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1: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 17:15:12 0
滅亡前のローマの最後の復興の時代になったコムネノス朝とその時代を重点的に語っていくスレ。
十字軍発生、ヴェネツィアの東方進出
西欧から見てもターニングポイントでもある。

コムネノス朝
http://en.wikipedia.org/wiki/Komnenos_dynasty
コムネノス朝の再興
http://en.wikipedia.org/wiki/Komnenian_restoration
コムネノス朝の軍隊
http://en.wikipedia.org/wiki/Komnenian_army
(英語だが翻訳サイトを使えば案外わかる)







コムネノス朝

ビザンティン帝国の王朝(1081~1185)。小アジア、パフラゴニアの大豪族コムネノス家出身のイサキオス1世に始まり、アンドロニコス1世に至る6人の皇帝を輩出。

ノルマン、セルジューク・トルコ、ペチェネグ、マジャール人の侵攻を防ぎ、アンティオキア公国を帝国領とするなど、一時的ではあったが対外的に国威を高めた。だが国内では、土地を媒体にした、西欧の封建制に酷似したプロノイア制の浸透により封建化が進み、属領統治の屋台骨であるテマ制(軍管区制)が崩壊した。このため中小自由農民層が大土地所有者層に併呑(へいどん)され、国税の収入が下落、軍事力も低下、それにイタリア商業都市の進出で商業が不振となり、国力の弱体化が始まった。





4: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 17:38:50 0
アレクシオスやヨハネスは結構戦いに出ているけどマヌエルの親征はミュリオケファロンの敗戦だけ?
ハンガリーやセルビアへの遠征は部下任せか

Manuelcomnenus


マヌエル1世コムネノス


マヌエル1世コムネノス“メガス”(1118年11月28日 - 1180年9月24日)は、ローマ帝国コムネノス王朝の第3代皇帝(在位:1143年 - 1180年)。同王朝第2代皇帝ヨハネス2世コムネノスとハンガリー王女エイレーネー(イレーネー)の子。

父による軍事的成功を受けてマヌエルはローマ帝国の再興を目指し、イタリア遠征やキリキア・シリア遠征などの軍事行動を起こし、神聖ローマ帝国やエルサレム王国、ルーム・セルジューク朝などと抗争した。だが、イタリア遠征はシチリア王ルッジェーロ2世によって阻まれ1年で失敗した。

キリキア・シリア・ハンガリー遠征は成功を収めてエルサレムや、アンティオキア公国、ハンガリー王国に宗主権を認めさせたものの、それは所詮諸国のパワーバランスの上に立つ脆い支配でしかなかった。またヴェネツィア共和国と交易をめぐって対立し、ヴェネツィア人勢力の一斉追放などを行なった結果、関係が悪化。このほか小アジアの領土回復も図ったが、神聖ローマ帝国と結んだルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン2世の前に、1176年、ミュリオケファロンの戦いで惨敗してしまった。

その後も対神聖ローマ同盟のためにフランスと縁組を結ぶなど、最後まで外交戦略をあきらめることはなかったが、1180年、61歳で死去した。マヌエル1世はローマ帝国の栄光を再現しようとしたが、対外進出はことごとく失敗に終わり、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻してしまった。

それまで東方の大国の座を維持してきた東ローマ帝国の国力はマヌエルによって使い果たされてしまったのである。マヌエルの失敗によって帝国は急速に衰退し、1204年の破局を迎えることとなる。


8: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 20:51:22 O
マヌエルは親征して1172年ハンガリーの支援を受けたセルビアのステファン・ネマーニャの軍を破り降伏させ 
ネマーニャは拘束され帝都に連行されている

5: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 17:56:37 0
フランスオタクのマヌエル

6: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 19:15:38 0
マヌエルは西欧の騎士(騎兵)を参考にした騎兵を編成したというが
西欧よりも強力なハンガリーやリトアニアの軍を参考にすればよかったのに

9: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 20:58:53 0
コムネノス朝初期の騎兵は騎馬民族からの傭兵で構成された軽騎兵だった。
だが十字軍の重騎兵がセルジュークやアラブの軽騎兵を蹴散らしていく所をみたマヌエルは西欧式の重騎兵を編成しようとした。

10: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 21:08:05 0
マヌエルの時代の十字軍国家は周辺のイスラム国家に侵食され始めてただろうが

12: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 21:47:33 0
コムネノス朝の軍隊
http://en.wikipedia.org/wiki/Komnenian_army

Strength 40,000 field troops
案外少ないな、それとも当時のヨーロッパの中では多い方だったのか

19: 世界@名無史さん 2009/12/09(水) 00:41:50 0
>>12
ウィキだから信頼性はどうかと思うが周辺諸国よりは上だったろ
ハンガリーは豪族たちや王族同士で内乱多発
ルームセルジュークは十字軍の侵攻で被害
十字軍国家は小国家群
あそこら辺では頭一つ抜けてる感じ

14: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 22:36:45 0
ヴェネツィア様に喧嘩売らなければ
帝国の寿命も延びていたことだろう

29: 世界@名無史さん 2009/12/11(金) 17:57:39 0
>>14
マヌエルのヴェネツィアに対しての勝利というやつも
ただヴェネツィアの恨みをかっただけだったからな

15: 世界@名無史さん 2009/11/30(月) 00:13:06 0
マヌエルの失敗は後継者の男子を早く作らなかったことだなw

というかアンドロニコスを殺しておけばよかったのにw

アンドロニコス1世コムネノス

アンドロニコス1世コムネノス(1123年 - 1185年9月12日)は、東ローマ帝国コムネノス王朝最後の皇帝(在位:1183年 - 1185年)。皇帝アレクシオス1世コムネノスと皇后エイレーネー・ドゥーカイナの三男イサキオスを父に持ち、母はグルジア王女カタである。マヌエル1世コムネノスの従弟に当たる。

1180年、マヌエル1世が没してその子のアレクシオス2世が後を継いだが、12歳という幼年であったため、政務は摂政となった生母のマリアが行った。しかしマリアは夫のマヌエルと同じく親ラテン政策を採用したため、国民の間から不満が高まるようになった。この不満を背景に、アンドロニコスは1182年、クーデターを起こしてマリアを殺害し、翌1183年にはアレクシオス2世の共同皇帝となった。

内では強圧かつ弾圧的な政治、外では領土の失陥などを繰り返した結果、民衆の不満は増大。1185年にノルマン人がバルカン半島へ侵入して都へ迫ると、パニック状態になった首都コンスタンティノポリスの市民や貴族は怒って縁戚のイサキオス・アンゲロスを擁立して反乱を起こした。これによりアンドロニコスは、わずか2年で廃位された上、首都の市民らになぶり殺しにされてしまった。


16: 世界@名無史さん 2009/11/30(月) 00:38:19 0
>>15
むしろ男子ができず
専制侯のベーラが皇帝になっていても面白かったと思う。
有能な人物だったようだし

41: 世界@名無史さん 2010/05/02(日) 12:53:45 0
>>15
>アンドロニコスを殺しておけばよかったのにw

これやっとけばアンゲロス朝にならなかったんじゃないかな。


東ローマがまともな帝国として存在していた頃の最後の王朝だからなあ。
ああだったら、こうだったらと思うことは多いよw
これが西ローマだとしょっぱながアイツだしw
22: 世界@名無史さん 2009/12/09(水) 17:39:15 0
シチリア攻めに成功していればあるいは・

23: 世界@名無史さん 2009/12/09(水) 22:40:59 0
何気に、重要な場所であるキリキアにいたアルメニア人を完全に抑えられなかった所がいたい。 
ヨハネスやマヌエルの支配も所詮表面的なものにとどまった。

25: 世界@名無史さん 2009/12/10(木) 02:56:08 0
>>23 
ヨハネスの死ぬ少し前にアルメニアの王子が脱走して反乱起こしてたんだったか 
マヌエル時代に再び臣従したといっても実際には自立を許してしまったようなものらしいからな。

26: 世界@名無史さん 2009/12/10(木) 21:03:36 O
マヌエルの前帝の怪しげな急死 
その直後の兄イサキオスを間伐入れずに帝都で拘束する手際の良さ 

こうして見るとホントに兄イサキオスは愚鈍だから遺言で皇位継承者から外されたかどうか疑問 
ホントに愚鈍なら多少拘束するのを遅れても支障なかったはずでしょ?

13: 世界@名無史さん 2009/11/29(日) 22:02:27 0
ヨハネス2世は1143年に狩猟中の事故で死んだらしいけど 
同じ時期にエルサレム国王のフールクも狩猟中に死んでいるんだよね 
同じ時期に同じような死に方をするとはいかにも怪しい 
実は二人ともイスラムの暗殺教団に始末されたんじゃないか

37: 世界@名無史さん 2010/01/27(水) 17:52:27 0
正直ヨハネスの死は本当に事故死だと思うけどね 
陰謀の疑いある事柄は大抵たいしたことないもの 

だけど、死んでくれてザンギーやマヌエルは助かったと思うけど(笑)

17: 世界@名無史さん 2009/12/08(火) 13:52:21 0
パレオロゴスの子孫がフランスにいるらしいけど
コムネノスの末裔かたるものはいないんだろうか

18: 世界@名無史さん 2009/12/08(火) 23:30:29 0
>>17
聞いた限りではない。
血統なら欧州の著名な貴族に流れているが

27: 世界@名無史さん 2009/12/10(木) 21:33:24 0
エデッサ伯国の事実上の見殺し
第二回十字軍への非協力的な態度
その後のザンギー朝とマヌエルの関係
密約の匂いがするんだけど

34: 世界@名無史さん 2010/01/14(木) 18:08:15 0
>>27
第二回十字軍を支援しなかったのは
そのときシチリア王国に領土を荒らされていたからだ

第4回十字軍が有名だが
二回目の十字軍でもコンスタンティノープルは攻撃を受けている
シチリアは古くからの敵対国だがな

30: 世界@名無史さん 2009/12/11(金) 19:39:19 0
堅実、確実、安全、倹約と徳川家康みたいなヨハネスから
なんでマヌエルのような博打、派手が好みのがきが生まれたんだろ
きっとマヌエルは親父が嫌いだったんだろう

36: 世界@名無史さん 2010/01/27(水) 01:33:29 0
>>30
マヌエルはネオケサリアでの戦いで父に無謀だと怒られたらしいしな

もっとも皇帝に選ばれた理由がネオケサリアで見せた勇気をかってのことだったらしいが

32: 世界@名無史さん 2009/12/13(日) 03:24:49 0
皇帝マヌエル1世コムネノスによるアンティオキアへの懲罰としての遠征を招いた。
アンティオキア公ルノーは抵抗は無益と悟り、マヌエル帝の陣営に乞食の様な格好で現れ卑屈に許しを乞い、東ローマ帝国への臣従を誓わされた

この時にルノーを斬首してアンティオキアを徹底的に叩いて征服するべきだった。
喧嘩を仕掛けてきたのはアンティオキアだったのだし

33: 世界@名無史さん 2009/12/15(火) 23:22:12 0
>>32
シリアやシチリアよりまず帝国の心臓部のアナトリアだよ
東ローマの軍事貴族の発祥地でもあるし(コムネノスも)
イタリア、エジプトを失って以来帝国の最も重要な土地だった。

38: 世界@名無史さん 2010/02/07(日) 00:04:16 0
>>32
十字軍国家つぶしたら
西欧諸国怒らせて十字軍送られるだろうが
まあ結局4回目の十字軍で崩壊したが

40: 世界@名無史さん 2010/03/11(木) 11:05:26 0
他のどの王朝とも毛並みが違う。
帝国の最後の栄光の時代だったな

41: 世界@名無史さん 2010/05/02(日) 12:53:45 0
>>31
>帝国の最後の栄光の時代だったな

だからこそ、マヌエルが無謀なことしなければって思いは拭い去れない。

42: 世界@名無史さん 2010/05/02(日) 13:12:19 0
確かにマヌエルは裏目に出たことが多かったが、まだ致命的な失敗ではなかった。
後の皇帝しだいでは十分勢力を盛り返せただろう。
トドメをさしたのはアンゲロス朝のアホ皇帝たちだ。

44: 世界@名無史さん 2010/05/24(月) 22:16:21 0
>>42
>トドメをさしたのはアンゲロス朝のアホ皇帝たちだ。

俺ら極悪非道のアンゲロスブラザーズ!
今日も未来はないのに帝位争いしてやるからな
no title


コイツらが皇帝になれたのも爺さんのコンスタンティノス・アンゲロスがアレクシオス1世の娘をたぶらかして嫁にして貴族の仲間入りをしたからだ。
コムネノス朝は終わりの始まりだったんだろうな。

43: 世界@名無史さん 2010/05/02(日) 23:33:12 0
マヌエルって、1167年にハンガリーを破ってるんだね。

あと、あまり語られないけど、1185年にはブルガリアが独立していた。同じ年にはシチリア王国もテッサリニキを陥落させているとのことだし、アンゲロス朝となってしまったのも、ビザンツ国民がマヌエルの後継者に満足できなかったからなのだろう。
トドメを刺したのはアンゲロス朝だけど、やはりマヌエルの後継者に名君が出ていれば、少しは違った結果になったかもね。でも12世紀は西欧12世紀ルネッサンスと言われるくらい西欧が力をつけてきた時代だから遅かれ早かれ凋落してたのだろうね。

ホント、ああだったら、こうだったらと思うことが多い。

引用元: ・コムネノス朝ローマ帝国