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1: 人間七七四年 2008/11/30(日) 19:57:44 ID:sigm0pkH
隼人死す!戦史上類を見ない決死の脱出劇について語れい!










2: 人間七七四年 2008/11/30(日) 20:10:21 ID:Jga+rlpQ
ここがぁ~死に場所だぁ~♪

5: 人間七七四年 2008/11/30(日) 21:17:38 ID:1DjCRccb
島津を受け入れなかった徳川が悪い

島津の進言を受け入れなかった石田が悪い


以上

3: 人間七七四年 2008/11/30(日) 20:15:26 ID:Am2Emt8p
関が原で東軍のど真ん中を突き進み鹿児島まで生還したが兵のほとんどが戦死
どうせなら最初から参戦していれば西軍勝利したのにな

7: 人間七七四年 2008/11/30(日) 23:49:34 ID:XEFA/u9r
思うんだけどさ
結局、島津はいてもいなくても関ヶ原の勝敗に関係無いんじゃなかろうか?
島津は寡兵すぎてどっちにいてもあまり戦況に影響ないような…

8: 人間七七四年 2008/12/01(月) 00:57:51 ID:K+5EObE4
義弘公の実力をなめるよっ!!!

と、薩摩隼人の俺が言ってみる。

6: 人間七七四年 2008/11/30(日) 23:46:55 ID:V86XwGTA
島津は関ヶ原などにはでず、九州を如水と席巻してればよかった。

9: 人間七七四年 2008/12/01(月) 01:12:57 ID:I8XJfmZt
純粋に称える気になれないんだよな。

ちゃんと西軍として戦って敗北してから敵中突破して逃げればよかったじゃんと思う。
万一そのまま玉砕しても大坂の陣の真田のように称えられたはず。
東軍に味方して西軍を攻撃するでもないし。
俗説にいう石田三成との確執で中立したのが真実ならあまりに幼稚。

どれにしても中途半端すぎる。

10: 人間七七四年 2008/12/01(月) 01:26:21 ID:ZYPfMEVS
西軍についたのはしょうがないよ。
上杉討伐に連れて行かれてたら東軍だったのは間違いないし。
当時200人もいない中、周りは西軍勢だらけで人質もとられりゃ誰だって西軍につくわ。

13: 人間七七四年 2008/12/01(月) 15:47:04 ID:+8N6I0T3
あの状況でちゃんと退却できたのがえらいって感じだね。
退却しか手がないから東軍諸将が見守っていると、前進してきてみんなびっくり。
びっくりしてたら、なんかどっか逃げてったって感じ。

普通に退却してたら全軍に追撃されてただろうから、ベストの退却法ではあった。
退却法がうまいってのは名将の証明の一つだけど、だからといって誇るようなものでもない。

14: 人間七七四年 2008/12/01(月) 15:58:05 ID:naqKX/y+
まあ、「中央突破」なんて、威勢はいいけど運任せの愚劣な作戦よりは、よっぽど合理的だな。

21: 人間七七四年 2008/12/01(月) 20:54:55 ID:Bs3+39Yc
この頃の島津ってあんま中央の政治に興味ないように見えるよな。豊臣政権下でも朝鮮出兵はともかく、政治的には地味な印象がある。

退き口も面白いが、その後の家康との駆け引きでしっかり本領安堵を勝ち取る辺りが島津らしいよ。
大狸を相手にのらーりくらり(笑)田舎者の気質がよく出てる。

22: 人間七七四年 2008/12/01(月) 23:18:33 ID:+8N6I0T3
>>21
旧主筋の近衛家と頻繁にやり取りしてる島津が中央の政治に興味ないんだったら、中央の情勢に興味を持ってる大名家なんてないぜ。

23: 人間七七四年 2008/12/02(火) 14:29:40 ID:hM4dzJ+p
家康もアホだな。なんで関ヶ原の後島津を始末しなかったんだ?

24: 人間七七四年 2008/12/02(火) 14:53:31 ID:p+R8rnEB
島津擁護が意外に多かったのと、あんな九州の端っこに大軍動かすとまた留守に誰かに反旗ぶちあげられる危惧とか色々言われとる

25: 人間七七四年 2008/12/02(火) 15:08:00 ID:gdqST2Tv
最近は、秀吉の朝鮮征伐の後始末をするため、島津の持つ琉球ルートの対明折衝をしたったから、ってのがあるな。

27: 人間七七四年 2008/12/02(火) 15:53:23 ID:gdqST2Tv
つーか、島津に対しても毛利に対しても、家康は全く危険視していなかったって、「殿様の通信簿」とか書いてる磯田道史が言っていたが、それは確かだと思うぞ。

当時の徳川の脅威は、国内的には最大諸侯である前田家、対外的にはスペイン勢力だった。
家康の「自分尾死体は西に向けろ」ってのは、西国諸藩に対するものではなく、南蛮勢力に対する鎮護のため、だと考えた方が良いそうな。

28: 人間七七四年 2008/12/02(火) 17:52:47 ID:3hoHdGzI
って言うか関ヶ原勝利時点ではまだまだ天下は先の先だったし現代の僕らは結果論を知ってるだけだし当の家康からしたら信、秀を見て天下の脆さ知ってた訳で秀頼滅ぼすまで本人はギリギリの橋渡りしてたわけで…

33: 人間七七四年 2008/12/03(水) 00:32:07 ID:8RJ1o8s3
徳川が島津に手出しをしなかった理由は、島津が明とつながりが強かったからだと思われます。

朝鮮出兵の折、島津義久配下の明人許三官が日本の内情を明に知らせたりしています。
秀吉はそれに激怒して何らかの処罰を行おうとしますが、それをとりなしたのがほかならぬ徳川家康です。

言うまでもなく、家康自身は島津と明の関係については熟知しているので、明とまた相対するかということも考慮して関が原後の島津をどうすべきか考えただろうと思われます。
この時点での一番危険な外国勢力は、南蛮とイエズス会だったことは確かなので、島津の後ろにいる明とことを構えるのを避けるため、島津の処分を軽くしたのだと思われます。

ちなみに明はその後衰亡し、滅亡しますが、明の一派である鄭氏政権から日本に救援要請が送られます。
その際、救援のための出兵に対して積極的であった藩の一つは、薩摩藩だったということです。

36: 人間七七四年 2008/12/03(水) 09:06:46 ID:zDVo/ZxT
大陸でも八公二民実施で(((( ;゜Д゜))))ガクガクブルブル

40: 人間七七四年 2008/12/03(水) 14:04:20 ID:iCLjJm2Q
島津領内は土壌の問題で米の生産性が低く、年貢率が高かったのは事実だが、それと明の救済については別。
島津は貿易で多大な利益を得ていたので、その経済圏の安定のために救済を考えていたというのはありえる話。


47: 人間七七四年 2008/12/03(水) 23:10:49 ID:0L5fd4uB
関が原後、島津討伐軍派遣されてるんだけどな。
にらみ合いで終わったけど。

55: 人間七七四年 2008/12/05(金) 05:30:47 ID:g1Zv/rJ+
軍議で石田に無視されたから最初から離脱するつもりだったんでしょ?
58: 人間七七四年 2008/12/05(金) 07:06:48 ID:RtXdIWaw
伏見城での情報の行き違いだっけ? 
あれ違ったか?

56: 人間七七四年 2008/12/05(金) 06:56:13 ID:2B6g6aKS
約束を破られた時点で、輝元も、家康と戦う姿勢を見せれば島津はどうなっただろう。

57: 人間七七四年 2008/12/05(金) 06:57:34 ID:wKEAWBhZ
>>56
これ幸いと毛利攻めの軍に加わるだろうね>島津


67: 人間七七四年 2008/12/08(月) 20:47:43 ID:k2HF0HRx
結局この時、島津って何処に退いてたの?

68: 人間七七四年 2008/12/08(月) 23:52:01 ID:IIGpUyu2
>>67
鹿児島

引用元: ・島津の退き口!



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