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1: 世界@名無史さん 2009/05/20(水) 23:54:18 0
660年の百済、668年の高句麗が相次いで滅亡しましたが当時の中国(唐)、朝鮮(新羅)、日本(倭)はかなりの混乱と激動の時代だったと思います。
その頃の東亜三国の状況について色々と語ってみましょう。








4: 世界@名無史さん 2009/05/21(木) 02:05:31 0
満州部や朝鮮半島はかなりの混乱を模様していただろうな。
高句麗や百済のゲリラ狩りも盛んに行われていたかもね。

5: 世界@名無史さん 2009/05/21(木) 07:14:36 0
最終的に百済から何人ぐらい日本に亡命者が来たんだろう。
亡命組は一部の貴族階級だけだったのかな。

7: 世界@名無史さん 2009/05/21(木) 10:52:09 0
>>5
武蔵国高麗郡には大体1000~2000人の遺民が入植したっぽい

8: 世界@名無史さん 2009/05/22(金) 01:35:51 0
このころまでの日本と朝鮮、中国は互いに意思疎通が容易で滅亡前の時代から百済や高句麗からの移住者が多かったのかも。

29: 世界@名無史さん 2009/05/31(日) 09:49:50 0
朝鮮式山城(古代山城)が、あちこちに造られた時期でしたね。
大和朝廷は白村江の敗戦直後で台所事情は苦しかったと思うけど、頑張りましたね。

31: 世界@名無史さん 2009/05/31(日) 13:01:57 0
台所事情といっても貨幣経済でもないから時間かければ何とかなるんじゃね

34: 世界@名無史さん 2009/06/01(月) 23:05:07 0
>>31
7、8年ぐらいで4つぐらいつくったんだから、人民総動員して北朝鮮モードだろw

ああいうの自弁で現地まで旅行させんだから生き返りに行き倒れになる奴が多かったしw

32: 世界@名無史さん 2009/05/31(日) 14:03:43 0
663年 白村江で敗退
664年 対馬・壱岐・筑紫に防人と烽台を配置 大宰府の守りとして水城を築く
665年 長門城・大野城・基肄城など築城
667年 金田城・屋嶋城・高安城など築城 近江大津宮へ遷都
 
このほか神籠石遺跡も同時期に築かれた防御拠点だとすれば超建築ラッシュ。
民をどの程度までタダで働かせられるかがポイントだけど、租庸調の「庸」だけじゃ足りないから、米や布で払ってを人手を集めたんではないかと勝手に想像。

33: 世界@名無史さん 2009/05/31(日) 19:34:22 O
豪族の力をそぎ、天皇に権力を集中させた一連の改革と裏腹なんだろうね。
権力があるから外征できたのか、外征に敗北したから国防のため権力の集中が必要だったのか。

36: 世界@名無史さん 2009/06/03(水) 22:32:10 0
島国だからいまひとつ民族闘争には大陸や半東ほどの切実さがないのは、唐や新羅も結局内訌おこして日本には来なかったから余裕という変な意味での安心感ができてしまったんだろうな。

37: 世界@名無史さん 2009/06/04(木) 00:06:54 O
その後の奈良時代に大陸への反攻は画策されてたようだけどね。
数世紀前から古墳を造る能力があったのだから人を動員する技術はあったろう。
白村江で負けて一番痛かった損害は船舶の損失と思う。

39: 世界@名無史さん 2009/06/05(金) 07:52:58 0
白村江での負けがよほど応えたのか、記録に残る防衛策は山城ばかりだよな。
海戦や水際の迎撃はほとんど諦めてたのかな。

49: 世界@名無史さん 2009/06/06(土) 22:16:22 0
当時の日本は兵船の建造と水上戦のノウハウで大きく唐に立ち後れていた。
唐の船は格段に大きく甲板も高い。そこから火矢が撃ち下ろされてくる。
対して日本側の船は数こそ多いが唐のそれに比べいずれも小舟ばかりだ。
体当たりされれば簡単に覆る。かくして白村江の戦いでは日本側の損失が400隻という一方的な大敗を喫した。

このまま日本が水軍を再編しても、同様の敗北を喫するのみで勝利の見込みは皆無としか言えない。しかし技術の差を埋め、唐の水軍に質で対抗するのは一朝一夕の事業ではない。だが時間はない、選択肢は二つに一つ。
敗北必至の水軍を再建するか、消極策ながら朝鮮半島で唐軍撃退に実績のある山城を築くか。天智天皇の決断は賢明であったと言える。

54: 世界@名無史さん 2009/06/07(日) 08:11:22 0
>>49
具体的な根拠はあるの?日本側の軍船が小型だったという。
遣唐使船なら残っているが、日本や唐の軍船のサイズが判明したいう資料は見たことがないのだが。
それに、日本書紀を読む限り、日本側は、こちらが進めば敵は自滅する、と判断して突撃を白村江で行っている。
日本側が小型船なら、大型船に自信満々で突っ込むというのはおかしいと思う。
やはり、サイズに大きな差は無かったと見るべきだろう。
それに小型船が一方的に不利というのは理解に苦しむ。
アクティウムの海戦や第一次木津河口の戦い等、小型船の方が小回りが利いて優勢に戦った戦例は、大砲発明前は多数ある。
ついでにいうと、衝角は当時の唐の船には無いはず。衝角のない軍船で体当たりするというのは、理解に苦しむ。

56: 世界@名無史さん 2009/06/07(日) 11:50:57 0
>具体的な根拠はあるの。日本側の軍船が小型だったという。

日本・百済側が400隻(または1000隻)であるのに対して唐側は170隻。
これで敗北を喫したのだから、ふつうに考えれば船の大きさが戦力差の原因だよ。
船のサイズ等という物量的な面の差を否定するのであれば、敗因を用兵の拙さとかに求めざるを得ないが、>>54はそういう意見なの?


>日本側が小型船なら、大型船に自信満々で突っ込むというのはおかしいと思う。

その後で>>54は小型船は別に不利ではないとか書いているのと矛盾してて可笑しいね。
小型船の方が有利と思いこんでいれば、自信たっぷりで突っ込むことであろうよ。

66: 世界@名無史さん 2009/06/08(月) 13:28:12 0
倭水軍の主力が埴輪船だったら漕ぎ手が沢山乗ってるから、機動力だけなら唐の楼船相手に劣ると思えないな。これはイカンと思えばすぐに逃げられた気がする。
日本書紀には「気象を観ずして」攻め込んだとしているが、この「気象」がひとつのポイントじゃなかろうか。
もしかしたら倭水軍の主力は遣唐使船の簡易量産型みたいな代物で、戦局不利と分かっても追い風に吹かれると、方向転換して逃げられなかったんじゃね?
かくなる上はってことでバンザイチャージかけて潰えたみたいな感じ。

67: 世界@名無史さん 2009/06/09(火) 18:44:18 0
当時の大和朝廷には「水軍」なんて概念自体無いんじゃねぇの?
あるのはただの輸送船の群れ。

68: 世界@名無史さん 2009/06/09(火) 22:06:42 0
>>67
それ言い出すと、唐にも河川水軍の概念ならまだしも、海軍の概念があったか、極めて怪しい。
海軍の概念が成立するには、海上交易の存在が前提として不可欠だが、当時、海上交易があったのだろうか。
中国から、何を輸入し、日本から何を輸出していたという話を読んだことがない。

72: 世界@名無史さん 2009/06/11(木) 19:23:53 0
>>68
>河川水軍の概念ならまだしも、海軍の概念があったか、極めて怪しい

沿岸伝いに航海してれば水軍も海軍も大した変わりはないよ。
レッドクリフとまではいかないまでも、中国にはフネ対フネで戦う水上戦力の概念はあったろうね。

106: 世界@名無史さん 2009/06/19(金) 01:11:12 0
前から疑問に思っていたけど、古代山城って分布が北九州と瀬戸内海に偏りすぎと思うわ。
日本海側があまりにも手薄すぎる。大和朝廷はどういうつもりだったんだろ。

126: 世界@名無史さん 2009/06/29(月) 20:26:52 0
>>106
古代山城って唐の使節に見せつけるために作ったんじゃないかな

唐の使節を太宰府に迎えた日本側の外交担当者は大野城の城壁をアゴでしゃくり
隋唐帝国はいままで朝鮮半島でずいぶんこのテの城に悩まされたそうですな?
わが日本にもこれと同じ城が千箇所ぐらい出来てますぞ・・・とか吹いてみる

107: 世界@名無史さん 2009/06/19(金) 02:09:58 0
白村江の戦いの後唐の使節は二千名の兵隊といっしょに日本に来たって話があるけどこれって事実上の占領だよね?

110: 世界@名無史さん 2009/06/21(日) 06:44:55 0
>>107
2000名と来たという記載があるのは、日本書紀だったと思うが、兵隊とは明記されていない。
もし、占領のための兵隊なら、率いるための将軍がいるはずで、その将軍の氏名が使節団長だった可能性は否定しないが、旧唐書にそれらしい記載がない。
私としては、白村江の戦い等で捕虜となった日本兵を送還してきた可能性が高いと思う。
この頃、捕虜は身代金を得られれば解放され、得られなければ、奴隷にされていた。
続日本紀や日本霊異記には、お金を払うことで、唐軍の捕虜とされて奴隷になっていたのが、自由の身になった例が出てくる。
2000の人員は、豪族の子弟等で、唐にとって送還することで、身代金を得る等、利益を得られると考えられた日本兵捕虜ではないだろうか。
もし、本当に占領軍だったとしたら、旧唐書等、中国の史書にどこに駐屯したという記載がないのが不自然極まりないと思う。

111: 世界@名無史さん 2009/06/21(日) 13:59:03 0
日本の側にも2000人が捕虜送還だと書かれていないのは、不自然至極だと思うな。
普通に読めば、使節の安全を守るために護衛をつけて47隻分の船乗りも含めれば総計2000人ってことじゃないかな。
捕虜も若干は居たかもしれないけど、日本に送還してまで身代金が取れそうなクラスが2000人も居たとは思えないし。

112: 世界@名無史さん 2009/06/21(日) 14:05:56 0
確かにペリーが軍艦率いてやってきたからって、日本が占領されたわけじゃないからな。

敵地に使者を派遣するんだから、相手を威圧するに十分な護衛の兵力連れて行かないと、
元寇の直前の蒙古使節みたいに首はねられるのがオチ。

115: 世界@名無史さん 2009/06/21(日) 21:54:16 0
むげに追い払えないという意味では「進駐」かな。
少なくともこの使節サマ(郭務宗)を怒らせると大変なことになるのは確か。
だからお土産を渡してお帰りいただいたのです。

116: 世界@名無史さん 2009/06/21(日) 22:52:49 0
>>115
その理屈でいえば、ペリー艦隊も「進駐」軍ということになるんだが。

117: 世界@名無史さん 2009/06/21(日) 23:04:18 0
ペリーは長居してないけど、郭務宗は半年ぐらい居座っているね。
ペリーも陸戦隊を率いてそれくらい横浜に粘っていれば「進駐」したと歴史書に書かれたかもね。

118: 世界@名無史さん 2009/06/22(月) 00:31:05 0
軍隊がやってきて滞在してるって意味で「進駐」というのはわからんでもないが、戦後日本の「進駐軍=占領軍」的なニュアンスとはちがうんじゃないか?

敵地倭国に乗り込んだ唐の使節に随行した護衛部隊が、その間滞在してたってだけだろ。
もちろん、無言の圧力になったことは否定できんが。

127: 世界@名無史さん 2009/06/30(火) 18:25:14 0
2000名の唐の使者は捕虜交換に訪れたって書いてもないから、長期滞在することで倭の内情を偵察しにきたんだろう。

そして百済の技術者を使って迅速に山城を築き上げている様と2000名に対する手厚い歓待の様を見て、征伐する必要なしと判断させたに違いない。

156: 世界@名無史さん 2009/08/05(水) 05:27:41 0
任那って古くから半島南部に住んでた倭人の末裔じゃないの?
大和政権の固執振りは尋常じゃない。
海を挟んで二分された同族の居住地だからあれだけ拘ったんじゃないの。

ギリシアにとってのイオニアみたいなもんでしょ。

158: 世界@名無史さん 2009/08/05(水) 11:25:05 0
>>156
鉄の産地だからです

159: 世界@名無史さん 2009/08/05(水) 13:12:44 0
ところで日本列島で鉄の原材料が産出されるようになるのは何時からですか?

160: 世界@名無史さん 2009/08/06(木) 05:00:22 0
>>159
遅くとも弥生時代じゃなかった?
砂鉄を溶かして成型する「たたら製鉄」の起源はかなり古いよ。

時代が下ると金・銀・銅・鉄なんかが完全に自給出来るようになるけど。

161: 世界@名無史さん 2009/08/06(木) 12:04:01 0
とすると朝鮮半島に鉄を求めた理由が分からなくなる。

163: 世界@名無史さん 2009/08/06(木) 18:58:53 0
弥生時代の鉄は朝鮮半島から輸入されたものだよ。
http://www.geocities.jp/tyuou59/tetubunnpu1.html
※リンク切れ

164: 世界@名無史さん 2009/08/10(月) 15:02:47 0
新羅や百済の製鉄遺跡は3世紀ぐらいのが見つかってるけど、日本最古の製鉄遺跡は6世紀後半のカナクロ谷遺跡だったかな。

引用元: ・◆百済・高句麗滅亡時の東亜状況◆



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