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1: 日本@名無史さん 2007/12/19(水) 18:18:29
小倉藩について語るちゃ
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豊前小倉十五万石 小笠原家







217: 日本@名無史さん 2008/03/21(金) 01:10:36
城が燃えたぐらいで何故他国に落ち延びる。
九州の近隣諸国は大迷惑。

222: 日本@名無史さん 2008/03/21(金) 03:17:08
>>217
一般論で申し訳ないけど小笠原壱岐守長行が江戸に逃帰ったので小倉藩としては私戦を避けたらしいです

小笠原 長行(おがさわら ながみち)は、江戸時代後期の江戸幕府の老中、外国事務総裁。

長行は小倉口の総督として幕府陸軍歩兵隊や、小倉藩、熊本藩など九州諸藩の軍勢を指揮し、関門海峡をはさんで長州藩と戦うこととなった。7月27日の赤坂・鳥越の戦いでは熊本藩兵が善戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せたが、長行が援軍を拒否したことなどから、熊本藩を含む諸藩は不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国した。

長州軍は優勢に戦闘を展開し、幕府側の敗色は濃厚となり、長行は将軍家茂の薨去を機に、事態を収拾する事なく戦線を離脱した。孤立した小倉藩は8月1日に小倉城に火を放って退却し、小倉戦争は幕府側の敗北に終わった。この敗戦責任を問われた長行は10月に老中を罷免されたが、徳川慶喜の強い意向により11月には再任された。


220: 日本@名無史さん 2008/03/21(金) 02:39:58
城を焼いた後も長州勢としぶとく戦って小倉城にまで攻め行って前の殿様の亡骸を奪還したわけだが・・・
山縣も講和条件を緩くしたし

221: 日本@名無史さん 2008/03/21(金) 03:14:13
前の殿様は討ち死にしたの?
それとも捕らえられて打ち首?

223: 日本@名無史さん 2008/03/21(金) 03:35:24
>>221
病死

山県有朋「懐旧記事」では敵は自ら小倉城に火して奔逃したるの報を得たり。乃ち又直に大里に赴き数隊を率い進で小倉に入り城下の景況を見るに、急慮に軍議を決し狼狽して兵を引き揚げたりと見えてと小倉藩の慌てぶりを罵っている

227: 日本@名無史さん 2008/03/21(金) 14:38:21
慶応3年、小倉城がある企救郡が奇兵隊に占領されたまま忠幹から豊千代への小倉15万石の家督続願いが板倉伊賀守、井上河内守、稲葉美濃守、松平周防守、小笠原壱岐守宛てに出されてる
高拾五万石 豊前小倉城主
小笠原左京大夫 当卯四拾一歳
嫡子 小笠原豊千代丸 当卯 六歳

その翌日に忠幹が逝去されたと触れ出しがなされ幕府にも届け出されてる
実際に死んでから2年以上経っていたはずだが

228: 日本@名無史さん 2008/03/21(金) 19:57:28
小倉藩の家老が長州征伐の最中に日田にいたのは掛屋との交渉?

229: 日本@名無史さん 2008/03/21(金) 22:54:14
アームストロング砲を発注してた小倉藩が軍用金調達の必要に迫られてたのはたしかだな

231: 日本@名無史さん 2008/03/22(土) 09:55:08
「新規ご融資のお申し込みはお客様のご返済状況の審査が必要です」
と掛屋が申しております。

232: 日本@名無史さん 2008/03/22(土) 11:56:10
日田金は借りる時は便利だけど取り立てが露骨だからね。急に言葉遣い変わるし。
小倉藩もジャンプばかりして元金減らせなかったんだろう

233: 日本@名無史さん 2008/03/22(土) 12:44:49
ちなみに天領日田の大名貸しは、明治維新と廃藩置県で無効化され、日田の豪商は破産し、小倉小笠原の負担は一気に軽減されました。

234: 日本@名無史さん 2008/03/22(土) 13:11:20
藩内最大の出資者の中原屋は小倉撤退後も香春から豊津へと藩と行動を共にしたようだ。
小倉藩は奥羽出兵で金も底をついたらしいく廃藩置県で殿様が東京に移住する際には見りの領民たちが殿様を乗せた船が出航した直直後に打ち壊しを始めた。

240: 日本@名無史さん 2008/03/22(土) 21:08:51
小倉藩の負債は日田の掛屋より領内と大阪の商人がメイン

241: 日本@名無史さん 2008/03/22(土) 21:13:58
譜代だけど西国の遠方であれだけ長く同じ領地を支配してたから幕府に大事にされてたんじゃないか

242: 日本@名無史さん 2008/03/22(土) 22:02:09
>>241
同意。小笠原は相良と同様に重用された。

243: 日本@名無史さん 2008/03/22(土) 23:08:16
でも要職には就けていない

244: 日本@名無史さん 2008/03/23(日) 08:43:12
領土の多いものは要職は得られない。
要地にいるものは要職に就くことは難しい。

徳川時代の人事はそういうもの

245: 日本@名無史さん 2008/03/23(日) 08:48:20
>>244
つ井伊

246: 日本@名無史さん 2008/03/23(日) 09:02:19
井伊直弼の大老就任は、当時ありえないこととして論議を呼びました。
要地を治めるものが要職を兼任することは、本当に例外的なことでした。

265: 日本@名無史さん 2008/04/06(日) 16:56:06
>>246
井伊直弼の兄貴も大老をやってるよ
大和郡山の柳沢家も譜代の大身だが、柳沢吉保以後は幕政には参画してないな

251: 日本@名無史さん 2008/03/23(日) 12:16:12
黒白騒動を大河ドラマに!

小笠原 忠固(おがさわら ただかた、明和7年9月4日(1770年10月22日)- 天保14年5月12日(1843年6月9日))は、豊前小倉藩の第6代藩主。小笠原家宗家7代。小倉藩の衰退につながった白黒騒動を起こした藩主として知られる。

白黒騒動

文化8年(1811年)、忠固は突然、江戸家老の小笠原出雲を呼び出して、「自分も幕閣となって幕政に参与したい」と言い出した。出雲はこれに対して賛成しなかった。もし、小倉藩主ほどの家格で幕政に参与するとなれば、老中くらいの役職に就くことになる。そうなれば、老中になるまでの運動で幕閣に対する出費や運動資金、いわゆる賄賂は莫大なものになるだろう。しかも当時は日本近海に外国船が出没し、幕政も行き詰まっている時期である。だから出雲はあまり幕政に関わらず、むしろ藩政の再建が重要だと考えて反対した。

忠固も一時はこの諫言を聞き入れたが、またもや出雲に対して老中になるように運動するように命令を出した。こうなると小笠原一族である出雲は、本家当主の命令に従うしかなかった。だが、やはりそのための運動資金は莫大なもので、藩財政は破綻寸前となる。このため、反対派は忠固を老中にしようと運動している出雲を奸臣と見なしてその暗殺を図った。出雲のほうは未遂で終わったが、出雲の腹心が暗殺されてしまった。だが、反対派のほうも必ずしも一枚岩ではなかった。反対派の一部に自分の出世と出雲の手腕を妬む者がいて、この一派がとんでもないことに小倉藩が外国船に備えて造営していた狼煙台を勝手に使用して藩士を扇動したりして、執拗に出雲の暗殺を図ったのである。しかも反対派の一部が藩財政の悪化などからストライキを起こして福岡藩領である筑前国黒崎に出奔してしまったのである。このため、反対派は黒崎から「黒」、出雲の一派は小倉城内(城→「白」)ということから、この騒動は白黒騒動と呼ばれているのである。

そして、このような一連の騒動が幕府の耳にも入り、そのメスが藩に入ることとなった。出雲は家老罷免の上で失脚。反対派に属していながら己の栄達を謀った一派は処刑、藩主の忠固も100日間の禁固刑となった。

253: 日本@名無史さん 2008/03/23(日) 13:20:04
>>251
あの騒動はあまりドラマチックじゃないからどうだか・・・

252: 日本@名無史さん 2008/03/23(日) 12:23:57
小笠原忠固って、なまじやり手で野心家だったから家臣が大迷惑したんだよな。
老中になれなかった水野忠邦って感じか。

254: 日本@名無史さん 2008/03/23(日) 13:46:59
でも、殿さまに反旗を翻した連中が集団で福岡藩領に脱走したり、その首謀者が逮捕後、処刑されたりしてる。

258: 日本@名無史さん 2008/03/24(月) 18:45:16
第二次長州征討の際、小倉藩主小笠原忠幹は既に死去しており、藩主の座は空位状態であった。

世子豊千代丸はまだ幼少であったため、忠幹の死は秘せられていたが、この場合、支藩の千束か安志藩に相続させるべきだったのではないか?
とくに安志藩主は忠幹の実子で豊千代丸の兄だったわけだし。

259: 日本@名無史さん 2008/03/26(水) 18:57:25
以前に安志から来た小笠原敬次郎様のトラウマが家中の首脳陣に働いたんじゃないか?
小倉新田藩(篠崎候)の近江守も家中では求心力あまりなかったようだし。
小倉藩兵のみで先制攻撃で渡海して長府城を抜いて山口に攻め込む策を近江守は退けたしね

294: 日本@名無史さん 2008/04/22(火) 23:54:33
小笠原といえば、今井邦彦氏が演じられた信濃守護小笠原長時が御先祖では?
武田と同じ甲斐源氏の名門ですな。

295: 日本@名無史さん 2008/04/23(水) 01:14:30
信濃時代の小笠原は親族の内紛が酷かった

298: 日本@名無史さん 2008/04/27(日) 17:05:35
細川の家来の小笠原とこっちの小笠原と俺の同級生の小笠原は親戚でしょうか?

299: 日本@名無史さん 2008/04/27(日) 18:09:37
細川の家来の小笠原は室町幕府の幕臣だから、
小倉の小笠原(信濃守護家)とは遠い親類だろう。

おまえの同級生は知らん。

305: 日本@名無史さん 2008/04/28(月) 20:39:13
え~小笠原氏はもともと信濃守護でございまして
南北朝時代は北朝方に組し信濃に落ち延びていた後醍醐天皇の皇子宗良親王(南朝方征夷大将軍)と激突して勝利し守護の面目を保ちましたが何分信濃は広うございまいて最後まで国人領主をまとめきることができず,また小笠原家自身も分裂・内紛を繰り返し戦国期には武田に攻められとうとう信濃から落ち延びるハメになってしまいました。

そういった経緯から小笠原家は全国に庶家が点在していきましたが,一応信濃時代に府中・鈴岡・松尾と3分裂したうちの府中小笠原氏が後の小倉藩小笠原氏につながり,もともと守護職を務めていた鈴岡小笠原氏を攻め滅ぼした松尾小笠原氏の系統が江戸時代に信濃飯田に1000石の交代寄合として名跡を残していくことになります。

325: 日本@名無史さん 2008/06/05(木) 01:24:26
英彦山って所領はどのくらいあったの?
やっぱり小倉藩からあてがわれたの?

326: 日本@名無史さん 2008/06/05(木) 18:06:43
彦山は座主は京師より出たが完全に小倉藩の支配だな。
彦山勤王党も小倉藩に斬首されとるし。

328: 日本@名無史さん 2008/06/08(日) 16:46:47
本来はここが小笠原流礼法の本家だけど今はかなり失伝しているようだね。
今では旧幕臣の分家の方が礼法の本家のようになっている。

333: 日本@名無史さん 2008/06/10(火) 20:33:04
小倉小笠原の直系は、いま礼法の宗家をやってる敬承斎なのか?

342: 日本@名無史さん 2008/06/23(月) 00:04:28
うちの苗字は宮島なんですがご先祖は小倉藩に仕えていたらしいのですが記録は残っていません。長野県南部に多い苗字らしいの勝手に小笠原の殿様が飯田を治めてた時に仕官したのかなぁと思ってます。
詳しく調べたいのですがどうすればよいのでしょうか?

346: 日本@名無史さん 2008/06/25(水) 00:32:09
>>342
小倉藩は城を焼いたので資料が極端に少ないから藩士の記録は
「諸士由緒」〔田川市立図書館蔵〕
「諸士系図」〔小笠原文庫(県立豊津高校)蔵〕
このくらいかと思われ…
昔の小倉市史か福岡県史資料に載っていたかも

343: 日本@名無史さん 2008/06/23(月) 09:08:15
宮島という足軽が公金横領して打ち首御家断絶になったことがあったよ。

344: 日本@名無史さん 2008/06/24(火) 14:16:04
行刑録で確認できる小倉藩の死罪・重追放になった武士(陪臣、軽格含む)
小川七兵衛(討首) 加藤儀右衛門(磔) 儀右衛門兄加藤伝吉(極門)
上野林左衛門(獄門) 橋本角兵衛組・金井彦次郎(討首)
厩組・理左衛門(磔) 元御鉄砲磨・兵助(鼻そぎ入墨長州へ重追放)
御土蔵勤?岸本曹大夫(獄門、牢死後塩首) 田中為右衛門(討首)
射具方手代・藤井嘉左衛門(鼻そぎ入墨長州へ重追放) 同心組・喜与助(討首)
篠崎御屋敷御家来(支藩家臣)・宮崎藤右衛門(牢死後に死骸打首) 元御借方御雇・平井茂兵衛(死罪)
組小頭・上野友右衛門(獄門) 大日向次郎左衛門(斬罪)
御土蔵勤番?・西森安兵衛(打首) 勘定所小使中尾儀平次倅庄五郎(牢屋において死罪)
篠崎御屋敷御家来・作間喜一郎(死罪) 小笠原帯刀家来・宮崎兵左衛門(獄門晒三日)
書院格勤番・西村代八郎事代八郎(討首) 御目見以下組外・松島徳左衛門(斬罪)

346: 日本@名無史さん 2008/06/25(水) 00:32:09
>>344
白黒騒動で処刑された上原与一が抜けているから完全なものではないようだ

345: 日本@名無史さん 2008/06/24(火) 22:08:04
宮島という足軽はいないようだな

鼻をそがれて入れ墨入れられた重罪人を海の向こうの長州へ追放って長州側からは迷惑だな話だな
軽追放は筑前だったらしいけど

348: 日本@名無史さん 2008/06/25(水) 00:57:37
「小倉藩諸士由緒書」(小笠原忠統編、ふるさと豊前六豊前郷土会1976年)
というのもある
小倉藩士の子孫はなぜだか宮城県や岩手県に結構いると聞いたことがある

356: 日本@名無史さん 2008/06/30(月) 23:48:41
>>348
小倉藩士が盛岡の県令になったからだよ

351: 日本@名無史さん 2008/06/26(木) 01:22:53
小倉藩は城を自焼して香春に後退して最後に豊津に移ったわけだけど士格三千といわれた藩士が維新前後にどこに住んだのかは興味ある

400: 日本@名無史さん 2008/08/13(水) 16:10:36
小倉藩は小笠原長行の家来だったって聞いたけど、本当?

401: 日本@名無史さん 2008/08/13(水) 16:18:11
>>400
小笠原長行は老中として、幕長戦争の小倉口の司令官だったから、小倉藩は指揮下にあったが家来ではない。
唐津藩の当主でもないが。

402: 日本@名無史さん 2008/08/13(水) 16:25:23
むしろ小倉が本家で唐津の敬七郎長行は分家の子

403: 日本@名無史さん 2008/08/13(水) 16:42:46
長行は秀才だったが山内容堂に担がれて幕閣に登用されただけの人物
「小笠原長生翁昔ばなし」にこんな話が
『私が父(長行)に「長州に勝てる目算がありましたか」と聞いたら
「とんでもない、幕府はもう落ちるとこへ落ちてしまっている。
それに長州は苦しくなれば外国の手も借りられるだろう。逆さになっても勝てないさ。
しかし一応征伐するぞ、征伐するぞ、と声を大にしなければ外国との交渉に、あれこれ差支える事が多かったから、やっただけだ』

404: 日本@名無史さん 2008/08/13(水) 16:56:52
こんな老中に捨てられた小倉藩カワイソスギ

405: 日本@名無史さん 2008/08/13(水) 17:29:31
その老中小笠原行の若き日の写真です
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412: 日本@名無史さん 2008/08/14(木) 01:07:48
>>405
晩年のニコニコしてる写真しか知らなかったけど中々凛々しいお姿じゃないの!
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413: 日本@名無史さん 2008/08/14(木) 01:35:13
>>412
男前!潜伏先の函館で、モテまくって子孫増やしたの鴨

引用元: ・豊前小倉十五万石 小笠原家



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