41WFCE0vk5L



1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 14:51:03 ID:sR9L8cH0
なぜこの人のスレがないの?偉い人だったと思うけど








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 14:56:45 ID:IUJ0uM1z
偉くはないが名将ではある

3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 14:56:48 ID:Htvf0Rm5
三国志の賈詡と被らないか?

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 18:13:50 ID:Jv7fykQM
>>3
なんとなくわかる。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 16:33:13 ID:+mST/sen
7回主を変えた転職ぶりや、豊臣見限りの絶妙のタイミングより、むしろ江戸期の徳川家康・秀忠を手玉に取ってみせた手腕の方がスゲーと思う。
この人は、主君としても部下としても優れた人だと思うけど、おれが横並びで外様大名だったら、そのあまりのスリ寄りっぷりにやっぱりうんざりするだろうな、という気はする。

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 17:29:23 ID:LHCVatDw
実は日本の築城史上、最も重要な人物の一人だったりもするな。
司馬遼太郎の小説のせいで悪役にされてるが、個人的には人格的にも、同時代の武将の中でも傑出したものが有ると思ってる。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 19:32:50 ID:IUJ0uM1z
身長188㌢ぐらいだっけ?
若い頃は槍働きで百姓とたいして変わらん身分から出世して九州征伐でも命令無視して孤軍奮闘する宮部隊に独断で合流、夜明けまで激戦を演じて骨のある所を見せたり根っからの武人って感じだったのに晩年はかなりイメージが…

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 20:00:41 ID:p5NnN6S4
家康とあの世で会うために、改宗するのはちょっとやりすぎというか、な…
もっとも、豊臣恩顧の外様大名で生き延びるのは大変だったとは思うんだが妻子を人質として江戸に住まわせるのも、藤堂が最初に率先してはじめたし尻尾の振り方が、ちょっと潔すぎる感じはある

徳川家康との逸話

元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。その家康の言葉に高虎は、「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うと、高虎はその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した。



26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/01(金) 18:36:41 ID:y1xncjIK
司馬遼は、藤堂高虎は嫌いだったみたいだね。
主君を7回代えたといっても主家が潰れてるんだから仕方ないし、徳川の顔色見て過したのは、豊臣恩顧の外様大名はみんなそうだから、それを悪く言っても仕方ないと思うんだがな。
ただ、高虎の忠義立てって犬が腹を見せて媚びるみたいなやり方だから、家のために、国もち大名の気概とかプライド捨てて擦り寄ったというより、そういう余計なものが、悪い意味で元々なかったんだろうなという気はする。

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/01(金) 18:56:06 ID:ei+pp6KA
高虎は同じように豊臣を見捨てて徳川に付いた武将(長政とか嘉明とか)にも滅茶苦茶嫌われてたらしいね
やってることは後世の立場から見て同じなんだが、当事者たちにはそれなりの拘りがあった模様

121: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/14(木) 02:57:44 ID:WLwtx/TP
>>27
後年、蒲生家断絶後の会津42万石に高虎が加藤嘉明を推挙したそーな。
なんでやねん、おまいら仲悪かったんちゃうんかと問うた秀忠に対して曰く
「私事と公事は別、重要拠点である会津には剛勇律儀な嘉明こそ適任」と高虎。 
嘉明も感謝したとのこと。
一時は「拝志騒動」と呼ばれる戦争勃発寸前事態まで逝きかけてた両者の関係は、これで改善された……とか。

123: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/14(木) 12:21:44 ID:sq2368/z
>>121
>会津転封
あれにも諸説あるが、実はもうすぐ完成する松山城を置いていかせようとした築城オタ的嫌がらせ説を押す。

嫌がらせのはずが感謝されちゃって、アレ?みたいなw

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/01(金) 19:22:17 ID:fA9dZhzm
加藤(嘉)と藤堂の不仲は、朝鮮出兵のときの手柄争いで揉めたのが原因らしく、藤堂家の公式文書にも公然と「不仲」と記されるくらい、昔から仲が悪かった。
黒田は、よくわからん。
ただ長政は、自分の娘を藤堂家にやる約束を急に反故にして揉めているから、何か気にいらないことがあったのは確か。

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/02(土) 03:32:40 ID:YsgqhdU0
この男、個人への帰属意識が強いんじゃないか?
現在裏切りとされる行為も、ほとんどは主君死後のことだし。
ただ新たな主君への追随のし方があまりにも露骨で不快感を与えやすいだけなのかもしれん。

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/02(土) 08:42:17 ID:vf73w2c/
ちょっと不思議なくらい徳川家に気に入られてるところを見ると、家康や秀忠とは個人的に馬があったんだろうな

まあ、他の外様連中からしたら、おれたちは心ならずも追随してるのに、お前は本気かよ!って感じだったんだろう
同じ外様という立場で、ひとりだけえらく忠実なやつがいると、バランス的にあわせて忠義立て競争をする破目になるから、迷惑というか面倒というかな

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/02(土) 15:30:59 ID:sauR9TqC
>>34
でも外様の中でも毛利とか伊達とか前田とか、そういうところとは仲がいいような>高虎
仲がいい悪いはそれぞれだろ。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/02(土) 16:24:57 ID:oQgZC6ra
福島正則とも仲悪いな。
ものすごく大人げない嫌がらせを正則がして、笑ったりしてるw
このひと三成襲撃の七将にカウントされることもあるのに武断派の連中と、もしかして仲悪いのかも??
正則が改易された後、ある旧臣を召抱えようとしたら、旧主の正則は高虎とは不仲だったので仕えたくないと言って断った話がある。

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/02(土) 22:44:48 ID:R1sOJv3Q
ちょっとしたトリビア

藤堂高虎の「虎」の字は、武田信玄の父・信虎に由来する。


補足
高虎の父・虎高は、武田信虎に仕え軍功をあげてその偏諱を賜り、のちに近江の浅井氏に仕官したと「寛政重修諸家譜」にある。

かなり怪しい話ですが・・・

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/03(日) 02:40:08 ID:81v8c4m2
武将の能力という観点からは過大評価されてるように思う
高虎が優れていたのは時勢を見ることと、取り入るための弁舌
まあこれが戦国を生き抜くためにもっとも必要な能力だったりするんだけどね

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/03(日) 04:12:04 ID:ZFWLvv0/
高虎が評価されたのは、行政技術とインフラ整備の能力の高さだろ。
江戸初期の築城や街作りにかんしては、高虎の独壇場と言っていい。

個人的には逆に人に取り入ったり時勢を見るこ事は上手くない人間だったと考えているよ。取り入る事が上手けりゃ、もっとキレイな経歴を歩くだろ。山内一豊みたいに。

基本的には家康が異常なほどその能力を評価しただけ、っていうのがホントのトコだと思うよ。それで高虎も感動して家康に絶対の忠誠を誓った。

「士は士を知るもののために死す」ですよ。

45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/03(日) 11:28:13 ID:7+uHQTmA
それはいくらなんでも贔屓の引き倒しという気がするが・・・
築城と城下町づくりに非常に優秀な能力があったのは事実だが、ふつうに人心懐柔術も世渡りの才覚も人並み以上にあった人でしょう。

個人的には、この人の評価は、幕末の津藩の絶妙すぎる裏切りのタイミングが先祖にも波及効果を与えて、わりを食ってる部分はあるとは思う。

藤堂 高虎

幕末の鳥羽・伏見の戦いで、藤堂氏の津藩は彦根藩と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。そのため幕府軍側から「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世に仮託して皮肉られたという。この津藩の寝返りが藤堂高虎の悪評を決定づけてしまったため、高虎にはありもしない悪評がつきまとうようになったと羽生道英は著書『藤堂高虎』の後書きで弁じている。


48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/03(日) 23:59:35 ID:2GaDIdao
家康と同じ宗教に改宗する話はいかにも高虎っぽい。

252: 人間七七四年 2007/02/12(月) 17:31:29 ID:PjVvgFj0
>>48
あのエピソードって高虎の変わり身の早さを皮肉ったものだと思ってた

64: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/10(日) 23:12:44 ID:Z87bduV7
鳥羽伏見の戦いでは藩祖を習って幕府を裏切り政府軍についたりとその考え方は徹底しているな

まあ高虎が家康に接近したのはやっぱり秀吉の後継者に不安があったからではないかと思う

81: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 07:03:07 ID:LrTknajB
関ヶ原の後、捕らえられた三成は家康の居る大津城へ連行された。
しかし家康の前には上れず、城門の前に畳を敷いてその上に座らされて晒されていた。

次々に登場してくる東軍の大名は、縛された三成を見て罵倒したり唾を吐きかけたりしたが、しかし、黒田長政と藤堂高虎だけは違った。

長政は三成の姿を認めるとすぐに馬を下り、
「勝敗は天運とはいえ、さぞ御無念でござったろう。」
と丁寧な慰めの言葉をかけた上、自らの羽織をぬいで三成に着せ掛けた。

高虎も馬を下りて、敗戦前の三成に接すると変わらず
「このたびの戦において貴公の部隊の戦い振りは、敵ながら誠に見事でござった。
もし貴公の目から見て我が部隊の至らぬ点があれば、ぜひ御教授願いたい。」
と、慇懃に語り掛けた。すると三成は少し黙した後に
「されば貴公の部隊には鉄砲隊に高い身分の指揮者がいなかったように思えた。改善すれば鉄砲隊の威力も大きく変わってこよう。」
と答えた。
高虎は大いにこれを謝し、実際にすぐに鉄砲隊の再編成をおこなった。

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 07:28:19 ID:Vh3bPxWA
「細川家記」では、長政も「そんな姿になっても、まだ生きてるとはな」
と言って、嘲笑した話になってて面白い。
それで忠興だけが何も言わず、三成の前を通り過ぎたといういい役に。
どっちでもありえそうな気がするけど、慰める方が頭はいいなとは思う。

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 07:32:26 ID:3/1hlErG
>>82
細川と黒田はめちゃめちゃ仲が悪いからなあw

86: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 07:46:45 ID:sbQqKy+O
藤堂高虎は近江出身だから、尾張出身の福島正則より、石田三成に親近感があったというのはありえると思う。
まぁ地元の津では近江出身というより伊予の大名だったイメージが強いですけどね。

90: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 09:44:56 ID:VPdJpIFq
むしろそんな状況でも、いちいちそんな質問の答えを考えて、真面目に答える三成が、くそ真面目というかマイペースというかw

91: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 09:57:45 ID:Vt7dMbK/
関ヶ原の時、領国の伊予はどうだったんだ?
地理的に西軍の毛利が対岸だから、北九州の西軍を毛利が支援したように伊予でもやっぱり小競り合いくらいはあったんだろうか。
誰か知ってるひといます?

93: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 10:05:22 ID:3/1hlErG
>>91
西軍は伊予くんだりまで兵を出す余裕なし。長曽我部だって四国内ではピクリとも動かなかった。まあ、そんなに戦線広げた所で統率できる将がいないんだからしょうがないが。

121: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/14(木) 02:57:44 ID:WLwtx/TP
>>91
というか、関ヶ原の戦功に対する恩賞が伊予半国20万石、だったわけで。

伊予を治めていた大名は関ヶ原前は6人。
それが東軍西軍にばらばらに別れ、戦後の褒賞で藤堂高虎と加藤嘉明の二人が没落組の領土を接収して伊予をモザイク状に半国分割して統治、となった。
その結果、これまで東予の重要拠点だった国分城が藤堂高虎の得た領土の中では偏った場所になってしまったため国分城を廃城にしてより北方の芸予海峡に近いところに築いたのが、今治城と今治の町。

今治城は西国大名の監視および有事の際の海上交通路の遮断という役割を帯びていたため、本丸から直に軍船の出撃が可能な構造であったのは有名だけど他にも脆弱な砂質地盤に急いで城をつくるためさまざまな工夫を凝らしてある。
短期的な目的、長期的な視野、いずれもを満足させるために注ぎ込まれた最新の築城技術。
今治城の建築は高虎の築城・内政・軍略の才能が具現化した、彼のつくった城の最高傑作のひとつといっていいでしょう。

97: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 23:38:18 ID:aeu9YD4l
藤堂高虎の墓は

上野動物園の象のオリの脇にある

98: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 23:48:19 ID:nMdSiCPu
家康と仲良く並んでいるよね、お墓が。
上野の地名は伊賀上野からきている(地形が似ているとかで藤堂が命名)
伊勢国は要衝、外様の最高峰でもあると言われる藤堂藩は、徳川から『地味に振舞え』を家訓とされた。

100: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 23:54:39 ID:PjXZ59L8
藤堂高虎のなにがすごいかと言うと、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の先鋒だったその子孫があっさり官軍に寝返った事。

101: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/13(水) 00:00:42 ID:Sh5eV55J
あれで遡って高虎の評判まで悪くなった気がする
高虎に理解を示す奴はいても幕末の津藩を擁護する人はほとんどいない

102: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/13(水) 00:17:17 ID:6eIescMT
官軍寝返りは他にもあるし(譜代も寝返ったところある)、
それ自体は現実的な判断だから別に責められるところはないんだけど、
ただ、津藩は寝返りのタイミングが上手すぎる。
要所任せたら戦いの最中でいきなりてw
これが鳥羽伏見の直前だったら、ここまで悪く言われなかっただろうし、
家康の遺言がなければ、さほど裏切り者呼ばわりもされなかっただろうにな。

104: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/13(水) 00:27:58 ID:0BT6p666
>>102
しかし裏切ったからと言って別に官軍に重く用いられたわけでもないのにな>津藩
あのへんはもう、「時代の流れ」としか言いようのない何かがあった気はするよ。

110: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/13(水) 02:21:48 ID:f6p948Ah
近世城郭築城名人

普請の加藤清正
作事の小堀遠州・中井正清
経始(縄張り)の黒田如水・藤堂高虎
黒田・加藤・藤堂で三大築城名人とも

476: 人間七七四年 2007/12/03(月) 11:55:51 ID:oe8rZf49
>>110
亀レスだが、天守閣造りの元祖松永久秀も忘れられないところ。

111: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/13(水) 02:24:05 ID:Sh5eV55J
スレ違いだけど如水が建てた城って具体的に何があるの?

112: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/13(水) 02:36:29 ID:f6p948Ah
大坂城の縄張りは如水です。
今でも残ってるのは中津城・長政と一緒に福岡城。
毛利の広島城・築城もお手伝い。
広島・秋月・名護屋城など廃城になって
残っていない城が多いのが残念。

113: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/13(水) 02:54:49 ID:1UBmRxCV
つ高松城
堀の水を海から引いて、水量は水門で調節した水城
「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と唱われた名城。

というか、生駒親正が藤堂に協力を依頼したら、藤堂が黒田に協力を頼んで、黒田が高松城の城地を決めた。

151: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/23(土) 17:20:27 ID:bfboK+2B
スレを読んでるとわりといい奴そうで、逆にちょっとがっかりだ。

家康がうっかり信じてしまうくらいの忠誠心演技をしながら心の中で「んなわけないだろうが。すべて処世術だよ」と呟くぐらいの方が、かえって凄みがあるというか、誇り高くてかっこいいじゃないか。所詮あんたとは利害関係だけだよというかな。
幕末の見事な寝返りっぷりも、むしろ凄いではないか。譜代扱いの外様だと煽てられたぐらいで、それを真に受けて崩壊寸前の徳川のために城も命も捨てたらアホだろ。
外様は外様。信用した徳川家が間抜けですよというクールっぷり。

そういう藤堂像はこのスレの住人はいやか?

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/23(土) 22:04:45 ID:7tyvcT/Y
藤堂はいいところがあっても、なんか中途半端な感じなのがネック
この人は忠誠心そこそこあったと思うけど、別に飛びぬけた美談もないしそこを強調しても、あんまり面白くない気はする
徳川家との逸話にも、爽やかさだとか派手な話とかあれば、随分印象が変わるんだろうけど、やっぱり普通に馴れ合いにしか見えないしさ
スレでもいいところ探しすればするほど、藤堂が気遣い上手なマメなそこそこいいやつ、でも小物に逆に見えてくるっていうか・・・
むしろ、処世術とすっきりさっぱり割り切ったテクノクラートが能力ひとつで成り上がったという解釈の方が、逆に今の感覚に受ける気もする

155: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/23(土) 22:33:41 ID:SgTKkG6u
一番派手、というか印象良くなる高虎の話は何だろう?
もち代の出世払いあたりかな

156: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/23(土) 22:47:32 ID:V26WBOVN
俺の周りだと、何故か秀長の所に居た時代の話をすると印象が良くなる傾向にあるようだ。

159: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/23(土) 23:44:28 ID:YIoJaGPh
豊臣家滅亡後秀長の墓を自分の寺に移した話とかちょっとグッと来る逸話だよね

163: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/24(日) 20:07:32 ID:aQBGkHqs
実際の戦は秀長配下でのが多いだろ。
結構一番槍を立ててたらしい
まあ、良い苦労時代だろう

190: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/21(土) 17:44:01 ID:6rRTTOeE
伝えられてる話から推測すると、
秀長と家康(その子孫も含む)には誠心誠意をもって仕えてたんじゃないかな。
それにしても、近江の暴れん坊が親藩格にまでなったのは、やはり凄いことだよね。
好きかどうかと言われれば返事に詰まるけど、ソツのない多才な人物だと思う。

206: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/13(月) 21:39:40 ID:okgdou9W
個人的には、好きな武将。

大して仕事もできないくせに、ちょっと要領いいだけで出世した山内より何度も主人を変えつつも、前線の武者働きから始まって一軍の将、果ては準譜代格の大名までなった藤堂を大河にしろ。

207: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/13(月) 22:05:17 ID:BGSh9oUN
司馬に嫌われた武将はイメージの面でだいぶ損してるよなぁ

208: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/13(月) 22:12:52 ID:Oj0eGDIg
司馬に嫌われる前から嫌われ者だっただろ
豊臣恩顧なのに譜代並の扱いを受ければ妬まれるのは当然だし

209: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2006/11/13(月) 22:46:41 ID:gVrlBz6/
妬んだのは誰々なのさ?

210: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/13(月) 23:37:51 ID:BGSh9oUN
いや、司馬小説のイメージが現代人に与える影響を言ったんであって、当時の大名間の評価なんて一般人は知らんだろうに。
んで、誰々なのさ?

211: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/14(火) 00:37:37 ID:df9bM7SB
黒田長政・加藤嘉明・福島正則らとは仲が悪かったという逸話が伝わってる
司馬もそういう逸話や評価を元に小説を書いてるわけで、別に嫌いだから貶してるわけじゃないと思われ

212: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/14(火) 01:34:40 ID:5cjqdL/C
細川や織部、金森ら文化人仲間とは仲良くやってたそうだが、その辺は考慮されないのな

213: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/14(火) 01:47:36 ID:df9bM7SB
そりゃ○○と仲が良かった、というのは非常に結構なことだが小説のネタにはなりづらいでしょ
細川や織部と絡んだ面白い逸話なんてあったっけ>高虎
家康との間には来世の御奉公の話や「有事の際には藤堂家を先鋒にせよ」という遺言なんかが知られてるけど

214: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/14(火) 22:13:59 ID:5cjqdL/C
逸話は特にないな、史料で確認できるだけ。
妬まれた嫌われてたってのも面白い逸話とは思えないけど、ゴシップ的にウケたってところかね。

なんにせよ、やっぱり司馬は家康(とそれに与する高虎)が嫌いに見えるよ。
(好き嫌い有って当然だからそれが悪いとか言うつもりはない。まして小説だし)

引用元: ・藤堂高虎



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