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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 20:07:58 ID:Qath1cTK0
馬超を語るスレです 







260: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/28(水) 21:36:11 ID:bw6r/GP6O
なんか三戦板に「馬超は何故父親を殺したのか」っつースレ立ってた。未だにループネタでスレ立つとはな。

262: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/29(木) 00:07:31 ID:iB0XYZIj0
>>260
馬騰は韓遂が殺したようなもんだと思うがね
韓遂の経歴見ると自分がサブになって御輿盛り上げる手法をとり続けてるわけだけど
馬超の場合もそれだろ?

265: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/29(木) 12:26:50 ID:vsVuu4luO
>>262
武装蜂起を持ちかけたのは馬超だよ。
「もう東の人間は信用できません。私は父を捨てあなたを父とするので、あなたも子を見殺しにして私を子としてください」
張既伝か鐘ヨウ伝の注釈にこうあったはず。

266: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/29(木) 12:57:29 ID:iB0XYZIj0
魏略にそう書いてあるからって信用できるかね?
魏略では馬超を不孝の人としたい立場からそう書いてるだけでは?

267: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/29(木) 22:00:10 ID:7QzvkveD0
「天下を為す者家を顧みず」という言葉がある
項伯が劉邦について人質作戦が無意味だと項羽に語った言葉

徐州に父がいても陶謙と戦った曹操と同じで、天下を争う覚悟の者は親でも捨てる

276: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/02/09(月) 06:01:07 ID:82EmOfQeO
天下を争う覚悟のある者というけど、馬超にその気持ちはあったのかな?
自分の家庭は涼州にあるんだし、後ろに敵が迫ってきたら守るのは当然で天下統一とかには、どうでもよさそう

278: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/02/09(月) 12:22:23 ID:DNM9eQeiO
>>276
涼州を曹操と争うということは天下の争いに参加することだよ。
馬超にその意識がなかったとしても結果としてそうなる。
曹操(丞相)にとっての天地は中華、馬超(征西将軍)にとっての天地は涼州及びヨウ州というのは正に二人の器の差を表しているね。


281: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/03/16(月) 00:01:45 ID:NKLCN76dO
Wikiに、ともすれば野心から曹操に敵対し一族を滅亡させたと書いてたんだが、本当に馬超に野心はあったんだろうか
そんな息子に軍まるごと預けた馬騰には何か考えがあったのか。

時勢を読めずに勝手に反中央の旗を掲げたといわれてるが、実際は諸将に煽られて挙兵したもんだと想像してた。でも自分がそう思いたかっただけかもしれん…。

282: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/03/16(月) 03:07:49 ID:ehmJFEXb0
>>281
韓遂のそれまでの経歴を考えるととお前さんの想像のが可能性は高い

283: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/03/19(木) 01:30:00 ID:RTTVhIX+O
そもそも馬超の野心て何さw
長安より中央に出る気が馬超にあるという根拠って何だろ。

284: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/04/02(木) 00:21:40 ID:xcTtXctAO
そんな積極的な野望じゃなくて、曹操の干渉を受けずに涼州で覇を唱えたいというのも一種の野心だろう。
項羽とかも似たようなものなのかも知れん。

287: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/04/18(土) 01:58:39 ID:kW+mMAFtO
>曹操の干渉を受けずに涼州で覇をとなえたい

そりゃあ馬超個人の感情だけではなく涼州民の思いでもあるだろう。
(もちろんその中でも意見が割れてただろうけど)

しかも涼州に混在する異民族は中央に従うのを恐れてるだろうし、その独立政治を考える住民に支持されてる馬超が、天下統一をめざす曹操と対立するのは当然では。
それを野心とは言わないだろう。

291: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/16(土) 01:49:50 ID:4MLrRjdqO
馬超さんがもう少し長生きしてたらどうなってただろね
北伐で重用されてたかね?

292: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/18(月) 15:57:07 ID:2GTqLujM0
どうだろう
殺されちゃってたかもわからんね

293: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/19(火) 20:56:10 ID:LtI2ojrV0
戦死って言ってくれ

295: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/20(水) 15:20:34 ID:Oa8rEBM00
閻行にやられたりとか流れ矢に当たったりとか冀城で締め出しを食った時とか危うい事態に何度も遭遇しているな
むしろよく戦死しなかったなと思う

296: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/20(水) 22:33:06 ID:FKGUKawsO
それが豪傑(英雄とまではいかないだろう)の素質だよ。

297: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/06/12(金) 09:25:42 ID:2w0obVdIO
馬超に野心はなかったんじゃないかな。あったら、曹操の領土にもっと積極的に攻め込んできただろうし。孫策みたいに許都襲撃計画も練ってないしな。
馬超の反乱はあくまで涼州を侵略から守る為のものでしょう。
話はずれるけど、馬超と周瑜の同盟の話はどこまで進んでいたんだろうね。使者のやり取りはあったんだろうか。

300: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/06/15(月) 15:38:07 ID:4bGaYv4VO
呉と涼州で同盟決定してたらまた楽しかったろうなぁ…
公謹死ぬの早すぎ

313: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/08/18(火) 20:07:38 ID:UniEd6mYO
馬騰、馬休、馬鉄らは姜叙や楊阜のような親曹操派の豪族だったのかもね。
混乱を極める涼州という土地は治安も乱れきっていただろうから、中央への帰属を望む声も多かっただろう。

314: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/08/19(水) 21:41:21 ID:0CBC5h9EO
正史の時系列だと明らかに親父や兄弟が殺される→馬超が暴れる
ではなく
馬超が暴れる→親父や兄弟が殺されるだよな

315: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/08/19(水) 23:27:04 ID:hbPw91v1O
演義って父親殺されて復讐のために、結局個人の事情で挙兵したように思える

別に脚色せんでもよかったんじゃないだろうか

316: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/08/21(金) 01:47:44 ID:ppLqebCPO
悪の曹操を倒すのは「義」であり、親の仇を討つのは「孝」だ。
個人の事情であろうが劉備陣営に加わる猛将の活躍を描くには脚色は必須だった。

320: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/09/04(金) 11:43:03 ID:NnoRLv+10
正史の馬超は親不孝とかいうが
「俺が曹操を斬れば親父と弟たちは取り戻せる!」
とか思って挙兵したんじゃないのかな。
都での親父と弟たちの扱いには関係なく。

つまりは「曹操も俺なら殺れる」と信じて疑わなかったんじゃないのかな
と思うわけだけどやっぱり甘いかね?

322: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/09/07(月) 14:13:24 ID:moKBo0h1O
>>320
馬一族が粛清されたのはシ童関の戦いの後だが、馬一族が許昌にいる以上、曹操の一存でどうにでもなる。
曹操が敗死したとしても馬超が許昌を抑える前に曹操の部下が馬騰たちを殺すかもしれないし、馬超は一族を見捨てたとしか考えられない。

323: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/09/08(火) 02:00:21 ID:L9HygIEPO
>>320
私は親を捨てるので…、と言ってるんだし
家族がしぬことは覚悟の上で蜂起したんだろう

324: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/09/08(火) 18:41:42 ID:CmtoHHOD0
馬超は家族を失い過ぎでその事実だけでも胸が痛くなる

325: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/09/08(火) 22:19:47 ID:IAIcpamN0
一族はもう馬岱だけになってしまいました

328: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/09/13(日) 18:38:00 ID:ckRdclO5O
馬休か馬鉄のうちどっちか一人は残ってもよかったと思うんだけどな。
馬騰はそれだけよく一族をまとめていたということか?

330: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/10/02(金) 18:51:22 ID:sjEbj1+i0
馬超が死ぬ際、一族は馬岱だけになったとか言うけど
趙雲に嫁いだ妹だか従兄妹ってのはどうなったわけ?

331: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/10/02(金) 21:19:36 ID:47P2pEDK0
どうなった、って
そんな話が史実や伝承に有るのか?

332: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/10/02(金) 23:51:30 ID:WEaeQNDgO
跡継ぎの馬承、
劉備の息子の劉理に嫁いだ娘がいた事が正史に載っている

>趙雲に嫁いだ妹
馬雲緑という妹は、反三国志という小説のオリジナルキャラクター

334: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/10/04(日) 16:50:47 ID:qhUIiKpK0
自分が若い頃は好きだった人物だ。
でも行動が無軌道で結局最後は蜀漢に利用されたよね。

335: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/10/05(月) 15:41:11 ID:EbM2WyuDO
負け戦の連続で死に物狂いで逃げてるんだから、軌道に乗りにくいだろう

336: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/10/06(火) 08:29:32 ID:lXkhHSSRO
自分の地位をよく把握しておらず、それが天下争奪戦に巻き込まれてしまった。

337: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/10/08(木) 00:02:25 ID:2dWz1KGkO
若い頃から勇名をうたわれ、曹操から徐州刺史に任命されたり、周瑜と何かしら連絡を取り合ってたり、それこそ馬超は天下狙える地位にいただろう。

馬騰が入朝した時も、偏将軍・都亭侯に任命されて軍勢をそのまま引き継ぎ、雍・涼州の2代勢力のひとつのトップになっている。

というか献帝まで天下争奪戦には巻き込まれてるんだから、地位が高かろうが低かろうが巻き込まれる。

340: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/03(火) 10:26:54 ID:yXnN/i8CO
関中十部と呼ばれる馬超、韓遂、侯選、程銀、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋が
それぞれどのぐらいの勢力を持っていたのかいまいちわからない

342: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/03(火) 15:57:18 ID:81zJRUlaO
確認できるのは211年の関中攻防戦で馬超が一万、梁興が五千を率いていたということだな。

343: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/03(火) 18:36:54 ID:yXnN/i8CO
誇張はあると思うが潼水に集結した関中十部の兵は10万というが・・・・・

344: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/03(火) 19:10:16 ID:KaZFyjbt0
勢力範囲は斑模様で曹操派を堅持した太守や将も多かっただろうけど、ビに駐屯していた馬超が長安を越えて潼関まで進出し、涼州から韓遂、河東人の程銀、侯選、李堪らが集結したわけだから涼・司隷の二州に跨る大叛乱ということになる(当時は雍州が無いからかなり広い)
建安期最大の叛乱だろうね

345: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/03(火) 19:13:01 ID:KaZFyjbt0
ついでに、程銀、侯選、李堪は興平年間の乱で千余家を従えていたという。

346: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/03(火) 19:59:01 ID:81zJRUlaO
例えば馬超が曹操を攻撃したときの軍勢は一万だが、それ以外に馬超の手足になるとは言い難い風見鶏の豪族がいて、馬超派約二万ということはありえるだろう。
その方式で十人+その風見鶏で十万ぐらいは全然ありえる。
唐までは中国も昔の日本みたいな一種の貴族(豪族)社会だったわけだから。
日本の南北朝の争乱を思い浮かべてみたらわかりやすいかと。

347: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/03(火) 21:23:47 ID:yXnN/i8CO
馬超の部曲(私兵)の大部分は羌族
馬超自身は漢族と羌族のクォーターで羌族の言語、風俗に精通していたのはわかるが
はて、羌族にとって漢族同士の内戦、私闘に過ぎない戦いに過ぎないものに命をかけるほどのメリットがあるのかという疑問がわく

348: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/03(火) 21:59:44 ID:KaZFyjbt0
羌族が漢王朝に対して起こした大規模な叛乱から当時90年になる
以後長らく、断続的に叛乱を起こしては鎮圧されていたが、朝廷の支配力は衰退の一方だった。辺章・韓遂・馬騰らが加わった軍閥連合は、そういう独立の念願が成就したものだという面がある。
帰順先の漢氏(この場合は許都政権曹操)が自分達の意に沿わないのであれば、戦う。
馬超の乱も結局その気風に押されたものだったのだろう。

349: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/03(火) 22:01:52 ID:KaZFyjbt0
あ、独立と言っても現代風に「漢族に支配されない羌族の国を立てる」みたいなものではないけれど。

354: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/07(土) 01:32:46 ID:y7bw18QrO
董卓も馬超も姜維も
魏朝時代の雍州にあたる地域の出身
董卓は隴西郡
馬超は扶風郡
姜維は天水郡
後漢時代は隴西郡と天水郡は涼州刺史部で扶風郡は司隷校尉部であったがいずれの地区も後漢に帰順した羌族が多数移住した地区
そして董卓も馬超も姜維も配下部曲に多くの羌兵を編入ないしは合同した

しかし三者の目的としたところはそれぞれ違う

董卓は自らを再三任免し愚弄した後漢朝廷に対する復讐

馬超は自らの親族を犠牲にしてまでの自らの軍閥勢力拡大

姜維はジリ貧の蜀の情勢を打開するため
魏が司馬一族とそれに反抗する勢力の政争している間に西域との交易路にあたる涼州を勢力圏下に置こうとした
これは諸葛亮の南蛮征服よりはるかに意味のあるものだ
(三国志時代の東南アジアは皆港市国家ばかりで陸路では労多くて利が少ないし後世に大理国のできる雲南はまだこの当時は未発達)
姜維の北伐は諸葛亮の曖昧な提携でなく羌族の胡王白虎文や治無戴らと緊密に連携をとっていたのも特長

357: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/17(火) 18:26:41 ID:a9R252ZGO
馬超、韓遂の本拠地なのにシルクロードの資料には彼らのことが書かれていない。
更には三国時代のことすら書かれていないが、考えてみれば涼州は北宮伯玉の前から
馬超まで地元の人間が暴れまくってたんだから交易どころじゃないよな。
地元の賈クまで殺されかけたぐらいなんだから。

358: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/20(金) 16:48:25 ID:AZ6MU9xAO
正史と演義でここまでキャラが違う人物も珍しい

359: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/20(金) 22:37:09 ID:ZfXiL4hV0
史書 → 韓信・黥布の勇
演義 → 呂布の勇

360: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/21(土) 16:14:34 ID:XBaeFNnNO
演義→悲運の猛将・家族思いの忠義の士
正史→礼儀知らず・恥知らず・命知らず

361: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/22(日) 03:31:58 ID:+4gaQiLY0
礼儀と恥ってのは何の事を指してだ?

363: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/26(木) 00:34:05 ID:7da71/bnO
礼儀知らず→劉備を字で呼ぶ(まあこれは異論あるけど
恥知らず→惨めに落ち延びながら劉備に帰順

364: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/27(金) 00:23:12 ID:yLmZrQzVO
異論というか、注で否定されてるように信憑性がないように思う。
ましてや馬超は「流浪の末帰順したので自身に危惧の念を持っていた」とあるし、謀反勧誘の問題を密告したりしてる。 
むしろ劉備軍に降ってからは、疑われないように必死になってたんじゃないかと。


>恥知らず

自分に付き従ってる兵達がいるのに恥ずかしいだのの理由でふらふらしてたら、そっちの方が愚かだろう。
蜀で後継を作れた事に陳寿は評価しているしね。

365: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/28(土) 00:43:53 ID:0ckWUov1O
あれだけ徹底的に叩き潰されて、一族皆殺し、しかも全部自分のせい
普通だったら生きてるのが恥ずかしいレベルだろ

367: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/12/02(水) 18:03:18 ID:4iY0JZpWO
家族を殺されて自殺というのは相当無理があるだろ。
普通は復讐を誓うんじゃないか?
北条相模次郎時行みたいに。

369: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/12/11(金) 16:18:21 ID:yj5BuSmBO
漢中で妾(董氏だっけ?)の弟が訪ねてきたときに泣きながら胸を叩いて
「一門皆殺しにされてしまったのにどうして正月など祝えようか!」
と言っているから自分の行いを恥じる気持ちはあったのだろう。
しかし彼の目的はあくまで復讐だっただろう。

370: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/12/11(金) 17:21:50 ID:DEvDtMIPO
自分が反乱起こしたら一族皆殺しになる事くらい分かってただろ
入朝してるんだし
それを承知で反乱起こしたのに復讐とかなんかズレてるわ

371: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/12/12(土) 17:30:48 ID:uIq4YqA2O
復讐というよりもう少し複雑そうな気がする
まあ、あんまり馬超の内面伺える記述ないけど

372: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/12/16(水) 20:58:42 ID:HGNPcjkb0
でも馬超って史実で数少ない一騎打ちの経験者だよね。若いころ(おそらく17~21)に韓スイの部下のエンコウと戦って殺されそうになってるよね。負けたけど一騎打ちするぐらいだから武芸はすぐれていはいるよね?   

373: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/12/19(土) 22:03:58 ID:wgFYN5d/O
武芸というものがこの時代に体系化されていたかは疑問だが、「交馬語」の際に曹操を誘拐しようとしたぐらいの大力の持ち主で、足に怪我をしても袋に入れて戦い続けたエピソードの持ち主だから
「(個人的な)武勇に優れていた」
と評価されてもいいだろう。

374: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/12/20(日) 00:07:48 ID:DduzjolDO
諸葛亮に文武両道の将と言われたり、関羽が気にしたり。

375: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/12/20(日) 23:45:13 ID:TYGQ/zQ6O
「文武を兼ね備え」ってのはどうなんだろうな。
家柄はよくても成り上がりでもあるからそれほどいい教育を受けて育った
わけでもないと思う。

正史における評価
楊阜→韓信、彭越
孔明→英(黥)布、彭越

引用元: ・錦馬超を語るスレ 8代目



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