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1: 日本@名無史さん 2018/01/16(火) 09:23:58.58
「八条院暲子内親王」
父:鳥羽天皇
母:美福門院藤原得子
源平合戦期~鎌倉~建武~南北朝期と約250年ほど続く分裂争乱期の原因をつくった内の一人が実は八条院。源平合戦時代の大河は数あれど、八条院はすべて脇役扱い。
そろそろ八条院の視点での大河が書かれるべき時である。
八条院は、鳥羽法皇の荘園を相続して日本史上最大の荘園主となった。
そして天皇位選定に難航したとき、候補に挙げられること2度。
反平家・反後白河の皇女だった。








5: 日本@名無史さん 2018/01/26(金) 23:42:53.33
八条院が即位する可能性があったのは、

①近衛天皇のあと
結局は後白河天皇に落ち着く

②安徳天皇の西走により
結局は後鳥羽天皇に落ち着く
22: 日本@名無史さん 2018/03/22(木) 14:06:30.41
美福門院腹の近衛天皇が跡取りなく夭逝したから 
後白河、重仁親王で迷ってたから、それならもう八条院でいいんじゃね?っていう

23: 日本@名無史さん 2018/03/23(金) 18:39:41.70
>>21 
当時の一級史料・慈円(九条兼実の弟)の著である「愚管抄」に書いてある 
近衛天皇が17歳で死んだとき、院政を執っていた後鳥羽上皇は八条院(鳥羽皇女)か、重仁親王(鳥羽孫・崇徳皇子)か、二条(鳥羽孫・後白河皇子)か3人の天皇候補から二条を選びその父後白河が即位した 

鳥羽上皇と寵妃・美福門院の間には叡子内親王、八条院、近衛天皇、高松院の4人の子があったがこのうち叡子内親王と近衛天皇は10代のうちに死亡 
叡子内親王が鳥羽上皇の皇后・高陽院の養女として別居していたのに対し八条院は母が鳥羽上皇の寵妃だったこともあり朝も夕も父院の傍に置かれて特に溺愛されて育てられたらしい

24: 日本@名無史さん 2018/03/24(土) 17:11:03.25
八条院的には後白河(異母兄)と重仁親王(甥)どちらが天皇になるのがよかったのかね?

25: 日本@名無史さん 2018/03/24(土) 17:26:06.56
>>24 
後白河は中継ぎ、あくまでも二条か重仁かの争い 
二条に決まると八条院はその准母となり院号宣下 
同母妹の高松院は二条と結婚 
二条の父が天皇でないのはおかしいということで後白河は2年だけ即位した 
(美福門院にさっさと二条に帝位を譲れと言われて譲位している)

26: 日本@名無史さん 2018/03/25(日) 08:51:51.81
譲位した頃まではまだ政治に興味はなかった。

7: 日本@名無史さん 2018/02/14(水) 22:01:49.58
間違いなくキーパーソンだよな
八条院領が膨大すぎる
八条院領

八条院領(はちじょういん-りょう)は、中世の荘園公領制下における王家領荘園群の一つ。

院御所鳥羽殿東殿の仏堂の後身の安楽寿院領を中心に鳥羽院領と美福門院領を相続した八条院暲子内親王の所領を起源とする。安楽寿院領48箇所のほか、八条院庁領79箇所、さらに歓喜光院領26箇所、蓮華心院領15箇所、真如院領10箇所、弘誓寺領8箇所、智恵光院領5箇所、禅林寺今熊野社領3箇所などの御願寺社領を含む220ヵ所以上にのぼった。


44: 日本@名無史さん 2018/04/26(木) 12:58:43.50
八条院領は大覚寺統が伝領

45: 日本@名無史さん 2018/04/26(木) 22:22:05.47
八条院のほかにも、春華門院(八)、安嘉門院(八)、式乾門院(八)、宣陽門院(長)、広義門院(長) 
など、女院がけっこう伝領してるのね

46: 日本@名無史さん 2018/04/27(金) 08:58:10.61
(長)って何?

47: 日本@名無史さん 2018/04/27(金) 11:32:12.21
長講堂領のことだろう 
八条院領と並ぶ広大荘園群

48: 日本@名無史さん 2018/05/01(火) 13:35:14.52
長講堂領は八条院領の半分以下じゃなかったか?

49: 日本@名無史さん 2018/05/01(火) 22:32:15.94
王家荘園群ではこの2つが有名ってこと
59: 日本@名無史さん 2018/05/03(木) 20:39:15.66
王家荘園領って今で言うお金持ちの福祉財団のようなもんと考えてよろしいか? 
アメリカのお金持ちが相続税を逃れるために財団を作るように、王家が仏寺への布施を兼ねて作った土地財産の集合体と

67: 日本@名無史さん 2018/05/05(土) 00:16:40.30
>>59 
長講堂領の実態は今でいう不動産ファンドに近いもの 
運用収益の最終配当を皇室が得て、各物件の運用実務を寺社や有力領家が担当して管理手数料をゲットしていた。

62: 日本@名無史さん 2018/05/04(金) 07:38:48.53
長講堂領みたいな仏寺に施入されたものは、長講堂が領家で王家が本家ってことなの?

63: 日本@名無史さん 2018/05/04(金) 10:38:21.14
荘園は寄進する側、される側がある

68: 日本@名無史さん 2018/05/05(土) 00:25:34.39
長講堂領に限らず、以下の概念で考えると現代人には中世の土地制度は分かりやすい。 
寄進を受けた本家は配当を受け取る資本家階級、寄進した領家は農業財閥の経営者階級、荘園の農民がプランテーションの労働者階級。

69: 日本@名無史さん 2018/05/05(土) 04:43:14.54
一番重要な開発領主≒下司が抜けとるやん 
農民だって名主層と下層農民では別だろうし

70: 日本@名無史さん 2018/05/05(土) 13:53:46.75
>>69 
だな 
本家:大株主>領家:親会社>開発領主・下司:現地法人>名主:フランチャイズ加盟会社>下層農民:派遣社員

71: 日本@名無史さん 2018/05/05(土) 14:38:50.55
中世における皇室の寺社への寄進というのは、本家としての立場を渡すのではなく、領家の立場つまり土地の経営権を与えること。 
つまり荘園の収益受給権を布施として寺社に分け与えることを指している 

このポイントを押さえておかないと『後白河院は莫大な荘園を長講堂に寄進し長講堂領が確立する』という文章の意味が理解できない。

9: 日本@名無史さん 2018/02/16(金) 19:44:16.92
治天の君になる可能性はあったのか?

10: 日本@名無史さん 2018/02/17(土) 16:27:08.21
女帝で院政は想像つかないな。やれるだけの実力はあると思うが。
楢子の以仁王系統を皇統につけて裏から操るとか

11: 日本@名無史さん 2018/02/17(土) 16:46:44.17
>>10
持統天皇は退位して持統太上天皇になってからも孫の文武天皇を後見して実質的な政務を続行していたしな
八条院も后妃になって実の子や孫が天皇なら強権を行使できたと思うが

この時代の内親王は未婚が多く八条院も生涯未婚だったから養子や猶子の後見というだけでは直系血族の子や孫を後見して実権を握っていた当時の男性上皇みたいにいかなかったのでは

27: 日本@名無史さん 2018/03/25(日) 10:32:28.47
>>10
広義門院が女性で治天になってるぞ

29: 日本@名無史さん 2018/03/26(月) 07:34:39.74
>>27
それ、南北朝の院政自体が終焉に近づいてる頃だがね

30: 日本@名無史さん 2018/03/29(木) 18:11:28.10
>>29
院政自体は幕末まで続いている(江戸時代の終わりのほうは天皇が在位中のまま死ぬ例も多いが)

広義門院のときは、正平一統で南朝の後村上天皇が正統とされ北朝の光厳上皇、崇光天皇、皇太子直仁親王はすべて南朝に連行され北朝には上皇も天皇も皇太子もいなくなった
なんとか南朝を追い出した足利義詮が広義門院のところへ参上して女院の院宣により新帝を即位させることを願い上げ広義門院の女院宣により後光厳天皇が即位した
後光厳天皇は即位したとき14歳であり広義門院の院宣によって北朝の政権運営がなされた

12: 日本@名無史さん 2018/02/17(土) 17:22:05.00
そこで閑院流の姫を以仁王皇子に嫁がせたら、、、閑院流の権化みたいなのが生まれます 

13: 日本@名無史さん 2018/02/17(土) 17:50:54.03
>>12
八条院の母美福門院は閑院流出身ではないし
閑院流って美福門院のライバル待賢門院の実家だよね

14: 日本@名無史さん 2018/02/17(土) 20:24:19.95
長谷部信連を巡って 第2章 以仁王令旨
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/nob/nob-2.htm#ryoji

確かに八条院は六条流。しかし八条院領を閑院流に相続させようとしている

15: 日本@名無史さん 2018/02/18(日) 20:43:32.01
>>14
八条院は藤原閑院流を重用したり相続させようとしたことはない
八条院が相続させようとした三条姫宮は皇族(八条院の異母兄・後白河天皇の孫)だし
八条院と同母なのは近衛天皇と高松院(二条天皇后)だけだがどちらも若死
同母の近衛天皇や高松院に子があればそちらに相続させただろうが
どちらも子を残すことなく死亡した
残る兄弟姉妹はすべて異母
そのため八条女院領は異母兄弟の子孫に相続させる以外なかった

17: 日本@名無史さん 2018/03/03(土) 08:39:56.08
大河・平清盛の放送時に八条院の歴史的立ち位置をもっと知っていたらドラマの見方はかなり違っていたんだろうなー
録画は全回とっといたのを総集編残して消してしまったし・・・

18: 日本@名無史さん 2018/03/15(木) 17:08:19.32
独身が建前の女院て男妾を持たなかったの?

19: 日本@名無史さん 2018/03/16(金) 15:18:45.12
>>18
当時は出産は難事で死んだ女性も多いし多くの女性を侍らせて本人はリスクゼロの男性権力者と違って女はリスク多いし高貴な内親王ほど未婚だったし

ただ八条院の同母妹・高松院は夫の二条天皇と別居死別後 密かに僧・澄憲(藤原信西の子)と通じて隠し子がいたとされる
高松院は出産が原因で急死したらしい
隠し子の2人は公にされることなく上の子(男子)は澄憲の弟子となり出家
下の子(女子)は八条院に仕える女房になったらしい


31: 日本@名無史さん 2018/04/11(水) 15:04:20.17
八条院は以仁王挙兵の時に追捕されなかったの?

35: 日本@名無史さん 2018/04/12(木) 11:25:41.62
>>31
八条院が以仁王の令旨に直接かかわっていたかは不透明だから処罰できないよ
八条院が荘園領主を務めるところを経由して以仁王の令旨が広まったともいうけど
女院本人が平家追討を命令したわけではないし証拠不十分

32: 日本@名無史さん 2018/04/11(水) 19:14:26.56
八条院はただ院号宣下を受けた女性というだけ(これだけでもそうとうだが)じゃなく、准国母でもあるからな。さすがの平家でも手が出せる相手じゃない。

36: 日本@名無史さん 2018/04/12(木) 12:21:20.30
頼政謀叛の時は清盛弟の頼盛のとこにトンズラしてた八条院

38: 日本@名無史さん 2018/04/12(木) 12:59:58.91
>>36
トンズラではなくもともと八条院の女院御所・八条第の隣に平頼盛が邸宅・八条殿を構えて親しく八条院の御所に出入りしていた
平頼盛の正室・大納言局は八条院の乳母子で八条院の側近だった
以仁王と源頼政が敗死すると清盛の命令で頼盛が隣接する八条院の御所へ行って以仁王の男子を出家させている

40: 日本@名無史さん 2018/04/22(日) 12:32:04.34
以仁王が叡山に預けられてるのに俗世で元服したのは八条院が何か吹き込んだのか?

41: 日本@名無史さん 2018/04/24(火) 17:40:03.87
>>40
還俗元服に八条院は直接は絡んでいない

1161年、後白河上皇の寵妃・平滋子が憲仁親王(後の高倉天皇)を出産
父後白河と仲が悪かった二条天皇は異母弟の憲仁親王を帝位につけるのではないかと警戒
滋子の兄平時忠を流罪にする(後に戻ってくる)
1162年、二条天皇の別の異母弟・以仁王が比叡山を降り還俗
当時二条天皇には皇子がなく、憲仁親王への対抗馬として二条天皇らに保護されていたらしい
1165年、二条天皇が亡くなると、以仁王は二条天皇の后・皇太后藤原多子の大宮御所で元服、しかしこの前年、二条天皇に唯一の男子が誕生、六条天皇となったため以仁王は帝位を逃す
1168年、後白河上皇は六条天皇を退位させて望み通り高倉天皇を即位させ、以仁王は用済みとなる

用済みとなったからといって以仁王は帝位を諦められない
八条院の側近女房を恋人にして八条院の御所に入り浸りこの女房に大勢の子を産ませた
八条院は女房の子らを庇護し以仁王を猶子とした


50: 日本@名無史さん 2018/05/02(水) 16:14:19.96
木曾軍入京の折は仁和寺近辺にトンズラしていた八条院
もちろん池頼盛も一緒w

51: 日本@名無史さん 2018/05/02(水) 21:14:28.56
もともと八条院は常盤殿という別邸を所有していた
木曽義仲入京により平家は当初全面対決の様子を見せ洛中が戦場になるというので八条院はここに避難した
一方、山科の防衛を命じられて出陣した平頼盛に何も告げぬまま平家一門は安徳天皇を伴って都落ち、一人取り残された平頼盛は八条院を頼って常盤殿に匿ってもらった

64: 日本@名無史さん 2018/05/04(金) 12:51:35.33
>>51
常磐井殿だろ

66: 日本@名無史さん 2018/05/04(金) 18:50:28.06
>>64
八条院の別邸は常盤殿だよ

常磐井殿って西園寺家の別邸で
西園寺実氏ー大宮院ー亀山法皇ー恒明親王に贈られた御殿だろ
常磐井殿があった場所は京極大路の東

八条院の別邸・常盤殿があった場所は仁和寺の南東

52: 日本@名無史さん 2018/05/03(木) 08:45:19.35
頼盛みたいな生き方に憧れる・・・

南朝にどっぷり入れ込んでたのに、ちゃっかり北朝でも生き残った阿野家もええなあ

53: 日本@名無史さん 2018/05/03(木) 13:39:50.12
平家存命の時は白眼視されてた頼盛だぞ。はたして耐えられるか。頼朝が勝者になったからいいものを
阿野は元を辿れば頼朝の弟の家柄だから足利も無下にはできなかったのだろう

54: 日本@名無史さん 2018/05/03(木) 16:17:09.94
南北朝時代は摂関家すら南朝北朝で割れてただろ
阿野は頼朝弟の血筋だから足利が優遇したのではなく
北朝についた阿野まで足利に絶滅させられるいわれがない

55: 日本@名無史さん 2018/05/03(木) 17:56:42.34
>>54
それが南朝廷臣の阿野家が合一後に北朝に帰参して、後に正二位権大納言まで昇ってるのよ。


80: 日本@名無史さん 2018/07/07(土) 21:18:59.36
八条院さんは八条にすんではったん?

83: 日本@名無史さん 2018/07/22(日) 20:48:41.87
まじレスすると、八条近辺は昔から貧民が多かったと思われる。
巨椋池に近いほどマラリアの危険が高くなる。

84: 日本@名無史さん 2018/07/23(月) 13:29:03.83
八条のあたりに巨椋池があったと思ってる?

当時は八条よりもまだ南に
鳥羽上皇と美福門院が暮らす大豪邸・鳥羽離宮があったのに

86: 日本@名無史さん 2018/07/24(火) 09:25:11.61
地理を知らない人がいるね

九条の東側は明媚な東山が望め平安末期には関白九条兼実の大豪邸があった

西側(つまり平安京の右京)は低湿地帯で長らく使われていなかった
(現在の京都市街地が東寄りなのはこのため)

平安京ができた当初は内裏に近い左京一条〜三条ぐらいが貴族の邸宅街だったが
戦乱もなく貴族の人口が増えたこともあり手狭になってきた
平安時代末期、治水工事技術の向上により六条〜九条あたりが開発された
ここに女院や分枝した大貴族たち、新興勢力の平家などが豪邸を建てた

巨椋池は場所を知らないみたいだけど宇治川の傍
八条も九条も関係ない

引用元: ・八条院