: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/17(日) 02:57:08.22 ID:7st7Eo7Q0
「私どもは土佐藩には複雑な気持ちを持っている。故郷と呼ぶには冷たすぎた。私など脱藩後、新撰組などの幕吏の追求に生命をなまに晒されているときに、親身になって庇護してくれたのは母藩の土佐ではなく長州藩であった。私の故郷は長州といっていい。」

武市→死
龍馬→死
中岡→死
吉村→死
平井→死
間崎→死
広瀬→死

337: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/17(日) 16:03:26.19 ID:Aq58ml+zO
田中光顕、土佐は冷たくて嫌いだったってハッキリ言ってるしねw

ところで容堂公が武市先生に対してうなされる程すまないと思っていた事って何だったのかな。
自分の方針を明確にせずその件は検討する~とか言って誤魔化し続けた事?

338: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/17(日) 19:59:33.57 ID:rECO5e3a0
武市の主張が正しく勤王の世になったからでしょ
武市を殺す判断と決断したのは容堂で、誤りとなったが藩主だから誰も責めれないし

諸藩も弾圧してた勤王派を急に牢から出し優遇し、藩代表者にしたて人脈頼りに京都政権に送ってる
土佐は武市らのおかげで、薩長に次いだ配慮と評価されたが、あくまで薩長に次いだ評価で主導権を握れなくなった
薩長と人脈を持ち、尚且つ土佐派をまとめ、対等に駆け引きできる政治家は居なくなり
薩長について官に残ったり、下野して政府転覆計ったり、自由民権運動に走ったりした
勢力がほとんど無くなる

339: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/17(日) 21:36:09.60 ID:jgR/iNvD0
土佐は藩内で暗殺したからねえ。

340: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/17(日) 23:15:50.99 ID:rECO5e3a0
暗殺の証拠なんて、まったく挙げれて無いわな。
長州の様に必要だったが挙兵内戦したり、明治後の薩摩の様に官と野に分かれ大勢死傷出す方が良いのか。
武市を投獄したのも切腹させたのも、勤王派不利な情勢だからに過ぎないしね。
武市が単なる人望家で自分の名誉をもっとも重んずるなら、手を汚す暗殺手段もとらなかったろうなぁ。
東洋一人排除することで政変起こせると判断、計画実行の手腕が駄目でも失敗してたろう。
死を覚悟して藩に戻ったのも、連座死を少数に留めたのにも武市の人格と力量が現れてる。
実に惜しかった。

341: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/18(月) 01:45:28.74 ID:g30yojJC0
土佐は尊攘派が他の雄藩より劣るのが弱点だった。

342: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/18(月) 09:25:46.14 ID:gbuCEcP1O
>>341
武市や平井、間崎ら勤王党上層部は別にそんな事無いのでは?
実際に政変前は、京や江戸でも、薩摩長州と対等に渡り合ってた人達だよ?
難点は身分差別が激しい土地で身分が低かった事でしょ?
あと、容堂が狡猾な殿様だった事

346: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/18(月) 22:05:49.19 ID:bLrUPnTX0
>>342 
よく考えたら武市平井間埼の勤王党中枢ってみんな弾圧切腹なんだなw
やっぱり藩のうしろだてがないとアウト

348: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/19(火) 08:38:56.09 ID:4eCvV/oPO
>>346
結果的に土佐が薩長に遅れをとり、薩長と共に並び権力を握れなくなった発端は容堂が薩長と並び活躍していた武市、間崎、平井ら勤王党中枢を次々と殺してしまったせいも有ると思うわ
でも、その後になんとか中岡龍馬が頑張って後引き継いで頑張ってくれたけど、結局その中岡龍馬も死んで完全に土佐はアウトになったそんな印象

343: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/18(月) 16:09:47.08 ID:TisiMig50
関ヶ原の戦い以降の長宗我部の遺臣の不満や期待を一身に背負って立ったのが武市って言われてたけど、当時の土佐郷士にとっては武市さんがヒーローだったんだよなー。
切腹後藩内の反発も激しかったようだし。
もちろん龍馬も脱藩組のリーダーとしてそれなりに尊敬されてはいただろうが。

344: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/18(月) 21:44:05.21 ID:OKcSb0de0
ぶっちゃけ死んだ土佐連中のが薩長の連中より個々の人物技量は上だったろうなぁ

今一得体の知れない龍馬抜きにしても、武市≧西郷、大久保 中岡≧木戸じゃろう
武市は西郷の様な薩長土の志士を惹き付けた人望と、藩組織を動かす大久保、木戸的な政治技量あったし龍馬や中岡の様、大局を見る対幕戦略も持ってた
必要なれば大久保の様、マキャベリになれる面もあった
その上、江戸三大桃井の塾頭勤め剣も人脈もあり、学問教養も西郷、大久保、木戸より上じゃき
三文時切腹を見ても気力胆力も尋常でなかったぜよ

中岡も武市のあとを引き継ぎ、禁門で崩れた薩長土の連携を再び作り直した
倒幕戦略の基礎構築は中岡の頭脳と功績が大きい

長州単独では不可能と見て、薩長同盟の基礎作りから、土佐内部で板垣ら上士を倒幕に引き込み古勤王党と結ばせ、薩土盟約や薩土密約、三条岩倉提携、岩倉薩摩提携を実現させた
倒幕勢力の再構築と倒幕勢力を官軍に仕立てる朝廷工作の基礎を作ってる
自分達を襲った刺客を、卑怯憎むべき、しかし豪胆愛すべきと評したほど、冷静な頭脳と豪胆さも兼ね備えておった
板垣も中岡は西郷、木戸と並び立派に参議になれるほどだったと言ってるからのぅ

345: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/07/18(月) 22:00:07.20 ID:TisiMig50
>>344
さすがに実務に関してはそんな事ねーよ
土佐の志士は一貫してサポート役
維新後西洋文化の流入で知識階級全体にブレイクスルーが起きるから維新前のスペックはあまりアテにならない。

引用元: ・武市瑞山&土佐勤王党について3



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