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大友氏について語ろう 

 







209: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:30.00 ID:nrJKTXsu
「九州のキリシタン大名」を読むと、宗麟のイメージが変わる。
暗愚になったと思っていた晩年でも、家臣の信頼はそれなりにあったのね
よっぽど息子がダメだったということか

212: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:33.00 ID:G/pzWgR8
内政的には善政敷いてたよね。

213: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:34.00 ID:dNMWusRp
歴史にもしはないとは言え、愚息が東軍についてたら豊後はどうなってたのか

214: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:35.00 ID:RR/PZsZw
その愚息も
もともとは東軍に付くつもりだった・・・愛娼がいなけりゃな。

215: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:36.00 ID:5eRvsCN1
>>214
実子が徳川にいるのに、愛娼のために毛利の走狗になったのが2重にダメだった。
何もしなければ吉弘統幸は徳川の義乗の元に行って東軍として戦ってただろうから、大友家再興の可能性もあったのにな

217: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:38.00 ID:L5WjIlPq
秀長は義統を無能過ぎて嫌いって言ってたみたいだから豊臣政権を憎んでいても味方になる選択肢はないはずなのだが。
家康も予想の斜め上の選択にビックリしたって話だし…ある意味てんさいw

218: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:39.00 ID:H8Y/0HLv
宗麟は名君でもあったが同時に暴君でもあったと思う

219: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:40.00 ID:boYLnL3F
まあ家臣達の信用を失うような事ばかりしてたから仕方ないな

220: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:41.00 ID:qW7h5igs
>>219
それはちょっと言いすぎだろ。

客観的にみれば、大名権力の強化と行使を徹底的にやっただけともいえる。
祖父の義長、父の義鑑もそれをやって顰蹙を買うようなこともあったわけだし。

実際には、父の義鑑が家臣を一門衆(大友家初代の能直の子孫)とその他に二分して、一門衆を重用する方針を始め、加判衆から他姓衆、特に被官層を外したわけだ。
ところが、大友宗麟は他姓衆や中小の一門衆も積極的に登用した。
これはかなり、反感を買い。
「重大の重臣を軽く扱った」と批判を受けるようになった。

222: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:43.00 ID:ah/YgLDQ
勘違いしてるやついるみたいだけど大友って宗麟が独裁してたわけじゃねーよ。
だから勝手にやってることは無い。
そもそも大友氏の代々の菩提寺まで潰してるから好き嫌いで寺社潰しやってるわけでもない。領地分配で家臣とその領民からすると豊かにはなってるはずだ。
ただ分配しちゃってるので大友宗家は常に財政難だった。だから大領を引き継ぐ田原氏を率いさせた田原親賢のように信用できる重臣がいないと不安定になる。

234: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:30:55.00 ID:DuYdui/r
毛利を完全に撃退しての宗麟全盛期の1574年に島井宗室から軍資金に銀子百二十貫目の借金を申し込むあたり大友の財政難はいよいよ逼迫してんだよなあ。
もはや寺社を潰してその領地を奪って家臣への褒美にしているだけでは間に合わないんだろう。1572年から毎年朝鮮に貿易船を派遣して利益出そうとしてるがあんまり稼げないみたいだし。待望の中国との貿易は相変わらず断られているようだし。
1576年に家督を義統に譲ってキリシタン修行に熱中し奈多夫人が激怒するわ、その兄の田原親賢の養子まで受洗して夫人と親賢の怒りが頂点に達してるんだよな。
耳川の戦いは親賢が目前の島津軍よりどうやってキリシタンを撲滅するかの軍議になってたって言うが、キリシタン貿易と寺社潰しだけじゃ間に合わない財政難によるところもあったのかも知れない。
のちに島津を撃退したあとに内応した家臣を一斉に改易したことから大友財政は一瞬で好転した。

239: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:00.00 ID:DY8IXE0T
大友宗麟は幕府などの権威を利用したり、菊池や大内を乗っ取るタナボタ的な政治工作は得意で二階崩れでガタガタだった家中を家督継いで立て直しただけでなく大きく躍進したけど豊前や筑前まで版図を広げた後はいまいち拡張していないのね。
名将も豊富な割に肥前や薩摩に遅れをとったのは何故でしょう?

240: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:01.00 ID:jBGvuUTa
>>239
基本的に名門出身に有りがちなんだけど欲が無い、又は薄い。
経済的には国際貿易港である博多を押さえれば十分だし、豊前は博多までの通り道だから確保したが、それ以外は形だけでも服従しておとなしくしてくれればいいや、という室町幕府従来の支配意識だと思う。(名門守護大名だからね、基本保守的)
まぁ戦国なんでさすがに統制はきびしくせざるえないが基本はそんな感じ、本人自身は複雑な性格だったらしいから、家督をついでとりあえずがんばってはみたものの、自分がほんとにしたいこと、目標なんかについて見いだせなかったんじゃないかな。
だからそれを埋めようと、いろんな趣味や宗教なんかに手当たり次第手をだしたりする。
さらに本人が病弱だったのも大きい気がする。
おおきな野望をもったとしても、体が弱ったりするとどうでもいいって思ったりするもんだからね、

この時代は欲望丸出しの時代だから、こんな君主じゃ物足りないって思ったり、もっとビッグになりてぇって連中がうじゃうじゃいるからね、そんなハングリーな奴ら相手じゃさすがに遅れをとらざるえなかったんだろうねぇ。

242: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:03.00 ID:WlQJCCZG
大友は大身国衆ばっかで大友宗家直轄地がほとんど無かった。
これが一番大きい。だから宗麟は朝鮮との貿易を開始し、明との通商を求めた。
キリシタン貿易も財源捻出のためという一面もある。だから大友の菩提寺まで潰してまで寺社荘園領主潰しをして反発を食らってた。
ただこうやって没収した地はほとんど家臣への褒美で消えたし、家臣達はそのまた家臣に与えて武具を揃えさせたりしてたといい上下ともに裕福な生活は送ってなかったようだ。
ただ僧侶どもは民衆を騙し私服を肥し裕福な生活を送って我侭だったと言うから自業自得。
ただ政権運営においては宗麟の妻とその兄(親賢)が奈多八幡宮の宮司の出というのは致命的だった。
耳川の戦いの総指揮官もこいつで、島津打倒の策では無くキリシタンを破滅させる方策について議論にばっかり熱中していて大敗した。
大敗後に生死不明になっていた時期も皆が「臆病なあいつが死ぬわけねーよw」と死亡を信じなかったし、生きて戻ってきたら、宗麟の妻にして妹の奈多夫人は「神道を信心していたから兄は九死に一生を得た」などという始末。
ただ相隣が当主を息子の義統へ譲るまでは失策は無いと言っていい。
義統は猜疑心が強く、奈多夫人や田原親賢によって発言が左右し、言動に一貫性がなく秀吉と秀長からも嫌われたほどの小物。
結局、島津の豊後侵略でももっとも激戦地となり大抵抗戦を展開したのがキリシタンの志賀親次だったし、キリシタン人口の多かった球珠郡や宗麟が守った丹生島城も落ちなかった。
宗麟のやり方が徹底していれば団結力のある重商主義的なキリシタン国になっていたと思われる。

264: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:25.00 ID:HExfixp1
宗麟が居館にしていた府内館というのは今ある府内城跡なの?

266: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:27.00 ID:7uJRAsBl
>>264
大友館は二箇所ある。

まず二階崩れの起きた館は丘の上。
そして発掘が進んでいる館は平地にあり現在の顕徳町。

余談だが大友親著の館跡とされる遺跡は、大分市東部の上久所にある。
http://takum223.jugem.jp/?eid=326

277: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:38.00 ID:WynDg4/+
領内の国人衆の反逆に手を焼いて九州統一が阻まれた感の強い大友氏ですが
なんとか国人衆を束ねるいい方法はなかったものでしょうか?

279: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:40.00 ID:IrZMhoW+
>>277
普通は国人衆をまとめる一番の方法は拡大路線だと思うが
卵が先か鶏が先かになるな
まあ、大友に九州制覇の意志はなかったと思うけど

278: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:39.00 ID:vpVtMcip
守護大名はいわばアパートの管理人みたいなもの
部屋主である国人地侍に口喧しく注意する管理人なんてどこ行っても歓迎されない

281: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:42.00 ID:9Z8Ya48+
九州南部は攻めるには険しい割に土地が痩せていたので侵攻するメリットがないんだよな。九州北部は逆に裕福なので島津側には険しい道を超えてでも侵攻するメリットがあった。

不公平だよな。

282: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:43.00 ID:Jbp+pnMX
筑後や肥後に関しては守護大名から戦国大名へ移行するために大友が国人支配を強化していくことに強く反発したと言うのが実態。
特に肥後は難治の国と呼ばれ佐々の統治に失敗。
自立心ある国人達は地頭職に島津家臣を配置する日向国型支配を認めず領主の自治を守り立花城攻めには一致団結して拒否した。
豊前・筑前はそもそも大内に従って大友と戦って死んでいった国人達で敵である大友の支配が深化するのを嫌い毛利の国人領主連合の上下のつかない同盟的雰囲気に靡いた。
こういう九州の国人の自立割拠の風土を消し去るために秀吉は筑前筑後は小早川に、肥前は龍造寺から鍋島へ日向を伊東、秋月、高橋らを転封させ佐々の失脚後に、さらに勃発した肥後南部や天草の一揆を鎮圧し検地徹底し、梅北一揆で島津領を徹底検地で国人を衰退させ島津の立場を強化し朝鮮出兵で活躍できるお膳立てをしてあげた。
そして秀吉は寺社の大荘園の解体を進めた宗麟による豊後の改革が中途であったので大友領の改革を実行すべく大友を改易をして徹底検地をして九州を名実ともに支配の仕上げをしたのである。

286: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:47.00 ID:lvNgAyPo
もしも今山合戦や耳川合戦で親貞や田原親賢ではなく立花道雪を総大将にしていたら大友は九州を統一できていたでしょうか?

287: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:48.00 ID:LDzejJdB
>>286

今山も耳川も領土拡大というより勢力圏回復の為の局地戦だし
宗麟本人がその気になって支配地の拡大や九州統一を図って動かない限りそれはないかと

289: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:50.00 ID:BKP36HMd
道雪、紹運が松永久秀みたいな性格だったら大友の崩壊はもっと速かった可能性あるな
二人とも人望は宗麟を上回っていただろうし

290: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:51.00 ID:kb+Y+FZM
でも息子は紛れもない馬鹿だが宗麟はもっと評価されて然るべきだよな。
彼は文治派としては戦国でも随一の能力を持ってると思う。
ただ相手が政略もへったくれもない南の国の脳筋戦闘民族だった為にあまりにも相性が悪過ぎただけで。

291: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:52.00 ID:bE6gmE9f
しかし宗麟に人望は無かった

292: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:53.00 ID:Cg0DIfeQ
人望はムチャクチャあるだろ
耳川の戦いの後に反乱が相次ぎ大友が崩壊寸前の時にみんなが宗麟の完全隠居からの復帰を懇願してるし。
最初はキリシタンの修業のため世俗の事にはもはや興味ないと固辞したけど、皆が強く懇請したからやむなく「あくまで義統が当主でその後見なら」って条件で復帰すると財貨も惜しまずばらまいたりレター書いたりとやってたら大友の謀反地獄が収束しちまったしな。
義統どんだけダメダメなんだって言うw

295: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:56.00 ID:yhl+vYXf
>>292
見ようによっては壮大なマッチポンプに見えなくも無いが外交センスに裏付けられた人望なんだよな
例えるなら遊ぶ友達はいないが宿題を見せる友達は沢山いるタイプ

293: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:54.00 ID:/KDbrktR
宗麟の外交センスはずば抜けてるよね。
関ヶ原での義統の外交センスの無さは泣ける。

294: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:55.00 ID:aEbu14bh
宗麟の室町幕府への根回しとかあまり語られないけどなかなか秀逸だよな

296: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:57.00 ID:W+dIKgrj
大友宗麟といえばキリスト教に手厚い一方で寺社には焼き討ちなど厳しいと聞きます。
恭順を申し出た友好的な寺社などにも厳しかったのでしょうか?
それとも厳しかったのはあくまで敵対した寺社だけなのでしょうか?

297: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:58.00 ID:3/BUIa9W
大友家代々の菩提寺までやっちまったほど死角はどこにも無かった…
守護就任以来続く代々の大友枝諸家や大身家臣だらけの大友宗家は台所事情は厳しいのよ。
しかも大身家臣も家来衆に分与しまくってるから家臣も貧しかった。
贅沢をしてる者はいなかったんじゃないかな。
だから南蛮貿易や朝鮮貿易を開始したり、明との貿易を願ったりした。

298: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:31:59.00 ID:W+dIKgrj
ありゃあ。寺社には一貫して厳しかったんですね。

299: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:00.00 ID:Yvl0kk0d
>>298
それほど厳しいというのはないよ。
まず純粋にキリスト教の信仰から起こした行動はほとんどない。
さらに島津の豊後侵攻時に焼かれたこととごっちゃになっている事例も多い。
さらに宗麟は、臼杵に引きこもったときにも宣教師たちを府内に残したまま。

300: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:01.00 ID:WC7f0fBs
宗麟は極端な行動はとらないよ
なんせ大友の政治は合議制だから独裁者じゃない。
耳川での討ち死にで合議制メンバーの欠員が出たのに義統が独裁に走って、しかもヒステリー気味の母や耳川の敗戦責任者の無能な母の兄を重用したからおかしくなった。

310: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:11.00 ID:jJgqP7qn
>>300
田原親賢の重用は、田原本家(安岐田原)を抑える意味もあったわけで、必ずしも奈多夫人がしゃしゃり出たというわけでもないよ。
そもそも実家の奈多氏は、被官層で宗麟の後ろ盾がなければ、加判衆や方分(国・郡)にもなれない。とくに先代の義鑑の時代から、被官層は重職につきにくくなっていたしな。

だから外戚とはいえ、田原親賢は宗麟のイエスマンにならなきゃ解任される立場にあったわけよ。逆に宗麟からすれば、コントロールの効く田原親賢に田原全体(除く吉弘氏)を握らせて、大友氏歴代の課題を 解決することにしたわけだ。

だから田原親賢に対する悪評は、成り上がり者に対する悪感情も含まれていると考えるべきだと思う。

301: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:02.00 ID:Vg78Ydhc
日向や肥前でやった大友の焼き討ちは言い逃れできないだろう
それと島津がキリシタンに焼かれた寺社を復興させようとした話は何故か出ない

311: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:12.00 ID:3wlIL483
田原親賢を批判した道雪は吉岡宗歓、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道であると言ってるし

吉弘鎮信も吉岡宗歓殿、臼杵鑑速殿がいたときは政道正しく、上下の礼儀に違わず、信賞必罰が行われ、人の恨みはなかった。今は田原親賢の意見が重用され、代々の家臣が遠ざけられ、ねい臣ばかりがはびこり、浅ましい限りである。
立花道雪殿がここにいれば大友もここまで悪くならなかったろうと言ってるし 親賢の父の奈多鑑基も娘が大友義鎮の正妻になったので寺社奉行に任命されたが本社宇佐八幡の領地を横領したりと横暴していたので吉岡宗歓・臼杵鑑速らが叱責してる。

さらに関が原での西軍選択といい、黒田軍に大敗といい親賢親子は無能だと思うよ。

さらに好き嫌いがはっきりしてる奈多夫人も義統の統治方針を歪ませてるから朝令暮改みたいな方針で家臣団は失望してるところがある。

313: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:14.00 ID:88PXLBLW
道雪が府内にいて政務に参加してた時期は良かったが立花城督に転出してからは府内政治に口出しできない立場になったからなあ。
それでも耳川の敗戦を聞いてあえて激文を送って叱咤激励してるのが熱い。

314: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:15.00 ID:bJ+jmZlS
俺なら耳川の戦いの敗北を知った時点で出奔するわ

315: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:16.00 ID:ONjI6EKv
>>314
それは耳川のその後を知ってるから言えるんじゃない?
破れたとは言え耳川は本国より遠く離れた局地戦
その後大友が本拠地に攻め込まれるまで弱体化すると予想出来た人は大友旗下にはいないんじゃない?

316: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:17.00 ID:x6KF/Tec
いやだから義統の専制政治が始まり田原指揮の耳川の敗戦が起こると豊後本国ですら離反が激しくなりこのままじゃ豊後滅亡して困るのは豊後国人達自身だって話で
老齢でもはや俗世に興味ないって言って政治から後ろ向きになってる宗麟復帰要請の必死な陳情につながるわけだが。

318: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:19.00 ID:9wdQyX8x
宗麟って長州藩から相当に恨まれてるよな~
すっげー中傷されまくりで明治の歴史書物出版の時にさんざん洗脳しまくりだもんな。
その戦前の評価を引きずって光栄出版物も酒池肉林な暴君扱い。
元就を神のように扱うためには邪魔な存在だもんな
そろそろ固定概念から再評価すべきだな。

321: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:22.00 ID:Cx9iijXk
でも大友家文書録残ってるだけマシじゃね?
と一瞬思ったが、編纂した当の本人が元凶だった。

325: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:26.00 ID:ZhMsEalH
>>321
大友義統さえしっかりしていれば
没落せずに資料が散逸することもなかったなあ

322: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:23.00 ID:kB5Ewrxs
毛利が宗麟の弟、晴英(大内義長)を殺したのは拭い去ることの出来ない事実

323: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:24.00 ID:VJ0zwowF
周囲の反対もきかずに大内に入った本人の自業自得感もあるけど停戦をないがしろにする毛利は好かんが、九州平定時に先兵として助けにきてくれたのも毛利なんだよなあ

324: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:25.00 ID:gWumNjXj
秀吉の命令じゃねぇか。
しかも大友領だった筑前筑後を隆景は貰ってるし。
そもそも四国平定時には厳島で援軍出して助けてくれた河野を隆景は滅ぼしてちゃっかり伊予を貰ってたし。
なかなかに悪党。

326: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:27.00 ID:0pDGX5B0
豊後大友藩24万石か
仇敵の薩長肥より柳川藩との関係が一番劣悪そうだな

330: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:31.00 ID:9dVhJ5xF
>>326 
そうか言われてみれば明治維新を主導した薩長土肥のうち大友は3家と対立した挙句滅んだわけか。そりゃぼろくそ言われてもしょうがない。
というか運悪すぎだろ。なにこの面子。

331: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:32.00 ID:gWumNjXj
関ヶ原後に入封した土佐山内氏では無いが
土佐国司一条氏を支援して長宗我部とも対立してる大友…

332: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:33.00 ID:9fjKMxUL
大友は強盛だったからこそ、色んな大名と対立してしまったのだな

334: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:35.00 ID:nSLkeXo1
大友顕彰会が大河化を目指して活動とかなんとか

335: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:36.00 ID:uirJF2AK
しかし義統先生のせいで最後が締まらない大河になるなあ。
どういう終わらせ方をするつもりなのか…
奈多夫人を賢婦人にして信長と会談してキリスト教弾圧するように直訴したり秋月陣まで来た秀吉に面談しキリスト教弾圧について意気投合しちゃうんだろうか。

336: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:37.00 ID:1SAnCPwN
立花宗茂主役の大河ならありだけど、大友主役じゃ厳しいだろ。

337: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:38.00 ID:uirJF2AK
宗茂大河だとギン千代の扱いに困る。

338: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:39.00 ID:U6QR8LgU
どちらにしろ九州の負け組大名の代表格みたいな大友単独は厳しいかと

341: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:42.00 ID:z2gYiWl8
晩年に国崩しで奮戦する宗麟が映像化なんて胸が熱くなるな
最期は府内奪還で綺麗に終われそうだけどな

349: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:50.00 ID:i7pIQG9W
大友を大河っていっても、今の大河にはなにも期待できない。それこそ「戦は嫌にござります」を連呼する宗麟とかならやらないほうがいい。まあある意味では今の大河都合がいいかもしれんけど……。

351: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:52.00 ID:Lu5qWIyb
>>349
戦国大名という側面だけでなく南蛮や朝鮮交易の第一人者でもあるのでそっちがメインになるかもな

353: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:54.00 ID:cyAevLkM
大友が九州を統一していたら西洋からの技術導入を盛んに行い
大砲装備の大艦隊を率いてインドのゴアに宣教師を伴って訪ねる宗麟とか見れたよな~。

356: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:32:57.00 ID:QBX+lw7I
日本で最初に象を持ち込んだのは宗麟
秀吉は二番煎じ 


日本人とゾウ

文献上、現世のゾウが日本へ人為的に初渡来したのは応永15年6月22日(1408年7月15日)、東南アジア方面からの南蛮船により、足利義持への献上品として現在の福井県小浜市に入港。上京した後、朝鮮に贈られた記録がある。天正3年(1575年)には明の船が象と虎を連れて豊後国臼杵に到来し、大友宗麟に献上されたほか、慶長2年(1597年)にはルソン総督が豊臣秀吉への献上品として、また慶長7年(1602年)には交趾から徳川家康への献上品として虎・孔雀とともに贈られた。

359: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:33:00.00 ID:0kwxvw7O
>>356
マジかいな?

国崩し砲の威力に一時動揺した島津軍であったが、少しずつ体勢を建て直しつつあった。だがその時だった。不意にさらなる衝撃が島津兵をありえないほどの戦慄と恐怖へと誘った。かって聞いたことのない雄たけびが、島津軍得意の猿声さえかき消した。地鳴りがした。なんとそれは象の群れだった。刀を構えたままの島津兵が象の前に無力に押しつぶされていく。
巨大な鼻が、天下に精強無比だったはずの島津兵を、まるで赤子のようにあしらっていく……。

戦象部隊に蹂躙される島津と胸が熱くなるなww

362: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:33:03.00 ID:/IrAXtXm
>>359
くもの巣を散らすように逃げ惑う島津軍・・・
調子にのって、深追いして、野伏せりで蜂の巣にされる象部隊の姿が目に浮かんだ

364: 人間七七四年 2010/03/08(月) 10:33:05.00 ID:mdctkxpQ
>>359
1575年に宗麟に献上するために、象2頭と虎4頭が博多に来てたらしい。
ついでに宗麟のレリーフに孔雀が描かれてるから、一緒に孔雀も献上されてたのかもね。

引用元: ・大友氏について語ろう2



大航海時代のアジアと大友宗麟
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