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415: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/27(月) 01:49:44 ID:4Kutb3zu
関が原後、三成が生米食って、下痢ピー逃走した件について。

419: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/27(月) 23:20:06 ID:hVUNnX/S
>>415
でも、干柿は食わないんだよな。
変なの。

420: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/28(火) 02:39:46 ID:gl5y3DW0
そりゃ刑場にさらされるときに縄で縛られてる状態で干し柿なんか食ってる姿見られたらみっともないと思われるからじゃないかな?三成なりに意地を通したつもりだったのでは?
長曾可部盛親も大阪夏の陣の後捕らえられたとき足軽が出した。強飯と赤鰯を出されて「戦に負けて捕らえられるのは恥では無いが、かのような物を出すとは無礼なやつめ、早く首をはねよ」って言ったというから、捕まって殺されるにしても自分の惨めな姿は出来るだけ見せたくなかったんだろうな

421: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/29(水) 03:17:54 ID:Bc0l4EsW
干し柿ってそんなに体に悪い食い物か?

ま、湯を所望されて干物を出すほうが間違いだが。

433: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/29(水) 14:40:57 ID:5R7ZMDe4
まあ実際は、下痢腹で干し柿なんて食おうものなら盛大に噴出しそうなぐらいだったんだろう
関ヶ原の時点で体調崩してて、それから山野を敗走したんだからかなり悪化してたはず

あの世で家康を糞漏らし将軍と馬鹿にしたいが為に必死に便意を堪える三成けなげ

434: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/29(水) 18:20:58 ID:Q4E03Iez
しかも季節が季節だからな
ただでさえ腹が冷えて大変だっただろう

475: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/02(土) 07:36:50 ID:YxddHrLy
このスレでも度々出てくる「雑兵物語」などの記述が以下のサイトで要約されてて分りやすいと思う。
http://homepage1.nifty.com/SEISYO/hyourou.htm
※リンク切れ

米は一日に茶碗10杯程提供されたそうだ。
普段の食事は麦・粟・稗・里芋・雑炊・菜飯だったが戦場では雑兵に至るまで白米であり、魚や貝や鳥肉などの豪華食材も肴に加えられたので、それを目当てに戦に参加した雑兵も居たかもしれないという事だ。

実は日露戦争の時に、森鴎外が栄養指導してた日本陸軍は白米が脚気になる原因であると薄々疑ってたにもかかわらず当時の兵隊は「侍は白米を食う者」とされてたために兵卒(当時の兵卒は圧倒的に農家の次男・三男が多かった)のプライドや士気を考えて絶対に麦飯や玄米に振り替えずバタバタ脚気にして兵隊を殺した。
その人数は一説には日露戦争で銃弾に当って死んだ兵士よりも多いとも言われる。
多くの兵が脚気で行動が鈍くなり、ヘロヘロになりながら戦場を歩いてたのでロシア兵の良い射撃訓練用の的になってたらしい。
一方、海軍はイギリス式の食事を摂る事が伝統であり誇りだったので普通に麦飯やパンやカレーライスが提供されて脚気で死ぬ者はほとんど居なかったそうである。


484: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/02(土) 08:03:54 ID:YxddHrLy
でも「雑兵物語」による、一日分の一人に与えられる食糧は現代人の感覚から考えると多すぎるよね。
水一升(1.8リットル)、米六合(茶碗12杯)、塩が一勺(0.02リットル)
味噌が二勺(0.036リットル)だから現代人の感覚では腹がはちきれそうなほど満腹になると思う。だって4人家族の家庭だったら米を六合も炊いたら家族全員分の一日の食事がまかなえちゃうよね?

490: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/02(土) 08:30:14 ID:YxddHrLy
「雑兵物語」で気になったのは供給される水の量の少なさだよな。
現代の全然汗をかかないホワイトカラーやニートだって平均して一日に一升の水を消費してると言われている(尿路結石予防のためには食事とは別個に水一升以上を飲むよう推奨されてる)
猛烈な重労働をして行軍をする兵士は二升くらいは普通に消費したのではなかろうか?
それとも水はもっと供給してたが手元の竹筒や瓢箪に入れてもらう水の量が一升だったのかもう少し細かく知りたい。

509: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/02(土) 20:23:17 ID:sB6QgIiE
>>490
雑兵物語には現地では川の水飲め、という記述も有るので、その水の量は調理用の(お粥にしたりetc..)量ではないでしょうか。

当時の”白米”は、現在もインドで行われるバーボイル加工の可能性もあります。
(収穫した籾を半煮して日光乾燥して保存。必要な分だけ杵で脱穀精米する)
また昭和初期まで九州にはヤキゴメ(モチ米を早刈りして蒸し、杵でつぶして扁平にしたアルファ化米)も作られていて、これも当時の米の加工の仕方だと考えていいと思います。
この場合、調理に使う水の量も現在のものよりは減りそうですね。

499: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/02(土) 17:13:15 ID:xBUNDoc3
雑兵たちに支給する米が多すぎる、という意見があるが、兵士とはとんでもなくハードな肉体労働だし、肉や魚は手に入らず、米や味噌からタンパク質を摂取していたからそれくらいの米は必要だった。

なお、雑兵を雇う側は、一度に大量の食糧を支給したりはしなかった。
大量の米を手にした雑兵はそれを飯として食わず、自分で麹を作って酒にして飲んでしまうからだ。

501: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/02(土) 18:10:11 ID:raU9SqPS
江戸時代に東北地方で飢饉が発生して大量の餓死者が出たのは冷夏で米があまり収穫出来なかったのも理由のひとつだが最大の理由は、当時の東北地方は稲作に適していなかったにも関わらず藩が貨幣価値のある米を積極的に作り、その他の雑穀の栽培を怠ったから。
特にそういう傾向の強かった南部藩は他の地域よりも被害が酷くて壊滅的なダメージを受けた。
その地域に適した農産物を作っていれば多少の天候不良にも耐えられたはず。

542: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/03(日) 13:00:44 ID:5/LKNmPp
食事と関連が切り離せない項目として料理。
つまり調理法があるわけだが、当時生まれた調理法とかどうなんだ?
たとえば江戸の頃には鷹匠の料理ほうの・・・なんだっけ??
手で食材を一切触らず箸を刺し、血が出ないように鳥を調理する方法があったらしいが、なんかそういう、戦国発な調理法によって新たに出現したメニューとかどんなものがあったの?

543: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/03(日) 13:15:27 ID:HRnoMjSH
茶道の出現は室町時代以降会席料理としても影響を与え食事に道の追求を取り込むことになる。(食べる事以外で楽しむ要素が発展していった)

また、南蛮貿易によって洋酒や"揚げもの"も齎され照明技術の発達から、労働時間が長くなり朝夕の食生活が三食主体に変化していったのもこの頃(16世紀頃)から。

548: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/03(日) 14:52:55 ID:NHRoErx6
石油・石炭の利用は当時の日本ではまだ殆ど無いよね?
支那では宋代にはコークスの強力火力を用いた炒め料理が生まれた
日本は豊富な森林資源から薪、木炭でじっくり火を通す煮物料理が発達した

549: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/03(日) 14:57:05 ID:asRN+bCg
七輪っていつごろ生まれたの?焼き物もあったんじゃないかな。だって魚は焼いて食べてるし。

551: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/03(日) 15:07:43 ID:asRN+bCg
酢の物、焼き物、煮物、香の物、膾と典型的な日本料理の基礎は戦国時代頃には既に存在したのではなかろうか?

556: ストロング・ちょんまげ・マシ‐ン 2006/12/03(日) 16:33:47 ID:cZ11cb1x
既に室町時代には中国から油(胡麻油)で食材を揚げる調理法が伝わっていたとの事。
ただ、現在の様に魚や肉類を揚げるのではなく、昆布等を油で揚げ「炒り昆布」または「揚げ昆布」として武士をはじめとして戦国時代の日本人は珍重したとの事。

本格的に天麩羅が庶民に普及するのは江戸期中頃だが、最初はさつま揚げみたいなのから素揚げ、唐揚げ、そして天麩羅となっていったらしい。
衣を付けて揚げると油の痛みが遅くなるので関西圏(特に大阪の堺)から広まっていったとの事で、江戸時代中頃には人口が多く豊富な魚介類が捕れる江戸の街で人気が出て次第に定着していったとの事だよ。

564: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/03(日) 17:24:49 ID:Ck0LwXcm
昔読んだ本に載ってたんだが
戦場で飯食う時布を水に浸して米を巻き地面に埋めてその上で火を焚いて調理したと書いてあったのだが本当だろうか
南方の原住民なんかがやってる蒸し焼き調理と同じだな
確かに鍋釜持ち歩かないでいいから楽といえば楽だが

566: 名無しさん@お腹いっぱい 2006/12/03(日) 17:35:09 ID:7wTPfgD9
>>564
陣笠を鍋代わりにするみたいに、道具が無い時はそうやって炊いた場合もあったんじゃないかな?

576: 558 2006/12/03(日) 19:40:43 ID:ttTytib+
話は変えるが、江戸時代初期、紅鮭が珍しかったそうだね。
江戸城で誰かの弁当の塩鮭を分け合ってたべたとか。

579: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/03(日) 19:50:59 ID:77FtMq1Y
>>576
上の方でも出てたけど、毛利秀元じゃなかったかな。

584: 名無しさん@お腹いっぱい 2006/12/03(日) 20:26:27 ID:jRrFvMCH
精進料理から懐石料理まで和食の代表食材、豆腐(トゥーフ)は?

湯葉を使ったのとかなかったのかなぁ・・・

588: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/03(日) 22:33:42 ID:/OHfHfX0
>>584
昔の豆腐は硬いぞ(何せ縦に刺した箸がそのまま立つほどに)
で、本題だが豆腐を用いた料理はまさに戦国時代から一般に普及し始めたのよ。
「あん豆腐(葛をかけた豆腐料理・俺は食べた事無い)」とかか。
あとは山椒をかけて食べたとかあるので、この頃にはもう調味料として山椒は有ったらしい。

ついでに戦国時代の『煮物』と呼ばれた料理は全て『茹でた物の総称』か『味噌煮込み』のどっちか。
(例えばしょうゆ煮とかは戦国時代では『煮物』とはカウントされない)
・・・なんで味噌だけ?

591: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/04(月) 01:39:49 ID:X41wGwSg
戦国時代の頃、醤油はまだまだ高級食材だった。
調味料は塩か味噌ぐらい。

って書き込みが上のほうか前スレであったけど、名古屋近辺で味噌系の料理が多いのはその名残なのかな?

594: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/04(月) 02:39:39 ID:R6FgmqaK
>名古屋近辺で味噌系の料理が多い
1337年創業まるや八丁味噌、なんて言うのが岡崎にありますから、それの影響を受けているのかも。

641: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/04(月) 23:58:22 ID:AjpRiCoO
戦国ではなく江戸時代のことですが、牛肉の味噌漬け(味噌煮?)が薬として流通していたらしいのですが、もちろん食べる側は食事として食べていたのですよね?
戦国にも牛肉を食べるコトがあったのでしょうか?

642: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/05(火) 00:05:24 ID:XqTjgKMv
味噌が味付けの基本だったことは事実みたいだけど。この時代大豆は馬の飼料としても貴重とされていて
馬小屋の世話係とかの小物がこっそり大豆をネコババしたりして味噌を作ったりしていたという話を聞いたことがあるな
場合によっては糠みそで汁を作ったとか・・・・・・
糠みそで汁なんか作ったら臭くて飲めたもんじゃないと思うのだが・・・・・

649: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/05(火) 03:53:49 ID:XQL2Pd86
武士は食わねど高楊枝みたいな諺あるから、武士はグルメにならず、食の前で毅然とするのが美学。篭城しても飢えで降伏するより粗食で耐え抜くみたいなのが美学にあるから、案外 庶民より武士にグルメはいないと思う

650: 648 2006/12/05(火) 04:47:50 ID:WCo3trwC
>>649
鵜殿長照が信長に攻められて籠城したとき、戦いがないときは、松や野草を粉にした者を喰わせて、戦いの日には米汁だした、っていうから、戦時食はまた別のような。

「質素な食事だった」というのが特に記録されるぐらいだから、一般にはかなりグルメなもの喰ってたんじゃないでしょうか?
ttp://www.shikakunavi.net/kids/gika/data/shokumotu2.html

677: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/06(水) 05:18:36 ID:/9u/Oxps
その時、歴史が動いたでは江戸時代初期の江戸の食生活って、かなり貧相だったようだよ。
魚行商もさほど普及しておらず、京料理を最高の贅沢として食べてたが質素で粗末な食べ物に大金をかけて食べさせられるという内容だった。

681: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/06(水) 16:20:04 ID:OuT8UUGf
>>677
現在の京懐石も「質素で粗末な食べ物に大金をかけて食べさせられる」現状かもしれませんね。

江戸時代初期は、一般の食べ物に大きな幅がひろがった時代でもあります。
調味料では醤油に濃口、薄口が発明され、関東に醤油生産地ができ、甘味では安倍川餅が名物になりました。

…その番組の”贅沢”の基準が気になりますね…
…まさか食卓に”肉”がなかったとか、そういう話だけでは無いと思いますが…

683: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/06(水) 17:49:04 ID:C3Ax7vUe
>>681
現代から見たら、じゃないかねぇ。
食材や調味料、料理法、酒などの種類は比較にならんし。
勿論、それは洋の東西を問わずに言える事だが。 


687: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/06(水) 20:20:03 ID:OuT8UUGf
>>683
調味料はほぼ現在と同じものが揃っていたかと。
”さしすせそ”はもちろん味醂胡椒山椒唐辛子も。
だし汁、という概念も室町からありました。
山葵栽培も一七世紀ごろOから始まりましたね。

ないのは、カレー粉とか味の素とかマヨネーズ…
マヨがないのは寂しいかもしれない…

706: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/08(金) 22:05:25 ID:/3UIoT+h
>>687
それを庶民が簡単に入手できるかどうかが問題なんだけどね。
存在はするけど一部の権力者しか口にできないんじゃ、スレの流れから外れてるよ。

707: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/09(土) 01:06:23 ID:0uNx+xL+
>>706
砂糖は世界的には16世紀には重要な交易品ですし、1610年薩摩国大島郡(奄美大島)の直川智が黒砂糖の製造に成功、18世紀には薩摩藩が本格栽培始特産物として出荷したようです。

708: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/09(土) 01:28:56 ID:dCyVNSGq
もうすぐ正月が来るが戦国時代のお雑煮についての記述って何かありますか?
もちろん現在でも地方色豊かなお雑煮がありますが、今ある形ってのはある程度形成されていたんでしょうか?

709: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/09(土) 02:58:29 ID:0uNx+xL+
>>708
言継卿記(1534)に「雑煮祝例年のごとし」という記述があるのが、正月のお祝いに餅雑煮を食べた最初の記述かも。
ただ、山内料理書(1492)には、酒の肴としての雑煮の図があります。
(白ウリ、餅、なまこ、アワビ入りで味噌味)

だから、正月を餅入り雑煮で祝う、という習慣は、戦国時代から一般に広まったと考えて良いかと。

700: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/07(木) 14:42:09 ID:1AvU/HCs
あとの時代になるけど

将軍様の食べてはいけない物にマグロやふぐ、鰯などと並んで わかめ もあったようなんだが
http://www.viva-edo.com/syougun.html
なんでなんだろ。

704: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/07(木) 17:52:28 ID:r0v90OU9
江戸の食材は野菜以外は大阪からの下りものが多いからね。
とくに初期の江戸では関西からの下りもの以外のものは質が悪いということで「下らねぇ」といって見向きもしない人もいたらしい。
船で運んだりするわけだからどうしても価格が上がるので幕府はなんとか醤油など日用品とかを近郊で作れないか思案したとのこと。
ひじきとかは奈良時代から食べられていたらしいけどね

727: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/09(土) 21:16:08 ID:4KhZ7Hrg
当時は物流に時間がかかったからな
丹波で魚を水揚げして、一昼夜走って京にまで届けてた丹波の飛脚がいるよな
でもこれはごく一部で、ほとんどの人は鮮度の悪い干物や塩漬け粕漬けの魚を食べてた
平安時代はもっと顕著

728: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/09(土) 21:31:17 ID:KPQDtmHP
>>727
丹波に海はないぞ~

729: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/09(土) 21:59:11 ID:mN5RVM4I
まぁ、それは丹後から丹波だったとして刺身を食べる事は可能だったの?

731: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/09(土) 22:47:33 ID:KPQDtmHP
>>729
現在の国道27号から9号線は元は舞鶴から魚を都に輸送していた道。
由良川は狭いし流れが急だから海運はあんまり発達しなかったみたい。

鯖を生のまま都に運んだ逸話なんかが近辺の街に残っていたりする。

ちなみに、途中の綾部藩の藩主は九鬼家だったりするわけだが。。。

733: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/09(土) 23:17:27 ID:em79saL7
冷凍保存技術、流通環境が進歩するまで魚料理といえば刺身はおろか焼き魚、煮魚も食べられず干物、酢漬け、粕漬けなどが一般的だった地域が多かった

おかげで各地でこういった魚の保存食が発達して今ではそれぞれの土地で伝統的土産品として定着している
しかし日常の食卓にのぼる機会はメッキリ減ってしまったが・・・・

734: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/10(日) 00:00:31 ID:dfEMxQ1K
刺身が普通に食われるようになったのなんて、ほんの30年前ぐらいからだからね。
江戸とか海が近い所でさえ酢で締めてたしね。

737: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/10(日) 00:13:00 ID:ciUrRvlU
飛脚の運賃や品質保持がどの程度だったのかが興味の対象だな。
結果的にそれが庶民にとって合理的でなかったから生食文化が発達しなかったのであろうし。

756: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/10(日) 09:30:53 ID:x29T8MuR
>>737
江戸の運賃だと物や求める輸送速度にもよるけど、江戸、京都間で最速1日半で50万だったかな。ただし手紙での値段


739: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/10(日) 00:25:12 ID:c4OAlSov
親父の実家は地図で見たら海に近い地域だが生魚なんて滅多に食わなかったし食卓にのぼるのは干物や酢漬けが中心だったらしい

そういや野菜にしても漬物が多かったし冷蔵庫の無い昔の和食は保存食ばかりだな
冷蔵庫が有り新鮮な素材が何時でも手に入る現代日本人は漬物も干物も酢の物も食わなさ杉

764: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/10(日) 19:54:49 ID:2bV4EmdZ
戦国期と言えば、明智光秀が徳川家康の接待に「鮒ずし」を出して信長に「腐った魚を出すとは何事だ!」と殴る蹴るの暴行を受けたとか
前田利久が手ずから獲った牡蠣だか鮑だかを上杉景勝に接待で出して喜ばれたとか
北条早雲が大森氏頼に雪で敷き詰めた海産物を贈って歓心を得たとか
その類の話はたくさん残ってますね。
やはり、当時の海産物は接待や贈り物にしても恥ずかしくない高級品だったのでは?

793: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/11(月) 19:33:07 ID:OY26Pd9T
明治村(確か、明治村だったような・・合掌村だったらごめんね)で昔の農家と農村の食事を見て腹が立った。
俺ん家の食事より遥かに豪華じゃねえかw
しかし意外だったのが、当時は一人ずつ膳が出されてるのは知ってたけど食器は各個人専用の物とされ、家族でも基本的に他人の食器は使わず食器は三食ごとに洗うわけじゃなく、一日に一回しか洗わないという説明だった。
食事の最後には全員の茶碗にお茶を入れられ、それで食器をそそぐようにお茶を飲み干して
また、次の食事は、その食器にご飯とオカズをそのまま盛るというのは意外だった。
飯は玄米と麦飯の混合飯で7割くらい麦が入ってるという説明だった。

796: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/11(月) 23:04:12 ID:/CMdupss
>>793
補足するとそれは【箱膳】といってな、お膳サイズの箱に飯碗、汁椀、箸その他一式がセットになって格納されているのだ。食べるときは箱の上蓋を開けて椀を取り出し、その蓋をひっくり返して箱に置くとそのままお膳として使えるという仕組みだ。
当然各人毎に用意されていて、明治頃まで狭い家に住む庶民の殆どの家庭ではこれを使っていた。ちゃぶ台で家族で食卓を囲むようになったのは大正期以降。つまりいわゆる一家団欒の食卓のイメージは意外に新しいものなのだ。
ちなみに今でも禅寺等に修行に泊まるとこの箱膳が与えられて一汁一菜(麦飯)を食うことになる。もしかするとこれが現在では一番戦国以降の普段のメニューに近いかもな。

803: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/14(木) 00:28:11 ID:/iOLKYgx
うまいタクアンと白菜の漬けたやつが食いたい。

804: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/14(木) 00:47:06 ID:Gy2O67LD
>>803
言っておくが白菜は明治(日清戦争)以後に大陸から輸入された作物。
意外かも知れんがちゃぶ台での食事風景同様この野菜が一般化したのは大正期以降だ。

805: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/14(木) 03:06:37 ID:+0JCQ/RI
何かの昔話で「漬け菜かみかみ粟を食う」みたいなのを読んだ記憶があるけどその当時の「漬け菜」つまり、菜っ葉の漬物って何だったんだろう?

806: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/14(木) 03:12:33 ID:2y6gSnEc
>>805
教科書に載っていた「かさじぞう」だな。
野沢菜漬けか高菜漬けだろ。

808: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/14(木) 11:10:07 ID:wTUkc2W1
>白菜は明治(日清戦争)以後に大陸から輸入された作物。
>この野菜が一般化したのは大正期以降だ。

なんで上と下で大正と明治に分けたわけ?

809: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/14(木) 11:27:52 ID:0olYNuw1
つ”一般化”

種が日本にきたのは明治、栽培が広まり市場で扱われるようになったのが大正。

813: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/14(木) 20:55:08 ID:e+xid/5D
>野沢菜漬けか高菜漬けだろ。

そんなマニアックな漬け菜なわけがないだろw

814: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/15(金) 19:37:01 ID:0r3phkhk
タカナは平安時代に太加奈という記述があるくらい古い野菜で、野沢菜は、京野菜の蕪菜の信州栽培品だから、蕪菜漬と考えれば、かなり古くからi一般に食されていたかと。

傘地蔵は日本全国で語り継がれている民話なので、まぁ語り手の地方での一般的な漬物だとは思いますが…

815: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/15(金) 23:20:31 ID:t/kmdrQ6
野沢菜が一般家庭に広まったのは昭和の頃でTOTOという洋楽アーティストが来日した時に持ち歌の「ロザーナ」にひっかけて野沢菜普及のために宣伝させられてた
野沢菜漬けの真空パックを持たされて「ノザーワナ」と言わされてた

高菜が一般家庭に広まったのはもっと後の平成になってから

818: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/16(土) 01:20:27 ID:27dJeqzU
>>815
”めはりずし”なんて、高菜漬があってのものなんですが…

”野沢菜”というのは健命寺住職が京野菜の天王寺蕪を1756年信州に持ち込んだのが始まり、とされています。
ですから”今の品種”はありませんが、元々の品種も漬物用野菜ですね。
違う、と言えばそうなんですが、それを言ったら、今のお米も昔のとはだいぶ…

819: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/16(土) 02:49:57 ID:IPrbEmw4
>>818
傘地蔵が信州の野沢温泉のある地方の話だったら昔話に出てきた「漬け菜」は野沢菜でもいいだろうよ

お話の舞台も真冬だし野沢菜のシーズンだから整合性も取れるよ
ただ、野沢菜という野菜は信州のような高地の寒冷地の野菜だし野沢菜漬けが全国的に普及したのは真空パックや冷蔵庫が普及してからの話なのよね

それに、農家の貧乏さを表現するための「漬け菜かみかみ」なんだからその地方特有の特殊な食材ではあんまり説得力がないのよね

820: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/16(土) 02:58:16 ID:IPrbEmw4
もうひとつ、高菜というのは九州、四国、和歌山のような温暖な地方で栽培される野菜で豪雪地帯の「傘地蔵」の話には合わないと思う
収穫期は冬だけど雪が積もる地域の野菜ではないね

821: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/16(土) 04:41:03 ID:27dJeqzU
>野沢菜という野菜は信州のような高地の寒冷地の野菜
野沢菜の名前ができたのは18世紀以降ですが、もともと昔から京都で作られていた天王寺蕪なんだ、といいたいわけで、その土地の気功で栽培も調理方法も変わるのは普通のことかと。
まぁ”野沢菜漬”という名称はなかった事は確かですが。

タカナは中国では蜀の国で盛んに作られてひろまった、と伝来元の中国ではいわれてますね。現在の高菜は、古来からのタカナと明治に入ってきた品種を交雑しているので、現在の性質だけで判断するのはいかがなものかと。
ちなみに今ではタカナは東北地方でも栽培されています。

傘地蔵については、東北から九州まで日本全国様々なパターンがあり、どこが元かわからない状態ですねぇ。とりあえず京都中心に考えていけば、良さそうな気はしますが…

822: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/16(土) 04:53:20 ID:u7scmLtr
高菜や野沢菜があったかどうかという話ではなく
傘地蔵の時代の農民が食べる(一般的に普及している)「漬け菜」と言ったら何の野菜なのかという元の話に軌道修正してもらいたいんですが・・・

現代だとごくありふれた菜っ葉の漬物といえば誰でもまず最初に白菜を思い浮かべると思いますが、傘地蔵の時代、要は中世の日本で、現代の白菜のようにして庶民が普通に食べる葉モノの漬物は何だったのでしょう?

823: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/16(土) 05:13:26 ID:27dJeqzU
>庶民が普通に食べる葉モノの漬物
それが高菜であり、天王寺蕪の若いのも漬物にされていたと…(室町戦国時代)

↑で問題になっているのは、どっちも豪雪地帯ではできないんじゃねぇか?
いやできますよ。…って話かと。

824: ストロング・ちょんまげ・マシーン 2006/12/16(土) 05:22:40 ID:Oj06q0Nw
ルイス・フロイスの著述に『我々、ヨーロッパ人は蕪の根の方を食べ葉は捨てるか家畜の餌にするが、日本人は葉を食べ、その根を残す。』とある。
戦国時代は勿論、昔の貧しい農家の人々は大根や蕪の根はもとより、大根菜や蕪菜も塩漬けにして葉から根まで副食にしてたのだろう。
他にもその地方独特の菜物も漬け物にしていた可能性は充分ありえると思うが。

引用元: ・戦国時代の食事・2



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