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1: 世界@名無史さん 2008/04/18(金) 06:52:35 0
チュン姉妹、リ=トンキエト、レ=ロイそしてホーチミン。
大国支那から多大なる影響を受けながらも独立を維持し、フランスの植民地となりながら独立を回復、最後はアメリカにも勝利した不屈の国家、ベトナムを語りましょう。
荒らしは徹底無視! 







3: 世界@名無史さん 2008/04/18(金) 23:43:38 0
韓国同様、漢字を捨てたのが悔やまれる国

47: 世界@名無史さん 2008/06/28(土) 10:12:01 0
>>2
漢字を捨てたのは悔やまれるが、トルコ語同様、外人でも真似て書けるアルファベットにしたのは良かったね。
字は真似れても発音が難しいが。

4: 世界@名無史さん 2008/04/18(金) 23:48:22 O
なぜかみんなフランス植民地時代の話はしたがらない

19: 世界@名無史さん 2008/05/25(日) 16:01:38 0
>>4
北部(トンキン保護領)と中部(アンナン保護国)は一応、阮朝の形式的支配が残されたが、北部は中部と切り離され、実際にはフランスの直轄領と変わらなかった。

アンナンでは第一次大戦中まで科挙が実施されており、ホーチミンの父親も科挙に合格し、ごく短期間、「知県」をつとめていたが、阮朝政府の高官と対立して野に下った。

5: 世界@名無史さん 2008/04/18(金) 23:50:37 0
アオザイっていつごろから定着したの?
明朝ではなく清朝期だと思うけど、韓国や日本みたいに明朝以前の合わせ襟式の衣服はベトナムには伝来しなかったのかな?

6: 世界@名無史さん 2008/04/20(日) 16:03:07 0
18世紀頃らしいが

131: 世界@名無史さん 2009/07/19(日) 10:08:58 0
ベトナムのアオザイは、チャイナドレスと同じで満州族起源の衣装だという。
あんな南方で北方民族の衣装を着て、辛くないのだろうか。

ま、冷涼乾燥気候の西欧で生まれた「スーツ」を全世界で着ているが。

8: 世界@名無史さん 2008/04/23(水) 21:08:33 0
多少漢化した人びとがベトナム人口の大多数をしめる「キン族」(ベト族)で、漢化を受け入れなかった人々がムオン族だということだ。

9: 世界@名無史さん 2008/04/23(水) 21:14:18 0
ムオン族は簡単な腰巻と上衣でしたっけ。
アオザイ以前は明朝式衣服 というわけでもなかったような。

10: 世界@名無史さん 2008/04/23(水) 21:21:10 0
キン族も元々先祖は中国南部にいたはず。
南下していって南方種と混血したり、新たな南下漢族と混血したりして今のキン族が形成されていった。

12: 世界@名無史さん 2008/05/11(日) 21:49:08 0
ベトナムにいる華僑・華人っていつごろからどのくらいいるのでしょうか。
特に、戦前北部に20万、南部に120万という事だけどなぜ南部に多いのですか?

13: 世界@名無史さん 2008/05/14(水) 13:18:12 0
当時の仏印時代の国勢では
1879年のコーチシナ華人は4万4000人
1931年の華人人口はコーチシナに20万、トンキン5万、アンナン1万人
僑生(混血)はコーチシナに7万人 
1936年には仏領インドシナ全体で32万6000人の華人在  

1940年代からは第二次大戦の混乱を避けて新規に移民してくる華人を結構受け入れているようです

14: 世界@名無史さん 2008/05/14(水) 22:28:18 0
満鉄の資料で仏領インドシナでは
1923-33間に60万人華人が入国、47万人華人が出国 とあるから
仏印時代から華人の出入国が結構激しかったもよう。

やはり大戦前と大戦後あたりに華人が大量にインドシナに入植している。

16: 世界@名無史さん 2008/05/20(火) 12:33:48 0
1927には広州コミューンが国民党軍に鎮圧されて中国人がチョロンに大量に逃げてきたりしているみたいだね

17: 世界@名無史さん 2008/05/25(日) 12:38:24 0
■ベトナムの偉大なる黎帝国興亡■…ちなみに黎朝は「れ・ちょう」と読む。

■初代・黎利(高皇帝)

陳朝復興を掲げ、あの永楽帝に喧嘩を売った漢。もともと地方豪族に過ぎなかったが、阮廌と共に挙兵、ベトナムから明軍を一掃する。1428年に大越国を建国し皇帝を名乗る。…え?陳朝の復興はどうしたんだって?そんなの楚の項羽と同じ方式で抹殺ですよ。
(注意・黎利が取ったのは北ベトナムのみ、当時の南ベトナムは国も文化も異なっていたのだ。)

■五代皇帝・黎思誠
南ベトナムのチャンパー王国を攻撃し、同国の都を占領。属国化させる。またラオスへ出兵し多大な戦果をあげ帝国の最盛期を築いた。内政面では均田制、科挙制など中国化を進めている。


■衰退および滅亡(威穆帝・襄翼帝・昭宗・恭皇)
1500年代に入ると威穆帝、襄翼帝ら皇帝の暗殺が繰り返され弱体化、各地の将軍が軍閥化していった。特に強大だったのは莫登庸、鄭綏、阮淦らである。
やがて、二大軍閥の莫登庸が恭皇、鄭綏が昭宗をそれぞれ擁立して争い、莫登庸が勝利。1527年、彼は恭皇に禅譲を迫り、帝位につくこうして偉大なる帝国は滅んだ…。だが、黎帝室の権威はいまだ健在であり、極めて利用価値が高かったためそう簡単には終わらないのである。



18: 世界@名無史さん 2008/05/25(日) 12:38:51 0
■しぶとく生き残る、黎皇室■

■反莫戦争 ⇒ 帝政復興 ⇒ 鄭氏専横

莫登庸の簒奪に阮淦が黎室復興を掲げ挙兵、やがてその実権は娘婿だった鄭氏に握られる、やがて莫登庸の子、莫茂洽が討たれ黎室の復興は成るのである。
だが、もはや黎皇室は鄭氏に完全に支配された。


■黎帝室、実権回復の最期の大勝負!!!そして完全滅亡…。

ベトナムは莫氏討伐で活躍した、鄭氏および阮氏に支配されている状態が続いた。
両氏は当初は良好な関係にあったが、17世紀に入ると犬猿となり泥沼の鄭阮100年戦争をはじめるのである。

…だがこの大乱世に英雄が登場した。阮文三兄弟が阮氏に反乱を起こしたのである。特に次男の阮文恵はもはや手の付けられない圧倒的な強さで東洋のナポレオンの異名を馳せたのだった。この大乱世に黎帝・昭統帝は最期の望みを託す。
阮氏、鄭氏、阮文恵が共倒れになれば、黎帝室の復興も可能であると。

阮文恵はやがて、阮氏、鄭氏を滅ぼし。昭統帝は大清帝国より援軍によって一挙に復興を成し遂げようと試みたが、阮文恵の前に大清軍も壊滅。黎帝国はここに完全滅亡したのであった。


こうして、ベトナムは阮文恵の西山王朝によって統一…されたわけではない、乱世はもうしばらく続くが、すでに黎朝とは無縁の話である。


20: 世界@名無史さん 2008/05/25(日) 22:37:49 0
華僑がタオって呼ばれているがタオって「船」って意味なんだよね?
船で来たからタオなん?

21: 世界@名無史さん 2008/05/25(日) 22:49:01 0
道教の道(タオ)じゃねぇの?

22: 世界@名無史さん 2008/05/26(月) 00:17:49 0
中国人の本に書いてあったけどタオは舟の意味だよ。
ホア(華)に比べて蔑称的なニュアンスがあるそうだ。

23: 世界@名無史さん 2008/05/26(月) 00:47:22 0
タオは漢字の「艚」のベトナム語音。

27: 世界@名無史さん 2008/06/15(日) 21:46:58 0
タイは華人との混血が進んだのにベトナムではあまり進まなかったのは何故?

28: 世界@名無史さん 2008/06/23(月) 10:47:26 0

なぜタイで混血が進んだのかだが、

第一次大戦後タイでは政府主導のナショナリズム運動により国民の同化政策が推進された。この時、華人新聞や華人学校に圧力がかけられ多くが廃止された。
そのため華人の子弟はタイ人向けの学校でタイ語で教育を受けねばならずその結果タイ語は解かるけど中国語は両親が喋る方言しかわからず中国語を読むことも中国史も知らない。でもタイ語の読み書きはできると言う華人がほとんどになった。

一方ベトナムはフランス植民地だったため、ベトナムへの同化政策などまったくおこなわれず、華人は華人学校に通うかフランス式の学校に通うかでありベトナム人に同化しなかった。

他の東南アジアも全て欧米の植民地だったために状況は似たり寄ったりで特に香港と並んでイギリス植民地の要だったシンガポールには何世代にも渡って英語で教育を受けたため中国語がわからないどころか、独立後でも英国王室への忠誠心を忘れない華人が大勢いた。彼らには現地マレー人との混血など思いもよらなかったろう。

29: 世界@名無史さん 2008/06/23(月) 12:00:02 0
王朝時代を比較してもタイと比べベトナムは華人との混血は進んでいないね

30: 世界@名無史さん 2008/06/23(月) 19:05:18 0
そうなんだ! じゃ何で混血が進まなかったんだろう。
やっぱりベトナム人の中国人嫌いが原因かな?
なんせベトナム史のほとんどは中国からの侵略とそれに対する抵抗の歴史だから
>>29 あんたは何でだと思う?

36: 世界@名無史さん 2008/06/24(火) 11:23:38 0
王朝時代から居住地などを区別していたから華人との混血はすすまなかった。
阮朝の皇帝がシャムの対華人政索が融和的過ぎるとおどろいたとか。
資料名思い出したら書く。

仏印時代も華人はキン族より優遇されていたようだが、そうしたことで中国人への嫉妬とかはなかったのだろうか。
37: 世界@名無史さん 2008/06/24(火) 21:52:08 0
ベトナム人にカンボジア人のことを聞くと 
『あいつらはバカだから力仕事しか出来ない。オレ達は難しい仕事でも出きる』 
と言う。 

『じゃあ中国人とベトナム人をくらべると?』と言うと 
『・・・・・あいつらはズルイ』と言う。 
政府の政策うんぬん以前に劣等感があるんだろうね。 

ベトナム人には複雑な物資の流通はむずかしく小売りぐらいしか出来なかった。大規模商業が出来ないわけじゃないけど華人との競争には勝てなかった。 

商売でベトナム人が華人に勝つには政府と結びつくか、もともと地主や官僚で有利に立っているかどちらか、でなければ華人を迫害するか追い出すか

38: 世界@名無史さん 2008/06/26(木) 10:44:57 0

あとベトナム人の華人嫌いはライバル意識もあるかな、タイ人と華人はまったく別の文化だけどベトナム人と華人は、ほぼ近いと言うよりベトナムの文化は中国のコピーが多い 
特に西洋化以前のベトナムはそうだった。 
それだけに『南の中華』とか言い出して『皇帝』を名乗ったりタイやカンボジアを属国扱いしたり(面と向かってはしないけど)とにかく中国への対抗意識が強かった。 
もっとも相手の中国はまったく問題にもしてなかったけど 
ベトナムもそれを知っていてそれだけに余計ライバル意識も強かったようだ。

39: ty270410 2008/06/26(木) 11:48:05 0
>>38 
面白いですね.歴史的に劣等感を持ちながらも,ライバル意識を持っていたというわけですね! 
歴代の君主は中華帝国に朝貢して「安南王」や「大越王」に封じられながら,国内では皇帝号をしょうしていた・・・・いわば「小中華帝国」ですね! 

朝鮮半島とは全く違いますね. 
統一新羅,高麗,李氏朝鮮・・・代々国内でも王を称した.「高麗史」では,中華帝国をはばかって「本紀」を立てず,「世家」に歴代の王を記述している・・・・ 

ベトナムの漢文の史書では「本紀」を立てたのだろうか? 
私は,戦時中に刊行された日本語の「安南通史」(冨山房発行)しか見ていないが・・・・・ 


40: 世界@名無史さん 2008/06/26(木) 18:13:03 0
まあ、遣唐使時代の日本みたいなものだろうね。 
中国に朝貢して属国の王として扱われつつ、国内では皇帝を自称。 

ちなみに遣唐使は、元旦の朝賀に列していた朝貢使節です。 
天皇は玄宗皇帝から「日本国王・主明楽美御徳(すめらみこと)に勅す」 
という勅書を与えられています。 

41: 名無しさん 2008/06/26(木) 21:01:10 0
中国は対等の外交を認めないからね。 
臣下扱いに甘んじるか、中国向けと国内向けに分けて誤魔化すか 
でなければ戦争して打ち負かすかしかない
42: 世界@名無史さん 2008/06/26(木) 21:23:28 0
ベトナムと中国(+フランス・カンボジア・ソ連)の複雑な歴史について 

中越関係  ~対立は必然か?~ 

>「ベトナム人は恩知らずだ。」「ベトナムはもともと中国のものだった。」と中国人は言う。 
>これは一体どういうことを意味するのか? 
>歴史的に中越関係とはどのような道筋を辿ったのか? 
>そのような疑問から出発して、中越関係を見ていきたいと思う。 

http://www17.tok2.com/home/yueliang/China-Vietnam.htm

45: 世界@名無しさん 2008/06/27(金) 22:46:20 0
>>42 
これは有意義な内容だ。特に 

広東語とベトナム語は似ていると私が言うと、 
中国人は「ベトナム語と一緒にしないでくれ!」と少し怒った調子で言った。 
と言う内容と 

「ベトナムはもともと中国のものだった。」と中国人は言う。 
と言う内容をつなげると 

ベトナム語と中国語は別言語であり、なおかつ一緒にされるのは不愉快だがベトナムは中国のものだ、となる。 

ぜひベトナム人の感想を聞いてみたい。

31: 世界@名無史さん 2008/06/23(月) 19:49:26 0

ベトナムは民族の独立と統一のために巨大なフランス・アメリカと戦い最後には南ベトナムの傀儡軍を倒してサイゴンを解放した。

まことに感動的な話だけど、たしかサイゴンとその周辺のメコン・デルタって元カンボジア領だろ。でメコン・デルタの北は元チャンパ王国領 いまでもしっかり、カンボジア人とチャンパ人が住んでる。

そのへんベトナムの教科書ではどう教えてんだろ?

32: 世界@名無史さん 2008/06/23(月) 20:02:20 0
>>31
チャンパはてっきり絶滅したと思っていたが、今でもいるの?
もう400年くらい前に滅んでいるでしょ

33: 世界@名無史さん 2008/06/23(月) 20:13:43 0
チャンパ王国はとっくのむかしに滅んだけどチャンパ人はいるよ。
小中学校まではチャンパ語とベトナム語の両方を習い高校と大学はベトナム語で勉強
特に問題は起こさずベトナム人とも上手くやってるみたい・・・・表向きは
チャム族は、主にカンボジア及びベトナム中南部に居住する民族。チャンパ族とも呼ばれる。2世紀から17世紀の間は独立した海洋国家、林邑国及び占城国(チャンパ王国)を持っていた。19世紀のベトナム阮朝は中部チャム族を占尼人、南部チャム族を藍人と呼んで区別した。

34: 世界@名無史さん 2008/06/23(月) 21:44:54 0
チャンパ人と言うよりはチャム族
ベトナム人と言うよりはキン族

かな?

50: 世界@名無しさん 2008/06/28(土) 20:54:36 0

毎日新聞記者のベトナム戦争従軍記を読んだ。

ベトナムは100年近くフランスの植民地だったがそのためだろうか上流階級は相当にフランス化していた。フランス風の屋敷に住みフランス風の服装をしてフランス風のパーティーに出かける。
友人とは両頬にキスをするフランス風の挨拶を交わしフランス語でフランス文学や芸術の話に打ち興じる。パーティーのメンバーが全員ベトナム人でも全く同じ、『文学や芸術を論じるにはフランス語の方が楽』と言い、『あの人はベトナムの学校しか出ていない』とは軽蔑以外のなにものでもない。
この人たちが南ベトナム政府の高官である。
この人たちが『ベトナムの学校しか出ていない』一般民衆をどう見ていたのか、一般のベトナム人がこの政府高官連中をどう見ていたのか想像がつく、それでもこの連中が有能かつ誠実で成果を上げていれば我慢できる。
だが連中の無能不誠実は有名であり、国家予算のかなりの部分を私物化し外国に多額の財産を保有していた。共産主義に対する評価はともかくとして精錬潔白でよれよれの作業着を着ていた北の指導者とは対照的だった。

51: 世界@名無史さん 2008/06/28(土) 20:58:05 0
>それでもこの連中が有能かつ誠実で成果を上げていれば我慢できる。
>だが連中の無能不誠実は有名であり、

それがフランス化と言うものだ。

54: 世界@名無しさん 2008/06/28(土) 21:08:08 0
>>51
>それがフランス化と言うものだ。

細かく言うと
(1)元々のグエン朝の腐敗堕落した政府高官
      ↓
(2)フランス植民地時代も引き続き政府高官になる
      ↓
(3)フランス人にへつらいベトナム人をバカにする
      ↓
(4)アメリカの影響下に再び政府高官に
      ↓
(5)アメリカの金で私腹を肥やす

58: 世界@名無史さん 2008/06/28(土) 21:24:57 0
>共産主義に対する評価はともかくとして
>精錬潔白でよれよれの作業着を着ていた北の指導者とは対照的だった。

共産も資本主義も関係無いんだよな
要は「清貧を通した指導者は人を魅了する」だけの事
ホーチミンみたいな人が共産主義者として世に出たのは悔しいね
どの国、どの思想でもカリスマがあったろうに。

60: 世界@名無しさん 2008/06/28(土) 21:32:59 0
>>58
>ホーチミンみたいな人が共産主義者として世に出たのは悔しいね

そういう時代だったんだろうね。あの時代は本当に有能で誠実な人間が共産党に入った。ほんと人材のムダ使いだったわ

61: 世界@名無史さん 2008/06/28(土) 21:37:06 0
>>60
まあ国を護り統一に導いたホーチミンは無駄じゃあないんだろうけど。。
共産主義もベトナム人の手にかかれば使いよう、方便だったのかも。

80: 世界@名無史さん 2008/07/20(日) 11:19:55 0
結局のところ、中国やベトナムを見ていると、社会主義は外国勢力からの独立と、それと癒着した腐敗した旧体制を打倒するための手段であった気がする。

世の中が安定すると、共産党一党独裁の下での資本主義社会になってしまった。

81: 世界@名無史さん 2008/07/21(月) 05:28:18 0
>>80
ホーチミンやカストロはあくまで民族主義者であって、その実現のために共産主義者のお面をかぶっているだけだからねい。

82: 世界@名無史さん 2008/07/21(月) 19:37:27 0
そこに気づかなかったアメリカは自ら敵を増やしたようなもんだ。

86: 世界@名無史さん 2008/07/29(火) 11:32:41 0
>>82
アメリカと敵対していたからこそ共産主義を選ばざるをえなかったと思っていたが、ちがうの?

87: 世界@名無史さん 2008/07/29(火) 12:16:00 0
初期にはホーチミンはアメリカにフランスからの独立の後援役を要請していたが、アメリカがフランスを支援する為に無視していたらソ連陣営にいってしまった。

カムラン湾使用権など良い条件をアメリカに提示していたし抗日戦のときはOSSから援助を受けていたしホーチミンは対米感情は本来は悪くなかった。共産主義に入ったのも先進国の政党の中でベトナムの独立を支援したのが共産党しかなかったからといわれる。

88: 世界@名無史さん 2008/08/01(金) 23:15:28 0
フランスでは共産党だけがベトナムの独立を支持していた

89: 世界@名無史さん 2008/08/01(金) 23:50:29 0
フランスとイギリスの植民地支配比較では水道整備が全然違うと聞いたよ

90: 世界@名無史さん 2008/08/02(土) 00:54:10 0
ハノイの給水塔は観光名所の一つになってるな

あとフランス時代の刑務所とギロチン

91: 世界@名無史さん 2008/08/02(土) 00:58:19 0
フランス時代の刑務所ってどのくらいあるの?
北から南まで

93: 世界@名無史さん 2008/08/02(土) 02:00:53 0
独立宣言だっけ?
「フランスは学校よりたくさんの監獄を作った」っての。

94: 世界@名無史さん 2008/08/02(土) 10:35:49 0
フランス殖民治下ではカトリック教徒とか官吏や地主くらいしか学校に通えなかったからね。
日本は一応台湾や韓国では教育制度を整備したけど。
白人の異人種に対する差別意識の深さだろうね。

95: 世界@名無史さん 2008/08/11(月) 10:49:34 0
1962年の南ベトナムの識字率は15%。
十年後は80%で、しかし高等教育を受けれたのは一握り。
植民地時代、識字教育なんて大多数の一般人には殆ど無縁だった。

102: 世界@名無史さん 2009/01/06(火) 22:21:01 0
阮朝が復活したら面白いな。
阮朝(グエンちょう、げんちょう)は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。1887年から1945年3月10日までは、フランス領インドシナとしてフランスの支配下にあった。西山(タイソン)朝に敗れて滅亡した広南国の生き残り阮福暎(グエン・フク・アイン/げんふくえい)が、西山朝を打倒して樹立した。

日中戦争が激化すると、日本軍はベトナムから蒋介石率いる国民政府への輸送ルート(いわゆる援蒋ルート)を遮断すべく、北部仏印に進駐する。保大帝はフランスと敵対する日本軍に協力している。1945年3月11日には、ベトナムにおけるフランスとの共同統治体制を転覆させるべく反仏クーデターを発動、保大帝はベトナム帝国としてベトナムのフランスからの独立を宣言した。しかし、まもなく訪れる日本の敗戦により、ベトナム八月革命と呼ばれる革命が起こり、8月30日にはフエの宮殿で退位式典を行い保大帝は退位、ここに143年に及ぶ阮朝は滅亡することとなる。

103: 世界@名無史さん 2009/01/11(日) 11:05:09 0
ナイトクラブの皇帝とか夜の帝王とか言われた人が最後の皇帝だった阮朝に、そんな信望はないだろう。

子孫はフランス在住で娘はイタリア貴族のアジスアベバ公に嫁いだし。

106: 世界@名無史さん 2009/02/04(水) 09:15:11 O
>>103
アジスアベバ公?
アオスタ公の間違いじゃないの
20世紀のしかも10年程度しか自国領にならなかった土地に公爵位が出来るとは思えんが

105: 世界@名無史さん 2009/01/18(日) 00:29:48 O
阮朝の系統は、ゴ=ディン=ジェム元南ベトナム大統領で終わると見るべきだろう。
彼の時代は、フエの人脈が指導層に多かったわけだし、古き良き時代を懐かしむホーチミン市民もたくさんいる。

115: 世界@名無史さん 2009/05/19(火) 19:29:15 O
チュウ夫人こと趙嫗は長さ三尺の乳房を肩に乗せていたというけど、ホントかね?

趙 氏貞

趙 氏貞(黄武4年(225年)? - 赤烏11年(248年)?)は、3世紀の交州九真郡(現在のベトナム北中部タインホア省)の反乱指導者。身長9尺で、3尺もの乳房を持ち、それが鎧に収まらなかったために肩へ回していたという。

赤烏11年(248年)、23歳の時に兄の趙国達(ベトナム語版)らとともに呉に対して反乱を起こし、「麗海婆王」と呼ばれて恐れられた[要出典]。初めは連戦連勝で九真の呉軍を蹴散らしたが、交州刺史の陸胤が兵を率いてくると半年にわたる激戦となった。陸胤は趙氏貞が生娘であることを知って全裸になり、彼女が恥ずかしがったところを打ち破ったという話がある。趙氏貞の最期は河に身を投げたとも、象に踏まれて死んだとも言われている


117: 世界@名無史さん 2009/05/20(水) 21:52:40 O
長さ三尺なら胸囲八尺?
英雄の身長一丈と同じで誇張だろ。

118: 世界@名無史さん 2009/05/21(木) 21:25:35 O
趙嫗はベトナムの伝説か?
三国志呉書とかにあるなら史実だろう。

174: 世界@名無史さん 2010/03/28(日) 11:29:06 0
知ってる人いたら教えてくださいな。
チャンパの首都って、海浜都市だったんでしょうか?
それとも内陸都市だったんでしょうか?

清盛が計画してごく短期間ながら遷都した福原京は、典型的な海浜都市でした。
また、その後の頼朝の拠点の鎌倉もそうです。
当時の東アジア各国では、海洋貿易が大いに発達し始めていましたが、それでも、首都機能そのものを海浜都市に置くというのは珍しい例だったと思うので。

176: 世界@名無史さん 2010/04/21(水) 02:43:33 0
平安・鎌倉の頃なら海浜都市ではない。川沿いだけどちょっと内陸に入ってた。
でも、福原も瀬戸内海が川みたいなもんだから海浜都市とは言いにくいな。

177: 世界@名無史さん 2010/04/23(金) 01:47:44 0
174で質問した者です。
お答えくださってありがとうございます。
なるほどね、この当時のチャンパは内陸首都を置いていたんですか・・・。

思うに、やはり福原京も海浜都市ではないでしょうか。
確かに瀬戸内海はいわゆる外海ではないですけど・・・。
細い内海沿いに都を置いた例を挙げれば、コンスタンティノープルなどもそうだと思いますし。

引用元: ・ベトナム史総合スレ その3



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