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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/16(金) 21:54:41 ID:gKVvU8HE
語りましょう!

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340: 人間七七四年 2010/06/02(水) 20:31:20 ID:AkJChxMv
刀って最低でも1kgはあるよな。
1.5リットルのペットボトルを片手で振り回すようなもんだ。
両手なら兎も角片手で

341: 人間七七四年 2010/06/02(水) 22:40:05 ID:Qq4tJ7UI
まぁ握りの部分とか全体のバランスがあるからペットボトルと比べてといわれても違うんだけどね

342: 人間七七四年 2010/06/03(木) 01:56:59 ID:GjREZowT
模擬刀もってるけど、俺じゃ片手で振りまわしても多分物切れない。
相当力が無いと相手の剣を受けることも無理だろうな。
竹刀なら余裕なんだけどね。

343: 人間七七四年 2010/06/04(金) 22:42:53 ID:NvW4QlYP
片手じゃ全然刀身安定しないもんな

347: 人間七七四年 2010/06/09(水) 00:10:03 ID:CJI9Xgm8
>>343
片手斬りの多い鹿島新当流では前腕を柄に添えて刀身を安定させるそうだ。

349: 人間七七四年 2010/06/16(水) 10:37:49 ID:elZHUZSe
刀が重いとか、片手では切れないとか剣術した事ないのに言っちゃう男の人って…

シナイの軽さと剣道のイメージがあるからか、刀は重いって良くいうけど、普通の刀は武器としては十分軽いし、刃筋は片手の方が通りやすい。両手の方がぶれやすいんだよ。大薙刀とや槍なんか刀なんかと比べ物にならんほど重いよ?でも槍や薙刀にも片手使いの技はあるよ。 

344: 人間七七四年 2010/06/05(土) 14:46:40 ID:UAeJMtz1
水墨画がとても好きだな。
あんまり評価を聞かないけど、世間はどんな評価なんだろうな?

345: 人間七七四年 2010/06/06(日) 22:08:14 ID:WyYy21Sd
普通に高くね?
特に渡辺華山に評価されてからが高く、重文に指定されているものもいくつかある

348: 人間七七四年 2010/06/10(木) 20:33:37 ID:ik0wtGQ9
他の同時代の剣豪が実際には殆ど真剣勝負なんてやらなかった事を考えると、吉岡一門とひと悶着起こしたり、兵法指南を斬り殺したりする武蔵ってかなりのキ〇ガイだよな
巌流島以降真剣勝負をやらなくなったのは、公権力に咎められてお尋ねものになったからなのかも

350: 人間七七四年 2010/06/16(水) 10:42:11 ID:elZHUZSe
>>348
講談や小説と事実を一緒にしちゃだめー
吉岡一門との勝負はあったとしても真剣使った勝負じゃないだろ。シナイかせいぜい木刀じゃね?

352: 人間七七四年 2010/06/16(水) 17:49:17 ID:PegVEAZV
>>350
言われてる意味がよくわからないんだが、どこを講談や小説と一緒にしてるのか教えてくれないか?
巌流を殺したのは史料にあるし、吉岡と戦ったのは勝敗や顛末は不明だがほぼ間違いない。

>真剣じゃなくてシナイか木刀

それこそ推測にすぎねえな。それに重要なのはそんなところじゃないよ。他流試合を繰り返したのが問題だって事。
しかも巌流の場合、流派の宗家レベルが立ち会い、しかも相手を殺してしまっている。
問題になったのなんて、考える迄もないよ
巌流が細川の兵法指南だったのならなおさらだな

353: 人間七七四年 2010/06/16(水) 18:57:48 ID:elZHUZSe
殺したって史料があるの?
そもそも武蔵自身は吉岡や巌流なんて名前は出してない。直近の文書にはなにも残ってないし、巌流も名前か流派かもわからない。

当時の社会状況を考えればわざわざ真剣で勝負よりシナイや木剣の可能性が高い。
武蔵より随分年上の疋田文五郎自身の武者修行での他流試合についての書き付けがあるけど、ほぼシナイか木剣での試合。吉岡一門がその後も普通に剣術家やってるのを見ても普通の試合だったんだろ。
で武蔵自身もシナイで小技早業ばかり求める事を戒めてるけど、逆に言えば当時既にシナイがかなり使われてたって事だよ

354: 人間七七四年 2010/06/16(水) 20:15:59 ID:PegVEAZV
沼田家記や本朝武芸小伝くらい読めよ、このスレの上でも出てるし経緯はどうあれ、巌流を名乗る小次郎と言う武芸者が、細川家の支配領内の小島で宮本武蔵に殺されたのはほぼ確実
小次郎の生存を伝える史料もない

355: 人間七七四年 2010/06/16(水) 20:18:33 ID:PegVEAZV
巌流ってのは小次郎が称した流派ね
揚げ足取られたくないから一応

356: 人間七七四年 2010/06/16(水) 23:09:51 ID:elZHUZSe
武芸小伝は1700年はじめの文献で武蔵死後六十年近くたってからの本だよ??
武蔵伝説の元ネタの一つ、1654年に宮本伊織が立てた小倉碑文だと、「兵法の達人、名は岩流」になってる。
小倉碑文だと殺した事になってるけど、兵法指南役とは書かれていない。
武蔵自身は岩流について何も書いてないしね。岩流が有名になったのは1700年代の歌舞伎の影響ってのが研究者の通説だよ。
佐々木姓も歌舞伎の創作だし。
吉岡家も清十郎に試合で重傷を負わせ、又七郎との試合では木刀を奪い打ち殺したと書かれてる。
吉岡とは真剣を使った勝負、とか岩流が真剣を使ったとかは書いてない。

沼田家記については、17世紀成立で小倉碑文よりは新しいけどそれなりに近い年代(武蔵死後三十年ちょっとらしいよね?)
まだ信じられるけど、これまた研究者から歴史的におかしいと疑問点がついてた部分があるはず。どこだったか忘れたけど。

そもそも江戸時代は創作を伝記に入れ込んだり、自分の先祖を良く見せようとしたりするのが普通だった点を理解しとかないと。

357: 人間七七四年 2010/06/17(木) 02:08:56 ID:Mgbw6Qv9
>>356
巌流か岩流かなんてさして重要な点じゃないでしょ。
ようは「ガン流」、小次郎の称した流名であることは殆ど間違いないし
名前と言う説もあるが、小次郎と言う名が沼田家記で明らかになっている点から、こっちの説はほぼ否定されてる。
どの史料から引用した戦いの模様かわからんから何といっていいかわからんが、君の挙げた小倉碑文には「岩流三尺の白刃を手にし」と書かれてるぞ。
それに重要だったのは得物がどうだったかというより、他流派の武芸者と戦い、それを殺傷してしまっていること。
だから武蔵の行動が問題視され、それを受けて他流試合を控えるようになったんじゃないか、といってる。これはあくまで俺の推測
巌流島の戦いについて疑問視されているのは経緯や小次郎の素性などで、小次郎が殺されたのはほぼ確実と言われてる
原田夢果や上村道子氏の著書なんかがこの辺の事情で有名だが、現諸史料で小次郎が殺された事は伝えられていても、小次郎が生き残った事を伝えるものは今のところないから。
新しい史料が発見されればどうなるかしらんがね

>岩流について何も書いてない

武蔵は基本的に、自分の著書で戦った相手の事は書かんよ
有馬と秋山が五輪書に名前だけ出てくるだけで、後は六十余度戦って一度も遅れをとってねえ、でまとめられてる
例えば高田吉次の伝記の崇白先生伝、丹治峯均筆記には吉次と武蔵の御前試合の事とか書かれてるが、このことも武蔵は自らでは記していない
吉岡についても武蔵は直接詳しくは語っていない。五輪書の原本には二十一で都に上って天下の兵法者に会い、数度の勝負をして勝たなかった事はなかった、と書かれてるだけ
だから小次郎に関して武蔵自身の筆がないのは別に特筆するような事じゃないよ

363: 人間七七四年 2010/06/27(日) 09:11:41 ID:19en28uq
強いだけじゃなくて、文人との交流とか町割の技術なんかを持ってた所を見ると、やっぱり技術者、武芸者として評価されてたんじゃないの?
仕官してないし役人としては評価されてなさそうだけど

364: 人間七七四年 2010/06/27(日) 12:18:49 ID:XIAXl1mr
役人になることと人物の出来不出来は直接イコールではない
武蔵ほどの有名人ならしがらみも多いだろうから、弟子や息子を推挙したんだろう

365: 人間七七四年 2010/06/27(日) 19:18:42 ID:Q35muoPz
フィクションで美化されすぎちゃって、希望的に武蔵はこうだからとされて可哀想な方でもあるな

369: 人間七七四年 2010/07/05(月) 03:22:45 ID:Ug/H+Toq
沼田家記の顛末みると、細川家に武蔵はこの時点で既に要人扱い
おやっさんのコネだかなんだか知らんが、ほとぼり冷めてから重用されるのに、違和感は感じないよな
ただ、一介の浪人から実力で大抜擢なんて印象ではない。パパ無二の人脈大活用の世故そうな印象にはなるが 。

370: 人間七七四年 2010/07/05(月) 15:35:16 ID:yGdZ8eJl
もともと氏素性の知れない浪人って感じじゃないしね

371: 人間七七四年 2010/07/05(月) 20:27:05 ID:VhC4C6Zy
素朴な疑問なんだが、武蔵の名乗りのうち、”武蔵”ってのは”武蔵守”のことだよな?
上泉伊勢守とか柳生但馬守みたいな官職名乗りの。

そうすると、呼び名としては普通は「宮本玄信」になるんじゃないの?と思ったんだが。
上二人で言えば、「上泉信綱」「柳生宗矩」みたいに。
何で武蔵の場合、名乗りの方が一般化したんだろ。

373: 人間七七四年 2010/07/06(火) 01:54:36 ID:kFxw7iJc
武蔵守(むさしのかみ)じゃなくて、字がそのまま武蔵(むさし/たけぞう)だからだろ。
江戸時代だと武蔵守は基本徳川家の独占。

376: 人間七七四年 2010/07/06(火) 16:00:16 ID:gtwM6KgN
>>373
五輪書でも「宮本武蔵守藤原玄信」って書いてるんだから、武蔵が字ってことはないんじゃね。
牢人が自称する程度なら放っとかれてたんじゃないか。

そういえば武蔵の幼名は弁之助だけど、大人になってからも字はそのままだったのかね。

375: 仙台藩百姓 2010/07/06(火) 14:34:02 ID:uw/tIlgd
上泉伊勢守や柳生但馬守だって諱より流布されているじゃんお( ^ω^)
他にも松本備前、疋田豊後、丸目蔵人とか
それに塚原卜伝、伊藤一刀斎、富田勢源みたいに号の方が有名な人も非常に多いお
本来は通称、官職、号などを使うのが普通なのだから諱を使う方が異質なのだお( ^ω^)
軍記など伝記の類いでもそれらの呼称で記されるのが殆どだから
これらが一般に流布されるのは自然な成り行きだお( ^ω^)

377: 人間七七四年 2010/07/07(水) 01:11:27 ID:GgST4PDP
>>375
その論法で行くなら
武蔵は宮本武蔵じゃなくて、宮本二天とかでメジャーになるはずじゃないの?
つーか俺は「武蔵」が流行った事よりも、なんで新免じゃなくて宮本がメジャーになったか、の方が気になるねえ

378: 人間七七四年 2010/10/01(金) 05:11:36 ID:kxMPl6VX
>>377
語呂がいいというのもあると思うけど、もしかしたら晩年かあるいは死んだ後は、宮本伊織の養父という意味で有名だったかもよ。
というか伊織からしてすでに宮本だし、新免は武蔵のフォーマルな名称ではあっても、普段は宮本で通していたのかもしれない。

あと上の方で武蔵が巌流島の決闘の時に30前だとか言ってる人がいるけど、それはかなり後代の二天記とかあたりの話で、それ以前では17とか19とかになってる。
時期的に早いほうが正確である、とは限らないけど、案外と若い頃の決闘だったのかもしれない。

383: 人間七七四年 2010/12/06(月) 14:39:40 ID:IjIeaOGi
強かったとは思うけどねえ
宣伝が過ぎて胡散臭いから逆に評価下げてる気が

385: 人間七七四年 2011/01/13(木) 03:15:35 ID:9+eCjuMZ
>>383
でもそれ本人の責任じゃないからなあ
小野さんと同じで、柳生や武蔵がらみで信ぴょう性の欠片もないような武勇伝が流布されてるけど、流したのって本人じゃなくて弟子だろうし

388: 人間七七四年 2011/03/13(日) 14:40:27.74 ID:QXhoRvDI
>>385
近年の大河ドラマなんかも同じことがいえるけれど過去の偉人を持ち上げるための捏造エピソードってなんで本人を貶める結果にしかならんのだろうな

389: 人間七七四年 2011/03/30(水) 05:18:27.35 ID:5rpagI9R
>>388
武蔵の場合、歌舞伎を皮切りに講談師がある事ない事広めまくったからな
飛んだ蠅をハシで掴むとか、有名だけど出典が解らんエピソードも多いぞ

395: 人間七七四年 2011/04/15(金) 23:25:42.50 ID:o88NHY69
「無駄な努力はするな」
と言ったらしいですけどだれか詳細知らない?

396: 人間七七四年 2011/04/16(土) 15:22:07.20 ID:Qte2QnKa
そういうの言ってるのかな。
五輪書は一貫して正しい理にそった稽古しろみたいなこと書いてたように記憶しているが、細かいところは忘れた。
「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」とも書いてるのは確かなので、とりあえず日々の努力鍛錬は否定していなかったと思う。
あといちいち工夫すべしとか書いてたかな。

つまり……
正しい理論でちゃんと鍛錬を重ねるようにしよう。あと自分でも考えるように。
が武蔵の主張なんじゃないかとうろ覚えな記憶でまとめていってみる。

397: 人間七七四年 2011/04/16(土) 17:05:49.99 ID:CU3ZbNYM
「鍛錬すべきなり」というような記述は何箇所あるんだかというくらいあるけど。
『五輪書』なんて入手が容易なんだから自分で見たほうが納得できると思う。

399: 人間七七四年 2011/04/17(日) 04:03:38.77 ID:M7NNeAsv
武蔵はあっちこっちの小説やらの題材にされるので、うっかりそれが有名になると事実無根の創作が広まることになって、それが前提で話を進められることがよくある。

例えば二天一流などの武蔵の流派は後継者がいないだの広まらなかっただのという話がよくあるけど、ここらは司馬遼太郎あたりのいいがかり。
実際は江戸初期はかなり広まっていたし、明治あたりまで結構使い手はいた。
現代は伝える人も減ったけど、幕末でもっとも広まった直心影流の零落ぶりを考えると、かなり残ってる部類に入る。

403: 人間七七四年 2011/04/17(日) 18:03:19.05 ID:pPRmDWrH
幕末に最も広まったかは知らんが大正時代に入っても直心影流は多いな。
武道家名鑑を見た感じ北辰一刀流、神道無念流に次ぐくらいの数はいる。

412: 人間七七四年 2011/04/20(水) 03:14:12.13 ID:Zvgk6X2C
鳥取の武蔵流のように、武蔵にあやかって名前を付けた流派もあるから、一見しただけじゃ武蔵ゆかりかわからんというのがややこしい所だな

413: 人間七七四年 2011/04/20(水) 21:12:06.20 ID:m5Y71A2m
卜伝流の中にもどう見ても卜伝の新当流とは関係なさそうな流派もあるそうだからな。

伊織伝二天一流なんかも、小さん師匠も継承していたって流派だが江戸後期になって突然でてきた流派で怪しい。
二刀遣いは古くからあるし、あるいは武蔵流の末流が伊織に伝承されていたと詐称したのかもしれないが。

414: 人間七七四年 2011/04/22(金) 00:21:28.71 ID:nfOHUc58
あまり柔術と縁がなさそうなのに卜伝を開祖とする柔術もあったりするからな。
昔の神道流は総合武術であったから柔も達人だろうという発想かな。

415: 人間七七四年 2011/04/22(金) 04:30:49.87 ID:MQN31F0Z
柔術といえば二天一流柔術ってのも存在した、らしい。
古橋惣左衛門が伝授をうけたというが、伝書の一部が残るだけだという。
武蔵の他の弟子の塩田も小具足が使えたというから、武蔵の体術ってのはあったんだろうけど。

416: 人間七七四年 2011/04/22(金) 07:45:36.32 ID:gdj92UMp
十手と柔は親和性があるから当理流時代からあったかもね。

417: 人間七七四年 2011/04/22(金) 13:19:45.72 ID:MQN31F0Z
当理流が武蔵の父の流派であるかどうかはまだ微妙だけどな。
宮本無二之助=新免無二については異論も多い。

419: 人間七七四年 2011/04/23(土) 19:04:58.58 ID:GqWtX4za
>>417
だが、宮本武蔵が受けた大名家の厚遇ぶりを見ると、そこそこ良い家柄の人間で有ると考えた方が論に根拠を持たすには都合が良い
必然的に当理流開祖と結び付ける傾向になるのだろう

420: 人間七七四年 2011/04/23(土) 19:20:30.35 ID:8DoozkF7
>>419
単純に技術者、芸術家としての厚遇って考えてもいいんじゃないか?
明石時代の武蔵は作庭を随分としているようだし。
林羅山らと直接に関係があったんじゃないかって説もあるし。
そこらのコネクションとかあったんじゃないかな。

あるいは水野勝成の配下で武者奉行だった中川志摩之助の子供たちを養子にもらっているが、これは水野勝成が大阪冬の陣に武蔵が参戦していて、それが縁だという話もある。
この頃の武蔵が宮本を名乗っていたのかは不明なので後世の混入の可能性は高いけど、水野家と何か武蔵は関係があったのかもしれん。例えば放浪時代とかで。ちょっと年代あわないけど。

あと宮本無二之助は武蔵との年齢差は13歳…養子にとるのには少し歳の差が少ないかもしれず。

421: 人間七七四年 2011/04/25(月) 23:51:47.38 ID:U/sLC7DL
大阪の陣の宮本武蔵は、所謂俺らが武蔵と呼ぶ宮本武蔵の事でいいんじゃないの?
大坂御陳御人数附覚に、そのままズバリ「宮本武蔵」で載ってるし、よく宮本武蔵複数人説というのがあって、この武蔵は新免武蔵とは別の武蔵だと言う奴が言うけど、この武蔵は作州様附の十人の一人、嫡男勝俊の親衛隊であり、とすれば、道明寺と天王山で大暴れした部隊の一員で、しかも最前線に居たという事になる
もしこの宮本武蔵が二天一流の武蔵じゃないのなら、この時活躍した筈の宮本武蔵は一体どこ行っちゃったんだ? という話になる。水野家家臣として何かしらの記録が残る筈
妙政寺に武蔵が勝俊に寄進したという石灯籠があるが、ともあれ、武蔵と水野家は縁深い。この宮本武蔵=新免武蔵と素直に結論付けて問題あるまいよ
絵画や書家の武蔵を「二人の武蔵」とする説もそうだが、それぞれの分野に全く別人の宮本武蔵と名乗る人物が居て、それぞれそれなりに著名で、しかもそういうケースが複数ある、という方が逆に不自然だろう
わざわざ別人の同姓同名、というより同一人物と考えた方がよほどしっくりくる。
少なくとも水野隊の武蔵に関して言うなら、ドンピシャの宮本武蔵という名を持った同姓同名の別人、とわざわざ考えなければならない必然性が無い。
伊織からして宮本だから、新免武蔵が宮本武蔵と名乗っていた事は確実だしな。

まあ現存する大坂御陳御人数附覚が写本だから、確かに後世の人間が付けたした可能性も無くは無いが宮本小兵衛が武蔵の養子になった経緯から考えても、水野隊に属していたのは、所謂宮本武蔵と考えるのが妥当だろう

422: 人間七七四年 2011/04/26(火) 03:25:01.59 ID:0bJncy1w
>>421
武蔵が宮本を名乗ったのがいつ頃からかはっきりしないからな。
大坂御陳御人数附覚の原本には新免武蔵と書いてあったのを、後の人が宮本武蔵のことだろうと書き直した可能性はある。
というか、新免武蔵守藤原玄信は宮本武蔵の正式な名乗りだよ。まあ武蔵守は勝手に名乗ってたみたいだけど。
どちらにしても水野家と何かの関係があったんだろうけど、武蔵がどうしてそんな関係をもてたのかというのはよくわからない。
あと宮本小兵衛は武蔵の養子三木之助の甥。
三木之助の弟の九郎太郎…二代目宮本三木之助の息子に当たる。

武蔵複数人数説は綿谷雪氏が提唱していた説だけど、現在ではさすがに真に受けてる人はいない。
後世の伝書やらで捏造されているのを間に受けているんだろう。
ただ考証武芸者列伝で名前が列挙されてたけど、十六人とか多すぎるわなw
ここまで多いと逆に複数いたと考えたくなっても仕方ないだろうなー。

423: 人間七七四年 2011/04/26(火) 05:03:02.23 ID:8CqM1ZON
大坂御陳御人数附覚の出典は確か小場家文書で、書いたのは恐らく小場家の人間なのだろう
あえて縁も所縁も無い武蔵の名を意図的に付けたすとは思えない。武蔵が大坂の陣に参加したのは事実であったとみていい
黄耈雑録では丁度、「水野日向守が手に付き」として、道明寺合戦で何人もの敵をなぎ倒す武蔵が出てくるが、それはともかくとして、武蔵が水野家に肩入れし、寵愛を受けていた事は広く知れていたであろう事がうかがい知れる
齢二十九までに六十余度の勝負を経て、勝ちを得ざる事なし、という定説に則るとすると、大坂の陣の時点では既に有名であったという事になる
勝重に招かれて兵法指南でもしていた縁だったのか、水野家家中に門弟でも居たんじゃなかろうか。後に入り浸る本多、小笠原、細川と同じような感じだとは思う

424: 人間七七四年 2011/04/26(火) 13:31:40.43 ID:0bJncy1w
どっちにしても武蔵が大坂の陣前後の頃から高名で活躍していた剣豪だってのは確かみたいだな。
仕官できなかったみたいなことは小説とかでよく書かれているけど、しなかったってのが正解だろう。
どっかの家に三百、五百石で召し抱えられるよりは、複数の家に影響がありながらも一人身の方が気楽なんじゃないか。
晩年の細川家で三白石もらってたのも、滞在費として小遣いもらってた感じだったらしい。
細川家に招かれたというのは俗説で、弟子のいる熊本に湯治にきていついたみたいなのが伊織の書簡などに書いてるそうだ。
まあ考えてみたら、高名な兵法者がどうこうの前に、当時の感覚としては小笠原家筆頭家老の養父がきているんだから、それなりの待遇でもてなすのが当然なわけだが。

425: 人間七七四年 2011/04/26(火) 17:31:05.80 ID:8CqM1ZON
>>424
正確に言えば、細川忠利に山鹿の温泉に招かれた
細川奉書に、足利道鑑と共に山鹿のお茶屋に招待された事が日付入りで載っている
とりあえず、「宮本武蔵って知ってる?」って人に聞けば、「ああ、あの剣豪の」と返って来るくらいには世間に認知されていたのだろう

引用元: ・【木刀】宮本武蔵を語る【サイコー!】



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