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1: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)20:58:10 ID:i1a
ワイが正史三国志の龐統伝を解説するのでよかったら見ていってください









2: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)20:59:59 ID:i1a
そんじゃ開始します

3: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:00:16 ID:i1a

龐統、字士元、襄陽人也。少時樸鈍、未有識者。

龐統、字を士元は、襄陽の人である。若い頃は質朴で明敏でなく、まだ(彼を)知っている者はなかった。

6: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:01:24 ID:i1a

潁川司馬徽、清雅、有知人鑑。統、弱冠往見徽、徽採桑於樹上、坐統在樹下共語自昼至夜。

潁川の司馬徽は、清雅で、人物を見分けることができた。龐統は、弱冠(20歳)のとき司馬徽に会いに行くと、司馬徽は木の上で桑を取っていたので、龐統は木の下に座って昼から夜までともに語り合った。

11: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:02:15 ID:i1a

徽甚異之、称統、当南州士之冠冕。由是漸顕。後、郡命為功曹。

司馬徽は彼をとても素晴らしいと思い、龐統は、南州の士の筆頭になると称賛した。それからだんだんと有名になった。後に、郡の命令で功曹となった。

16: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:03:03 ID:i1a

性好人倫、勤於長養。毎所称述、多過其才、時人怪而問之、統答曰「当今天下大乱、雅道陵遅、善人少而悪人多。

生まれつき人倫を好み、(人を)育てることに努めた。称賛するたびに、その才能より過分に褒めたので、当時の人はおかしいと思って質問すると、龐統は答えた「まさに今は天下が大いに乱れ、正道はしだいに衰え、善人は少なく悪人は多い。

21: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:04:09 ID:i1a

方欲興風俗、長道業。不美其譚、即声名不足慕企。不足慕企、而為善者少矣。今抜十失五、猶得其半、而可以崇邁世教、使有志者自勵。不亦可乎」

今は風俗をよくし、行いをよくしたい。話(評価)を飾ってやらねば、名声を求めようとしなくなるだろう。求めようとしなくなれば、善人は少なくなる。今十人を抜擢して五人がだめでも、まだ半分がおり、世に教化を広められ、志ある者に努力をさせられる。それもよいではないか」

20: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:03:46 ID:BFV
禰衡とは大違いやね

23: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:05:01 ID:BFV
この辺の人物評観念は司馬徽とおんなじわね

27: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:06:36 ID:i1a
>>23
司馬徽も好好先生って言ってなんでも肯定する人間だとかね

25: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:05:38 ID:i1a

呉将周瑜、助先主取荊州、因領南郡太守。瑜卒、統送喪至呉。呉人多聞其名。

呉将の周瑜は、先主(劉備)を助けて荊州を取り、南郡太守を兼任した。周瑜が亡くなると、龐統は遺体を送って呉に行った。呉の人の多くは彼の名を知っていた。

26: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:06:15 ID:BFV
全琮とか陸績と昵懇やったんやっけ
なんで呉にいたんやろこいつ

31: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:08:26 ID:i1a
>>26
功曹になって周瑜が南郡奪ったらそのままついてきた
劉備軍に移籍するときも同様

33: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:08:57 ID:BFV
>>31
はえー南郡の役人やったんや

36: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:10:26 ID:i1a
>>11参照
功曹程度なら交替しないでそのままなのも十分ありえる

28: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:06:46 ID:i1a

及当西還、並会昌門。陸勣、顧劭、全琮、皆往。統曰「陸子、可謂駑馬有逸足之力。顧子、可謂駑牛能負重致遠也」

(龐統が)西に帰るにおよんで、(呉の人は)昌門に集まった。陸勣、顧劭、全琮は、皆行った。龐統は言った「陸子(陸勣)は、駑馬だが俊足の力があるといえよう。顧子(顧劭)は、駑牛だが重いものを背負って遠くまで行けるといえよう」

32: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:08:41 ID:i1a

謂全琮曰「卿、好施、慕名。有似汝南樊子昭。雖智力不多、亦一時之佳也」績劭謂統、曰「使天下太平、当與卿共料四海之士」深與統相結、而還。

全琮に言った「卿は、施しを好み、名声を慕っている。汝南の樊子昭に似ている。智力に富んではいないが、当代の良き人物だ」陸績と顧劭は龐統に、言った「天下を太平にしたら、卿と四海の士を論じてみたいものです」深く龐統と友誼を結んで、帰った。

34: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:09:33 ID:i1a

先主領荊州、統以従事、守耒陽令。在県不治、免官。

先主が荊州を領有すると、龐統は従事として、耒陽の令となった。県にいても統治しなかったので、免官となった。

35: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:10:23 ID:BFV
蒋琬は殺されそうになったのに…

39: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:11:28 ID:i1a
>>35
蒋琬は酒に酔ってたとあるから劉備の逆鱗に触れたのかも

37: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:10:37 ID:i1a

呉将魯粛、遺先主書曰「龐士元、非百里才也。使処、治中、別駕之任、始当展其驥足耳」諸葛亮亦言之於先主。

呉将魯粛は、先主に手紙を届けた「龐士元(統の字)は、百里の才ではありません。治中、別駕の任につかせてこそ、初めてその俊足を使えるのです」諸葛亮もまた先主にそう言った。

40: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:11:41 ID:i1a

先主、見、與善譚、大器之。以為治中従事。親待、亜於諸葛亮。遂與亮並、為軍師中郎将。亮留鎮荊州、統随従入蜀。

先主は、(龐統に)会い、よく語り合って、彼を大器だと思った。治中従事とした。優待ぶりは、諸葛亮に次いだ。こうして諸葛亮と並んで、軍師中郎将となった。諸葛亮は荊州に留まって鎮守し、龐統は(先主に)随行して蜀に入った。

42: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:11:53 ID:bUP
龐統やら方正やら生きてたら蜀はどうなってたと思う?
あくまでイッチ個人の予想で聴きたい

45: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:14:02 ID:i1a
>>42
法正がいて仮に夷陵の戦いがなかったとしてもそれほど影響はないんじゃないかな
ましてや龐統がいてもどうなるものでもないが率直な感想や

43: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:12:39 ID:i1a

劉璋の立ち位置について
史実では、劉璋の父焉が漢王朝の使者を殺し、独立して群雄となっている。劉備は同族の情など感じておらず、初めから土地を奪うつもりで入蜀している。
この三国演義との違いは念頭に置いてほしい。
具体的には同族の土地を奪うためらいがないので、龐統が大義と小義を説く場面がない、劉備が当初に劉璋を襲わなかった理由が違うなど。
ちなみに劉璋が劉備を引き入れた理由は張魯を討伐させて領土を広げ、曹操に備えようとしたから。
劉備が承諾した理由は法正らの「この機に蜀を奪え」との進言があったから。
劉二牧伝や先主伝を参考。

46: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:14:11 ID:i1a

益州牧劉璋、與先主会涪、統進策曰「今因此会、便可執之。則将軍無用兵之労而坐定一州也」先主曰「初入他国、恩信未著、此不可也」

益州牧の劉璋が、先主と涪で会見すると、龐統は献策した「今この会見で、ただちに彼を捕らえましょう。そうすれば将軍は兵を苦労させず座ったまま一州を定められます」先主は言った「他国に入ったばかりで、恩愛も信義も施しておらぬのに、してはならない」

47: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:15:01 ID:BFV
>>46
さすがは流浪将軍やなって

50: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:16:17 ID:i1a
>>47
流浪将軍か
そういわれれば劉備の経験からこの発言なのかもね

48: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:15:33 ID:i1a

璋既還成都、先主当為璋北征漢中。統復説曰「陰選精兵、昼夜兼道、経襲成都。璋既不武、又素無預備。大軍卒至、一挙便定、此上計也。

劉璋が成都に帰り、先主は劉璋のために北のかた漢中を攻撃しようとした。龐統はふたたび言った「密かに精鋭を選び、昼夜兼行で、真っ直ぐと成都を襲いましょう。劉璋は軍事に疎く、また平素からの備えもありません。大軍がにわかに到着し、一気に平定するのが、上策です。

49: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:16:02 ID:b5z
龐統タカ派過ぎて草

52: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:17:47 ID:i1a
>>49
せやな
龐統は伝を読む限り決断力に富んだ人、強硬派って感じや

51: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:16:48 ID:i1a

楊懐、高沛、璋之名将、各仗彊兵、拠守関頭。聞、数有牋諫璋、使発遣将軍還荊州。将軍、未至、遣與相聞説荊州有急欲還救之、並使装束外作帰形。

楊懐、高沛は、劉璋の名将で、それぞれ強い兵をたのんで、関所で守備しております。聞けば、何度も手紙で劉璋を諌め、将軍を出発させて荊州に帰らせようとしたとか。
将軍は、到着しないうちに(=荊州に行かないで)、(人を)遣わして上聞し荊州に危急があるので帰還してそれを救いたいと言わせ、支度して帰るふりをしてください。

53: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:17:55 ID:i1a

此二子既服将軍英名、又喜将軍之去、計必乗軽騎来見。将軍、因此執之、進取其兵乃向成都、此中計也。

この二子はすでに将軍の英名に敬服しており、また将軍が去られるのを喜んで、必ずや軽騎で会いに来るでしょう。将軍が、そこで彼らを捕らえ、進軍してその兵を奪って成都に向かうのが、中策です。

55: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:18:55 ID:i1a

退還白帝、連引荊州、徐還図之、此下計也。若沈吟不去、将致大困。不可久矣」

撤退して白帝に戻り、そのまま荊州に撤退し、徐々に戻りながら攻略しようとするのは、下策です。もし悩んで去ろうとしなければ、大きな問題が起こりましょう。引き延ばしてはなりません」

54: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:18:21 ID:BFV
中策選ばせようとする気持ちが見え見えやな
そうじゃなかったら背後に控える楊懐らを名将呼ばわりせんわ

56: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:19:52 ID:i1a
>>54
「名将」はその気持ちを込めてか
その視点面白い

58: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:20:40 ID:BFV
>>56
あとは
「ワイの策で『名将』を討ち取るで!」っていう誇張というか誇示かもな

57: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:20:16 ID:i1a

先主然其中計、即斬懐沛、還向成都、所過輒克。於涪、大会置酒作楽、謂統曰「今日之会、可謂楽矣」統曰「伐人之国而以為歓、非仁者之兵也」

先主は中策をよしとして、すぐに楊懐高沛を斬り、引き返して成都に向かい、通過する所で勝利した。涪で、大いに会して酒を用意し楽しむと、龐統に言った「今日の会は、楽しいものだ」龐統は言った「人の国を攻めて喜ぶのは、仁者の軍ではありません」

60: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:21:05 ID:i1a

先主酔、怒曰「武王、伐紂、前歌後舞。非仁者邪?卿言不当、宜速起出」於是、統逡巡引退。

先主は酔っていて、怒った「武王が、紂を討伐すると(※)、歌いも舞いもあったではないか。それも仁者ではないと?卿の言葉は不当だ、すぐに出てゆくがよい」そこで、龐統はためらったが退出した。

※周の武王が殷の紂王を討伐した故事に基づく
紂王は夏の桀と並び悪人で有名

63: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:22:22 ID:i1a

先主、尋悔、請還。統、復故位、初不顧謝、飲食自若。先主謂曰「向者之論、阿誰為失?」統対曰「君臣、俱失」先主大笑、宴楽如初。

先主は、すぐに後悔し、戻らせた。龐統は、元の席に戻ると、初めから謝罪せず、飲み食いして平然としていた。先主は言った「先ほどの議論は、誰が間違っていたのであろうか?」龐統は答えた「君臣が、ともに間違っておりました」先主は大いに笑い、酒宴の楽しみは初めのようだった。

64: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:22:42 ID:BFV
>>63
素直な君臣ええぞ^~

67: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:23:17 ID:i1a

進囲雒県、統率衆攻城、為流矢所中、卒、時年三十六。先主痛惜、言則流涕。拝統父、議郎、遷諫議大夫。諸葛亮親為之拝。追賜統爵関内侯、諡曰靖侯。

進軍して雒県を囲み、龐統は兵を率いて城を攻め、流れ矢に当たり、亡くなり、時に三十六歳であった。先主は痛惜し、話すたびに涙を流した。龐統の父を、議郎とし、諫議大夫に昇進させた。諸葛亮は彼のために自ら任命を行った。龐統に関内侯の爵位を追贈し、靖侯と諡した。

69: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:24:30 ID:i1a

統子宏、字巨師、剛、簡、有臧否。軽傲尚書令陳袛、為袛所抑、卒於涪陵太守。統弟林、以荊州治中従事、参鎮北将軍黄権征呉、値軍敗、随権入魏、魏封列侯、至鉅鹿太守。

龐統の子の宏は、字を巨師といい、剛直で、簡素で、批評を好んだ。尚書令陳袛を軽んじて傲慢になったため、陳袛に抑えつけられ、涪陵太守で亡くなった。
龐統の弟の林は、荊州の治中従事として、鎮北将軍黄権の呉征伐に加わり、敗北したため、黄権に従って魏に入り、魏に列侯に封じられ、鉅鹿太守にまでなった。

70: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:24:33 ID:7Af
なぜそこで矢が流れてしまったのか……

72: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:25:16 ID:i1a
>>70
不運としか言いようがない

76: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:25:42 ID:7Af
>>72
(´;ω;`)

71: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:25:15 ID:ERY
流れ矢は雨のように降り注ぐ矢だっけか

79: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:26:24 ID:i1a
>>71
>>71
高島俊夫先生の説やろ?
気になって調べてみたことあるんだけど雨のように降る矢にしては生存率高くて違うんじゃないかがワイの結論

73: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:25:34 ID:i1a

評曰。龐統、雅好人流、経学思謀。于時荊楚、謂之高俊。法正、著見成敗、有奇画策算。然、不以徳素称也。儗之魏臣、統其荀彧之仲叔、正其程郭之儔儷邪。

評にいう。龐統は、人物評価を好み、経学と謀略に長けていた。当時の荊楚の人は、彼を俊才と言っていた。法正は、成功と失敗をよく見極め、優れた計画や策謀を有していた。しかし、徳については称賛されなかった。
これを魏の臣でたとえるなら、龐統は荀彧の兄弟、法正は程郭(程昱・郭嘉)のともがらであろうか。

74: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:25:39 ID:bUP
方正長生きしてたらなぁって

82: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:27:46 ID:i1a
>>74
大差なかったんじゃないかと思うが北伐で有利になった可能性もあるしどうなんやろ

85: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:28:25 ID:bUP
>>82
夷陵がなかったら蜀晩年の人材難もマシやったやろ

88: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:29:40 ID:BFV
>>85
蜀の未来を担う中堅大将と数万の兵士がこんがりやからね
でも荊州出身者をつなぎとめるには必要やったろうし、うーん

75: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:25:42 ID:b5z
演義だと孔明に嫉妬して判断ミスって死んだ扱いされてかわいそう

82: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:27:46 ID:i1a
>>75
演義は孔明のためにある小説だからしゃーない

83: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:27:46 ID:BFV
龐統=荀彧も微妙な感じやな
ここの陳寿評はやっつけな観ない?

87: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:29:14 ID:i1a
>>83
戦術レベルでの方針定めたのと徳がないの点を比較してやと思う

89: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:30:50 ID:i1a
早めに終わったけどどうする?
馬良
董允
麋竺・孫乾・簡雍(ワンセット)

が今ストックあるんやけど今日みたい?明日でもええで

92: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:31:21 ID:7Af
>>89
蜀ばっかやんけ!

91: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:31:15 ID:b5z
見たいわ

94: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:32:07 ID:u4t
見たいわ

99: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:35:35 ID:i1a

蒋琬、字公琰、零陵湘郷人也。弱冠與外弟泉陵劉敏、俱知名。

蒋琬は、字を公琰といい、零陵郡湘郷県の人である。弱冠(20歳)にして外弟(いとこ)である泉陵の劉敏と、ともに名を知られた。

101: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:36:07 ID:BFV
劉敏さんって結構働くのよな

105: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:37:14 ID:i1a

蒋、以州書佐随先主入蜀、除広都長。先主、嘗因遊観、奄至広都、見蒋衆事不理時又沈酔、先主大怒、将加罪戮。

蒋琬は、州の書佐として先主(劉備)に随行して蜀に入り、広都の長に任命された。先主は、かつて遊覧をして、急に広都に行き、蒋琬が諸事を処理せずその時泥酔しているのを見ると、先主は大いに怒り、処刑しようとした。

108: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:37:45 ID:BFV
蒋琬さんは余事に無頓着やからなぁ

113: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:40:14 ID:i1a
>>108
あとあとやるけど無頓着わかるわ

110: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:38:38 ID:i1a

軍師将軍諸葛亮、請曰「蒋琬、社稷之器、非百里之才也。其為政、以安民為本、不以脩飾為先。願主公、重加察之」先主雅敬亮、乃不加罪、倉卒、但免官而已。

軍師将軍の諸葛亮は、願い出た「蒋琬は、社稷(=国家を担う)の器で、百里(=県程度)の才ではありません。その為政は、民を安んじることを根本とし、(うわべを)飾り立てることを先としません。
願わくは主公、なにとぞそのことをお察しください」先主は諸葛亮を敬愛していたので、処罰せず、その場で、免官するだけにした。

115: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:40:29 ID:i1a

蒋、見推之後、夜夢、有一牛頭在門前流血滂沱、意甚悪之、呼問占夢趙直。直曰「夫、見血者事分明也。牛角及鼻、公字之象。君、位必当至公、大吉之邡也」頃之、為什邡令。

蒋琬は、取り調べの後、夜夢で、一匹の牛の頭が門前にあり血がたくさん流れているところを見たので、不気味に思い、夢占いの趙直を呼んで問うた。
趙直は言った「そもそも、血を見るは政事に明るいという意味です。牛の角や鼻は、公の字の形です。君は、位は必ず公となり、大吉の予兆です」しばらくして、什邡の令となった。

118: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:42:10 ID:i1a

先主為漢中王、琬入為尚書郎。建興元年、丞相亮開府、辟琬為東曹掾。挙茂才、琬固譲劉邕、陰化、龐延、廖淳。

先主が漢中王になると、蒋琬は(政府に)入って尚書郎となった。建興元年(223年)、丞相の諸葛亮は丞相府を開き、蒋琬を招いて東曹掾とした。茂才に推挙したが、蒋琬は固辞して劉邕、陰化、龐延、廖淳に譲った。

122: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:43:52 ID:u4t
趙直さん魏延の時に出てきたり蜀では意外と出てくるわね

126: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:45:24 ID:i1a
>>122
趙直夢占いで有名やったらしい
他にも誰か占ってたけど忘れちゃった

134: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:49:05 ID:u4t
>>126
何祇と魏延と蒋琬の3人みたいやね

123: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:43:56 ID:i1a

亮教答曰「思惟、背親捨徳以殄百姓、衆人既不隠於心。実又、使遠近不解其義。是以、君宜顕其功挙、以明此選之清重也」遷、為参軍。

諸葛亮は諭しの返答した「思うに、親しい人に背き徳を捨てて百姓を滅ぼせば、人々は同情しないだろう。本当にまた、遠近にそのわけを理解させられないだろう。
それゆえ、君は功によって推挙されたことをはっきりさせ、この選挙の正しさ重要さを明らかにしてくれ」昇進して、参軍となった。

127: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:45:36 ID:i1a

五年亮住漢中、琬與長史張裔、統留府事。八年、代裔為長史、加撫軍将軍。亮数外出、琬常足食足兵、以相供給。

建興五年(227年)諸葛亮が漢中に駐屯すると、蒋琬は長史の張裔と、留守の丞相府を統括した。建興八年(230年)、張裔に代わって長史となり、撫軍将軍を加えられた。諸葛亮がたびたび外征すると、蒋琬はつねに糧食を充足させ兵卒を充足させ、供給した。

129: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:46:41 ID:ghq
趙直さんみたいな後付けくさい占いの逸話はなんなんやろ
何祗の死期とかわざわざ付け足してどうにかなるもんでもないし

133: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:49:01 ID:i1a
>>129
夢は魂が分離してみるもんだと昔の人は考えてたらしい
そんで「何々の夢見た」←これが伝承としていつしか真実味を帯びて史官が記録した説

131: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:47:24 ID:i1a

亮毎言「公琰、託志忠雅。当與吾共賛王業者也」密表後主曰「臣若不幸、後事宜以付琬。」

諸葛亮はつねに言った「公琰(蒋琬の字)の、志は忠義にある。私とともに王業を助けるべき者だ」後主に密かに上奏した「臣にもし不幸があれば、後事は琬に託してください。」

135: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:49:09 ID:i1a

亮卒、以琬為尚書令、俄而加、行都護、仮節、領益州刺史、遷大将軍、録尚書事、封安陽亭侯。

諸葛亮が亡くなると、蒋琬を尚書令とし、すぐに、都護を代行させ、節を貸し与え、益州刺史とし、大将軍、録尚書事に昇進させ、安陽亭侯に封じた。

139: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:50:35 ID:i1a

時新喪元帥、遠近危悚。琬、出類抜萃、処群僚之右、既無戚容、又無喜色、神守挙止有如平日。由是、衆望漸服。

この時元帥を失ったばかりなので、誰もが危惧していた。蒋琬は、人々の中から抜擢され、群臣の右(上)となったが、憂えた顔をせず、喜んだ顔もせず、精神や挙動は日頃と同じだった。そのため、人々はだんだんと心服した。

145: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:53:01 ID:i1a

延熙元年、詔琬曰「寇難未弭、曹叡驕凶。遼東三郡苦其暴虐、遂相糾結、與之離隔。叡、大興衆役、還相攻伐。曩秦之亡、勝広首難。今有此変、斯乃天時。

延熙元年(238年)、(後主劉禅は)蒋琬に詔を下した「賊の難はいまだ止まず、曹叡は傲慢凶悪である。遼東三郡はその暴虐に苦しみ、ついに集結して、彼から離反した。曹叡は、兵卒を大挙し、かえって攻撃した。
昔の秦の敗亡は、勝広(※)が難の始まりとなった。今この変があるのは、これこそ天の時である。

※秦末の農民反乱の指導者陳勝と呉広のこと
陳勝は秦の苛政に追いつめられて挙兵、一時は秦朝を脅かすほどの大勢力となったが、秦の将に敗れて味方に殺された
呉広は陳勝の部下
二人は直接秦を滅ぼしたわけではないが、これが秦の滅亡のきっかけとなった

153: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:54:15 ID:i1a

君其治厳、総帥諸軍、屯住漢中。須呉挙動、東西掎角、以乗其釁」又命琬開府。明年就加為大司馬。

君は(軍を)厳しく統治して、諸軍を統率し、漢中に駐屯せよ。呉の挙動を見て、東西で掎角の勢(挟撃の態勢)を作り、その隙に乗じるのだ」また蒋琬に開府させた。翌年になると大司馬を加えた。

157: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:55:34 ID:i1a

東曹掾楊戯、素性簡略、琬與言論、時不応答。或欲搆戯、於琬曰「公、與戯語而不見応。戯之慢上、不亦甚乎」

東曹掾の楊戯は、生まれつき大雑把で、蒋琬と議論すると、時に答えないことがあった。ある者が楊戯を陥れようとし、蒋琬に言った「公が、楊戯に話したのに答えませんでした。楊戯の傲慢さは、酷いものではないでしょうか」

160: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:56:56 ID:i1a

琬曰「人心不同、各如其面。面従後言、古人之所誡也。戯、欲賛吾是耶則非其本心、欲反吾言則顕吾之非。是以黙然、是戯之快也」

蒋琬は言った「人の心は同じではなく、まるで各人の顔のようだ。対面して従って後に(違うことを)言うのは、古人も戒めている。
楊戯は、私に賛成しようとしてもそれは本心ではないし、私の言葉に反対すれば私の間違いが明らかになってしまう。それで黙っていたのであって、これが楊戯の良さなのだ」

161: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:57:27 ID:BFV
蒋琬の凄さは孔明死後の蜀を取りまとめて幾ばくもなく軍事行動を図れるまで立て直したことだから

165: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)21:58:27 ID:i1a

又、督農楊敏、曾毀琬曰「作事憒憒、誠非及前人」或以白琬、主者請推治敏。琬曰「吾実不如前人、無可推也」

また、督農の楊敏が、かつて蒋琬を毀損した「事を行えば混乱し、まことに先人(諸葛亮)に及ばない」ある人が蒋琬に申し上げ、担当が楊敏の取り調べを願った。蒋琬は言った「私はまことに先人に及ばないゆえ、取り調べることもない」

172: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:00:23 ID:i1a

主者、重拠聴不推。則乞問其憒憒之状、琬曰「苟其不如則事不当理。事不当理則憒憒矣。復何問邪」

担当は、重ねて取り調べないわけを聞いた。すなわち混乱のことについて詰問を願い出ると、蒋琬は言った「仮にも及ばなければ事は処理できない。事が処理できなければ混乱する。また何を問うのだ」

177: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:01:27 ID:i1a

後、敏坐事繋獄。衆人猶懼其必死。琬、心無適莫、得免重罪。其好悪存道、皆此類也。

後に、楊敏はある事件に連座して獄に繋がれた。人々は必ず死ぬだろうと心配した。蒋琬は、私情を挟まなかったので、重罪を免れた。その好悪(の情)と道理に従うことは、すべてこの通りであった。

179: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:02:51 ID:bUP
劉璋配下って案外有能多かったのではと思う

183: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:03:46 ID:eNC
>>179
劉焉が割りと野望ありな人やったし人材多いね

185: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:04:57 ID:i1a
>>179
わかる
劉備が登用できなかった人物含めて逸材揃ってたよな

181: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:03:08 ID:i1a

琬以為、昔諸葛亮数闚秦川、道険運艱竟不能克、不若乗水東下。

蒋琬は、昔諸葛亮がしばしば秦川を窺いながら、道が険しく運送が困難なためについに勝てなかったことから、水を進んで東に行った方がよいと考えた。

186: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:05:14 ID:i1a

乃多作舟船、欲由漢沔、襲魏興上庸。会旧疾連動、未時得行。

そこで多くの舟船(舟は小型、船は大型)を造り、漢水と沔水を経由して、魏興と上庸を襲おうとした。たまたま持病が続けざまに再発し、行けなかった。

189: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:06:18 ID:i1a

而衆論咸謂、如不克捷、還路甚難、非長策也。於是、遣尚書令費禕、中監軍姜維等、喻指。

人々の議論ではみな、勝てなければ、帰還はとても難しく、良策ではないとして。そのため、尚書令の費禕、中監軍の姜維らを遣わして、その旨を伝えさせた。

193: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:07:46 ID:i1a

蒋琬の上奏があるが省略
「魏は九州に跨り深く根を張っておりますが、呉と協力すればいくらかの土地を取ることはできましょう。
しかし、呉は協力を求めても、ためらって果たそうとしません。この艱難を思えば、寝食を忘れるほどです。
そこで費禕らと議論しました。涼州の胡の要地は、進退に便利で、賊も目をつけており、しかも羌や胡は漢に心を寄せております。
利害を考えれば、優先するべきでしょう。姜維を涼州刺史としてください。もし姜維が行って河右を保持できたならば、臣は軍を率いて姜維の後詰めとなります。
涪は水陸のどこにも通じており、緊急のことがあっても対応できます。もし東北の方に問題があっても、駆けつけるのは難しくないでしょう」
蒋琬は帰還して涪に留まることになった。

199: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:10:32 ID:BFV
>>193
涪は万能
みたいなこと言ってるけど興平の役の時には王平が「涪にいると漢中に行くのに大変」っていってるんだよなぁ

194: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:09:01 ID:i1a

疾転増劇、至九年卒、諡曰恭。

病がさらに重くなり、延熙九年(246年)になって亡くなり、恭と諡された。

198: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:10:15 ID:i1a

評曰。蒋琬、方整有威重。費禕、寬済而博愛。咸、承諸葛之成規、因循而不革。是以、辺境無虞、邦家和一。然、猶未盡、治小之宜、居静之理也。

評にいう。蒋琬は、厳正にして威厳があった。費禕は、寛容で博愛であった。みな、諸葛の作った制度を受け継ぎ、それに従って改めなかった。そのため、辺境に憂いはなく、国家は一つとなった。
しかしながら、小さきを治める適宜な方法(蒋琬に対して)や、静かに住まわるやり方(費禕に対して)が出来なかった。

197: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:10:15 ID:eNC
蒋琬って魯粛と諸葛謹みたいな軍事にまで明るい人物やったんか

205: 名無しさん@おーぷん 2018/11/22(木)22:12:59 ID:i1a
>>197 
戦ってないから測定不能やが何の取り柄もないなら全権任されるはずもない 
…と思ったけど後主が適当に放り投げてる可能性も否めなかった

引用元: ・正史三国志・龐統伝の全文(意)訳と解説をするで



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