31elK9sB+HL


1: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/01(木) 20:43:10 ID:CMHGjkyk
信長が早く死んだとはいえ、戦国稀に見る堅く長い同盟と言われるこれ

好きなように語っちゃおう?








201: 1111111111 2007/09/20(木) 19:42:15 ID:Sl6wU9p0
何となくちょっと主従関係がある友人みたいな気がしないでも
無いな 素人的に

203: 人間七七四年 2007/09/21(金) 14:35:42 ID:1753Ss0e
従属勢力且つ外様ながら準織田一門待遇という結論がもう出てると思うけど

210: 人間七七四年 2007/09/24(月) 00:00:28 ID:iTzfbrGW
当初は平等に近い同盟だったかもしれないが特に信長上洛以降になると両者の間には大きな軍事力や影響力の差が生じた為従属化していったと考えられる
安土接待の様子から形式上は同盟だが事実上はほぼ従属

211: 人間七七四年 2007/09/24(月) 00:10:03 ID:XncoRbc8
当初 
今川と北条のような関係 力の優劣はそれほど見られず
上洛 
今川と武田の関係 つまり今川義元と義元に頭が上がらない信玄の関係みたいな――

信長包囲網 
基本的に援軍は出すが、状況によっては出さないことも 戦略的に大事かどうかで見られるようになってきた

本能寺の変 
事実上織田家の一部 織田信忠軍や柴田勝家軍の半分 特に○○討伐という命令が下っていない明智光秀軍と同じぐらい

213: 人間七七四年 2007/10/03(水) 22:47:05 ID:sRJ4ruI2
なんだかんだで信長が死ぬ直前には徳川領だってバカにならないぐらいの大きさはあったんじゃない?で、たとえ後に徳川を潰そうとしてたとしても、徳川は徳川で独自に領土拡張はして、更に潰しにくくなったはず
徳川からすれば西に敵はいないんだから

それに織田にしても徳川がやばくなったら自分もやばくなるからそういうときには三方ヶ原以上に援軍を出した可能性も考えられる
・・・つーかすでに長篠の時点で徳川への援軍だったよねあれ信長本人も出陣してたし

そこで仮に織田が基本的に日本を制圧して、その中に徳川領があったとしたら、信長のことだから、もしかすると秀吉みたいに海外に手を伸ばしていたかも
更に仮に大陸進出なんてのが成功してたら、徳川に日本を代役として任せたかも・・・なんてことを書いてみる

214: 人間七七四年 2007/10/04(木) 07:22:14 ID:NHO/jdnb
武田家が滅亡するまで、時間はたっぷりあったが家康領はさして広がっていない。
その勢力範囲は、せいぜい三河一国と西遠江(遠江の一部分)に過ぎず、勢力的に見ると、越前の柴田勝家、丹波の明智光秀、近江の羽柴秀吉、摂津の荒木村重、伊勢の滝川一益などと、ほとんど差がない存在なのである。

────────

しかしながら、五徳と信康がともに5歳の時に婚約した事情などを鑑みると、やはり当初は織田家と松平家は限りなく対等に近い同盟関係であったのだろうと推察する。

その対等な関係が崩れたのは、やはり信長が美濃を制圧した辺りで、あろうか。
(だだし信長の美濃攻略に、三河衆の加勢があったのなら、話は別)

216: 人間七七四年 2007/10/04(木) 11:13:26 ID:2xFdtEeZ
従属同盟者と政略結婚で結びつきを強めるなんてどこでも普通にやってることだよなあ。

蒲生氏郷は幼少の頃に信長の娘と婚約しているが、これで織田と蒲生が限りなく同盟に近いなんていえるのか?

219: 人間七七四年 2007/10/04(木) 18:34:29 ID:vuEc2DRj
>>216
当主と家臣だから全然違うと思う
家康と、上にも出た浅井長政はあくまでも国を持ってる当主
それ以外は結局家臣だからね、たとえ能力があろうと

217: 人間七七四年 2007/10/04(木) 15:59:20 ID:frzdyDgy
信長家康間での書状が1574年から恐々謹言や御などや、名前欄の位置が上位と下位を示す辺りに変わったため、その頃には完全に対等じゃなくなったって言われているな

この時期織田は越前は失ったとは言え、浅井朝倉滅ぼして将軍六角などを追い払い
三好残党を討って松永を降伏、康長が頑張っているとはいえ
若狭近江山城大和に摂津河内和泉の一部を支配して、例え徳川に裏切られても
問題無いぐらいだからか、
将軍が京から出ていって、幕府の代行を織田家が勤めているからか

218: 人間七七四年 2007/10/04(木) 18:31:21 ID:vuEc2DRj
元から対等ではないような気がするけどなあ
信長にしてみれば事実上属してくれるんだったらわざわざ強引に配下にはしない
っていうぐらいの考えだったんじゃない?
もちろん領国経営にも口は出さず
他のところも当主丸ごと傘下に入るならこういうことしない?


220: 人間七七四年 2007/10/08(月) 14:34:08 ID:U7f0Sfyr
本能寺のときに家臣が必死に戦ってるときに家康をのんきに堺遊覧に呼んだりその後の跡継ぎ争いで当然のように無関係だったから家康は全く家臣扱いではなかったと分かるね
信長と家康のこの微妙な関係が面白い

つーか家康の尾張人質時代は信長と接点はあったの?

222: 人間七七四年 2007/10/08(月) 23:30:24 ID:9KySO5G6
正式な主従関係ではないとは言えるが、だからって対等(あるいはそれに限りなく近い)ともいえない。
両者には最初から明確に上下関係がある。

その上下の差というか距離が、時間とともにどんどんと開いていったわけだが。

229: 人間七七四年 2007/10/13(土) 14:31:43 ID:uqEG4CmL
やっぱり本能寺のときの招待を考えたら特別な存在であったことは間違いないね
それにしても家康の織田人質時代の二人はどんなんだったんだ?
何か残されてる資料はないのかな

231: 人間七七四年 2007/10/30(火) 15:53:19 ID:L92k3bsu
長政に比べると家康はさすがだな。武田に負けても寝返らず織田につき、天下取ったしね。あれが馬鹿な武将ならあの時点で武田につき、信玄アボーンの後、織田に滅ぼされていたであろう。長政のように。

232: 人間七七四年 2007/10/30(火) 19:24:26 ID:AIoEoNqW
長政も織田を裏切らなかったら、北近江・越前あたりを領有して北陸方面軍を率いてたのかな?

233: 人間七七四年 2007/10/30(火) 23:56:09 ID:g/w2K0rp
信長直下の強力な遊軍だったんじゃないかな?
下手に方面軍の軍団長とかやらすと信長配下じゃないという建前で切り取り自由ということになりかねない。
家康は武田が居たせいで領土を拡張するのに難儀したけど、長政が北陸方面軍団長なんかやったりしたら北陸一帯が浅井の領土になりかねない。やっぱ、それは流石に避けたいだろうから遊軍としてアチコチの戦に駆り出して適当に褒美を与えてるほうがベターでしょ。

236: 人間七七四年 2007/10/31(水) 00:23:15 ID:Y8jDDEAG
少なくとも、近江から配置換え喰らってただろ。秀吉が家康を関東に追い払ったように。
京都からほど近い要所に、長政を置き続けるとは思えん。

237: 人間七七四年 2007/10/31(水) 00:37:54 ID:2wByl8Lx
家康のけん制に使われたりするんじゃないの<長政
信長はその辺の使い方はうまそうだし。

242: 人間七七四年 2007/10/31(水) 22:47:35 ID:Wz5U3tKh
徳川家はなんだかんだで家臣団はきちんとしてたよね
それに比べて浅井家はどうだったんだろう
それによって独立させたままか、吸収しちゃうかが違ったかも

243: 人間七七四年 2007/11/01(木) 14:11:32 ID:Wgbx7Rba
徳川家も家臣統制には苦労しとるよ。
奥三河の山家三方衆とか遠江の天野とか
武田と徳川の間をそのときの情勢で行ったりきたりしてるし、
一枚岩だったわけじゃない。

244: 人間七七四年 2007/11/01(木) 15:52:28 ID:LK11Qwo/
長篠の時に活躍した奥平信昌だって、元は貞昌って名前だったのに、信長から信の字をもらっているものな。
徳川の統制を乱しかねないことを信長もやってはいるよな。

248: 人間七七四年 2007/11/02(金) 07:37:22 ID:nN41fDC9
長篠城攻防戦での信昌の活躍は、家康も評価してたことだから、名前のことぐらいでは影響なかったかも。
事実、奥平は一門扱いになって、江戸期には10万石まで加増されたからな。

249: 人間七七四年 2007/11/02(金) 19:34:20 ID:/orhdHgQ
若い頃、身内の内紛ばっかりだった信長から見て
三河譜代家臣に守られてた家康を羨ましく思っただろうなあ

253: 人間七七四年 2007/11/02(金) 21:27:43 ID:H1a2Ies5
>>249
家康も家臣が宗教絡みで騒ぎ起こさなかった?

250: 人間七七四年 2007/11/02(金) 20:22:37 ID:Zzga6n8m
家康君も十分苦労してますがな

252: 人間七七四年 2007/11/02(金) 21:01:37 ID:/orhdHgQ
wikipよりまとめ
織田信長
生誕 天文3年5月12日(1534年6月23日)
天文20年(1551年)父・信秀が没したため、家督を継ぐ
死没 天正10年6月2日(1582年6月21日(享年49(47歳没)))

徳川家康
生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日)
6歳の時、竹千代は今川義元の人質として駿河国府中へ送られるが、
その途中謀略により尾張の織田信秀の元へ送られる。
尾張では2年を過ごし信長とはここで知り合った。

ということは、家康6~8歳のときに、15~17歳の信長と顔を合わせてたのか
もしかして信長がバリバリのうつけだった頃?
家康、おもちゃみたいにあっちこっち引っ張り回されなかったのかね
その方がエピソードとして面白いけど、知らない・・・なんかなかったのかな

>両者は永禄5年(1562年)、清洲同盟(=織徳同盟)
そして信長28、家康19で運命の再会?
それから1582年までの20年も主従でなく同盟が継続って、やっぱり長いよね

ついでにその出会った頃、信長小姓の前田利家は10~12歳
生誕 天文7年12月25日(1539年1月15日)
利家とも違う意味で長いねえ

259: 人間七七四年 2007/11/09(金) 20:24:07 ID:ND1NkRfi
信長のことだから松平の小倅が捕まってきたとなれば
面白がって見に行くのはごく普通の出来事だと思うね
ただしその頃にはお互い将来を意識するようなことは無かったはずだから
会ったとしてもこれといった記述なんて特にされなかったんじゃないだろうかね

263: 人間七七四年 2007/11/10(土) 02:17:35 ID:RupaeTVW
本能寺直前の家康を招待したとき
のんきな時間にどんな会話をしたんだろうかねえ

265: 人間七七四年 2007/11/11(日) 05:09:09 ID:4eOYGqOC
織徳同盟が最後まで続いたというのはすごいことだとは思う。
結果的に家康が徳川300年の太平の基礎を作ったわけだし、信長は家康の中に何をみていたのだろうな。
ゾウリ取りから面倒見た秀吉もちゃんと統一を果たしてるし、単に恵まれてたというよりかはその炯眼を褒め称えるべきかな、やっぱり。

266: 人間七七四年 2007/11/12(月) 01:36:49 ID:Cy8SH2vN
信長の死後も、家康は織田家を特別扱いしてくれたみたいなことをよく聞くが、本当なら清洲同盟の遺徳は凄いな。

267: 人間七七四年 2007/11/12(月) 09:18:17 ID:n9i1BgyR
してないだろ。
してるなら、織田宗家を取り潰しにしてない。

268: 人間七七四年 2007/11/12(月) 13:01:43 ID:6NKl/NcT
宗家って秀信のこと?
あれは関が原のときに西軍についちゃったから仕方なかんべ。
信雄とか有楽の家系は大名家として残ってるから
織田の家系を潰す気はなかったんじゃないの。

270: 人間七七四年 2007/11/12(月) 19:23:48 ID:M8kAjUGL
>>268
家康としては将来徳川家に対して反旗を翻すさいの旗頭となり得る織田宗家は取り潰して起きたかったんじゃないかな。
西軍について存続した大名家は多々あるんだし、表向きの理由としては西軍についたという事だろうけど、本当の理由は上記の様に将来の火種になり得る存在を握りつぶすこと。
だから秀信が西軍についていたのをこれ幸いとして織田宗家を取り潰したんじゃないかな。
断定できる根拠は無いけど元々織田宗家は取り潰す気満々だったと思う。

271: 人間七七四年 2007/11/12(月) 21:14:45 ID:mZ6lonDO
存続した織田家といっても10万石も行かないような小大名としてだものな。

272: 人間七七四年 2007/11/12(月) 21:44:03 ID:Cy8SH2vN
そういえば織田秀信の助命を嘆願したのは、福島正則や池田輝政だったかな?

273: 人間七七四年 2007/11/13(火) 10:08:37 ID:wbdBm269
そう。秀信は戦った相手に嘆願してもらって命拾い。

275: 人間七七四年 2007/11/14(水) 11:25:42 ID:h5ZVoVT+
頼朝の故事じゃないけど、自分の敵になるであろう存在は抹殺しておくのが鉄則で家康も豊臣の血は滅ぼしてる。
ということは家康から見て織田の血は敵にはならないという基本的な発想があっただろうし、お市の流れで信長自身の血も徳川本家に少しは入ってる。
織徳同盟の意味も大きいだろうし、信長を戦国武将としてとても認めていたのではないか、そう思う。

276: 人間七七四年 2007/11/15(木) 01:37:37 ID:QE9dSxLk
>>275
あえて秀信を殺す必要がなかっただけだろう。
関が原時点で本能寺から約二十年、織田家有力家臣の家もほとんど代替わりして今更織田家を立てるなんてことはないだろうし。

277: 人間七七四年 2007/11/15(木) 06:37:02 ID:5KtakeGp
>>276
それはどうだろう?
同じ関が原では、秀次に連座して取り潰しにあった六角嫡流家の当主を石田光成が担ぎ出そうとしていたぐらい。
十分織田宗家の名前は大きく作用したと思われ。

309: 人間七七四年 2008/01/12(土) 02:54:40 ID:yxlDQvV2
対等な同盟と言うのは、江戸時代あたりに作り上げた嘘だろ
どうみてもいいとこ隷属勢力でしかない

310: 人間七七四年 2008/01/12(土) 06:53:35 ID:KBudKBGM
対等とは徳川幕府自ら認めていない点もあるけどね。
信長の要求で信康を殺したことになってるから。

312: 人間七七四年 2008/01/12(土) 11:06:09 ID:ikCMuSZZ
>>310
おいおいそれは


現実としては徳川はおおまかな連携は織田とあっても細かいところは自分でやれてたんだから完全な支配下では無いよね
織田家武将みたいに何もかも信長の命で動いてたなんて話は無かったはず
ただところどころ、家の立場として弱いから、指示を受けてた部分はあっても当然かと

あとあのまま進んでたら、確か北条は織田と組んでたから、徳川としては東へは手詰まりになってた可能性はあるよね
それとも南関東は迂回して北関東から東北へ織田との共同戦線が延びていったのかな
それか、北条の領地の西で小さくまとまっちゃったか
もしくは、ゆるゆると同盟が解消されて、実質的にも配下に組み組まれていくか・・・

信長は上手くやってたと思うよ
徳川家はあえて臣従させずにそれなりの自由を与えて、利用するときは利用して、助けるときはちょっと助ける、みたいな
徳川にしても気付いたら反抗するにもできないぐらい差が付いちゃってたという

313: 人間七七四年 2008/01/21(月) 01:05:36 ID:sac3nF8a
本能寺の変に参加した兵士が
「軍膳近畿に向けるって言うからああいよいよ家康討つのかと思ってたら、実は信長だって知ってびっくりした」ってな事を書いてた

316: 人間七七四年 2008/01/26(土) 21:01:12 ID:hk8TH8d2
>>313
それは少々不正確だな。
その本城惣右衛門という兵は、本能寺に踏み込んだ後になっても討つ相手が信長とは知らなかったと言っている。
なお同じように家康を討つと思っていた兵士が他にもいたことは宣教師の報告にある。

318: 人間七七四年 2008/01/27(日) 18:47:09 ID:xRO2A6+d
同盟関係からしてだいぶ違う。

同盟時における力関係は
信長は(正式ではないけど)尾張の事実上の支配者
家康はとりあえず岡崎城の親玉。(信長の野望における状態なら三河は空白地)
同盟をすることで事実上の三河の領主であることの証明みたいな。

結果論としては織田が武田と同盟を結んだ恩恵を経て、今川滅亡の際に遠江を奪取。そして織田が武田を滅ぼしたことで駿河を奪取して結果としてはかつての主君今川義元の領土をそっくりそのままいただいたことになるし。(本能寺の変前)
家来としてみたらかなりの高給取りになるな。

319: 人間七七四年 2008/01/28(月) 01:14:23 ID:8l3mGt6t
>>318
それでも同盟時には美濃の斉藤は健在だったんでは
内情がどうであれ壁だったには違いない
それが反対側の三河で松平が仇敵・今川から独立してくれたのはかなり助かったと思う

この二家は簡単に同盟か臣従かは語れないのが面白いところだと思う

引用元: ・【盟友?】織田徳川同盟を語っちゃおう【主従?】



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