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1: ◆rGsyzf.Kp2 2006/07/14(金) 17:40:49 ID:wJQYkXK8
朝倉 義景(あさくら よしかげ ) は戦国時代の越前国の戦国大名である。
正式な名のりは日下部義景(くさかべ・の・よしかげ)。
貴族文化を重んじるなど治世であればもう少し評価も上がったと言われるところから平和であれば大いに欲せられるが、戦乱では役に立たない意味を込めて「戦国の金」と、マニアの間では言われたりもする。

信長包囲網の一環を担った戦国大名・朝倉氏を語りましょう!
義景以外の朝倉家、また浅井家、その他関わりのある事象・戦・人物なんでもおk!

特に姉川の戦いを語りたい人大歓迎!
優柔不断の大名・朝倉義景について語りましょう~

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387: 人間七七四年 2009/10/13(火) 17:44:04 ID:FQi2YvxH
我の強い一族、家臣、領民を束ね統治するのはかなりの苦労があったであろう。だが義景の代に大規模な一揆は無く、謀反も堀江ぐらいしか起こらなかった。義景の統治能力はかなりのものであったと言える。

388: 人間七七四年 2009/10/15(木) 23:06:09 ID:cjWPGmdu
まあ、俺も朝倉氏ファンなので義景には有能であって欲しいが、実際はどうなんだろうね・・・。
各郡司や優秀な一門勢が、各所に睨みを効かせて統治してたのが実際の姿なのかな。
義景自らが主導して行った政策や軍事行動で、目立ったものって何があるかな。

390: 人間七七四年 2009/10/16(金) 16:44:58 ID:TRvI4l51
>>388
志賀の陣は信長が最も苦しんだ戦いでしょ。山上に陣取った相手を攻めるのは不利だし、退けば後方から攻撃を受ける。進退窮まった信長は将軍と天皇に講和を仲介してもらって危機を脱した。
この時の憎しみが翌年の比叡山焼き討ちにつながる訳だが、志賀の陣って一般に殆ど知られてないよな…

403: 人間七七四年 2009/10/20(火) 10:11:21 ID:BAesZqHK
>>390
>志賀の陣は信長が最も苦しんだ戦いでしょ
これは事実だが、朝倉単独で苦しめたってわけではないに注意。
ちなみに志賀の対陣も後半になると、近江の一揆は蹴散らされて本国との連絡回復。
さらに六角氏と三好氏は信長と単独で講和したため、信長は後方の安全を確保、逆に山上の朝倉浅井が孤立して包囲さらている形勢になった。そのため、朝倉ないし浅井側から「詫言」を入れて講和を求めたが、信長が拒否した、という展開もあった。

最終的にはどちらも決め手に欠けて冬にもなったので、一時休戦のつもりで朝廷による仲介で講和を結んだが、別に信長は講和を結ぶ前にすでに窮地は脱している。

406: 人間七七四年 2009/10/21(水) 12:45:39 ID:I0thhMhK
>>403
朝倉側からの講和は初耳だ
ちなみに調停からの仲介の前に信長からの講和を朝倉側が一度蹴ってるよ。

それと講和自体も朝倉陣営内で行われてるし、先に陣を引いたのも信長の方だよ。
このことからも「一時休戦」程度ではないのは明白。
戦中に先に陣を引くなんてよっぽどのことがない限りできない。

普通の停戦と考えるのはかなり無理があると思うが・・・

408: 人間七七四年 2009/10/21(水) 18:25:34 ID:2Mwgb649
>>406
先に陣を退いたから「一時休戦」ではない、という理屈がわからないな。
他の史料によれば、織田と朝倉はお互いが兵を退くまでの間の約定として、それぞれの重臣の子を人質として預けあった、とある。
つまり、停戦条約の一環として、両者同時撤退となった。が、包囲しているのが織田側なのだから、織田が先に兵を退いて包囲を解かなければ、朝倉も下山して撤退はできないのだから、この順番は当然。
この約束により、織田は包囲を解いたと無防備な状態て攻撃を受けることを、朝倉は下山して平地に降りた状態で多数の織田から攻撃を受けないことを、それぞれ確約して撤退したと。

「一時停戦」の定義にもよるが、志賀の陣が解かれた翌年には両者あっさりと敵対行動を開始しているのだから、このときに約束が終戦などではなく、手詰まりになった両者が一度国にもどって軍備を再準備再編成して再戦するための猶予期間としか考えていなかったのが見て取れる。
例えるなら、織田と本願寺の第二回講和と同じ。両者とも万全の状態を整えてから攻勢をかける、その準備をする為の一時停戦としか考えていなかった。

409: 人間七七四年 2009/10/21(水) 19:07:40 ID:I0thhMhK
>>408
ちょっと教えて欲しいんだけど
浅井朝倉軍が篭ってたの壷笠山ってのは当然知ってるよね?
当時の信長の軍勢でどうやって壷笠山に篭った浅井朝倉を包囲できたのか
ちょっと教えて欲しい。

それと浅井朝倉は包囲されながらどうやって修学院とか一乗寺とか進出できたの?
あ、それと最大の謎は包囲されてるのに堅田合戦で勝利しちゃったの?
包囲網かいくぐってさらに堅田進出して信長軍撃破?

411: 人間七七四年 2009/10/21(水) 23:32:35 ID:NPEXUknS
>>409
朝倉浅井軍は別に包囲されてる状態じゃないな。朝倉浅井軍は北側、織田軍は南側に陣を構えてるだけ。
包囲されてるのに堅田がすぐに攻撃されるのは変だし、何より堅田に信長が援軍を出した時点で、その周辺が朝倉方だったと物語っている

389: 人間七七四年 2009/10/16(金) 09:45:20 ID:lmUDsZ11
義景が自ら出陣した軍事行動全てが朝倉家の従来の基本姿勢とは相反するもの。

当主は出陣せず一族の誰かを軍奉行にして出陣させるのが朝倉家の基本姿勢。
それを崩して出陣したのはいろんな要因があるんだろうね。

一族の不和が主たる原因のようだけど。

391: 人間七七四年 2009/10/16(金) 18:50:11 ID:vobJocf0
もちろん、朝倉家当主は代々基本的には前線には出陣しないとか、志賀の陣で信長弟、坂井政尚等討ち取った事実も知ってるけど、その働き自体は磯野とか、景健(景鏡?)の手柄だよね?
義昭の心が信長から離れていた時期とはいえ、義昭はまだ信長の庇護の元にいたわけだから、講和を将軍家を介して持ちかけられる可能性を読めなかった、天皇・将軍家への根回しを怠った朝倉・浅井の上層部の無能さというか、先の読め無さが朝倉好きとしては、なんとも悔しいわけですよ。

407: 人間七七四年 2009/10/21(水) 18:21:23 ID:NPEXUknS
講和した頃は苦しかったのは朝倉軍の方だろうね。この季節で山での陣はかなりこたえる。
多分、講和の話は義景にとっては助け舟だったに違いない

421: 人間七七四年 2010/04/06(火) 02:21:41 ID:s6+5SNbN
信玄て義景が勝手に撤退したことを非難する手紙出してるよな。
このチャンスに何やってんだ、判断誤るなとかなんとか。

その手紙出したわずか4か月後に信玄死亡してるんだよな。
持病あるくせに無理して出張ってきたせいで。
そして武田軍は勝手に撤退。

人の事言えねーだろ!!

432: 人間七七四年 2010/04/10(土) 14:47:40 ID:z35Er8cL
7月からずっと江北に在陣し織田軍の主力と対峙して、疲弊と積雪によって帰国した直後に信玄から批難する書状が来たんだから義景も憤慨したことだろう。

395: 人間七七四年 2009/10/18(日) 18:49:44 ID:u9r1chB7
生まれた時代がもう少し平穏な時代だったら、現代の評価もまた違ったものになっただろうに・・・。

396: 人間七七四年 2009/10/18(日) 19:58:07 ID:4BAjWB30
朝倉が頑張ってたら今の福井の姿はないはず… 
天下を狙える位置にいたはずなのに…

436: 人間七七四年 2010/04/13(火) 22:23:40 ID:8ZktQKzc
基本的に義景が過分に愚君として描かれているのは朝倉始末記に拠るところが大きいと思うのですがこれの史料価値(信憑性)ってどんなもんなんでしょ?
朝倉滅亡後に旧臣が作った記録だから滅亡の要因を義景1人のせいに押し付けてるきらいがあるのではないでしょうか?

437: 人間七七四年 2010/04/14(水) 00:18:57 ID:1kn8V1Dh
そんなに義景を悪く書いてないよ始末記は。義景は優れた人物だったと書いてあるし、領民はその徳を大いに称えていたそうだ。
優柔不断なところこそあれ、巷で思われているような暗愚な君主じゃ決して無いね義景は

439: 人間七七四年 2010/04/15(木) 12:44:58 ID:slnq9uBu
軍人としては致命的欠点だな>優柔不断

440: 人間七七四年 2010/04/15(木) 22:49:10 ID:qLUk9D1a
でも刀根の戦いは義景が拙かったわけじゃなくて、信長の追撃が凄まじかったわけだけどな。
織田の歴戦の武将たちでさえ殆どが遅れる有様だったし

442: 人間七七四年 2010/04/27(火) 02:47:37 ID:WSEoeoqY
朝倉氏遺跡でガラス玉、工房出土 日本海交易に一石
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=21099&storytopic=1
※リンク切れ

えらいもんが見つかったな、おい

443: 人間七七四年 2010/05/15(土) 09:44:59 ID:8NhStiFL
朝倉家は100年続いたし凄いよ
京都の清水寺にある朝倉堂も朝倉家の寄進によるものでしょ
あの時代にそれだけの資金や権力があった証拠

上の方で朝倉始末記の信憑性うんぬん言ってる人おるけど、どの軍記も信憑性なんてないし。

444: 人間七七四年 2010/05/20(木) 16:00:42 ID:t+l+y+YB
浅井長政は将軍家と天皇家の祖先として何かとマンセーされるのに比例して、朝倉義景はダメ君主の烙印を押され…
歴史は、後世の人が脚色して書くものであると感じざるをえない。

445: 人間七七四年 2010/05/21(金) 00:12:56 ID:4j4cTT4o
治世の名君ではあったかもね。
まあ、どこも滅びた大名は結果論でだめ君主の烙印押されちゃうのが常だから

448: 人間七七四年 2010/05/21(金) 11:59:49 ID:pSnSUahs
弓の名人なんだっけ?
それに戦上手だし意外と好戦的な人物だったのかもね。
最後も命乞いせず自ら命を絶ってるし結構気骨のある人物だったのかねぇ。

449: 人間七七四年 2010/05/21(金) 12:27:32 ID:i21K/dAr
雪が降るから帰るヘタレのどこに気骨があるのやら

450: 人間七七四年 2010/05/21(金) 13:00:39 ID:4j4cTT4o
>>449
北陸の雪を舐めてるだろ
近江近辺から本拠に帰還するには、ほぼ1本道しかルートがないわけでそこが雪で閉ざされたら退路・補給路を立たれたも同然じゃないか

456: 人間七七四年 2010/05/21(金) 13:25:31 ID:4j4cTT4o
雪もさることながら、越前と近江という国で考えると隣接していてさしたる距離がないように見えるが浅井と朝倉の本拠地はかなり隔絶させた距離にある。
その中、家中の問題も抱えたまま出陣してくるだけでも気骨はあったほうだと思うが。
本当に腰抜けなら、ずっと援軍も出さず、さっさと降伏しちゃえばいいんだから

483: 人間七七四年 2010/05/25(火) 21:00:54 ID:0NYyomPG
浅井長政は将軍家の外戚として、持ち上げられる傾向がいまだに強いんだよな。姉川合戦と呼ばれる戦いがいい例。
浅井軍は織田軍を次々と打ち破ったが、同盟軍の朝倉軍が敗れた為に敗走した…といった書き方がいまだにされてる。

484: 人間七七四年 2010/05/25(火) 21:29:41 ID:zjStFFYG
天下人の先駆け信長に対する抵抗勢力+将軍家康の武功を嘉する為の踏み台
対陣中に家臣に寝返られたとか、重要な合戦を家臣に任せたとか、退陣が総崩れになって滅んだとか
よりクローズアップされやすいんだよな

487: 人間七七四年 2010/06/07(月) 02:16:56 ID:CiKL5dfI
どっちにせよ対織田の最前線で何年も粘って見せ場を作って死んだ浅井よりも早く、本拠地瞬殺で滅びた見せ場無しの惨めな最期がヘタレ感を高めてるよな

488: 人間七七四年 2010/06/07(月) 08:24:37 ID:Xc+G3178
>>487
その何年も粘った裏には朝倉の後方支援があったと何故考えないのかね。
朝倉が援軍出さないで静観決め込んでたら浅井なんてとっくに滅んでるよ

489: 人間七七四年 2010/06/07(月) 08:26:06 ID:Xc+G3178
逆に言ったら、対浅井・織田戦線に軍事介入したが為に莫大な戦費を負担し、国人衆や一門衆の不満が高まった末の自滅とも言えるからな。

495: 人間七七四年 2010/06/09(水) 15:22:00 ID:QdFD+avu
よくいるのは実は朝倉が名君じゃないと気が済まない奴だろ
坂本やら堅田にまで出張って戦えたのは浅井の力があってのことだろうに
もし浅井が信長についてれば、越前単独で近江にまで出兵出来る力があると思ってんの?
それどころか金ガ崎陣で敦賀奪われ、そのまま滅亡してた可能性が大だったってことはスルーするのか?

516: 人間七七四年 2010/06/09(水) 22:11:26 ID:Efjk4y4U
>>495
横からだけど、俺は名君とも思わないが愚君とも思わない。
それなりの人物ではあったが、歴史的に敗者となった為に過分に低評価されてる人物だとは思うけど。(武田勝頼とかと同じ)

>出張って戦えたのは浅井のおかげ
浅井が兵糧とか全部負担してくれたんでしょうか?
わざわざ国内の物資を使い、内紛状態で家中の統率もままならない(これは義景1人の責任ではなく親父・祖父の代からのツケ)状態で遠征してるだけ凄いと思うが。
本当の馬鹿殿なら、遠征どうこう以前に一族に廃されて終わりだよ。

>それどころか金ガ崎陣で敦賀奪われ、そのまま滅亡してた可能性が大
根拠が薄い。
城が1つ落とされただけの金ヶ崎と、ほぼ総力戦の決戦で敗れた後の刀根坂とでは状況がまるで違う。
信長の当時の周囲をとりまく状況からしても浅井が寝返らなくてもそう易々とそのまま本拠まで織田が攻めきれたとは思えない。朝倉の余力もまだあっただろうしそこまで織田も全力投入できる状況ではなかった。

518: 人間七七四年 2010/06/09(水) 22:28:39 ID:S4fj+Lk8
>>516
余力を残してると言っても朝倉側に具体的な本土防衛策があったとは思えないな
敦賀全域を奪われ、木の芽峠から義景主力が引き返して、どこで防衛するつもりだったんだ?
小田原や小谷のような長期籠城に耐える堅固さは一乗谷館には無いし、出城も小さいのばかり
家臣団は一枚岩でもなく、単独で野外決戦に及べるかも疑問
それこそ国内に攻めこまれたら、六角や武田と同じく余力を残したあっけない最期になった可能性は高いと見る

513: 人間七七四年 2010/06/09(水) 21:07:42 ID:lV05qR7I
単純に考えて一乗谷の防御程度じゃ織田徳川の大軍防げないと思うけどどうするつもりだったのかな。
武生まで落ちたらもう終わりだと思う。

引用元: ・【戦国の金】 朝倉義景総合スレ 【官職】



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