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1: 世界@名無史さん 2017/10/04(水) 19:46:47.62 0
中国の社会は8世紀から11世紀にかけて,王朝でいえば唐から宋の間に大きく変動したので,この時期は唐・宋変革期とよばれている。

その変化の一つは,支配階級の交代である。…








178: 世界@名無史さん 2017/10/14(土) 08:53:44.12 0
「唐宋変革論」というのは戦前の漢籍に通じた日本の学者たちが論じ始めたものだけど世界では通用してるのだろうか?

188: 世界@名無史さん 2017/10/14(土) 10:49:19.40 0
>>178
英語や中国語のサイトもいろいろ見たけど、「唐から宋にかけて、中国では貨幣経済が進展して商業革命が起きた」 という、経済史の転換点としてはそれなりに注目されている様子。

でも、「唐までの中国の名門がみんな没落・滅亡して、宋からは新たな勢力が勃興した。中国の歴史はそこで断絶している」という、日本での唐宋変革論の認識が広まっているようには見えない。

189: 世界@名無史さん 2017/10/14(土) 10:52:44.86 0
>「唐までの中国の名門がみんな没落・滅亡して、宋からは新たな勢力が勃興した。中国の歴史はそこで断絶している」

↑ちなみに、この説を唱えた内藤湖南は、日本史についても、「応仁の乱の前と後とで、日本の歴史は断絶している」と言った。

「現在の日本を考える上で、応仁の乱以前の日本史を勉強しても、たいして役に立たない。応仁の乱の以後だけを見れば十分」
とも言ったと、最近ベストセラーになった「応仁の乱」の本に書いてあった。

227: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 08:07:09.54 0
「唐から宋にかけて、中国は貨幣経済の社会に変化した」という見方は欧米にも広まっているみたいだけど、
「唐の貴族社会から、宋の官僚国家へと変化した」という見方は、日本語のサイト以外では見かけない。

234: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 12:27:36.69 0
>>227
唐の時代が続くと以前より没落する勢家が減って無能な官位持ちが増えた結果
新興地主層からの登用が増えて朝廷での権力を貴族が失って逝ったという皮肉

230: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 08:12:07.71 0
解決済の質問

北宋朝の「皇帝独裁官僚国家制度」はどのような経過をたどって成立したのかについて教えてください。

231: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 08:13:08.34 0
ベストアンサーに選ばれた回答

北宋を建てた「趙匡胤」は、皇帝独裁型の官僚制国家を作り上げました。

960年の宋建国の時点で、趙匡胤は中国国内で最大の軍事力を握っていましたから、その気になれば、短期間で軍閥勢力を力で圧服させることも出来たでしょうし、地方の諸国を一気に滅ぼすことも出来たであろうと思われます。

しかし趙匡胤はその強大な軍事力を背景にしながら、五代以来の軍閥横行による君主権力の後退に鑑み、実に根気強く、軍閥勢力を硬軟取り混ぜた手法で説得して、その権限を徐々に奪っていき、
藩鎮の勢力削減・禁軍(正規の国軍)の指揮権掌握・文官優位の文治主義などを推進しました。

232: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 08:13:56.98 0
中央官制では唐代以来、貴族政治の牙城であった門下省を廃止して、中書省に吸収し、その長官である中書省中書門下平章事(宰相)が、六部(吏・戸・礼・兵・刑・工)の各長官を指揮することにしました。
また参知政事(副宰相)を新たに設置し、節度使を、いつのまにか名誉職としてしまい、順次廃止または有名無実化させます。

州県の長官(知州、知県)には中央から文官を任命(強幹弱枝策)によって、中央集権化を進めました。

科挙制を改革し、最終試験として殿試を創設し、その合格者(進士)となった官僚すべてを、皇帝の学問上の弟子とする関係を形成しました。
その間に科挙合格者を重要な役職につけるようにし、官僚任命権と、軍隊指揮権を、皇帝のものとするという制度改正を行い、軍人は官僚によって統制されるという、文治主義への転換を成し遂げました。

237: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 13:14:26.12 0
アジアに燦然と輝く中華帝国をメインに捉え、その歴史は「唐(中世)と宋(近世)の間で切れる」という内藤湖南の史観に始まる。
内藤は10世紀の宋にすでに「近世」が確立していたと論じている。
内藤のこの史観を述べながら、著者(與那覇)は次のように書く。

「宋では貴族とともに封建的な中間集団も解体され、科挙によって採用された官僚が皇帝のもとで権力を握ることになります。同時に税制も物納から金納になり、貨幣経済が中国全土に広がっていきます。これによって中国には、個人が社会の中で裸で競争しなければならないような今の「新自由主義」的とも言える社会が出現したのです。」

238: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 13:46:31.04 0
官僚国家で貨幣経済となった宋を、「いち早く古代の身分制社会から脱却し、試験に通れば誰でも高級官僚になれるし、熱心に商売すれば誰でも金持ちになれる、近代的な機会均等の自由競争社会を実現した」として称賛する與那覇潤(よなはじゅん)氏。

まあ、そういう解釈が出てきても不思議はないか・・・。

239: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 13:57:44.44 0
北宋の首都は開封、南宋の首都は臨安であった。

唐代との都の大きな違いは、街区を細かく区切っていた門(夜には閉められ通行が遮断される)が取り払われ、昼夜を問わず店には人々が集い、路上に屋台が並んでいた事である。

電気やガスが用いられる以前に、この様な営業形態をとりうる経済力は驚くべきことなのだ。

240: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 13:59:22.92 0
具体的には、食器屋、薬屋、貴金属店が店を並べた。それに加えて、その客を目当てに飲食店、娯楽、風俗店が集まっていた。
都には瓦ぶきの2階や3階建ての建物が建ち並んでいた。また街路が瓦や石の埋め込みにより舗装されていた。

また、大衆文化と呼べるものが登場した。盛り場では『三国志演義』の源流とも言える講談が演じられた他、切紙・影絵・動物の芸、雑劇(歌を伴う演劇)などが人々を楽しませた。

本格的な出版事業が始まり、多くの人が印刷された本を入手することができるようになった。

241: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 14:01:40.86 0
唐の時代劇を見ると、長安の都はじつに華やかで賑やかで、昼も夜も歓楽の巷なのだが、
それは宋以後の話であって、唐の長安は常に戒厳令が敷かれている状態。

唐で華やかなのは、貴族だけだった。

大衆消費社会の実現には、まだ程遠かった。

242: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 14:49:41.86 0
西安は、ムスリムが多い西域化した都市。
名物は、羊の串焼きだ。

唐三彩の焼物には、ラクダの像とか、ラクダに乗った商人の像がとても多い。
唐の都・長安にはラクダがよほど多かったのだろう。

マニ教寺院とか、キリスト教会だっていくつもあった。
フィリピン・パブならぬ、ペルシアン・パブも賑わっていた。
ペルシャ系の音楽や舞踊が流行していた。

おそらく、当時の長安は想像以上に西域っぽくて、
現代の「中国」というイメージとは異世界だったんじゃなかろうか。

245: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 16:47:35.71 0
おそらく、奈良時代の奈良が中国っぽかったのと同じように、唐代の長安は、非常に西域っぽかったであろうと考えられる。

秦漢の頃は緑に覆われていた黄土高原も、この頃にはかなり荒涼とした風景になってきていた。長安は、砂漠のオアシス都市みたいなところになってきた。

そこは、ラクダに乗った隊商が往来し、ペルシャ風の文化が花開いた世界。

日本と違って、中国には妙なプライドがあるせいか、「西域から文化を導入して文明開化した」とはなかなか認めたがらないが。

252: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 21:06:25.79 0
>>245
何か勘違いしてるけど
シルクロード交易って文物、製品共に中国側の圧倒的な輸出超過

254: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 21:24:44.88 0
>>252
何が中国側に入ったのでしょうか?
決済は金とか銀でしょうか?

259: 世界@名無史さん 2017/10/15(日) 22:02:30.89 0
>>254
宝石でしょ、玉とか

265: 世界@名無史さん 2017/10/16(月) 03:00:17.52 0
>>254
唐と西域諸国との交易で規模が大きかったのは奢侈品よりもむしろ軍事経済
唐は中央アジア方面で吐蕃やウイグルと戦争していたのでクチャにあった安西都護府に莫大な軍需物資を送り込んだ
今話題になってるソグド人も物資の購入や輸送を請け負う御用商人として活躍した
それまで西域諸国では銀銭が用いられたが唐が支払い手段とした銅銭や布帛が通貨として流通するようになった

270: 世界@名無史さん 2017/10/16(月) 17:11:05.80 0
>>265
西域で唐の貨幣が流通していたということは、唐代初期でも貨幣経済がかなり進んでいたということでしょうか?

宋はそれを引き継いで貨幣経済を発展させたということであって、唐と宋の間を区切るような大変革が生じたわけではなく、連続的な発達にすぎないということなのでしょうか。

281: 世界@名無史さん 2017/10/16(月) 20:07:24.73 0
>>270
いわゆる唐宋変革は、たいてい唐の後期に変化が進んできて、宋代で歴然としたものが多い

301: 世界@名無史さん 2017/10/17(火) 02:25:48.31 0
>>270
確かに西域では開元通宝も使われていたけどトルファン地域から出土した売買文書を見る限りでは決済手段として用いられたのは絹織物が多い

271: 世界@名無史さん 2017/10/16(月) 18:25:49.83 0
宋が長安、洛陽を都にしなくなったのは、唐の時代に拡大した流通社会・貨幣経済に対応できなくなったからなわけだが。
開封は大運河による新しい経済社会体制の都として最適で、長安や洛陽のような閉鎖的な都市はもはや過去のもの。

272: 世界@名無史さん 2017/10/16(月) 18:32:12.89 0
開封って古代からずっと栄えていたわけ?

273: 世界@名無史さん 2017/10/16(月) 18:43:41.29 0
>>272
古代の戦国時代には、魏の都・大梁として一時代を画した

298: 世界@名無史さん 2017/10/17(火) 00:08:08.47 0
>>272
地域で見ると大梁→許昌→開封だからずっと栄えてるよ
今の開封は何度か河川の氾濫で埋もれて別の都市だけど

274: 世界@名無史さん 2017/10/16(月) 18:45:27.19 0
でも、洪水が多いのが弱点

古代の魏の都は黄河の土砂に埋もれ、その上に築かれた宋の都の開封も土砂に埋もれ、現代の開封はその上に築かれた

だから、古代からの連続性はない

277: 世界@名無史さん 2017/10/16(月) 19:55:55.83 0
唐の長安と漢から西周代の長安も関係ないと思われてるが実はある
長安には北方の離宮群を守る禁苑の城壁が旧長安もすっぽり覆い囲っていて旧都城全域が一つの離宮として機能していた

280: 世界@名無史さん 2017/10/16(月) 20:05:50.79 0
>>277
漢の長安城の廃墟が邪魔になって全く同じ場所には作れなかったわけで。
その事情は洛陽も同じで、漢・魏の洛陽城が邪魔で唐の洛陽城は別の場所になった。

302: 世界@名無史さん 2017/10/17(火) 18:36:52.60 0
唐宋変革期に起こった生産力向上の中でも顕著なのが江南における米生産の向上である。

この進展を示す言葉として「蘇湖熟れば天下足る」「蘇常熟れば天下足る」という当時の諺がある。

その結果、江南の経済力は飛躍的に成長した。

303: 世界@名無史さん 2017/10/17(火) 18:39:00.92 0
宋代に至り、各種生産力が大幅に向上した事は異論を挟む余地がない。
中でも重要なのが農業、特に米作の発展である。
その他にも精銅・製鉄・窯業の技術的発展など宋代の発展は枚挙に暇がない。
その飛躍的発展の多くは、江南で起きた。

304: 世界@名無史さん 2017/10/17(火) 18:44:13.67 0
中国で最良の地といえば、長江下流のデルタ。
海に面し、温暖で肥沃で、広大な平野が広がる。
中国に限らず、世界的に見ても最良の地のひとつだろう。

でも、それを開発するのには、長い年月を必要とした。

古代の江南は、巨大な湿地帯で洪水も多く、人が住むのには適していなかった。
何百年もかけて徐々に干拓が進み、やがてその生産力は華北を圧倒するに至った。

それが、宋という時代の特徴。

305: 世界@名無史さん 2017/10/17(火) 19:14:56.50 0
宋代に入って、東高西低・南高北低という、現在につながる構図が確立された。
もちろん、隋唐の頃だって、江南はかなり発展していた。
でも、唐はまだ、ギリギリで西高東低・北高南低の時代。

306: 世界@名無史さん 2017/10/17(火) 19:18:52.23 0
宋代で本格的な貨幣経済・自由主義市場経済に突入したのは、なんといっても、江南の高度成長のおかげだった。

308: 世界@名無史さん 2017/10/17(火) 19:49:52.34 0
しかし、完全な貨幣経済社会になったのは、やはり、明の時代だろう。
米作地帯は、長江下流から中流に移り、下流では商品作物、とくに綿の栽培が盛んになった。それを原料として、繊維工業が発達した。
農民は、商品作物を換金して、そのおカネで食糧を購入する時代。
自給自足とか、物々交換とか、そういうのは完全に過去の思い出と化した。

319: 世界@名無史さん 2017/10/18(水) 09:56:44.08 0
歴史GDPでみると全体は唐代から1人当たり3割増しだから緩やかな上昇
江南は上がる反面内陸部は停滞
あと人口が唐代の6000万から宋代の1億だから規模による押し上げもあり
人口増と一人当たりの増加により生産力は唐代の2倍程度にまで上がったのが現状の推測

326: 世界@名無史さん 2017/10/18(水) 16:49:36.71 0
どっちにしても都市人口が中国全体で5%以下なんだから
ルネサンス期のイタリアの都市化率の半分以下
江南の発展だけみても意味なし
宋代の発展は主に食糧に依存してたから人口増で相殺
緩やかな発展が妥当
ちなみに鉄の生産もほとんど記念碑や橋などの建築が主体で工業化とも関係ない

328: 世界@名無史さん 2017/10/18(水) 18:09:40.00 0
都市人口とか的外れ
それで比較すると20世紀のヨーロッパより古代ギリシャ、宋より前漢(全人口の7割)のほうが発展していることになる

>ちなみに鉄の生産もほとんど記念碑や橋などの建築が主体で工業化とも関係ない

世界最古の鉄橋はアイアンブリッジだぞ 
そんなものがバンバン作られるようになったらもはや産業革命じゃ 
ちなみに日本は中国で生産された鉄を輸入して日本刀や武器に製造して輸出する加工貿易を少なくとも明代には確立していた(日本一鑑)

332: 世界@名無史さん 2017/10/18(水) 18:36:41.77 0
鉄に関しては橋は間違いだった記憶違いだった
ソース元の名大の出してる世界経済の歴史によると

>>中国の製鉄技術が先進的でヨーロッパより1000年以上前から鉄の鋳造を行いながら、鉄が記念碑などに用いられ、
>>産業向けに鉄が使われることは少なく、ヨーロッパのような鉄の文化は中国では根付かなかった
>>それとは別に貨幣や手形が急速に発達し、銅銭や紙幣が使われた。
>>取扱い商品の中心は、工業品ではなく、農業、林業、水産業などの第一次産品で、
>>農業内部では地租納入向けの生産から市場向け生産への大きな転換がみられた
>>宋では商業活動を支える都市と都市近郊型農業が発達した

これ江戸時代と同じで商業面やシステムは発達したけど、工業面での発達が弱かったってところだな

340: 世界@名無史さん 2017/10/18(水) 18:55:19.44 0
宋はルネサンスを予感させる発展はしたけどそこには届かなかった
そこが妥当な評価だな
技術力がちょっと足りない

343: 世界@名無史さん 2017/10/18(水) 21:02:29.06 0
なんでヨーロッパでは科学が発展してそれが産業化したのか

346: 世界@名無史さん 2017/10/18(水) 21:52:16.77 0
>>343
「ヨーロッパの奇跡」「世界の多様性」
このあたりの説明が腑に落ちた。

344: 世界@名無史さん 2017/10/18(水) 21:05:38.77 0
確か唐の時代に水車を多数連ねた製粉工場ができたけど、それ以上は発展しなかったんだよね

353: 世界@名無史さん 2017/10/18(水) 23:38:59.64 0
宋はチンギスハンが現れなかったら、産業革命もあり得なくはなかったかもしれないかなぁ・・・

358: 世界@名無史さん 2017/10/19(木) 01:47:20.64 0
>>353
それは関係ない
モンゴル帝国期はグローバル化が進んで貿易が盛んになり、江南もますます発展した

362: 世界@名無史さん 2017/10/19(木) 02:19:47.97 0
モンゴル人が築いた北京帝国を継承した明は、史上空前の繁栄を迎える
とくに江南の貨幣経済が発展して、大衆消費社会の一歩手前まで行った

363: 世界@名無史さん 2017/10/19(木) 02:23:04.41 0
むしろ、その後の伸び悩みが謎

「明代の江南は、あのレベルまで行っていながら、なぜ西欧みたいな近代資本主義社会になれなかったのか?」
というのが経済史における最大の謎のひとつ

384: 世界@名無史さん 2017/10/19(木) 20:24:54.10 0
ヨーロッパが発展した理由には諸説あるだろうが、複数国にわかれて戦争し続けたことによって兵器が進歩して、そのお陰で工業や科学も進歩したところは誰も否定できないところだろう

385: 世界@名無史さん 2017/10/19(木) 20:29:41.42 0
>>384
それはあるでしょうな。

江戸幕府・清・ムガール帝国・オスマン帝国など、鉄砲の威力で国内を平定した国々は、天下泰平の世を実現した。
(まあ、ムガール帝国の崩壊は早かったが)。

なぜかヨーロッパでは、ますます戦争が激化した。

527: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 19:19:17.97 0
隋唐の時代にも、江南の経済力の台頭は明らかだったが、まだ華北を圧倒するには至っていなかった。
いよいよ本格的に南が伸びてくるのは、五代の分裂がキッカケとも考えられている。

独立して初めて、これらの国々は真価を発揮した。

528: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 19:19:28.53 0
経済が発達してるからというより
山脈と河川だらけで分断されてるからでしょ江南と嶺南は、日本の分立傾向と同じ

529: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 19:32:00.72 0
日本・インド・中東・欧州とも、中世は地方の諸侯が分立するバラバラな状況になっていくんだけど、中国は宋が再統一したおかげで、その流れが一応は食い止められた。

再統一といっても、「史上最弱の統一王朝」だったが。

540: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 20:47:40.31 0
(コピペ)

唐中葉までには、小麦作が普及した。
すると、秋の稲・アワ・キビの収穫に加え、夏には小麦が得られることになる。安史の乱後の財政破綻に対応して、この双方を税として徴収する両税法が、楊炎の提言によって始まった。

この政策の意義は、単に課税対象と時期の変更だけではなかった。農民に対して、古来、一律平等に課すのが原則だった税を、農民の土地保有や財産の額に応じて取り立てる戸等制が採用されたのである。
これは、「国家」が、「国民」の中に「貧富の差」の存在を認める、という一大転換であった。
以後、農民の貧富の差は、一層拡大したと言われている。

541: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 20:50:50.17 0
唐代における「胡食」の普及

唐代に流行したイラン系の西方文化は,おもに「胡人」つまりイラン系ソグド商業民によってもたらされたので,当時は「胡風」とよばれた。
人々 は「胡帽」や「胡服」を愛用し,宮廷でも「胡曲」しょう が流行した。

「胡瓜」 胡麻 胡椒」などの「胡」 も,それが中国原産ではなく西方に由来する物産 であることを示す。李白や白居易らの唐詩も,各地の飲食店で接客にあたる「胡姫」=ソグド人ホステスや,彼女らが披露する「胡旋舞」=ソグド 流回転舞踊を,憧憬や驚嘆とともに描写している。

542: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 20:53:04.62 0
唐の中期からの巨大な社会変動の要因として、「小麦」も無視できない。
ペルシャから伝来した粉食文化は、華北の食文化を一変させた。
小麦二毛作の普及は、税制をも変えた。

543: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 20:56:23.66 0
粉食文化じゃない、パン食文化
粉食はもっと前からある(西域から伝来したことに変わりはないが)

544: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 20:58:46.87 0
麦を粉にする技術が広まったのは唐の時代だよ

546: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 21:09:08.82 0
>>544
水車の技術かな?

554: 世界@名無史さん 2017/10/22(日) 03:01:57.85 0
>>540>>542>>544-546
小麦がそれ迄の粟黍稗等に代わり北方の主食に成ったのが前後漢の頃
水車の石臼は後漢代に始まり普及したのが西晋~北魏の頃。饅頭とか麺類が主な食べ方

545: 世界@名無史さん 2017/10/21(土) 21:04:35.58 0
小麦は、漢代に張騫が西域から持ち帰ったとされているが、本格的に普及したのは唐代だった。

小麦は、栽培するのに大量の水が必要となる。
もちろん、稲と比べたらそれほどでもないが、それまで主流だった粟などよりは、ずっと多くの水を必要とする。だから、灌漑施設が未発達な古代には、なかなか普及しなかった。

技術進歩もさることながら、長安でイラン風のパン食が流行したのが、普及の最大の理由と言われている。

555: 世界@名無史さん 2017/10/22(日) 03:59:05.91 0
古代華北の主食は、アワ、キビ、オオムギなどの雑穀であった。
アワとキビが良質の穀物であり、粒状で食べられた。

小麦は漢時代(前3~後3世紀)の126年に、張騫(ちょうけん)が西域から製粉用の石臼と共に伝えた。だがこの時点には、小麦粉は効率的に作れなかった。
小麦の栽培は華北の土地に合い、三国時代(3~5世紀)には小麦の粉食は中原に定着し、以後華北は小麦粉食圏となった。

唐時代(7~10世紀)より少し前、水車を利用した「テンガイ」の発明により小麦粉が安価で大量に出回り、粉物文化が根付いていった。しかし、中国では小麦粉をパンとして焼かず、生地を蒸すか茹でて調理した。最も代表的な食品は饅頭(マントウ)である。

556: 世界@名無史さん 2017/10/22(日) 04:03:23.49 0
まあ、「張騫が石臼とともに西域から伝えた」というのはマユツバな伝説で、もっと前からあった可能性が高い。

でも、唐より以前には、小麦粉はかなりの贅沢品だったんじゃないのかな?
水車がない時代に人力で製粉するのは効率が悪く、大量に作れたとは思えない。

563: 名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote! 2017/10/22(日) 07:36:05.77 0
>>555-556
石臼は夏王朝の頃既に有り西域から導入されたのわ隴西で用いられて居た水車式の石臼
小麦の中国伝入は殷代の頃だけど>>545に在る通り灌漑が未発達で広まらず
水車に由る石臼は後漢代に一部で用いられ始め西晋北魏の頃に普及したが
黄河の水量はそれ程でも無いので広まったのわ主に米食の江南、華北は主に畜力

557: 世界@名無史さん 2017/10/22(日) 04:12:47.81 0
「夏と秋の2回に分けて徴収する両税法」が唐で導入されたのも、冬小麦と春小麦の二毛作がこの時期に普及したことの表れ

558: 世界@名無史さん 2017/10/22(日) 06:06:46.82 0
(コピペ)

>田地に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、免除して貰う税は庸と呼ばれ、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。
>>780年に施行された新しい税制は、それまで資産に関らずに定額を課税していたものを、財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年2回徴収するので、両税法と呼ばれる。夏に納めるのは麦であり、秋に納めるのは粟と稲である。

559: 世界@名無史さん 2017/10/22(日) 06:10:02.18 0
租庸調制の時代には、粟で租税を納めていた。
このことからしても、唐の前期においては、粟が主要作物だったことが分かる。
それに対して、両税法では、夏は麦、秋は粟で納税することになった。
金銭での納税も始まった。

これを見れば、唐代に冬小麦の生産が広まったことが分かる。
でも、まだ粟の存在感は大きかった。
金納が当たり前になる宋に比べて、まだ貨幣経済も中途半端だった。

560: 世界@名無史さん 2017/10/22(日) 06:16:53.16 0
粟っていったら、小鳥の餌箱に入っている小さな粒の穀物だ。
小鳥にとっては大好物だけど、人間にとっては不味い。
唐の庶民は、黄土高原に穴を掘って地下で生活し、小鳥のエサみたいなものを食べていた。

561: 世界@名無史さん 2017/10/22(日) 06:20:08.45 0
しかし、かつては高価だった小麦粉が安くなり、次第にマントウや麺類が普及してきた。
宋代には、当たり前の存在になった。

昔、「アルプスの少女ハイジ」というアニメでは、金持ちが柔らかい白パンを食べ、貧乏人が固い黒パンを食べていた。黒パンは、よほど歯が丈夫な人じゃないと食べられないようなシロモノだった。
近代ヨーロッパというのは、そういうところだった。

それに比べて、宋の小麦粉の質は高かった。
この点に関しては、近代ヨーロッパを上回っていたと言われている。

564: 名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote! 2017/10/22(日) 08:07:17.54 0
>>557-561
>>554は小麦じゃ無く大麦小麦蕎麦
南北朝→唐代で農具が改良されて大麦が減り小麦と蕎麦が増えた
小麦の加工は水車が普及しても畜力が主、小麦粉が高価なんて事実も無い

引用元: ・唐宋変革期



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