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1: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/26(金) 20:01:06 ID:pt6Kz/U4
ゲーム中では伊達政宗に次ぐ東北NO.2の能力の武将知ってるかい?
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津軽為信知ってるかい?しらんだろ?  






津軽為信

1550-1608 織豊-江戸時代前期の大名。天文(てんぶん)19年1月1日生まれ。

大浦氏をつぎ,約17年かけて陸奥津軽地方を統一,津軽氏を名のる。関ケ原の戦いで東軍につき,陸奥高岡藩藩主津軽家初代となる。4万7000石。高岡城の築城に着手するなど,発展の足がかりをきずいた。慶長12年12月5日死去。58歳。




410: 人間七七四年 2011/03/13(日) 14:09:35.06 ID:4D56YWXb
華々しい合戦とかないけどな。
やったことと言えば弱体化した北畠や
朝日を潰しただけ。

411: 人間七七四年 2011/03/21(月) 17:50:22.72 ID:2TbT7HSB
総無事令違反に問われそうになったと言いますが具体的にどういう行動が問われたか分る人いますか?
ググっても南部からの離反としか出て来ないのですがそれ自体は発令されるずっと前からなので該当しないんじゃないかと・・・

413: 人間七七四年 2011/03/21(月) 21:40:42.13 ID:nItLbXAn
>>411
想像だけど1588年に朝日氏を滅ぼしたことを咎められたのかも。
これはどう見ても違反してるからな。

414: 人間七七四年 2011/03/22(火) 07:17:16.08 ID:c0udE5Xz
>>411
湊騒動の時、実季と為信が和睦して為信が援軍差し向けたとか秋田方の資料にあった気がする。

あと南部の史料だと、南慶儀の書状のひとつが、天正17(1589)年に年代比定し直されて、その中で慶儀が『津軽方面で事が起こっている。糠部郡中で底意無く話し合おう』みたいな事言ってるから、年代比定が正しいなら、この時期為信が外ヶ浜で何らかの軍事行動を取っていた可能性はある。

415: 人間七七四年 2011/03/22(火) 19:50:37.14 ID:mMjpdr9C
>>413 >>414
朝日をはじめとした北畠の遺臣を一掃してたと考えれば色々と辻褄が合う気がしてきました。
ありがとうございました。

417: 人間七七四年 2011/04/03(日) 23:47:29.17 ID:AiUuP5Kf
仮に戦国時代が続いたとすれば津軽為信って南部領と安東領も支配できたかもしれないな。
伊達正宗と同じくあと10年早く生まれていればと惜しまれる人材。

419: 人間七七四年 2011/04/04(月) 23:23:07.46 ID:vvF107Ky
>>417
単独じゃ無理。安東か南部どちらかと手を結ばないとあれ以上の領土拡大は望めない。
まあ普通に考えるなら何とか南部と組んで秋田に進出するのが現実的かと。

420: 人間七七四年 2011/04/05(火) 02:27:42.42 ID:gAiQAuys
組むなら秋田とじゃね? 
湊合戦の直後は実際にそうなったわけだし

421: 人間七七四年 2011/04/05(火) 22:37:08.75 ID:oo214ccL
距離的なことを考えると南部に、
それこそ当時の有力者達が集まっていた
三戸郡、二戸郡に進行するのは無理だろ。
宇杭野の合戦も兵数で上回る南部に千徳が勝利したのも
遠すぎる遠征で兵の疲労が高まっていたのも一因だからな。

422: 人間七七四年 2011/04/08(金) 16:36:13.85 ID:N2/dT36B
為信の戦い方って、ある一勢力に狙いを定めて、準備期間→一気に攻め込む→残敵掃討って感じだから諸勢力割拠の南部相手だと時間かかりそう。南部相手なら最初に狙うのは七戸かな?
あと糠部に攻め込むなら本拠を大浦から移さないといけないかも、なんぼなんでも遠すぎるし

423: 人間七七四年 2011/04/09(土) 21:36:43.80 ID:VfKGJg3v
糠部に進出するにはまず北群を押さえないとならないけど北群ってあれだけ広い割りには石高は三千石なんだよね
普通に考えれば秋田に進出するでしょ。

424: 人間七七四年 2011/04/09(土) 23:57:54.78 ID:SNHkBMaA
秋田に行くなら比内だと思うけど、比内は南部も狙ってるから、手出しすると泥沼になりかねん
かといって檜山は檜山安東の本拠だから容易には潰し難い
ぶっちゃけ、津軽って惣無事令の時点で領土拡張は手詰まりっぽいよな
南部みたいに南に肥沃な土地持った弱小勢力があるわけでもなし

425: 人間七七四年 2011/04/10(日) 18:30:04.47 ID:G2HCXAaf
東北の歴史に興味があるんですけど浪岡北畠は南部の傘下に入っていたと考えてもいいんでしょうか?

426: 人間七七四年 2011/04/10(日) 22:00:13.05 ID:WOW5hvAw
一種独立の風があったんではないんかね
浪岡御所として地元から敬われたはずだから

427: 人間七七四年 2011/04/10(日) 22:20:29.09 ID:++4SnGYT
独立勢力ですよ。
如何にも南部に臣従してるかのように書かれてる本が多いですからその様に誤解してる人もいますがね。
仮に臣従してたとしたら安藤愛季の娘を正室に迎えることは出来ませんから。

428: 人間七七四年 2011/04/10(日) 22:49:59.21 ID:G2HCXAaf
>>426 >>427
レスありがとうございます。
あともう一つ聞きたいのですけど当時の北畠氏の版図はどの程度だったんでしょうか?

429: 人間七七四年 2011/04/11(月) 08:41:57.77 ID:0Hoif6A3
浪岡北畠の版図は『田舎郡二千八百町 奥法郡二千町 沼ゾキ保内一千貫』と言われていて
今で言うと旧浪岡町周辺の南津軽郡から外ヶ浜(東津軽郡・青森市)にかけてと北津軽郡の一部
ただ外ヶ浜は堤や奥瀬など南部系の領主もいるので、わりとモザイク状
浪岡北畠氏を詳しく知りたいなら『浪岡町史』とか読むと良いかも

430: 人間七七四年 2011/04/11(月) 19:35:39.93 ID:2OgwlfOc
直轄地というわけではないけど五所川原市周辺の豪族たちも北畠系の家臣と言っても過言じゃないので北畠氏の支配域は結構広かったようです。
あと伝承では十三湊衰退後にそこにいた人達が外ヶ浜に移り住み蝦夷との交易を続けていたとも言われてますね。

441: 人間七七四年 2011/05/04(水) 19:26:24.16 ID:OiaIfDPs
北畑ってなんで、あんな浪岡のいなかにいたの?

442: 人間七七四年 2011/05/04(水) 21:54:32.28 ID:C3ELCy0q
安東と南部の緩衝地帯として浪岡に配置されたとの見方が有力。
その後外ヶ浜や五所川原に勢力を伸ばしたにも関わらず浪岡から移動しなかったのはよく分らない。

443: 人間七七四年 2011/05/05(木) 08:36:11.75 ID:HO8RO+8l
浪岡は南の平野部と北の海岸地域の結接点っつう交通の要衝だから移動なにかと便利だったんじゃない?

448: 人間七七四年 2011/05/11(水) 19:57:12.04 ID:ebx+qIWQ
六羽川合戦で本陣まで壊滅的な被害を受けたってのにそこから立て直して勝利したのは本当なの?
六羽川合戦(ろっぱがわかっせん)は、天正7年(1579年)7月4日に陸奥国六羽川(現・青森県平川市)において、大浦氏と安東氏の命を受けた比山氏ら連合軍との間に起きた戦い。

449: 人間七七四年 2011/05/12(木) 18:42:01.67 ID:lwl4Td5P
んなわけない。旗本が多数討たれてるというのは総崩れを起こしていたということ。
そんな状況から挽回なんて上杉謙信や武田信玄でも無理。

453: 人間七七四年 2011/05/14(土) 22:32:45.53 ID:+YV5AA2Q
六羽川合戦から田舎舘千徳を滅ぼすまでの6年間
殆ど動きが無かったのは何故?

456: 人間七七四年 2011/05/14(土) 23:56:31.58 ID:rWI5jFPe
>>453
恐らくは安東愛季に何らかの形で臣従を示し大人しくしますと誓ったためだと思われ。

457: 人間七七四年 2011/05/15(日) 08:35:44.28 ID:m9Ikuc8H
逆に安東と延々戦ってた説も
津軽は浪岡潰した後、連年安東から攻め込まれてるけどその後愛季側近の石郷岡氏景の書状が、国境の「深浦口逆意方」を成敗し津軽領との境目の叛乱を未然に鎮圧したと報告してるし大宝寺義氏が戸沢家臣に出した書状では、秋田津軽国境の八森を津軽勢が占領したという噂の真偽を訪ねている
1584年には浅利頼平を比内に攻め込ませてたという記事もあるそうで

497: 人間七七四年 2011/06/28(火) 17:39:21.01 ID:Dn/UUCb4
為信がいなかったら
南部家分裂状態で戦国時代終り
大光寺藩、三戸藩、八戸藩、七戸藩、が出来てたかも知れん

498: 人間七七四年 2011/07/01(金) 09:33:07.28 ID:GqSZVanI
南部内の分裂要因が一つ無くなるんだからむしろ三戸南部一人勝ちじゃね?
浪岡や九戸あたりは独立するかもわからんが

499: 人間七七四年 2011/07/04(月) 04:47:02.17 ID:2SMYMG7i
いや、分裂したまま
南部家を名乗る藩がいくつも出来ていただろう

那須七騎のようにな
あそこも分裂したまま大田原、大関、那須と分裂した。

500: 人間七七四年 2011/07/04(月) 04:49:29.20 ID:2SMYMG7i
為信がいなかったら
大浦藩、七戸藩、四戸藩、八戸藩、三戸藩が出来てたな。
三戸南部が生き残った南部家を統率できたのも為信の脅威に対抗するためでもある

為信がいなければ無理に三戸南部が他の南部家を纏める必要もない。

509: 人間七七四年 2011/08/25(木) 23:00:11.95 ID:JdOUxvTc
>>500
南部がまとまったのは斯波詮直が岩手群を奪還したからだよ。
為信はあまり関係ない。

517: 人間七七四年 2011/09/04(日) 00:44:53.44 ID:l9jZny7y
津軽藩の実高って本当のところはどのくらい?
某サイトには33万石とあったけどあの地域だけで伊達藩の3分の1というのは大分無理がある気がするんだけど・・・

518: 人間七七四年 2011/09/05(月) 22:32:38.28 ID:DAD1IMPf
>>517
いつの時代の話かにもよる。

太閤検地のころは実高10万とも15万ともいわれたな
(隠し田や休耕させまくってごまかしたという・・・)

520: 人間七七四年 2011/09/06(火) 01:43:43.02 ID:1i72LTRW
>>518
1650年だかの検地の結果が確か8万7千石だったから、10万はともかく15万はなかったと思う
ただ太閤検地がザルだったってのはよく言われるよね

521: 人間七七四年 2011/09/07(水) 23:30:55.27 ID:JZEU5th8
>>517
常識的に考えて10万~15万石かと。
30万石ってのは豊作時の収穫量だと思われ。

523: 人間七七四年 2011/09/10(土) 13:03:25.01 ID:Gy+bTwWw
津軽さんって結局南部さんなの?

524: 人間七七四年 2011/09/11(日) 02:03:15.36 ID:lOT3ONqp
南部氏の一族だよ。
戦国時代の南部家は
三戸(盛岡藩築いたのはここ)、八戸、大光寺、七戸、四戸、大浦(ここが後の津軽家)
といろんな一族が並立しており、一つ一つが独立豪族として動いていた。
(盛岡藩や弘前藩の史料じゃ郡代を置いたとかあるけどそんな中央集権的な政策は実際は出来てない。)
大浦は同じ南部一族の家々を攻撃して大きくなっていった所。

細川だっていろいろ分家があっただろあんな感じ

570: 人間七七四年 2011/09/13(火) 21:12:27.54 ID:ARJ9mQ6b
大浦家って結局のところ土着の勢力なの?
それとも最初から南部の一員?
資料によってまちまちだけど実際のところはどうなんだろう。

571: 人間七七四年 2011/09/13(火) 21:36:39.55 ID:mZ7zV/qo
大浦氏は南部の一族で、甲斐源氏の血を組むらしい
うーん、よう分からんな

573: 人間七七四年 2011/09/13(火) 22:11:49.69 ID:ARJ9mQ6b
>>571
けど室町時代は安東領だったわけだし源氏の血を組むってのも微妙な気がする。

574: 人間七七四年 2011/09/13(火) 23:27:16.36 ID:A/UxRTaS
>>571
大浦光信がやってきたのは安東氏が消えて以降の事だぞ
なにも矛盾はない

575: 人間七七四年 2011/09/14(水) 23:29:21.67 ID:XxRVrMpZ
>>574
だけど大浦盛信は南部安信と闘ったり
政信は三味線河原の戦いをしたりと本当に大浦って南部なの?
と思うんだよね。
元から土着の家だと考えると色々しっくりくる気がするんだけど・・・

577: 人間七七四年 2011/09/15(木) 01:04:39.57 ID:UqEK8hfT
>>575
大浦は反南部的な行動が多いから北畠同様に独立的な勢力ではなかったかという説もある。
北畠が為信が養子に入る前に行った検地では屋形という称号が使われてることからも南部ではないのではないと考えることもできる。

580: 人間七七四年 2011/09/15(木) 02:54:55.69 ID:JUvc8FM0
>>575
この時代同族同士の争い離反なんて普通にあることだ。
北畠から南部信州源盛信なんて書かれてる
秀吉との文通でも南部と出ている。
大浦は南部の一族である事は確実。

572: 人間七七四年 2011/09/13(火) 21:45:11.72 ID:A/UxRTaS
秀吉との手紙で南部と名乗ってるし大浦盛信も南部と言われているから大浦は南部一族以外にあり得ない。

579: 人間七七四年 2011/09/15(木) 02:25:56.46 ID:/1IjRqVa
完全な独立はしてなくても、場所柄もあって半独立の立場だったのは間違いないだろうね
ただ、藤原を名乗ったのは南部からの独立と、津軽伐取りの正統性を確立するためってほうが大きい
南部側の『津軽のあれは家臣の反乱だ!』という主張(実際は違うが)をかわすために藤原姓を求めたってのもある

引用元: ・津軽為信知ってるかい?しらんだろ?



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