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1: 人間七七四年 2008/03/08(土) 20:08:53 ID:5YkPWQKJ
「日の本一の律儀者、しかし、律儀すぎるのも非常に困る」と家康に評され、「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」と石田三成との友誼を重んじた、佐竹義宣を語りましょう。


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困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る 





佐竹義宣

没年:寛永10.1.25(1633.3.5)
生年:元亀1.7.16(1570.8.17)

安土桃山・江戸初期の武将。常陸国太田を拠点とした戦国大名佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘で,伊達政宗は従兄弟。

天正14(1586)年家督を継ぎ,豊臣政権下で54万5000石余を安堵される。慶長7(1602)年,関ケ原の戦で徳川側に加担しなかった責めを負い,出羽国久保田の地に転封。2度の領内総検地を実施して,秋田藩20万5000石余の基礎を築いた。家康と敵対した石田三成と親交があり,三成が反対派による謀殺の危機にあったとき,自ら乗り出して救出した逸話は有名。家康は,これにより義宣を「律義もの」と評したといわれるが,この律義さが,関ケ原での中立的態度をとらせ,出羽への国替えを招いたともいえる。<参考文献>『秋田県史』近世編上,『徳川実紀』1巻(『国史大系』) 




151: 人間七七四年 2008/12/03(水) 13:14:46 ID:tVknFmVl
三成、上杉以外に他の大名との友誼はあったのかな?
政宗とは仲悪いんだろうけど

154: 人間七七四年 2008/12/11(木) 02:04:17 ID:VnsYxMrk
>>151
古田織部

161: 人間七七四年 2009/02/20(金) 11:26:22 ID:7UYxD/Ev
義宣以降の秋田佐竹家では茶道はすたれたのだろうか?

168: 人間七七四年 2009/02/22(日) 20:34:25 ID:uPQGB7Se
困るほどの律儀者は酒宴に呼び寄せた豪族達を皆殺しにしたりしません

「南方三十三館」謀殺事件

鹿島・行方両郡の常陸大掾系の一族を中心とする南方三十三館と称された武将たちは、天正19年2月9日(1591年4月2日)、佐竹氏の太田城に招かれたが、そこで佐竹義重・義宣父子により謀殺された。


169: 人間七七四年 2009/02/23(月) 11:57:07 ID:sLF+Nhoz
んなこと言ったら黒田如水が宇都宮一族を惨殺したのだって…豊臣政権下では任地の統治に失敗したら改易になりかねんから仕方がない。
君主権の確立と中央集権化とはそういうこと。幕府下で大規模なお家騒動が起きなかったのもこの時の処置のおかげでもあるんでないかな?

170: 人間七七四年 2009/02/23(月) 12:04:35 ID:+mWgVJTC
だからそんな大層な律儀者ではないと>>168は言いたいんじゃないの

171: 人間七七四年 2009/02/23(月) 15:52:11 ID:xY9QO6ze
律儀者だからこそ
国人が集団で佐竹の城に来たのだろう
よもや謀殺されるとは誰一人思ってなかったに違いない

172: 人間七七四年 2009/02/23(月) 16:38:16 ID:viRpOw6u
宇喜多直家「そう通り、律義者だからこそ来るんだよな」

202: 人間七七四年 2009/03/09(月) 08:08:59 ID:taBbn5rB
佐竹の金山採掘技術って他の大名に比べても技術高い方だったんかな?
秋田へ移封後には日本一の鉱山発見したくらいだし。

203: 人間七七四年 2009/03/09(月) 10:26:00 ID:pGdVtdE0
変わらんと思うよ、鉱山の当たり外れは運みたいなところもあるし

204: 人間七七四年 2009/03/09(月) 13:01:26 ID:H7RlMwyx
八溝系金鉱は義宣時代は全国でも五番以内に入るぐらいの産出量があったが
水戸徳川時代は甲斐の金堀衆などを招いて採掘したが殆ど採掘できずに水戸藩は貧乏だった
なので地元では佐竹の金堀衆は高度な技術を持っていたと言われている
しかし近代でも八溝金鉱の採掘は行われているがたいして産出されなかった
単に掘り尽くしただけかもしれない

205: 人間七七四年 2009/03/09(月) 15:09:25 ID:I9S0jYgb
院内銀山
佐竹が秋田移封後に即発見した旧最上領だった地

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%E5%85%E9%8A%E5%B1%B1

206: 人間七七四年 2009/03/11(水) 12:27:47 ID:0lPXli+H
佐竹の金山調査技術ってのはいつ頃からあるんだろうね?
武田や上杉からの技術移転かな。

210: 人間七七四年 2009/03/20(金) 10:10:16 ID:rloz7vED
>>206
八溝山系はかなり古いよ
承和3年(836年)には既に金の採集を行っていた記録がある
この辺りには古くから金堀衆がいたものと思われる

240: 人間七七四年 2009/06/15(月) 11:44:35 ID:1mFdjocA
小田原包囲中に二階堂の家臣の矢田野兄弟が政宗に反旗を翻したのも佐竹の謀略だろうね。佐竹やるじゃん。
政宗と小田原に来た矢田野伊豆守は義重の陣に駆け込み、弟の矢田野藤三郎義正が大里城に泉田や明石田ら二階堂旧臣500を集めて挙兵。
結局、7/4には成実や景綱ら1万以上もやって来て伊達が全力で攻撃するも落城せず、6/25に黒川城へ政宗帰国、7/5小田原落城、7/10に政宗が浅野や木村に会津黒川城引き渡し7/13米沢へ移動、7/26に秀吉が宇都宮へ着陣。
秀吉の奥州案内の道造り(太閤道整備)をさせられていながら街道筋の大里城を落とせず完璧に面目丸潰れの政宗が8/2に大里城攻撃を諦め撤退。
8/7に秀吉が長沼城に到着と同時に矢田野は城を燃やして撤退。
その際に秀吉は矢田野義正の武勇に大喜びして安房守を与えて、蒲生氏郷に矢田野の本領安堵を下知。
8/9に黒川城へ秀吉が入城。
須賀川二階堂氏が最後の意地を見せつけた戦いだった。
これにより矢田野は佐竹騎下の角館で二階堂氏の名を継ぐ事になった。

241: 仙台藩百姓 2009/06/15(月) 14:02:59 ID:KiQpm4LB
そりゃないでしょお( ^ω^)
後詰めにも行けないのに敵中で蜂起させても捨て駒にする他ないし
信頼でもってた義重がそんな事するとは思えないお( ^ω^)
まあ、向こうは当てにしてたかもしれないけど
佐竹にとっては大事な時期に無駄な騒ぎ起こしたくないだろうし迷惑な話しだったおうね( ^ω^)

246: 人間七七四年 2009/07/08(水) 21:04:14 ID:5YopciW6
>>241
佐竹が斡旋して秀吉が矢野田の所領安堵を引き出したわけだが。
相馬攻めする予定だった伊達軍を引きつけた二階堂の矢野田の時間稼ぎの間に、参陣もせずに伊達を攻めていた相馬も佐竹の秀吉への働きかけで佐竹寄騎として許された。
参陣途中の鎌倉で当主が死んだ岩城には義重三男が養子に入ることを秀吉が命じたし。
佐竹の打った手はバッチリ当たり完全に政宗涙目だわな。

242: 人間七七四年 2009/06/16(火) 01:10:52 ID:eRkUHYrH
元々、佐竹は須賀川の反乱を支援してたからね。
もし佐竹が関与してなきゃ義重の陣にやってきた時点で拒絶してたろうね。
佐竹内には岩城経由で二階堂盛義の正妻(伊達出身)や重臣の須田盛秀も在陣してたし。

243: 人間七七四年 2009/07/02(木) 02:05:07 ID:OewS63RT
義重の陣なの?
忍城攻囲中か転戦中の義宣の陣じゃないのか?
義重は義宣に小田原参陣させて自身は太田に居て北方の守りをし、大勢が決したあと宇都宮で秀吉に謁見したと思ってた…

244: 人間七七四年 2009/07/05(日) 12:59:05 ID:z8MZvRqU
資料によって錯綜するが、おそらく義宣の陣に逃げ込んだと思われる。
もしかしたら小田原からの帰路に太田近辺の義重陣に入ったのかも知れない。
なぜなら政宗は義正が矢田野に下り弟に合流すると考えて、早飛脚で成実に対して帰路の道中で討ち果たせと命じている為。
この挙兵は佐竹-相馬-二階堂の連携パターンのような気がする。
なぜなら参陣しなかった相馬が秀吉の了解を得た政宗に討たれる事態を回避したから。
当時の相馬は伊達領の駒ヶ嶺を攻めている為に、明らかに惣無事違反を行っており、
政宗は相馬侵攻を狙っていたが大里城が陥落せずに秀吉の会津着が迫り、
全国の大名たちが見守る中でメンツをかけた伊達全軍をかけた大里城攻撃になってしまい相馬討伐どころでは無くなってしまった。

247: 人間七七四年 2009/07/10(金) 20:20:00 ID:X2P97FUv
それはどうだろう
箭田野氏が領地を安堵されたなら蒲生氏に取り込まれてしまったわけで
義宣の思惑が上手く行ったとは言い難いと思うが…
箭田野兄弟がどこまで佐竹と連絡を取り合っていたかは分からないが
南会津の葦名残党は義広が秀吉と連絡を取り合って伊達に抵抗していたのは間違いない
葦名当主として健在なのを秀吉にアピールし会津の支配権を取り戻そうとしていたわけだ
だが、実際には秀吉は葦名の存在を無視してしまい上手くいかず
同じく滑津など石川庄周辺の佐竹領も没収されてしまい返還される事はなかった
伊達も佐竹も豊臣政権に翻弄されたと言ってよいだろう
どうにも惣無事令の基準は分かりにくい
豊臣内の派閥争いなども絡んでいるらしが

249: 人間七七四年 2009/07/12(日) 14:15:28 ID:mDsGPEz5
佐竹と伊達のどちらの顔も立たせる為に葦名領を彼らの緩衝地帯として氏郷が入ったわけだし、佐竹の役割が奥羽鎮護では無く、対家康用になったので葦名領堪忍分として常陸の旗頭を認め厚遇されたんでしょ。
里見などに比べたら破格どころじゃない厚遇は旧葦名領分含みだから。
だから北過ぎる太田から、江戸に近い南方の佐竹領でなかった水戸に本拠を置くように言われたわけだし。
北は相馬を寄騎や岩城に三男養子、さらに赤坂や赤館まで安堵されたわけだし(佐竹大陪臣的な義久は小早川や直江や石川や鍋島みたいな位置だが)下野佐竹領も安堵。
下野宇都宮氏も佐竹と関係深かったわけだし。
さすがに兄弟がいた位置が佐竹領にならないのが失敗は無理やり過ぎる。

251: 人間七七四年 2009/07/12(日) 22:23:07 ID:KfsT5g4+
>>249
佐竹は洞中を自領として申請したわけで別に秀吉が恩賞として増やしたわけではない
豊臣政権を上手く利用して洞を廃し集権化を図る事に成功したと言える
赤館や下野の一部は佐竹の領地だし安堵されるのは当たり前かと

252: 人間七七四年 2009/07/13(月) 05:55:27 ID:PEJY3EK6
佐竹は江戸氏や小田氏や南方三十三館などまで悉く洞中だと主張したの?
ムリヤリ過ぎじゃないか。

253: 人間七七四年 2009/07/13(月) 08:04:45 ID:zm3LZbYM
江戸、小田、南郡衆は悉く佐竹洞中です。
同時代の人々もそのように認識しておりました。

254: 人間七七四年 2009/07/13(月) 13:22:16 ID:PEJY3EK6
>>253
例えばどんな時に彼らは認識してたの?
それがわかるような書状とか教えて。
私は北条側について秀吉に参陣しなかった事が彼らの破滅だったと思ってたけど違うんだ。
鹿島まですべて佐竹洞中だから秀吉が与えただけなんだ。

258: 人間七七四年 2009/07/16(木) 09:46:51 ID:PRT3rWCo
>>254
『遠藤広家文書』(天正十六年)三月十三日付遠藤高康宛伊達政宗文書写

「(前略) 佐竹ニ而者、府中と江戸殿間に干伐出来、義重自身有出張、一和之雖御意見候、江戸殿悉手詰故、時宜相切、府中へ義重打向、被及弓矢候由ニ候、佐竹洞中悉取糺候 (後略)」

政宗が府中と江戸が戦争たことを示して佐竹洞中が取り乱れたと言っている。

また岩城の仲介で江戸が懇望して佐竹義舜と条々を取り交わしたた際にも、江戸は佐竹の「洞之諸沙汰」に申し合わせることが肝要であるとの起請文を受けている。

小田に関しては直接佐竹の洞中に属したことを示す文書は無いが、天正十一年に氏治の当時五歳の嫡子守治が佐竹に行ったこと、天正十五年に小田に帰されたことが『烟田旧記』にあり、これは守治が佐竹の小田に対する人質となったことを示している。
このとき小田は佐竹に屈服し、小田洞は佐竹洞の下位の洞として包摂されたと見る。

洞についてあれこれと言うならば、せめて市村高男のせめて「戦国期における東国領主の結合形態」くらいは読んでおかなければならない。

259: 人間七七四年 2009/07/16(木) 10:11:48 ID:PRT3rWCo
あと書き忘れたが、恐らく石田三成は秀吉の小田原の陣以前の一、二年前に(伊勢辺りからの船で)少なくとも二度以上、太田城に直接来ている。また同様に佐竹義久も小田原陣以前に上洛し、秀吉と直接面談していると思われる。
その際に東国関東の秀吉の成敗について詳しい内示があったと見られ、佐竹洞中の一部が小田原に参陣したかったのは、佐竹と羽柴の間での密約があったと見える。
このことは多分佐竹の近世常陸領形成に割合に重要な意味を持つと思われるんだが、どうも研究がちゃんと進んでいないのか、残念ながら誰も指摘しない。

260: 人間七七四年 2009/07/18(土) 23:24:04 ID:31upJBix
鹿島郡や行方郡の諸将は天正年間には佐竹洞中に組み込まれている
木田余城を攻略した際に鹿島・行方の諸将を入れているし
小川岱の対陣でも佐竹方として出兵している
多気山城の築城の際にも普請に駆り出されているしね
正確に言えば江戸氏や大掾氏の洞中であるため佐竹の洞中に包括されていた
だから彼らを介して出兵を要請する事が多かったようだ
それが次第に佐竹が支配を強めて直接支配を及ぼすようになる

ちなみに後に討伐される額田氏や三十三館主の島崎氏、烟田氏、田野辺氏などは小田原に参陣している
常陸誌料等によると江戸氏も家臣を義宣に従軍させた事が記されている
額田や水戸、鹿行などは義宣に領地の明け渡しを要求された話しが残っており
又、義宣はしきりに配下の領地替えを行っている
つまり彼らは転封を嫌って反発し討伐されたのではないだろうか
この辺りはまだまだ研究の余地があるね

285: 人間七七四年 2009/11/10(火) 01:24:27 ID:zOWcGEcj
当時の秋田って意外と富んでいたらしいからラッキーだったんじゃないの。
鉱山もあったし。住めば都ってここが由来でもいいだろって感じ。
東北の中では、着倒れとか言われて派手好みだったし比較的恵まれていたんじゃないか。

286: 人間七七四年 2009/11/10(火) 04:46:18 ID:husqC0Sk
由利を最上と交換して得た旧小野寺領内で関ヶ原後すぐに発見された院内鉱山のおかげで江戸期を通じて奥羽一の収入を佐竹は得ていた。
また源義家などの件から、源氏隆盛の故地だから縁起がよいなどと義重などは言っていたとか。

287: 人間七七四年 2009/11/10(火) 08:18:55 ID:xAJDWfbh
>>285
恵まれてたというのは言い過ぎ、ひいきの引き倒しだ。
それほどひどくは無かった、という程度。

藩財政は江戸前期から累積大赤字。
近年の研究では、江戸時代の百姓はわりあい裕福だったというけれど、秋田藩は例外的に、マルクス主義者が言うような重税と飢饉、に打ちひしがれ、餓死や間引きが横行した悲惨な百姓そのものだ。
秋田の農業は、米ひとつに依存しすぎだし、江戸時代の秋田は、米作りには寒すぎる国だった。

288: 人間七七四年 2009/11/10(火) 09:10:38 ID:Z8U2b75f
秋田藩で例外的で悲惨だと、もはや盛岡藩や津軽藩なんて人の住む場所じゃ無くなってるんじゃないか
そもそも藩財政が黒字の藩の方が例外的だしな

江戸時代の奥州が米に向かないのも、佐竹が重税で百姓を圧迫していたのも事実だが
余所者な上、殿様・その係累に趣味人多いしな


318: 人間七七四年 2009/11/13(金) 14:43:25 ID:4DkZzzQ5
>20才のとき,正室(那須資胤の娘)が24才の若さで自殺するという悲劇にあう。
>その後,側室との間に嫡男ができるも2才で病死するなど,私生活は不幸続きだった。

自殺って何か理由でもあったの?

319: 仙台藩百姓 2009/11/13(金) 15:27:51 ID:bqVL82vM
那須氏が改易されたから佐竹に害が及ぶのを恐れて云々という説をあげている本が結構あるけどどこでも婚姻関係は複雑に絡んでいるし今更正洞院だけ死ななければならないと言う事もないおね( ^ω^)
義宣は後に側室も追い出したりしているから単に不仲だったのかもしれんお( ^ω^)
要するに何だか分からないお┐ (´ω`) ┌

320: 人間七七四年 2009/11/13(金) 15:49:25 ID:gidy8NF/
>>319の言う通り、良く分からない。

「茶や能楽、京文化にかぶれて文弱に流れた義宣を、死をもって諌めた」
と史書にはあるが、それも後代の人間があれこれ想像した理由に過ぎない。
実家の那須家が滅んでしまい絶望したのか、と想像する人もいるが。

322: 人間七七四年 2009/11/13(金) 18:25:12 ID:sxeN3Ofv
これから佐竹がくるな

ttp://www.mononofu.net/SHOP/T0035.html

323: 人間七七四年 2009/11/14(土) 01:41:10 ID:xFFCiKxi
毛虫の前立てがどれだけ歴女のハートをつかむかだな

愛の前立てより若干つかみが悪いかもしれん

327: 人間七七四年 2009/11/14(土) 12:17:25 ID:SvUCSANJ
秋田時代の義宣はいつも面頬をつけていたというが
常陸時代からの習慣だろうか
伏見にいた頃はさすがにスッピンだったろうけど

331: 人間七七四年 2009/11/15(日) 11:29:24 ID:H2q5dTgg
>>327
いつも面頬をつけていたって本当?
出典はあるの?

328: 人間七七四年 2009/11/14(土) 20:33:09 ID:vzVM01Bk
病気で顔が…、という説があったような。
鼻が欠けてたとかさ。

329: 人間七七四年 2009/11/14(土) 22:20:44 ID:rQopczVk
単にシャイだったとかw
昔は梅毒説もあったが今は否定されているようだ

330: 人間七七四年 2009/11/15(日) 00:10:27 ID:ZKNaRG/g
人相が分からないと、影武者使う時には便利じゃないか?
オヤジの義重も用心深い人だったし、その辺は似てるかも。

332: 人間七七四年 2009/11/15(日) 15:35:05 ID:l3Osv5bY
面頬を付けるのは戦の時でしょ
普段から付けていたなんて聞いた事ないな

333: 人間七七四年 2009/11/16(月) 09:47:44 ID:9+Fo0ijl
「普段から」黒い面をつけていたので素顔を知る家臣は少なかった
・・・・と、自分も何かで読んだことがある。wikiや小説の類ではなく、学術書で。
だから藩祖なのにスッピンの肖像画がないとか何とか。
ただ義宣の場合、親父の鬼義重のエピソードとごっちゃになってたりするからな。
どこまで本人の逸話なのか、よく分からん。

337: 人間七七四年 2009/11/16(月) 18:21:16 ID:0Raamk8f
>>333
『学術書』ねぇ・・・
佐竹義宣について書かれた『学術書』なんてそうそう無いと思うけど。
出典が無い以上、いち奇説として扱っておくべきだろう。
義宣については、家臣が彼を恐れていたため、顔を仰ぎ見ることができなかったというエピソードがあったけどね。

341: 人間七七四年 2009/11/16(月) 22:45:11 ID:MEKGQtRF
それは俺も見た事ある
秋田叢書に集録されている小野寺道維の聞き書きが出典だと思う

342: 人間七七四年 2009/11/16(月) 23:40:03 ID:FnvO9A6p
やっぱり川井事件のせいで恐れられていたんだろうか

川井事件

主君・佐竹義宣は、出羽久保田に入ると領地の改革を開始する。才知に長ける官僚であった渋江政光や梅津憲忠・政景兄弟など浪人あがりの若手を重用したため、譜代の重臣の間には不満が広がっていた。

翌慶長8年(1603年)、家老・小貫頼久が死去すると、代わって忠遠が家老職に任じられた。しかし同時期、もう一人の家老の和田昭為も職を退き隠居すると、渋江政光を家老に抜擢するという人事案が持ち上がった。これを忠遠は「浪人として家老となり諸士の上に立つのは譜代に人なきに似たり」と言って憤慨し、同様に不満を爆発させた小泉籐四郎・野上刑部左衛門・小野玄蕃・大窪長介と共に政光の暗殺を企てた。この際、政光のみならず義宣をも暗殺せんと企てていたという説もある。

しかし企みは事前に漏れ、先手を打った義宣によって忠遠ら武断派は誘き出され、忠遠は横手城で、小泉は土崎湊で、野上は角館城で、大窪は湯沢城で、それぞれ殺害された。これが後に川井事件と呼ばれる一件である。


345: 人間七七四年 2009/11/17(火) 15:47:21 ID:C7oliXZF
ところでだいぶ前に義宣の肖像画は左足がないって話題があったが決着ついたんだっけ?

Satake_Yoshinobu


346: 人間七七四年 2009/11/17(火) 18:52:20 ID:lTzRFQHj
そう見えるって言ってる人がいただけで
別にそういう学説があるわけでもないし決着もなにも無いと思うけど

348: 人間七七四年 2009/11/17(火) 21:59:25 ID:PZkqiYYd
左足は、つま先が真正面になる描き方は、日本画ではしないそうだから、
(元、足利尊氏画像ではむりやりガニマタにしてつま先を横に向けた)
左足だけあぐらにした、という結論になったような。

349: 人間七七四年 2009/11/17(火) 23:34:39 ID:lTzRFQHj
まあ、構図の問題だからね
肖像画は殆どが後世に描かれたもので本人見ながら描くわけではないし
あの義宣肖像画と言われている絵も結構新しく
明治時代に義宣の甲冑見ながら描かれたもので、画家は義宣の身体的特徴など知る由しもない
でも、あの肖像画は異彩を放っていてなかなか良いよ

351: 人間七七四年 2009/11/18(水) 22:35:41 ID:yWVCkuPW
秋田へ移封された後、他の藩主(当時は藩とは言わなかっただろうけど)と手紙なんかの交流はあったんだろうか

352: 人間七七四年 2009/11/19(木) 18:42:52 ID:RYB1GaWP
いい話・悪い話スレで
伊達政宗と観劇したりする話が載ってるよ。
もちろん、これも藩主の『お仕事』だけどね。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2512.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1971.html

政宗のこと、大嫌いなんじゃないかと思ってたが意外とそうでもないのか?
つくろってるだけなのか?
これも、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2512.html

353: 人間七七四年 2009/11/19(木) 19:46:35 ID:fXGy/8Qp
藩主間の個人的やり取りはなかったんじゃないかな。
親兄弟でもないのにうっかり仲良しこよしして、徳川幕府から「あいつら手を組んで何か企んでるのか?」と痛くもない腹を探られてもマズイっしょ。

ふと思ったんだが、佐竹家は結構親兄弟の仲が良いよな。
いがみ合い殺し合いばかりの伊達家とはかなり違う。

354: 人間七七四年 2009/11/19(木) 20:15:21 ID:RYB1GaWP
僕もそう思ってたけど
いい話・悪い話スレを読み進めていくうちに、大名同士の交流の話が沢山出てきて、認識を変えた。政宗とか、三斎さんとか、交友関係幅広い人もいるし。

表向きは禁止だが、裏では羽目外さない程度にやっていいという典型的な日本的法令(?)だよ、多分。

まあ、義宣は友人多くなかっただろうけどね。

356: 人間七七四年 2009/11/19(木) 20:48:43 ID:t88inZMP
>>354
敵が多いとされる治部の友人やってたから、心は広そうだなw

357: 人間七七四年 2009/11/19(木) 21:49:18 ID:RYB1GaWP
>>356
頭はずば抜けていいのに、あちこちで角を立てる不器用な三成と馬が合ったんだろか。
真面目な人間が好きなのかな。
義宣は、理性の人って感じだよね。
悪く言うと冷酷な側面もあるんだけど…

引用元: ・困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る



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